種間競争
それからのカエデの生活は、それなりに順調だった。
新しい縄張りであるトンネル周辺の町並みは、相変わらず廃れ気味。人間の総数が少なければ真夜中に活動している人数も少なく、亡霊の活動時間である真夜中にトンネルを通る者は殆どいない。しかし暗いトンネルへの恐怖心は強く、負の感情が渦巻く居心地の良い環境となっている。
カエデが『捕食』した若い女性会社員の死は、事件性のないものとして処理された。精神エネルギーを知らない人間の目には、外傷も毒物反応もないのだから当然の処置だろう。
トンネルには花が添えられた。遺族によるものだが、無関係な小学生はそれを不気味な怪談のエッセンスにしてしまう。子供達の間に蔓延した恐怖が、カエデの暮らすトンネルに豊かな負の感情を供給してくれる。
更に怪談話のお陰か、ごく稀に肝試しに訪れる者も現れた。
出現頻度は半年に一人もいれば良い方。だがそうやって現れれば、カエデにとっては好ましい獲物だ。新たな犠牲者が出ればそれは新たな噂を生み、人々を継続的に恐怖させる。
時折現れるダイダラボッチも、トンネルのお陰で身を隠すのは簡単だった。他の亡霊が襲われ、食べられるのを尻目に、カエデはそこそこ安全に暮らす事が出来ている。縄張りを狙う土蜘蛛などライバルが時折現れたが、エネルギーをたっぷり蓄えたカエデからすれば、腹を空かせた奴等など敵ではない。簡単に蹴散らしてきた。
かくして新生活から三年が過ぎた頃の事。
【オオォオ、オ、オ】
夜中の十一時を過ぎた頃、カエデは今日も狩りのためトンネルの壁から出てくる。
ここ最近はダイダラボッチが来ていないため、周囲の感情が撹拌されていない。負の感情が沈殿し、淀んだ池の底のようになっている。多くの霊にとって住心地の良い、或いは良過ぎる環境だ。ただ吸い込むだけで、オヤツ程度のエネルギーがカエデの身体を満たす。
それに、カエデは昨日一人の小学生を『捕食』している。
中学受験のための塾で、帰りが遅くなった子供だ。連日の塾、親からの過剰な期待で疲れ切り、極めて鬱屈としていた。今日も遅くなり、早く帰ろうとして近道……このトンネルを通ったのが運の尽き。大量の負の感情を撒き散らしながら死に、カエデの腹を満たした。
子供は感情の起伏が激しい。ちょっとした事で希望を抱き、そしてたちまち絶望する。大人では味わえない極上の負の感情だ。
しかも子供の死は、親にとって大きな絶望を与える。夜更けに子供の両親がトンネルに来たが、遺体を目にするや実に多くの絶望や悲しみを吐き出していた。人間一人から漏れ出す感情エネルギーなど本来は微々たるものだが、子を亡くした親は例外だ。亡霊も満足出来るぐらい負のエネルギーを振り撒く。お陰で今のカエデはとても満たされている。
満腹かつ安全。更に環境も良い。このような環境になったなら、すべき事がある。
繁殖だ。
【ォ、オ、ォオ、オ、オオオオ?】
カエデは自身の身体に違和感を覚える。
そわそわとした感覚が全身を満たす。カエデはその感覚の『正体』を知らないが、本能的に『何』をすべきかは理解していた。
その何かをするためには、ちょっとばかり叫ばねばならない事も。
単純に生存を重視するなら、この衝動は抑えるべきだ。辺りに天敵ダイダラボッチの姿は見当たらないが、聞き付けた個体がやってくるかも知れない。ライバルに対しても、亡霊がいる=住心地の良い場所があると知らせるようなもの。短期的に考えれば雄叫びは損しか招かない。
しかし人型はしていても、思考はほぼ獣であるのが亡霊。身体に生じた感覚に抗うなんて、考えすらもない。
【オォオオオオオオオオッ!】
湧き上がる衝動のまま身体に力を込めると、カエデの全身からあるエネルギーが出た。
それは色欲のエネルギー。
カエデが感じていたのは、所謂性欲だったのだ。ただし人間が抱く色欲、つまり性的な感情とは大きく異なる。これはカエデ達亡霊にとっての色欲であり、負の感情と良く似た形質のものだ。人間は性欲を『悶々』『ドキドキ』などと表現するが、霊達の性欲は、例えるなら極めて『ドロドロ』したものである。
放たれた色欲のエネルギーは広範囲に広がっていく。周囲は人間達の出した感情で埋め尽くされていたが、カエデの放ったものは人間達とは性質の異なるもの。このため混ざり合う事もなく、カエデの感情は遠くまで広がっていく。
今回は、半径三キロほどの距離までエネルギーは届いた。
カエデが放った色欲のエネルギーも、他の霊達からすれば餌である。ヒトダマなどの小さな霊が、少しずつ食べてしまう。とはいえ選んで食べられる訳ではないため、減り方は比較的ゆっくり。一度放出すれば数時間……カエデが活動する、真夜中から明け方までは残り続ける。
尤も、この日は何も起こらず。
【……………オ、オ、オ】
カエデは自分の行動が何を起こしたのか理解する事もなく、日の出を前にしてトンネルの壁の中へと帰った。
しかし霊的な性欲を感じたのは、この日だけではない。
翌日以降も、カエデは全身にドロドロとした色欲を感じた。その色欲は活動を始めるタイミングで放出。また次の活動開始まで溜め込む……というのを繰り返す。
勿論色欲とはいえ、それはエネルギーだ。量も決して少なくない。何度も放出を繰り返すと身体に溜め込んだエネルギーがどんどん減っていく。
即ち空腹になるのだが、すると性欲を感じなくなる。ダイダラボッチなどの天敵の気配が近い時も、血の気が引くように性欲は薄れていった。そして腹が満たされ、敵が近くにいなければ、また性欲が身体中から湧き立つ。
この繰り返しを何ヶ月も続けた。季節も移り変わり、雨がしとしとと振る梅雨時を迎える。
【ォォォ……】
この日も小振りの雨が朝から延々と降り、トンネル周辺の道路もあちこちに水溜まりが出来ていた。その水溜りを嫌がってか通行人の姿はないが……先日カエデは一人の男性を食べており、満腹な今は狩りをする気がない。
色欲のエネルギーを放出した後は、トンネルの中でのんびりと過ごしていた。地べたに胡座を掻いて座り込み、ボリボリと頭や背中を掻く。ボロボロの衣服もあって、亡霊というよりも浮浪者のような雰囲気だ。気色悪くは思っても、怖がる者は少ないだろう。
……そんな、ここ何ヶ月続けてきたライフサイクルに変化が起きる。
【……ォ】
ぴくりと、カエデは身体を震わせた。
何かが来る。
辺りの感情エネルギーが揺らめき、その何かの存在を知らせてくれた。ダイダラボッチほど大きな存在ではないが、ヒトダマやカッパほど小さくもない……カエデと同じぐらいの大きさの存在。
ライバルの襲来かも知れない。
【……………】
カエデはゆっくりと腰を上げ、気配がする方を見つめる。身体に力を入れ、かつて土蜘蛛と戦った時のように闘争心を高めていく。
やがて、気配の正体が姿を現す。
それは人の姿をしていた。一見してスーツを着たサラリーマンのようであるが、されど顔を見れば一目で人間ではないと分かる。水死体のように青い顔をし、その顔にあるのは穴のような目と口なのだから。
カエデと同じ、亡霊だ。
カエデは驚きから身体を強張らせた。亡霊は人間社会に適応した種であるが、それでも廃屋や人気のないトンネルなど、生活出来る環境は多くない。故に個体数も少なく、ばったりと出会す事は早々ないのだ。
しかしその遭遇を促すものがあった。
カエデがばら撒いていた色欲のエネルギーだ。広範囲に広がった色欲のエネルギーは、他の亡霊にも感じ取れる。エネルギーが飛んできた方角や濃度から、相手までの大凡の距離を把握する事も可能だ。
縄張りを持つ亡霊は、そのエネルギーを感じ取っても動かない。縄張りから出ればライバルに横取りされてしまうかも知れないのだから。だが縄張りを求めて放浪中の、旅をしている最中の個体であれば、感じ取ったエネルギーに惹かれてやってくる。
そうして出会った個体同士で交配し、次世代を残す。これが亡霊の繁殖方法である。
【オ、オ、オ】
カエデは男性のような亡霊に、一歩、また一歩と歩み寄る。
男性型の亡霊も、カエデの下にゆっくりと近付いた。
トンネルから然程遠くない、車道の真ん中まで出てきた二人。雨が降り注ぐ真夜中の道路で、カエデ達は相手の顔をじっと見つめ合う。互いに相手を探るように、理解しようとするように。
そして。
【オオアアア!】
【オガアアア!】
双方同時に、相手の顔面を殴り付けた!
手加減一切なしの拳が、相手の顔面をぐしゃりと潰す。歪んだ顔から押し出されるように、口や目から汁(のような心霊物質)が飛び散る。
だがこんなもので怯むものかと言わんばかりに、カエデも男亡霊も攻撃を止めない。素早く両手を伸ばし、ガッチリと手を繋ぎ、相手を押し倒そうとする。ラブラブカップルの戯れではなく、獣同士の力比べのように。
……何故両者は戦うのか、と思ったかも知れない。折角異性に会えたのに、と。
だが勘違いしてはならない。カエデ達は亡霊であり、人間ではないのだ。そもそも亡霊に男や女なんてものはない。
今回現れたのは、確かに亡霊だ。しかしその種名は
対してカエデは
しかも質の悪い事に、この二種は生活も比較的競合している。つまり人間の生活圏で、人間の恐怖を、人間を殺す事で得ているのだ。本来洞窟が生息地である土蜘蛛と異なり、オガタボウレイは人間社会で活動する。餌や環境が競合しており、故に共に暮らせば餌の奪い合いとなってしまう。餌が足りなければどちらかが餓死するしかなく、共存は出来ない。
一応メガタボウレイは廃れた住宅地や廃屋など人が少なく正の感情も希薄な土地を好み、オガタボウレイは都会の路地裏や廃ビルなど人通りが多く正負の感情が濃い場所を好む違いはある。このため普段は棲み分け出来ているが……オガタボウレイは正の感情が薄い場所でも生活自体は可能だ。このためライバルとの競争に負け、新たな縄張りを求める個体がメガタボウレイの生息圏にやってくる事があった。
勿論棲み分けしているという事は、両者が得意としている環境は異なり――――そして自分の得意な場所では、相手を排除出来ている事を意味する。オガタボウレイは正の感情への耐性を維持するため、多くのエネルギーを使う。よって人が少なく、負の感情が少ない住宅地ではやがて餓死してしまう。カエデと戦っているオガタボウレイも、このトンネルを奪ったところでいずれ飢えて死ぬだろう。
だがそれは長期的な目線、或いは種単位での話だ。一時的に縄張りを奪うだけなら問題なく行える。カエデが縄張りを追われる可能性は十分あり、その放浪の果てにカエデが餓死する可能性も低くはなかった。故にこの勝負、死力を尽くさねばならない。
【オオオオオオオオ……ッ!】
【オ、ゴオオオオオオオ……!】
カエデとオガタボウレイは掴んだ手を離さず、互いに力を込め合う。指からビキビキと、軋むような感覚が伝わってきた。
相手の手にも相当の負荷を掛けている筈だが、オガタボウレイはまだ余力があるように見える。段々カエデの腕が曲がり、押され始めた。
【オアッ!】
状況の打開を図るため、カエデは膝蹴りをオガタボウレイの腹に食らわす。
これにはオガタボウレイも怯み、掴んでいたカエデの手を離して後退。
【ウグアァッ!】
しかしただでは下がらないと言わんばかりに、オガタボウレイは回し蹴りを放つ!
人間の格闘家が繰り出すような、洗練された動きではない。それでも十分な速さと質量を持った一撃が、カエデの横っ腹を打つ。
蹴られた衝撃で突き飛ばされ、カエデは横転してしまう。状況打開のための攻撃だったのに、一層不利な状態に陥ってしまった。
すぐに立て直さなければならないが、残念ながら相手がそれを許してくれるとは限らない。
【ウォアアアア!】
雄叫びを上げながら、オガタボウレイはカエデに肉薄。馬乗りになろうとしてきた。
人間の男女であれば性的な乱暴が過る光景だが、ここで繰り広げられているのは異種間での闘争。馬乗りの後に待っているのは一方的な暴力だ。カエデもごろごろと転がって躱そうとするが、そんなのは苦し紛れでしかない。
背面を上に向けたタイミングで踏まれ、拘束されてしまう。四肢をバタつかせても、オガタボウレイは全体重を乗せているため簡単には押し返せない。
オガタボウレイはカエデが動けないと見るや、次の攻撃として『踏み付け』を行う。大きくもたげた足を勢いよく下ろし、カエデの背中に叩き付けてきたのだ。
威力は絶大だ。カエデは打撃の衝撃で、起こそうとした身体を地面に叩き付けられてしまう。タイミングを合わせて起きようにも、俯せの体勢ではオガタボウレイの動きが見えない。オガタボウレイもそれを警戒してか、踏み付ける動きを意図的にバラつかせ、反撃のチャンスを分からなくさせている。
【ォオ、ゴ、オ……!】
唸るカエデの内心は、正直逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
霊にはプライドなんてない。合理的であるが故に、勝てない勝負に拘る事もしない。逃げれば縄張りを明け渡す羽目になるが、今ここで殺されるよりは遥かにマシだ。生きていれば、また新たな場所で再起も出来るだろう。
しかし霊達には言葉がない。メガタボウレイが降参を伝えようにも、オガタボウレイはそれを理解出来ない。そしてオガタボウレイからすれば、別種にしてライバルであるメガタボウレイが死んでもどうとも思わない。
このためオガタボウレイがカエデへの攻撃を自発的に止める事はない。カエデは自力で逃げ出さねばならず、それが出来ないために焦る。攻撃の隙がなさ過ぎて、逃げる事さえ儘ならない。
どうにかしなければと悩み、焦る。
……補足すると、亡霊同士の戦いにおいて相手を『殺す』まで追い込む事は、早々ない。実力が拮抗しているため一方的な戦いとならず、あくまでも目的が捕食ではなく縄張りの争奪のため、逃げる素振りを見せれば大概見逃してくれるからだ。
しかし全く殺される事がない訳でもない。偶々戦い方が噛み合って、運良く(或いは運悪く)一方的に追い詰めてしまえば、そのまま殺してしまう事もある。前述したように、ライバルを縄張りから排除出来るのなら異種族の生死などどうでも良いのだから。
【オオオギギゥイィィ……!】
オガタボウレイは攻撃を止めない。カエデを排除するまで。
最早これまでか。
亡霊であるカエデは諦めるなんて事はしないが、打つ手がなければ消極的な行動しか出来ず。せめて相手が疲れ果てるのを待つため、身体を縮こまらせようとした。
どう転んでも、死ぬか、死ぬ寸前まで追い詰められる状況。だが、カエデには一つだけオガタボウレイよりも優れている点があった。
それは幸運。
つまるところ適応的かどうかなど関係なく、ただただ運が良いという事。種の繁栄としては考慮に値しない、けれども個体としてはとても重要な要素。
【オォ、オ、オオオオオオオオオ!】
オガタボウレイにとって『理不尽』な展開の始まりは、何処からか聞こえてきたおどろおどろしい声によって告げられた。
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