第76話

しばらくして、鍵の開く音がした。


茅野を出迎えに立ち上がるより早く、「律帰って来た?」と声を弾ませた三上さん。



今日、玄関に走っていって、茅野を笑顔で茅野を迎えたのは、三上さんの方だった。



「律おかえりー!!」



三上さんの後ろに続いて玄関へ茅野を迎えに行けば、三上さんを見て固まった茅野が目に入る。



「ええ、やばい、律、なんかすごい大人になってる」

「……え、」

「てかスーツじゃん」

「え…?」

「スーツ似合うね」



困惑している茅野に「これは惚れ直す」と三上さんは小悪魔めいた笑みを見せる。


彼女は、それから、ぎゅっと茅野に抱きついた。



「久しぶりー」



首に巻きついた女性の腕も、香りが移ってしまうようなこんな距離も、昔からよく見かけた光景だし、今の茅野の気持ちは私に向いているんだから。


そう言い聞かせながら、私は2人から目を逸らしている。



「おかえり」と言うタイミングを逃してしまった。私に向いた「ただいま」という声を聞き逃してしまった。茅野の視界に割り込む方法が浮かばない。


「律」と親しげに彼を呼ぶ女性の前で発しようとした「茅野」という声は、喉元で引っかかって音にならない。



私はもう一度視線を上げた。


1人に留まって動かないそれとは絡まなかった。



何もバレないようにリビングに戻る。



三上さんの声が遠くなったリビングで、さっきまで座っていたところに座れば、彼女に淹れたお茶が目に留まって、連想する形で三上さんが赤裸々に語った茅野との過去を思い出してしまう。


聞きたくない、と耳を塞いだところで、内側でするその声は止められなかった。



それから少し経った。足音がリビングへと近付いてきた。茅野のものだとわかって視線を向けた。リビングに姿を現した茅野と目が合う。



「諒ちゃん」



ようやく呼ばれた名前に、ようやく私を映した目に、なんでこんなに泣きたくなるんだろう。



「おかえり」



そう笑えば、ふいをつかれたような顔をして、茅野は「ただいま」と呟いた。



「……なあ、諒ちゃん」



そばにしゃがみ込んだが、茅野は私に触れない。


当たり前なのに、触れない手を見つめてしまう。



「ごめん、うちの兄ちゃんが勝手に住所教えたらしい」

「大丈夫だよ」

「……あとで話そ」

「わかった」

「とりあえずえりか送ってくる。ちょっと待ってて」



茅野は立ち上がった。そして、ラグに置かれた鞄を持ち上げ「えりかの荷物ってこれ?」と尋ねる。私の肯定に別の声が重なった。



「そうだよ」



リビングにやってきた彼女は、ためらいもなく、茅野の背中から腕を回して抱きついた。



「やめろ」



三上さんの腕を離させようとする茅野は、そんなに本気で拒否しているわけでもないようで、その態度に本当に茅野が以前好きだった相手なのだと痛感する。



「じゃあ、行ってくる」



そう言って踵を返す茅野。



「またね、諒ちゃん」



茅野と腕が触れ合いそうな距離で隣に並ぶ、綺麗な人。



2人の姿が見えなくなる。話し声が遠のいていく。玄関の扉を開く音がする。扉が閉ざされた瞬間、ひとりの部屋に静寂が広がる。



送っていかなければならないのだろうか。


外はもう暗いことを知っていながら、思う。



昔と今の彼女を同時に見て何を思っただろう。気が変わったりしないのだろうか。


答えは、知りたくなんかないけど。



例えば、春香と昌くんと一緒にいるとき、誰かから直接不思議そうに尋ねられたとき、小さく膨らませてしまう欲を、今日猛烈に自覚した。


三上さんがそうしているように名前で呼びたい。茅野が彼女にそうしていたように名前だけを呼ばれたい。


「律」と呼んで「諒」と呼ばれる。そんな関係は、今よりずっと特別なものに思う。




だったら、茅野はさて置き、私は茅野を名前で呼べばいいのだとわかってはいる。


それができない理由は、名前の呼び方を変えるタイミングがわからないから、というよりも、解釈の仕方がわからないから。



あの日──茅野をホテルに連れ込んで茅野の上に乗ったあの日、茅野が本当に拒絶したかったのは何だったのだろう。



キスしようとした私を止めたのは、キスに対する拒絶だったのかな、と思ったけど、茅野は「意図がわからなかったからだ」と言ってくれたし、その日からキスしてくれるようになったから……。


もしかしたら、キスする直前で「律」と呼んだことに引っかかったのだろうか、とその可能性に目がいってしまう。



いさぎよくもう一度呼んで、確かめてみればいいだけなのに、いつも私は「茅野」と呼んでしまう。


名前で呼ぶことは難しい。恥ずかしさと怖さがその一歩を進ませようとしない。



「……りつ」



口に出してみて、それだけで手一杯になって熱くなった顔を膝に埋めて、返答も反応もない部屋の冷たさから目を背けようとした。




    

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