第55話
高校を卒業して、大学が離れて、いとは滅多に地元に帰ってこなくなって、俺は無性に苛立った。
腹が減っているみたいな、喉が渇いているみたいな、何日も寝られずにいるみたいな、何ヶ月も処理していないみたいな、そういう不満があった。
酒はだめだった。いくら飲んでも楽にならない。
大学の先輩に教わった煙草は、少し麻痺する感覚があって、少しの麻痺を継続させるために煙草を咥えるようになった。
いとはバイトに勤しんでいた。いとからは連絡して来なかった。たまにLINEを送ると、それほど間を置かずに返ってきたが、いつも、よくわからないパンダか何かのスタンプで早々にトークを切り上げようとした。
気に入らない。苛々する。不満が溜まって、不足感が増した。煙草を咥える。麻痺の時間が次第に縮っていく。
会いたい。話がしたい。声を聞きたい。笑っているいとを見たい。いや、ただ会いたい。何もしなくていい。何をするでもなく一緒にいたい。いとの部屋にいた、いとの部屋で寝た、あの時間が戻ってくればいい。
だから、音信不通になったのち連絡先すらわからなくなったのは相当堪えて、25歳の夏に再会を果たしたときにも、覚えたのは安心感ではなく、細い糸をようやく掴んでいる程度の心もとなさだった。
音信不通にした理由を聞けば、いとは言った。
「──…下心を撲滅したくて」
その言葉から、加虐的で暴力的な行為を連想する。
いとの下心を探れば俺に向いていて、それはまだ残っていた。また同じことが起こるくらいならば、いとに会えなくなるくらいならば、下心に応えようと即刻気持ちは固まったのに、「彼氏」や「男」としての俺が、「彼女」や「女」としてのいとを傷付けない方法だけが、わからなかった。
他の女にしてきたことをする。他の女にならどうするか考えて動く。そうすると、目の前のいとが見えづらくなって、いとといるのに満たされない。
思えば、誰かの気持ちに応えたことなどなかった。受け取ったふりをして隠れて捨ててきた俺が、いとの気持ちをどう扱えばいいか、知っているはずがない。
傷付けたくない。大切にしたい。失いたくない。そばにいてほしい。
そのためにいとと恋愛をするなんて、バカげている。
俺にとって、恋愛は嫌悪感を孕んでいる。スキンシップは性欲処理が目的で、行為に潜む暴力性を求めているだけ。彼女や女は傷付いてもいい人。大事にしなくていい人。失っても差し支えのない人。
「──善くんが好きです」
俺はいととどうやって恋愛すればいい?
「付き合う?」
「……つき、あわない、です」
「付き合わねえの? じゃあ何を求めてんの?」
「求める…?」
望みを教えて。
「いとが欲しがんねえと何もやれねえわ」
どの道を行けばいとと切れないのか、いとがその手で指し示して。
「……何をくれるの?」
「俺」
「…、」
「いらねえの?」
他の女にするみたいに接した。他の女にするみたいにキスをした。他の女にするみたいに抱こうとした。いとが怯えなければ、俺は多分ヤっていた。
いとにまたがって、支配欲を、征服欲を満たして、外面だけは偽って、いとの気持ちを蔑ろにして、いとを痛めつけるような行為でいとを泣かせていた。
俺はそんないとを見て性欲を満たすのだろう。
そうしようとすればできてしまう、自分をひどく嫌悪する。
いとの家に泊まったあの日。一応他の女にしてきたみたいに夜を過ごしたあと、いととベッドに潜れば、いとは笑いながら言った。
「昔に戻ったみたいだったね」
昔に戻ればいとを失うと思って、いとを抱きしめた。
他の女という概念を投影しては、いとといても落ち着かない。いとの気配の中であんなに微睡んできたのに、女のいとと眠ろうとすれば眠れなくなる。
他の女にはしたことはないが、前もって保険をかけておいたのは、なるべく傷付けたくなかったから。
「俺途中でソファに移るかも」
いとは「別々に寝よう」とか「離れて寝よう」とか他の女の言いそうにないことを提案して、すると他の女が見えなくなって、友達としてのいとが見えて、俺はそんなことにひどく安心した。
身勝手だよな。
いとはなぜか付き合ってると思っていなくて、俺が彼女扱いをしていることを知れば無防備に驚いた。
「だからさっき善くん、俺も、とか言ったんだね。あ、そっか、可愛いって言ったのもそれ? なんだー。なるほどね? いやあ、さすがの私もおかしいとは思ってたんだよ」
いとは傷付けたくない。
「でも、なんで? そんなことしなくていいよ。私、善くんに彼氏役頼んだんじゃないんだからさ」
いとは失いたくない。
「善くん、ふっていいんだよ? 私のこと」
だから、いととは「恋愛」をしない。
したくない。
──…今まで通りでいい。好きな名前で呼んでよ。友達でも幼馴染でも、そんなのなんだっていいんだから。
善くんが私をどう呼んだって、私にとって善くんはどうせ善くんでしかないんだよ。
どうせ大事で、特別で、人として大好きなままなんだと思う。
[暴力性のない関係]
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