第84話

茅野は足を止めて振り返った。


人目もはばからず顔を覆ってぼろぼろと涙を流す私に、顔を歪めた。



「ごめん、」



何にも悪くない茅野が謝って、私を抱きしめる。



「ごめん、諒、泣かせてごめん。怒鳴ってごめん。どうした? 何があった? ごめん、教えてほしい」



茅野が謝ることじゃないだろう。「謝らないで」と伝えたいのに、嗚咽を殺すのに精いっぱいで、言葉にならない。


抱きしめたら伝わるかもしれない、と考えるけど、服も汚いことを思い出せば、私は茅野から離れ、しゃがみ込んで顔を覆い隠すことしか選べない。



なんで謝るの? なんで茅野が自分を責めるの?


なんで、茅野を傷付けるの?



「(――悔しい)」



迷惑にも泣きじゃくる私を、茅野はタクシーに乗せた。


タクシーは沈黙の中をひたすら進んだ。



車中でも離れなかった手は部屋に着いても離れなかった。


それにひどく安心する、なんて、思っていいのかわからないけど。



真っ暗で静かな部屋が私たちを迎える。「ただいま」も「おかえり」も何も聞こえない。電気をつけてもいつもほど明るくならない。整然とした部屋も今日ばかりはひどく排他的だ。



「とりあえず風呂でも入ろうか」



朝のうちにお風呂掃除を済ませてあるから、私はただ頷いてお風呂を沸かすスイッチを押しに向かった。灯りの下だというのに、完全に油断していた。


スイッチに伸ばした手は、それに触れる瞬間、後ろから捕らえられた。



「――…諒、これ何?」



また苦しそうな声を出させてしまった。



靴の下に敷いてしまった手の甲。女性の体重とはいえ、変色は免れないらしい。


慌てて茅野の手を振り払い、胸に押し当てて隠す。



「ちょっと、ぶつけた」

「諒、」

「本当だって。本当だから」



だからそんな声を出さないで。


誰に願えば叶うのだろう。



茅野は私の背後から手を伸ばして、私の目の前の壁に突いた。



「……なあ諒、このまま聞いて」



えりかの話。


彼の気弱な声は続ける。



「えりかは高校のとき、笑えなくなって、飯とか食わなくなった。……いじめのせいで」



茅野の握りしめた拳が痛そうに映る。



「俺がすげえ惚れて、えりかばっか構ってたのが気に入らなかったって。だからいじめたって。そうなったら、俺ができるのは離してやることだけで、それに気付くまでに、えりかのこといっぱい傷付けたけど」



視界が歪む。


噛んだ唇に痛みを覚えない。



「なあ諒、諒もそう?」



胸はぐちゃぐちゃに乱れた。



「1番諒を傷付けない方法は、何?」



涙は次から次に後を追って流れ落ちる。



「……もう、終わりにする?」



堪えきれずに、勢いよく後ろを振り返った。そうして、睨むように茅野を見上げた。


顔を見ればもっと泣けてきて、自分の泣き止ませ方を学ばなかったことを猛烈に悔いる。



「茅野はバカだ」



ぐいっと袖で目を拭った。



「私は傷付いたりしない。大丈夫、弱くない。茅野が傷付かなかったら全然平気」



化粧が滲んでいるだろう。どろどろに汚れ切っているだろう。そんなひどい顔で、彼を見上げる。



「聞かないよ? 飽きたとか、冷めたとか、嫌いになったとか、――そんな目で見えない、でもいいから、そういう理由以外で私をふっても、聞かない。聞いてあげない」



だから、そんなこと言わないで。


私たちの気持ちが理由で始まった関係を、私たちの気持ち以外を理由に終わらせないで。



「私は一緒にいたい。まだ、一緒がいい」



声が震えて、ひどい顔を隠そうと、嗚咽を押し殺そうと、私は顔を覆った。


そこに触れた、暖かな手。反射的に逃げようとするが、茅野は両手を使って汚いものを柔らかく包み込んだ。



「じゃあ、ずっと一緒だな」



弾かれるように顔を上げた。


茅野は泣きそうな顔で笑うから。



「……じゃあずっと、私は幸せなままだね」



私も同じように笑った。


茅野はぎゅっと私を抱きしめる。強く、息苦しいほどに強く、抱きしめる。



「諒、ありがとう」



泣きたいのか、笑いたいのか。


嬉しいのか、苦しいのか。


触れたいのか、触れてほしいのか。



何もわからず、ぐちゃぐちゃに乱れているのに、私は今日をひどく愛しいと思うのだった。



    

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