第54話

いとは全くと言っていいほど、俺に恋愛関係のことを聞いてこなかった。


たまに俺の方から話せば、難しそうな顔をして「へえ」と言うだけだ。


いとには彼氏ができたことがなかった。恋愛がわからないと言っていたし、好きな人も彼氏も欲しくないと言っていたから、「なんで私に話すんだろう」と不思議がりながらの「へえ」だったのだろう。



ただ、俺に、純平曰く「ヤリチンの道徳」なるものを教えたのは、他でもないいとだった。



一通りすることをしてから梨花と別れた中1の冬。


「善くんは全然好きって言ってくれない」みたいなことを梨花に言われ、「何だよ好きって」と人生一困惑したので、別れたその足でいとのもとへと向かった。そして、困惑のままいとの部屋でぼやいた。



「好きとかよくわかんねえわ」



すると、いつもは「へえ」だの「ふーん」だのしか言わないいとが、この日に限っては珍しく、「可愛いって思うことだよ!」と叫んだのだ。



「可愛いって思ったり、触りたいなあって思うんだって、好きな人には」

「いと好きなやついんの?」

「いない」

「いたことあんの?」

「ない」

「じゃあどこ情報?」

「お姉ちゃん」



「可愛い」はわかる。顔が可愛いか可愛くないかをはかる感性がある。「触りたい」は「ヤりたい」ってことか。突っ込んで擦りたいっていう欲は、確かに、俺にもある。



だったら、顔が可愛い女に抱く性欲が恋愛感情か。


随分と汚らしいもんなんだな。



友達が、どこのクラスの誰が好きだと騒ぐたびに、ああ、こいつは誰々とヤりてえんだな、と思った。


でも、挿れて出したいっていう欲をなんで「触りたい」と表現するのだろう。疑問を抱きながら、いとの髪に手を伸ばした。いとの目がこっちに向いて、いとの顔半分を隠す眼鏡を邪魔だと思う。



いとは前髪を伸ばし、大きな眼鏡をかけ、時にマスクをつけたりして、なにかと顔を隠したがった。俺はそれらがなければいいと思っていた。無意識に手を伸ばして、前髪を払ったり眼鏡を外したりして、いとの顔を暴くのが好きだった。



「眼鏡返して。何も見えないんだから」

「俺の顔も見えねえの? この距離なのに?」

「見えない。眼鏡外してすぐはなおさら見えない」

「慣れたら見える?」

「ぼんやりとしか見えない。眼鏡をかけたら見える」

「まあ、別に見えなくてもいいだろ」

「いいわけが???」



いとの無防備な瞳の中に自分を探す。



「髪伸びたな」

「伸ばしてるんだ。お姉ちゃんみたいにならないかなって」

「愛ちゃんに憧れてんの?」

「愛ちゃんは可愛いから」

「いともそんな変わんねえよ」

「いや、変わるよ。一昨日も愛ちゃんの彼氏に、ブスじゃん、ほんとに愛ちゃんと血繋がってんの? って言われたんだ」

「そういうときはとりあえず身分証の控え取るんだよ」

「だめだよ。個人情報だよ」

「だからだよ」



いとがいれば、あとはどうでも──…。



高校に入っていとに彼氏ができたとき、「よかったな」と思ったのは本当だった。でも、自分の中での恋愛がひどく暴力的だから、どこの誰がいとを傷付けようと企んでいるのか気になった。


クラスメートの梶はおとなしい男だった。「おとなしい」は言わずもがな「優しい」の類義語ではない。聞き耳を立てたり探ったりするまでもなかった。梶たちの話は耳に入ってきた。梶は下卑ていて、下卑ていることを誇っている節さえあった。



いとが汚される。いとが殴られる。


それは途轍もない嫌悪で、自分が彼女やセフレに敷いている加虐的で暴力的なあの行為をいとが受ける様子を想像すれば、耐えられなかった。



円滑にコトを進めるためだけの心の伴わない言葉に行動、キス、前戯。上に乗られ、捕らえられ、容赦なく突かれ、逃げようとしても括り付けられ、なす術なく泣くしかない、あんな行為。


あんなもの、いとには似合わない。



「──だからって宮下って、普通勃たねえだろ」



いとに似合うのは、もっと柔らかいもの。



「まあね、顔とか見たら完全アウトだったわ」



もっと、優しいもの。



「しょうがないでしょ。梶くんの気持ちはよくわかる。それにそもそもがほんとのことだ。調子に乗って勘違いした私が悪いんだよ」



もっと静かでゆったりとした、甘ったるいもの。



梶の言葉を聞いた日、いとは泣くかと思った。でも泣かず、むしろ笑った。それ以降も奇異の目に晒されながら、泣かなかった。いつも通り笑っていた。


そのとき、泣き喚く女が苦手なのに、俺は変なことを思った。


───好きなだけ泣けばいいのに。




     

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