第70話
諒ちゃんを抱きしめる手を滑らせた。胸や腰に触れながら首筋に唇を寄せる。
時間がない。出勤の準備をしなくてはならない。
わかっているはずなのに、男とはどうしようもない生き物だ。殺した声に挑発される。
諒ちゃんの肩を引き、こっちを向かせた彼女と深く唇を重ねながら、枕元のスマホに手を伸ばした。重要なのは諒ちゃんの支度の時間だ。
「(――…20分)」
おおよその猶予を計算し、丁寧には無理だと諒ちゃんから離れて……でも、理性なんてなくなった。
頬や耳が赤い。にじんだ目が、恥ずかしそうに伏せられる。赤い唇が艶っぽく濡れ、呼吸が浅く乱れている。
止まれるはずもなく、諒ちゃんの唇を塞いだ。溺れるような彼女を感じながら、下に指を伸ばした。
「(時間の問題だけじゃなくて)」
彼女の体には、昨夜の余韻がまだ残っているようだ。声を押し殺しながら、彼女の体は簡単に俺を受け入れる。
「(昨日も無理させたっつーのに)」
いい年をして自制が効かない。一体いくつだ。自分で呆れる。
同棲を始める前、「毎日はがっつかない」と約束したのは誰だったのだろうか。
朝からがっつく毎日ばかり、重ねている。
誰かと迎える朝は苦手だった。気持ちのない相手と体を重ねるときは、欲が満たされればそれでよかったから。ピロートークもいらない。即解散でいい。だから、朝までその相手と交わす時間が苦手だった。
誰かを部屋に上げることもまた然り。プライベート空間に誰かを招くことが、本当に苦手だ。俺の1人暮らしの部屋に上がったことがあるのは、諒ちゃん含め、3、4人くらいじゃないだろうか。
そんな俺が、同棲を願い出た。共に迎える朝の繰り返しを、プライベートの共有を、「おかえり」と「ただいま」が当たり前の生活を、諒ちゃんに願った。
諒ちゃんとのそれだけを欲した。
時間があればしつこいくらいじっくり求めるのだが、現実はそうもいかず、朝から随分無理をさせてしまった。ぐったりした彼女の髪を撫でる。
「…大丈夫?」
「…このまま寝たい」
「本当すいません」
「茅野は大丈夫?」
「俺はもう、申し訳ないくらい元気」
俺の腕の中で諒ちゃんはおかしそうに笑った。
「よかった」
大きな黒目が俺を見上げる。
「(……可愛い)」
諒ちゃんの体をぎゅっと引き寄せる。
素肌と素肌が互いの温度を伝える。
「諒ちゃん、シャワー浴びる?」
「浴びたい」
「一緒に浴びる?」
「……え」
「時短」
「や…、無理……無理です」
「(…赤)」
離したくない欲求が、時間の進度と拮抗する。
俺がスマホで時刻を確認している間に、諒ちゃんも同じことをしていたらしい。
「茅野、そろそろ準備しないと遅刻するよ」
「……今日休もうか」
「(毎朝言ってる)」
諒ちゃんは体を起こした。
その腰から腕をほどかず諒ちゃんを見上げる俺の髪を、優しく撫でた。
「夜ご飯、何食べたい? 茅野が好きなの作るから、今日も一緒に頑張ろうよ」
仕事の憂鬱にその言葉。
俺が好きになった、彼女の一側面。
ようやく体を起こした俺は、諒ちゃんの肩を抱き寄せながら唇を重ね合わせた。
「それ、何日でも頑張れる」
「よかった」
「でも今日は外で食おう。最近寝かせてなかったから今日は全部休んで」
確実に、休息を妨げる本人が言うことではない。
諒ちゃんは笑って「デートですね」と小さく呟いて。
「……可愛い服、着て行く」
俺の首に擦り寄ってくる。その髪を撫で、覆い被さるように彼女を抱きしめた。
結局、彼女を離して仕事に行く準備を終えたのは、予定の出勤時刻ぎりぎりで、「いってらっしゃい」と笑う諒ちゃんに見送られながら家を出た、慌ただしい朝。
葛藤を繰り返すことを念頭に置き、余裕を持ってアラームをかける前日の自分に、俺は毎朝感謝するしかない。
今日も変わらず可愛い諒ちゃんを思い出しながら。
「(……早く帰りたい)」
家を出た瞬間から膨れ上がる欲求を抱えたまま、通勤電車に揺られる、幸せにまみれた葛藤。何十年先も俺の手にあれ、と切に願う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます