第85話
触れ方を忘れたのは、指輪が私の指では輝かなくなったのは、私の弱させいだ。彼女たちの期待に応えるように気後れを覚えた、私の愚かさのせいだ。
そして、中学生のころの記憶が、蓋を開けてしまったせいでもある。
こんな過去は見せたくない。明かせば冷められるんじゃないか。彼ももう触れようと思わなくなるんじゃないか。
臆病だから、いつまでも隠そうとする。
でも、茅野は「昔」を見せてくれた。
きっと怖かっただろう。言いたくなんてなかっただろう。それでも明かしてくれた茅野は、私の中のこんなものまで許してくれるだろうか。
目を冷やしながら昔話をする私を、茅野はソファの上でずっと抱きしめてくれていた。
「私は、中学ですごく嫌がられてて、き…たないって、よく、払われてた」
こんなことを言ったら、茅野の目にも私の汚さが映るようになるだろうか。
「でも、嫌がらずにいてくれた人がいて、友達になって、彼氏になってくれたんだけど、彼氏にも、払われるようになって……」
「うん」
「あ、その彼氏が、浮気したって人。相手は私の友達で、その友達と最近結婚したんだ。さすがに、結婚式には行かなかった」
笑うのがいい気がして、私は小さく笑ってみる。
「いや、そんなことはどうでもいいんだ。……えっと、まあ、だから、今は大丈夫でも、もしかしたら茅野も私のこと汚いって思うかもしれない、から、そのときは言ってくれたら嬉しいな、って」
触るなって言われたら触らない。汚いって言われたら触らない。払うくらいなら言葉で教えてほしい。その方がずっと傷付かない。
ぎゅっと、目を覆うタオルを握る。
「それだけ、なんだけど、隠しててごめんなさい」
茅野は、同級生や元カレから生理的に拒絶されてきた女が彼女でもいいのかな。
本当は汚いかもしれない女に触れてもいいのかな。
今この段階で「じゃあもう触るな」と言われる可能性を考えて、タオルを強く目に押し当てた。
そんな私に茅野は触れてくれるらしい。
「諒、」
タオルを当てる私の手首を掴んで、顔をあらわにし、まっすぐに私の目を見つめた。
茅野の手は優しく私の髪を撫でている。
「ありがとう。言ってくれてありがとう」
それから、ゆっくりと私の肩を抱いた。醜く腫れそうな瞼に優しく唇を触れさせる。
「諒が傷付いたとき何もできなかったこと、俺は多分ずっと許せない」
茅野は涙を舐め、濡れていない場所にまでキスを落としていく。
「これ以上はないってくらい、諒は綺麗だよ。でももし、それが反対の意味を持つなら、俺は意味ごと愛しくて仕方なくなるんだと思う」
笑う茅野が顔を歪めているのか、私の視界が滲んでいるのか。
唇が重なる。離れることなく角度を変えて、何度も、何度もキスをする。
「(……茅野、)」
長い指が頬を滑る。
大切そうに私を撫でる。
「(じゃ、なくて)」
愛しそうな目に私が映る。
甘やかすように、暖かく包み込まれる。
「──…律、」
1つ、また1つと、呪いが解けていく。
「ありがとう。嬉しい。うれしい…」
触れたくて律に手を伸ばした。それは愚かに宙に留まって、触れることをためらった。その手のひらに律は頬を擦り寄せる。
「諒、もっと」
私の指は律の頬をなぞって、髪を通って、律の首に巻きついた。
「なあ、好きだよ諒」
「私も好き。律が好き」
「足りない。もっと言って」
「好きだよ。大好き」
「諒、離れないで。俺とずっと一緒にいて」
「うん、いるよ」
「ああ、だめ、足りねえわ。もっと俺の名前いっぱい呼んで。もっと触って。もっと近くきて。なあ、足りねえから、諒、もっと――」
愛しい感情が泣きたい気持ちに似ているのか、それとも、その逆なのか。
律を傷付けたものに抱いた悔しいという激情が、どんなものから生まれるのか。
離れたくないという願いは聞き遂げられるのか、いつか奪われてしまうのか。
何もわからないままに育んだこの想いは、私の手の中で、脆くもまだ壊れてなどいなくて、汚く思えた手のひらさえも霞ませてしまうようだ。
「り、つ…、律…」
「なに? 諒」
「すき…」
「うん、俺も好きだよ」
「だいすき……いっしょにいたい…、」
私の指にまた綺麗な指輪がはまる、数時間前。
大好きよりも大きな愛が返ってきたことが、聞き間違えでなければいい。
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