第30話

家に着いて、お風呂のスイッチを入れて、何か温かい物を飲むかと尋ねれば、ソファに座っている善くんは私の腕を引いた。


私を隣に座らせ、私のコートに手をかける。「自分で脱ぐから」と断れば「どうぞ」と言われ、なぜか善くんに見守られながらコートを脱ぐ。


ニットにスラックスといういつも通りの格好になった私を、善くんはソファの背もたれに肘をつき、何も言わずじっと見つめた。



「な、に…?」



何を訴えられているんだろうか。こういう状況に不慣れな素人なりに頭を働かせる。


善くんはにこりともせずに言う。



「可愛いなって」



かわいい?


可愛いって、どうしてそんな言葉……。



「なに……なに、が? 服……は、違うよね、可愛さないもんね。あ、髪? これは千代がね、千代って大学の友達なんだけど、千代が今日善くんと会うって言ったら巻いてくれたんだ」



唯一思い当たった可愛い要素の種明かしをする。善くんは心底どうでもよさそうに私の髪を触りながら、私の目を見て微笑んだ。



「可愛いな」



本当にそろそろ心臓が死んでしまう。


でも、心臓なんてもうどうでもいい。



「……もう一回、」

 


もう一回言ってほしい。


ご褒美みたいな言葉をもう一度ほしい。



善くんは、俯いた私の顎を持ち上げて、名前を呼んで、私が善くんを見るのを待って、それから、唇を触れさせる。それから、私の眼鏡を外しながら、やけに甘ったるい声で囁いた。



「俺の真似して」

「……でき、ない、」

「できるできる。お前の伸び代には期待しかねえんだわ」



雑な鼓舞に思わず笑ってしまって、服の袖で顔を覆えば、善くんはその腕を掴んで退けさせた。


彫刻みたいな綺麗な顔のどこかが緩むこともない。



「いと、梶以外と経験ねえの?」

「え、な、ないよ」

「なんで?」

「なんで?? いや、それはもちろんモテな、」

「俺のこと好きだから?」

「いや、ただ普通にモテなく、」

「俺のこと大好きだから?」

「善くんのことが大好きだからかな?」



すると善くんは随分と無防備に笑った。笑いながら、私の肩に頭を乗せた。



「──…なんかもう、可愛くてしょうがねえわ」



どうやら私はだめみたいだ。



「……ぜんくん、お風呂沸いた」

「沸いてねえよ」

「こ、コーヒー飲む?」

「いい」

「ちょっと、あの、ベランダの空気が吸いたい」

「後にして」



善くんは上目で私を射抜き、救いようがないくらい赤い私に顔を寄せる。



「俺の真似しろよ」



私にはまだ早かった。


リップ音と私の心臓の音ばかりが響く部屋では、体温が高騰して、逃げ出したくて堪らない。



でも、恥ずかしいからと逃げたって、善くんに彼女ができたときには、どうせ逃げたことを後悔するのだから、下手でもレベルが低くても何でも、善くんに触れられる方を選択した方がいい。



角度を変えては落とされる甘いだけのキスとか、後頭部を引き寄せる手とか、私の腰を掴む手なんかに殺されそうになりながら、結んでいた唇を緩めて、善くんの真似をしようと頑張る。



そのうち、善くんは舌で割って入ってきた。舌を引っ込め腰を引かせるが、善くんが腰を抱き寄せるので、距離が開かないどころかさらに縮んだ。



「ぜ…、くん、まって、」

「いと」



舌が絡まって、逃げたくなって、捕まって、逃げられなくて、聞いたことのない音が聞こえて、恥ずかしくて、食べられると思って、甘やかされてる気がして、お腹の奥がきゅっとする。



多分とっくにお風呂は沸いているんだろう。


でも全然気付かなかった。



恥ずかしいとかなんかそういうのが知らぬ間にどこかへ行っていて、善くんがキスをやめて、初めて、頭の中が真っ白になっていることに気付いた。


我に返ればひたすら恥ずかしく、善くんの涼しい顔との対比が激しい。



「いと、風呂一緒入る?」

「は、入らない。善くん先どうぞ」



俯いていれば、善くんの手が髪に触れる。



「嫌だった?」

「……ううん、」

「照れてるだけ?」

「うん、」

「またする?」



俯いたまま頷く。


善様はそれを許さなかった。



「顔見て言えよ」



少しだけ睨むみたいに善くんを見上げた。


善くんは綺麗な顔を意地悪に歪めて笑っている。



「……好き」



善くんを見たら勝手に気持ちがこぼれてしまった。変なタイミングでまた告白してしまったことを恥じて、俯く。ごめんなさい。謝罪に声が重なった。



「うん、俺も」



それは、油断していたら聞き逃していたと思われるほどさらりとした返事だった。



「じゃあ先風呂行くわ」



善くんは平然とした様子でお風呂に行って、シャワーの音が聞こえてきて、道路を走るトラックの音が聞こえてきて、酔っ払いが笑って。



「…え?」



それは、体感としては一秒に過ぎなかった。


バスルームが開くと同時に立ち上がった。



    

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