第7話

向かいの席では、春香と昌くんは仲良く顔を寄せ合い2人の世界に旅立っていて、私は目のやり場に困りながらアルコールを流し込んだ。


そんな私に思うところがあったらしい。しばらく様子を見ていた茅野はついに、「ちょっと待って」と私からグラスを奪った。



「諒ちゃんピッチ早すぎる。一旦水挟んで」

「そんなことない。返して」

「いや、早いって。どうしたの?」

「どうもしてない。返してください」



手を伸ばした私から「だめ」とさらにグラスを遠ざける。



「だよね、それは思ってたよ。諒今日飲みすぎ」



いちゃついていたはずの春香まで、茅野の味方をする。



「律くんが来る前から相当飲んでたし、もうやめなさい」

「ほら、春香ちゃんも言ってる。酒はもう終わりな」



茅野は私が飲んでいたグラスを傾けて、一度に空けた。


それをぼーっと見ていた私に、昌くんが「ノンアルも美味しそうだよ」とメニューを渡してくれる。「ジュースでも飲んでなさい」春香が笑う。そのうち、春香と昌くんは再び2人で話し始める。きゃっきゃっと恋愛を楽しむ声が、居酒屋を占拠する賑わいに紛れて聞こえてくる。茅野が「これは?」「これも美味しそう」と次々にノンアルのカクテル名を指さす。



「俺もノンアルにしようかな」



優しい茅野が隣にいる。


肩と肩が触れ合っている。



「――…本当、そんなに飲んでないから」



気付いたら、茅野にだけ聞こえるように呟いていた。



「全然酔ってない。本当だよ。しっかりしてるでしょ? まだ飲める。絶対に迷惑かけない。ちゃんと1人で帰る。だから飲みたい」



むしゃくしゃするの。


心が乱れて、その原因がまた悔しくて、もっとぐちゃぐちゃに押し潰されるようで、だからお酒を飲みたいの。



ぎゅっと小さく握りしめた手に気がついたのか、茅野は優しい声を落とした。



「何かあった?」

「ううん、イライラしてるだけだよ」

「そうかな」

「そう。今日仕事でミスして、1個間違えたらなんか、全部違ってきて」



1つ、感情の線を間違えた。招待状を見たとき、手紙を読んだとき、私は誤って悲しむ線に触れてしまった。あるいは、過去の自分に共鳴する線に触れてしまった。


そしたらこのザマだ。笑ってしまう。


過去のことだと割り切ればいいのに、思い出した痛みを引き受けてしまっている。



「イライラしてるからもう少し飲みたい。自己責任ってことで、ね? 見逃してよ」



へらへらと笑えば、茅野も私に視線を寄越した。


あ、目が合った。些細なことを確かめる。



「酒に逃げんのはだめだって」



その言葉にあの日の記憶がひっくり返る。


あの日茅野は言った。酒に逃げても全然楽になんねえだろ? だから俺が──…。


小さく肩が揺れた。そんな私を不思議がって、「どうした?」と茅野は尋ねる。私は慌てて首を横に振り、顔を背けた。



蓋をしろ。


思い出し方すら忘れ去るまで底に沈めろ。鎮まらない心臓と波立つ心に気付かれてしまう前に。



「(……しっかりしろ)」



私は俯いて、ぎゅっと目を閉じた。


そのときだった。茅野が立ち上がって、一緒に私の腕を引っ張った。



「諒ちゃん体調悪そうだから、送って来る」



大丈夫? 春香と昌くんは心配してくれている。ちゃんと聞こえる。悪いけど立て替えといて。昌くんに頼む茅野の声も、問題ない。聞こえている。


なのに、私の思考は一向に追いつかない。



はっとしたのは、茅野に引かれるがままに外に出て少し歩いたころだった。


慌てて私は「ごめん」と声を張る。



「気使わせてごめん、もう大丈夫だから」



現状も理解できないまま、とにかく掴まれた腕をほどこうと力を入れて腕を振る。


でもそれは外れないどころか、振り返って私の見すえた茅野の目に抗う力まで奪われてしまった。



もう夜だ。


街のネオンは怪しく光る。



「……はな、して」



茅野は動かない。



「茅野、離し、」

「本当に?」

「え、」

「本当に離してほしい?」



ほんとうに、私、離してほしい?


言葉に詰まる。



「なあ、諒ちゃんさ」



茅野は私の腕を引いた。



「イライラしてるんじゃなくて泣きたいんじゃねえの? 仕事の話嘘でしょ? どうした? 彼氏と喧嘩でもした?」



腰を引き寄せ、もう一方の手で私の後頭部を引き寄せる。


夜の街の無機質な匂いを上書きする、茅野の匂い。



「──…しばらく忘れたいだろ?」



茅野は耳元で囁いた。


その声に、その手に、その温度に、その香りに、私の理性は奪われるようだ。



「今夜一緒にいようか」



私は体の力を抜き、肩に額を預けた。


すると、抱きしめる茅野の手が強くなって、胸をぐしゃぐしゃにかき乱される。



苦しい。逃げたい。だめだよ。やめなきゃ。悲しい。暖かい。


一緒にいたい。




   

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る