第82話

意を決して個室から出た。


鏡を覗き込む女性3人の後ろ姿に足が固まった。



彼女たちは鏡越しに私と目を合わせた。



「あ、諒ちゃんじゃん」

「大丈夫? 酔ってない?」

「手、洗うよね? どうぞー」



にこにこと人のよさそうな笑顔に、私は「ありがとうございます」と会釈して洗面台に近付いた。


水道の蛇口に手を伸ばす。



「てかさ、諒ちゃん、まじで可愛くない?」

「思ったー。可愛いよね」

「さすが律を射止めた子っていうか」



手を濡らしていく水の冷たさ感じながら、私は曖昧に笑うことしかできない。



「やっぱ諒ちゃんくらい可愛くないと無理だよね」

「律の彼女とかね、うちらじゃ絶対なれない」



空気を壊さない笑顔を作ろう。律の評価を下げない笑顔を。



「彼氏が律とかさ、フツー恐れ多くない?」

「かなり可愛くないと律の面子潰すしね」

「本当それ。私だったら、律が見る目ないって言われないように断るかなー。彼女になるのは」

「だよね。好きな人の株とか落としたくないもんね」



律を思えば、簡単に「諒」と笑う彼を思い出せた。



「(……うん、大丈夫だ)」



私は水道から手を離し、準備し忘れていたハンカチを鞄から取り出そうとする。



「そう考えたら、諒ちゃんはすごいよね」

「ね。どんだけ自信あんの? って感じ」

「ちょっと言い方ー」

「いや、いい意味でだよ? いい意味、いい意味。全然変な意味じゃないから」



こういうときに何かを言い返すことはいいことではないと知っているから、私はただ受け流せばいいだけだ。何も言わずに小さく頭を下げて、彼女たちの後ろを通り過ぎようとした。


見逃してもらえなかった。



「あ、何それ! 諒ちゃん、可愛いのしてるー」



見せて見せて、と駆け寄ってくる彼女たち。


虚を衝かれて固まっている間に囲まれてしまった。



「指輪可愛いー。これ律にもらったの?」

「律も同じ場所にしてなかった?」

「えー、お揃い?」



いいな、愛されてるね、と口々に言う彼女たちに、怖いなんて子どもみたいなことを思う。



「ちょっと貸してよ。近くで見たい」

「や、それは」

「ちょっとだって。見るだけだし」

「いや、本当に」

「……え、何それ。律の彼女、感じわる」



一瞬、そう一瞬、抵抗の力を失った私が悪かった。


私の指から指輪が離れていく。



彼女たちは「可愛いー」と光にかざす。「結構いいものねだるんだねー」と冷笑する。「見てー律とお揃い」とはしゃいで指に嵌める。



「(……律が私にくれた)」



私にとって私だけのお守りだったものが、今、他人の手に渡っている。



触らないで。奪わないで。汚さないで。邪魔をしないで。私の指輪なんだから。


私の彼氏なんだから。



感情が暴走して、ひどく苦しい。



「返してください」



弱い声しか出なくて、もう一度「返してください」と声を張れば、彼女たちは疎ましそうに目を細めた。


その仕草は簡単に、中学校のころの記憶を呼び起こした。同級生が私に向けた、汚らわしいものでも見るようなあの目だ。



「(……ううん、大丈夫)」



ぎゅっと手のひらを握って「返してください」と繰り返す。



「(うん、大丈夫)」



うっとうしそうにしていた彼女たちは、ふいにやっと笑った。



「(――…でも、)」



その瞬間、指輪を高く掲げ、楽しそうな微笑を浮かべながら、彼女はその手を開いた。



「(大丈夫って、何が?)」



指輪が落ちていく。シルバーの小さな光が落ちていく。床にぶつかる。音が立つ。跳ねて、もう一度ぶつかって、音が立って、もう一度跳ねて――。


その様子を呆然と目で追うことしかできなかった。



ああ、指輪を拾わないと。きれいにしないと。せっかく律がきれいなものをくれたのだから。


霧のかかったような、体の動きの伴わない思考は、突如として晴れた。転がっていった指輪に寄っていった1人が、靴で踏もうとしているとわかったと同時に、体は動いた。



「やめて!」



トイレの床に膝を突いて、手を伸ばす。


床と靴底に挟まれた手が痛いのか、「汚い」と嘲笑される声が痛いのか、いや、そもそも痛いのかどうかすらわからない。



「……私が、」



口答えをすることは火に油を注ぐことだと知っているはずなのに、どうして口を開いているんだろう。


ああ、だめだ、何にもわからない。


律の評価を下げる。律が嗤われる。ああ、どうしよう、もうどうでもいい。



「私が気に入らないなら、こういうことするのもまだわかるけど、律の彼女ってことが気に入らないなら、卑怯だ」



ただ間違いなく、私は悔しい。


悔しい。怖い。むかつく。逃げたい。悔しい。むかつく。絶対、逃げたくない。



「次の彼女にもこんな幼稚なことをするんですか? じゃあいつ、律は幸せになるんですか」



幸せにするのは私だ、なんて言わない。幸せにしてもらうばかりで、私が彼を幸せにできているなんて、そんなことは思っていない。


でも、誰の幸せも、好きな人が作ってくれるものなんじゃないの?



「律の幸せを奪わないでよ!」



誰かと付き合うたびに、こうなふうに影で彼女を傷付けられたら、彼は本当に好きな人に手が伸ばせなくなってしまう。


そんなの、絶対に嫌だ。絶対、絶対嫌だ。




    

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