第66話
善くんは、わざとだろうか? 少し声を低くし囁いた。
「いと、もっとこっち来て」
私の背中に添えた手を引いた。その反動で、私は膝立ちになって、善くんの肩に両手をついてしまう。善くんは背中に手を置いたまま頬を片手で包み、少し掠れた声で言った。
「なあ、いとからして」
反射的に善くんの唇に視線を落としていて、目を泳がせる。善くんは、泳がせた目まで瞳で追いかけて、私の顎を掴み、強制的に視線を引っ張り戻す。
「したくない?」
「したい」
「じゃあして」
「……うん」
善くんは目を逸らさない。
「……善くん、目、閉じないの?」
「うん」
善くんはぐずぐずしている私を急かすように、背中に添えた手を動かした。大きく暖かな手は、スウェットの裾からたやすく侵入し、直接素肌に触れた。背中を撫でられ、慣れていない上にそういうことはしないと思い込んでいる私は、あれこれ考える間もなく逃げようとする。
でも、相手は善くんだ。善くんはもう一方の手を私のうなじに添え、引き寄せる。
「ほら」
その間にも背中に触れる手は滑って、善くんの指先は背中の真ん中を辿っていく。
私は堪えきれず声を張った。
「する、から、待って…!!」
善くんの手がぴたっと止まった。制止をもって「どうぞ」と言葉なく伝える善くん。
善くんは前世ローマ帝国かどこかの王様だったに違いない、とどうでもいいことを確信しながら、前世から恋愛偏差値が低かったであろう私は、自分の応援を始める。
頑張れ。負けるな。だって昨日はできたんだから。ありきたりな言葉で鼓舞し、目も閉じてくださらない善様に顔を近付ける。
唇をぎゅっと結んだ。手はきっと震えている。仰々しいのは反応だけだった。私のキスは掠るだけの些細なもので終わった。
でも、キスはキスだから。あきらめだって時として大事なわけですよ。え、むしろ知らないんですか? くらいに開き直って善くんから離れた。
こんなもので王様が満足されるわけがなかった。
「舌出して」
舌、と催促され、ほとんど無抵抗に舌を出す。
「そのままな」
頷く。と、同時に後頭部を引き寄せられた。
私のキスなんてお遊びだ。そう思わざるを得ない。善くんの舌が私の舌に触れて、私は一秒と経たずに約束を反故にした。舌を引っ込め、なおかつ、腰を引かせる。
善くんは笑った。「おい」とふざけた様子で私の髪を乱す。その無防備に緩んだ顔が目を奪った。そのうえ、経験のないことを経験したあとだったので、覚えのある表情に安堵したというのも大きい。私は、心の声を無意識のうちに声に変えてしまっている。
「好き……」
善くんは笑いを殺して、舌を入れないキスをした。
心臓を掴まれ、ぎゅっと胸が締まる。そんな私に気付いているのか気付いていないのか、善くんは追い打ちをかけようとする。
「なあ、1分好きにさせて」
理解する前に、胸の締め付けがなくなった。肩紐が落ちる。下着のホックが外れたらしい。そんなに簡単に外れるっけ? ホックを外されるのって女側は全然気付かないもの? ああ、いや、でもそうか、相手は善くんだ。納得したころには、逃げ場がなくなっている。
善くんは両足を私の体に絡めている。背中に添えた手は距離を取ることを許さない。もう一方の手で頭を撫でて、引き寄せて、私が唇を結ぶ前に善くんは舌を入れた。私の口の中で、善くんの舌が動く。器用に絡め取って、優しくゆっくりと、でも絶対に逃さず、深めていく。
それだけに留まらない。
背中に触れた手は背骨を辿るように上下する。また、腰元をなぞる。胸の横まで上がってくる。触れるか触れないかくらいの触れ方がぞわぞわとさせ、思考を奪う。まず何をどうするべきなのか、私は何をしていたらいいのか、ひとつもわからない。
わからないせいか、力が抜ける。
踏ん張るのをやめて、全部、全部善くんに委ねてしまえば、きっと多幸感がすごい。そんな気がする。私はもっと“女の子”になる。そんな気がする。
働かない頭で思う。
善くんが好き。善くんが好き。善くんともっと──。
1分なんてとっくに過ぎた。
善くんがスウェットから手を抜いて、私の髪を耳にかける。私は、離れて行こうとする善くんを追いかけた。首に腕をまわして抱きつく。もはや、しがみつく。
善くんはおかしそうに笑った。
「なに?」
「──…すき」
「え?」
「好き」
「悪い、聞こえねえわ」
善くんは私の背中を抱いて、前向きに倒れる。善くんの首に抱きついたままの私は、連動してゆっくりと後ろに倒れていって、床に背中がついた。
顔のそばに善くんの手。仰ぎ見れば、善くんの垂れ流しの色気に当てられて、体の内側に触れられたように錯覚する。
「もっかい言って」
頭がろくに動かない。
「好き」
善くんのことが好きだということしか、わからない。
「……ほんと浮かれてるわ」
善くんはぼそっと呟いて、私の隣に倒れ込んだ。
「いとといると、いろんなことしたくなる」
「……いろんなこと?」
「いろんなこと」
「例えば?」
善くんのしたいことは全部したい。そう思って尋ねれば、善くんは困ったように眉を寄せて「いろんなこと」と繰り返した。
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