第7話
理解が追いつかず固まっている間にも、善くんは顔を寄せてくる。綺麗な顔がどんどん近付いてきて、いい匂いがして、善くんの指先が冷たくて、私はもうわけがわからない。
もしかしてキスするのだろうか、と思った。その考えを嘲笑うようだった。玄関が開き、機嫌のよさそうな声がリビングまで聞こえてくる。
「ただいまー」
善くんは思い切り顔をしかめ、私から離れた。
元気のよい声は絶えず響く。声から察するに、善くんのお母さんだ。
「善ー? 帰ってるの? 善ー!! ねえ、ちょっと聞いてくれない? 夜祭りでさあ、お母さん、どこの誰かわからない人に、茅野さんのところは皆さんやんちゃですもんね、って言われて、確かにあんたちは……」
善くんはお母さんに返事すらせず、コーヒーカップを持って立ち上がった。
「家まで送るわ」
「あ、は、はい」
私も慌てて立ち上がった、そのとき、リビングに善くんのお母さんが現れた。
善くんのお母さんは「ねえ聞いてる!?」と善くんに詰め寄ろうとして、私の存在に気付いた。その途端、無防備に破顔する。
「あらー! いらっしゃい!」
「お、お邪魔しています。宮下いとと申します。善くんとは、あの、小学校が同じで……」
「聞いてるわ。善の彼女さんでしょう」
「かの…」
「今朝はケーキいただいてごめんなさいねえ。美味しかったわ。ありがとう。あ、お楽しみ中だった? そうよねえ、ごめんなさい、私お邪魔しちゃったかしら」
彼女?? と疑問符をたくさん浮かべている私は放置らしい。善くんのお母さんは善くんを見上げ、からかうように笑っている。
善くんは面倒臭そうにしながら「いと送ってくる」と玄関に向かって歩いていった。
「ええ、もう帰るの? お母さんも混ぜてよー」
「なんでだよ」
「善のお相手だけなのよ? お母さんが会ったことないの。あんたってば一度も女の子家に連れてこないんだから」
「いと、帰るぞ」
「もう何よー。善ってば冷たいんだから。じゃあ、いとちゃん、また来てね。今度はゆっくり喋ろうね」
彼女でも何でもない私は頷くこともできず、善くんが訂正しないので下手に口を挟むこともできない。笑顔を貼り付け「お邪魔しました」と頭を下げた。
善くんは車に乗ると、ハンドルにもたれかかった。随分と疲れた様子でため息を吐き出す。
「今思い出したわ。うちの母親、まじでタイミング悪いんだった」
「善くん、彼女家に連れて行ったことないの?」
「あるよ。親いねえ時間に学校さぼって」
「あ、だよね」
善くんが彼女を家に連れ込まないわけがなかった。
「弟はいい子たちだから、放課後とか休みの日に彼女連れて来てたんだよ。んで、ヤろうとしたら、毎回母親に邪魔されて何もできねえんだって。いい子は大変だわ」
「(ヤる……)」
善くんは面白くなさそうに笑うと、体を起こし、シートベルトを引っ張った。
車が動き出す。ゆっくり流れていく景色をフロントガラス越しにぼーっと見ているうちに、次第に冷静さを取り戻していった。
善くんのぼやきも顎に触れた指もその温度も、全てが他人事のように思えてくる。これでいいんだ。これで正しい。私は安心する。
「でも、善くんのお母さん、大きな誤解をされてたけど大丈夫なの?」
「あー、いとが彼女って?」
「うん」
「誤解っつうか俺がそう言った」
跳ねるようにして隣の善くんを仰ぎ見た。善くんは私を横目に笑う。その顔は悪戯が成功した子供のようだ。
「……あなた、何してるんですか?」
「朝、愛ちゃんと来ただろ? そっからどっちが彼女だってしつけえから、眼鏡の方っつっといた」
「何をしているの」
「愛ちゃん巻き込んだら可哀想だろ」
「いや、でも、せめて愛ちゃんって言わないと」
「なんで?」
「愛ちゃんなら」
可愛いんだから。
そう続けようとして、言葉に詰まった。
「……愛ちゃんなら優しいから、怒らないと思う」
「お前は怒んの?」
「え、う、うん、もち、もちろん、もちろんだよ」
「嘘吐けよ。下心あんのに」
タイミング悪く信号が赤になって、善くんの面白がった目が私に向く。顔を見られる。善くんが視線で撫でた場所が熱くなる。
「……したごころはもう撲滅したし、そもそも、善くんは下心と一切関係ない」
「腹括れよ」
「ほんとだって!」
「そうかよ」
善くんは全く信じていなさそうな顔で笑って、「まあ、なんでもいいけど」と興味のかけらもなさそうな口調で言った。
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