第26話
真っ暗な夜を見せる電車の窓は、私の前に立つ綺麗な横顔を映している。
人の少なくない車内で、まるで私を守るような立ち方だとバカな錯覚を覚える。
しばらくして、電車は先に私の最寄駅に停車した。私の家だろう、と思っていたから、迷わず開いたドアから足を踏み出す。
すると、その腕を掴んで苦笑する茅野。
「誘ったつもりだったんだけどわかんなかった?」
電車のドアが閉まる。
電車は緩やかに速度を上げ始める。
「……私の家かと思った」
その音にかき消されるような声でぼそっと呟けば、茅野は私に擦り寄るようにしてうなだれる。
「…なら、いい」
私の家じゃないならどこに行くというのか。
また、ホテルだろうか。
「……安いところでいいよ」
「ん?」
「いい部屋に泊まる必要なんてないから」
茅野とホテルに泊まるたびに口にしていることだ。
茅野が嫌がるのでお金を払えないのに、与えてもらってばかりで何も返せないままだから、かなり心苦しい。
「もったいないし」と続ければ、茅野は少し笑った。
「無料だよ」
「無料?」
「俺んちだから」
ぽかんとして茅野を見上げた。
茅野は、人を家に上げることが嫌いではないのか。
「…いい、の?」
「いい?」
「私が行っても、嫌じゃないの?」
茅野は至極当然のような顔をして答える。
「諒ちゃん来んの、やなわけねえだろ」
2度目の茅野の部屋。以前と変わらず殺風景な空間だ。
このことを知っているのは、私だけだろうか。そんな、あるわけのないことを考えた自分を嘲る。
深夜と呼ぶに値する時間に、茅野のあとにシャワーを借りて部屋に戻ってくれば、茅野はソファに座ってニュースを見ていた。
私に気付いてこっちを見た茅野は、手で口を覆って、困ったように笑った。
「どうしたの?」
「あー…うん…」
私が離れた場所に突っ立ったまま尋ねると、茅野は意味のわからないことを言った。
「自分の服を着せたがる男の気持ち、わかった」
身にまとっているのは、茅野が貸してくれた、茅野のTシャツとスウェットパンツだ。茅野は背が高いから、上はともかく、下は腰紐を縛って裾を捲り上げるしかない。
でも、茅野的には「あり」らしい。
「(……変なの)」
よくわからない。
彼女とか可愛い女の子の、この格好が「あり」なら、わかるけど。
茅野は優しい声で私を呼んで手招きした。引き寄せられるように私は足を動かす。
「別に、下履かなくていいよ」
「…変態」
そばに立った私の腰に腕を回して、ぐいっと引き寄せた。
「諒ちゃんといたらそうもなんの」
重心がずれた私は茅野の膝に乗っている。
慌てて下りようとすれば「だめ」と茅野は私をぎゅっと抱き寄せて。
「もうちょっと」
私の髪に顔を埋めて甘く囁いた。
「匂い、いつもと違う」
「……シャンプーとか、違うからかな」
「俺と一緒の匂い?」
「…まあ、」
「服も俺のだし、なんか、俺のって感じする」
茅野は私の目を見つめた。
私は、例えば、茅野に抱きつく、とか、茅野の肩に顔を埋める、とか、そんなことをしたいと思って。簡単に触れられるわけもなく、ただ両手で顔を覆ってうなだれた。
「感じ」じゃない。そうなんだよ。茅野の望む望まざるに関わらず、私の意思の及ばないところで、私はすでに茅野のものだ。
「(…茅野は、私のものじゃないけど)」
すると、額に何か柔らかいものを感じた。同時に、Tシャツの裾から侵入した冷たい温度に、びくっと体を揺らした
「──ごめん、したい」
茅野はもう一方の手で私の肩を抱いて、私の首に唇を触れさせる。腰を撫でる茅野の手は、お腹に回って、胸に触れた。
口を押さえて声を殺す私の手にキスすると、茅野は苦笑した。
「俺、諒ちゃんに会うたびにがっついてんな」
ソファが軋む。
両手をまとめて抑えられた私の視界に、背もたれにもう一方の手を突く茅野の顔が映る。呼吸は平常より乱れていて、わずかに寄った眉が余裕のなさを垣間見せる。
私の視線に気付いたらしい。茅野は私と目を合わせて、ふと微笑むと、私の手を解放して頭を優しく撫でた。
額に唇を寄せる、茅野の体が近付く。
ごめん。堪えながら思う。
ごめん、茅野。増えてばかりだ。全然なくならないどころか、欲張りになっていく。
余裕をなくしてよ。
唇にキスしてほしい。
触れるのをためらって。
本物の「好き」を聞きたい。
わがままは膨らんでいく。
自惚れが暴走していく。
不毛だと知りながら自惚れるほど傲慢なら、錯覚を生む距離など求めるべきではないのだろう。
私はきっと割り切れないのだ。この先も茅野に見せられないものが増えていくばかりに違いない。
それならもう、私はこれ以上茅野を裏切りたくない。
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