煩悩〈善side〉

第68話


子供のころ、愛ちゃんのお下がりをもらうと、いとは決まって嫌そうな顔をした。



「こういうのはお姉ちゃんのものなのにね」



ワンピース。スカート。ピンクもそうだ。いわゆる女の子らしいものの全てが対象だった。いとは眉を精一杯寄せて、可能な限り遠ざけて、これらは全部自分のものではないと、俺に向かって眉を下げた。



いとの部屋には何度も上がった。


いとの母親は、俺を信頼しているのか娘を信頼しているのか、俺がいくつになっても、家を訪ねると途端に破顔して言った。



「いとは部屋よ。寝てるかもしれないから勝手に入ったらいいわ」



お菓子やジュースを持たせ、娘の許可も得ずに送り出す。


自分を棚に上げるわけではないが、いともいとで問題だった。断りなく部屋の扉を開けても「あ、善くん」と笑うだけで、一度も咎めたことがなかった。



だから、中2のあの日も当たり前のように、いとの母親からたくされたポテチと2リットルのペプシ、それからコップをふたつ抱えて階段を上がり、ノックもせずにいとの部屋のドアを開いた。



「なあ、いとー」



あ、善くん。そんな声は返ってこなかった。


勝手に入ってこないで。もちろんそんな声もない。



いとはベッドですやすやと眠っていた。


扉を開けるといとが眠っていた、ということは一度や二度ではなかった。その場合、俺はいとの学習机の椅子に座って、課題をするか漫画を読むかスマホで暇を潰すかの何かしらをしていた。



つまり、いとの部屋に入ることをためらったのは生まれて初めてだったと言える。



いとはベッドで眠っていた。いつもの部屋着姿ではなかった。小花柄の淡いピンク色のワンピースを着ていた。愛ちゃんのお下がりだ。俺はすぐに察した。見てはいけないものを見た。感想としてはそれが近かった。


中に入らず、黙って部屋の扉を閉めた。それから、ポテチの袋を摘んでいる手でいとの部屋の扉をノックした。



「おい、いと。いと開けて」



少し間を置いて、中から返事がする。



「ぜんくん?」



寝起きの特有の無防備な声。



「そー。開けて。両手塞がってんの」

「あ、うん、わかった」



足音が近付いてきて、レバーハンドルが下がって、でも扉は開かれることなく数秒沈黙が流れた。「いと?」と問いかければ、レバーハンドルがゆっくりと元に戻っていく。



「ちょ…あ、あの、待って、少し待って、部屋……部屋が鬼のように汚な……あの、汚なくて……」



未だかつていとから聞いたことがない言い訳が、ドア一枚を隔てた向こうで繕われた。1分か2分置いて、ようやく開かれたときには、いとはいつものスウェット姿に戻っていた。



「ごめんごめん、お待たせ善くん」

「んな部屋散らかしてたの?」

「そ、そう、ちょっと大掃除してて」

「へえ」



わかりきった嘘に騙されてやりながらも、いと越しに、部屋の隅に丸められた淡いピンク色の塊を見つけてしまう。床の上に物がない中でそれだけが落ちていて、急いで脱ぎ捨てた様子を想像させる。



「おばさん、もうすぐクッキー焼けるっつってた」

「そっか。じゃあまた取りに行かなきゃ」

「あと、中間テストの結果見せなさいって伝言」

「え、な、なんで善くんに言うの……」

「いとが隠すからだろ」

「返す言葉もないです」



ついさっきまでいとが眠っていたとなれば、いつもはすぐに寝転がるベッドに乗ることすらやましく思えて、ラグに腰を下ろした。いとが不思議そうに俺を見るので、なおさらやましい。ごまかすように鞄から数学のワークを取り出す。



「宿題するの?」

「うん」

「えー、じゃあ私もしよ」



いとは勉強机に課題を取りに行った。


その背中に放り投げてみる。



「あと、愛ちゃんが、また髪いじらせてだって」



いとは後ろを向いたまま苦笑した。



「私の髪触って、楽しいのかなあ」



脳裏に、ベッドの上にいたワンピース姿のいとが浮かんで、そりゃあ楽しいだろ、と思う。



時を経て、数えられる程度とはいえ、いとが裾のひらひらした服を着ている姿を目にするようになった。そのたびにそうだが、今回だってそうだ。ぐっと来る、なんて生易しいものではない衝動が走って、堪らなくなる。


堪らなくなった先にどんな言動が待ち構えているのか、まだわかっていない。わからないながら、良心の警告は感じるので、抑制しろという警告に素直に従っている。



日曜日の街は平日以上に混雑し、より耳障りな雑音で満ちている。彼女さえいなければ家に帰っているのにと、デートのたびに思っていた俺は、今日、その思考を完全に放棄していた。


隣に目をやれば、ワンピースを着たいとがいる。俺の視線に気付くと、いとはこっちを見上げて笑う。んなもん、混んでいようがやかましかろうがどうでもいいわ、って話で。



いとが何か言った。雑音に負けて聞こえず、腰をかがめて耳を寄せれば、いとの声が耳のすぐそばで発せられる。



「善くん何買いに来たの?」



昼日中に、未だ経験のないいととの情事を思う。



服を脱いで、強く抱きしめて、いつかいとが縋り付いてきて、素肌が触れ合う幸福の渦中で聞く甘ったるい泣き声は、どれほど──。


そんな輪郭のない、柔らかで穏やかなばかりのワンシーンは、経験の上にある情事に乗っ取られて、ベッドにいとの両腕をくくりつけて痛めつけている景色に切り替わり、俺はいとから目を逸らした。



    

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