はぐれた概念

第27話

茅野を好きだと思う気持ちがある以上、純粋な友達の線を越えるのはもう終わりにしよう。


そんな決心はきっと正しい。



数日後の午後、仕事で外に出ていた私は、業務が終わって帰社しようと駅に向かっていた。ぼんやりと茅野の家の近くだと認識しながら、思考の中心を陣取るものは仕事だ。



「(会社に戻ったら…)」



段取りをつけながら早足に進んでいたとき、すれ違った人がどさっと重量のある何かを落とした。そっちに意識が逸れ、視線を向けて、落とした何かがその人の鞄であると知るのと一緒に、



「諒ちゃん…?」



それを落とした人が誰であるのかも、知った。


古い知り合いだった。会いたかったか会いたくなかったかと言えば、会いたくなかった、そんな1人だった。



「諒ちゃんだよね? ねえ、そうだよね?! 久しぶり! 私、諒ちゃんに会いたくて、本当に、本当にずっと会いたくて……」



彼女は次第に視線を落として、不安そうな目で私を窺った。



「――…私のこと、覚えてる?」



大きな瞳を潤ませる、可愛い人。女の子の憧れを詰め込んだ、可愛くって仕方がない人。


忘れるわけがない。



「久しぶり、亜美」



笑ってみる。想像していたより、うまく笑えた。


彼女は中学のころの親友だ。そして、元カレの浮気相手であり、今は元カレの奥さんだ。――いや、違う、浮気相手だったのは私の方か。



元々可愛かった亜美はすごく綺麗になった。髪を耳にかけた亜美の左手に輝く指輪を見て、崇に大切にされているところが容易に想像できた。


まあ、私には関係ない。



「じゃあ、仕事だから……」



笑顔のまま立ち去ろうとしたが、遮るように亜美は大きな目で私を見上げた。



「ねえ諒ちゃん、私ずっと謝りたかったの。崇くんのこと本当にごめんなさい!」



亜美は頭を下げる。



「諒ちゃんと連絡取れなくなったから遅くなったけど、本当にずっと、私…」



亜美の目から涙がこぼれた。


その姿があまりに儚くて、言葉に詰まる。



亜美は静かに泣きながら心にあるものを吐露した。



「言い訳みたいだけどね、私中学のときから、崇くんのことが好きだったの。黙っててごめんなさい。でも本当に好きで、諒ちゃんのことで悩んでる崇くんを、どうしても放っておけなくて…」



それで、と続く、亜美の終わらなそうな懺悔。



「──いい」

「…え?」

「いいよ。ごめん、ちょっと聞きたくない」



私はそれを拒否した。


亜美の濡れた瞳は、悲しそうに揺れる。



「亜美の気持ちを知らずにいろいろ相談して、ごめん」

「そんな! 私こそごめんね! いくら崇くんが好きで、その崇くんに誘われたからって、諒ちゃんを裏切るようなこと……本当にごめんなさい」



目の前の綺麗な泣き顔に、私は、崇と会ったときとは違い、冷静さを失わずにいられるようだ。



「じゃあ、もう終わろう。亜美と崇は今幸せで、私も……私もそう、だから」



幸せと言い切れることへのわずかなためらいに反応したのか、幸せの言葉に反応したのか、亜美はじっと私を見上げた。



「昔のことはもう、いいってことで」



亜美の目はすべてを見透かしているかのように感じて、私は顔を背けながら「綺麗事だけど」と言葉を紡ぐ。


亜美は、ふと視線を落とした。悲しそうに「そっか」と呟く。



「私のしたことが許されるとは思わないけど、諒ちゃんがそう言ってくれるなら、嬉しい」

「…うん」

「私たち、戻れるかな?」



亜美は、濡れた瞳で私を見上げた。



「昔みたいに、諒ちゃんと仲良くなりたい」

「…えっと」

「あ、でも、彼氏の紹介は無理しなくていいから。私信用ないと思うし」



私は「彼氏」の単語に知らず知らずのうちに茅野を思い浮かべている。彼氏ではないだろう。笑ってしまいそうだ。



でも、茅野と亜美は知り合ってほしくない、と思った。彼氏でも何でもないけれど、茅野だけは亜美と知り合ってほしくない。茅野だけは、亜美のものにならないでほしい。茅野だけは――。



そんな私の心が醜かったせいだろうか。


亜美は、返事を忘れた私に気を使うように笑って「私の家この近くで……」とおろおろとしながら話し始めたとき。



「──諒ちゃん?」



どうしてこんな偶然は起こってしまうのか。


亜美の後ろからかけられた声。



「あ、やっぱり諒ちゃんだ」



そう言って笑うのは昌くんで、でもその隣には…。



「(…茅野)」



亜美は振り返る。


まるでスローモーションみたいだった。亜美の髪がドレスみたいに広がって、やがて収まって、そのときには、昌くんも茅野も亜美に目を奪われている。



「(あーあ…)」



私は1人、俯く。


また取られるのか、と思って、取られるも何も初めから……と思えば、恥ずかしくて、誰にも私の思い上がった思考がバレないことだけを望んだ。




     

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