第83話
彼女たちの目は白けたように冷たくなって。
「……は? うざ」
「ねえ、もう行こうよ。ダルい」
そう言って3人のうちの2人は私の横を通り過ぎて出入口に向かっていったが、ただ1人だけ、私の前にしゃがみこんだ女の子がいた。
「意外と熱いねー、諒ちゃん。じゃあ、いいこと教えてあげるよ」
彼女は笑う。ほかの誰よりも純粋そうな顔で。
「律のまじの彼女ってあんたで2人目なんだけど、元カノのときはこんなもんじゃなかったよ? 律はもっと、彼女のことが大好きそうだった」
心底おかしそうに「かわいそー」と呟いて、彼女はトイレから出ていった。
トイレに一人になる。もう危害は加えられない。私はゆっくり床についた手のひらを離した。
「――…汚れちゃった」
指輪がかすむ。きれいな指輪がかすむ。
だってこんなにも手が汚いから。
手が汚れた。服も汚れた。ああ、汚れてしまった。きれいにしないと。洗えばきっときれいになるよね。きれいになるかな。きれいにしないと。
立ちあがって、洗面台に指輪を置いて、ごしごしと手を洗う。
大丈夫。石鹸の泡をいっぱいつけて、何度も、何度も擦れば、大丈夫、汚れは落ちる。
「(……大丈夫)」
蛇口をひねって、石鹸の泡を何分間も洗い流して、ハンカチで水気を取って、それから、指輪を持ち上げてみる。
右手の薬指にはめ直す。シルバーの純真な光。私の指にはめていない方が、ずっと綺麗に輝く気がして、私はすぐに外して、なんでだろうって考えた。
なんでこんなに綺麗なものが、私の指では輝かない?
せっかくもらったのに。せっかく綺麗なものをくれたのに。
服は汚い上に踏まれた手の甲も少し色を変えている。茅野たちのところには戻らず、このまま先に帰るのが1番いいだろう。茅野の仲間はともかく茅野に気をつかわせるのは、どうしても避けたい。
茅野と住む部屋に帰れば、お風呂に入れば、もっとゆっくり手を洗えば、指輪ももう少し綺麗に輝くかもしれない。
ポケットに指輪を入れ、布越しにそれを握りしめた。
茅野に「先に帰る」とメッセージを打ち込みながらトイレから出る。
すると目に入る、壁にもたれる1人の姿。
「諒、帰ろうか」
どうしてそんな顔で私の名前を呼ぶの?
どうしてそんな声を私に向けるの?
私は目を逸らして、自分の手をぎゅっと握った。
「……もう帰るの?」
「うん、帰ろう」
「なんで? 茅野は友達とゆっくり飲んで来なよ。私はちょっと、用事を思い出したから先に帰るけど」
茅野は一歩踏み出して、私に手を伸ばす。
私と手を繋ごうとする、何度目とも知らないありふれた動作。
「一緒に帰ろ」
それなのに、私はその手を避けてしまっていた。
茅野は驚いて目を丸くした。私も自分の反射に驚きながら、弁解を試みる。
「ちがう、ごめん、さっきいろいろ間違えた、から……汚い、から、」
汚い手を隠して笑う。
茅野はもどかしそうに顔をゆがめた。
「何言ってんだよ」
大きく一歩を踏み出し、おおげさに肩を揺らした私を無視して腕を掴んだ。
「間違えんなよ。諒が汚いとかありえねえわ」
茅野は歩き出す。店内を突っ切る。店の外に出る。人波を縫う。頭に雨が当たる。傘を忘れた。濡れてしまう。
茅野の肩口を濡らす雨が、私は悲しい。
「……聞いて、茅野。私トイレの床に触ったの」
「だから?」
「だから、触らない方がいい」
「なんで?」
「茅野まで汚れる」
往来で彼は振り返る。
道行く人の視線を一身に浴びながら、その目に私だけを映す。
「仮に諒が汚れてたとして、それで俺も汚れるとして、だからって触んねえとか無理だから」
繋いだ手に力がこもる。
茅野は再び踵を返して歩き始めた。背中が緩やかににじんでいって、ごまかすように空を見上げ、暗雲の切れ目を探した。
帰路を辿る。
帰る場所が同じ。その奇跡の価値は痛いほどわかるのに、茅野の手を握り返す方法だけは思い出ることができない。
「諒、何があった?」
「え?」
「トイレで何があった?」
「……特には何も」
どうか、そんな不安そうな声を出さないで。
そんな傷付いたような声で言わないで。
「何があった?」
「何もなかった」
「あいつらに何された?」
「何もされてない」
「いいから言えよ…!」
振り向かないまま、茅野は声を荒げる。
茅野に感化されたのだろうか。堰き止められていた感情が溢れ、暴れ出す。
「――何怒ってるの? 何を警戒してるの? 何が怖いの?」
バカじゃないの?
本当、バカじゃないのか。
「ずっと、何に傷付けられてきたの」
感情が暴走して、どうしても収まらない。
悔しい。悔しい。ただただ、悔しい。
「ねえ、今までもこんなことがあった? 彼女が見えないところで何かされてたの? そのたびにそうやってたの? そうやって自分を責めてた?」
なんで、茅野が。
なんで、茅野の好きな子が。
「もうやだ、、、くやしい…っ、」
ああ、もうバカみたいだ。
なんで、茅野が――茅野たちが、あんな悪意に傷付けられなきゃならないの?
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