天敵襲来
日が沈み、辺りが暗くなってきた。
トンネル内を埋め尽くしていたクロパサランやクロミミズ達が、次々と壁などに潜って隠れ始める。夜が更けると人間達の負の感情が強まり、正の感情が弱まっていく。つまり正の感情への耐性や、飢餓耐性が低くても生存可能な環境へと変化する。
クロパサラン達が日中活動出来るのは、それらの耐性を備えているため。しかし耐性には多くのエネルギーを消費し、肉体の構造にも制限が掛かる。このため夜に出てくる、制限の緩い『強者』と戦うだけの力がない。
日中どれだけ支配者面をしようと、不利な時間になったら大人しく引く。この変わり身の速さもまた、クロパサラン達を過酷な生存競争の勝者に導いたと言えるだろう。
クロパサラン達が隠れると、入れ替わるように壁から様々な霊が出てくる。炎のように揺らめく『ヒトダマ』、殆どハエの幼虫と見分けが付かない『レイウジ』、そうした霊を襲う『トシジンメンケン』や『ジンメンギョ』、それらさえも捕食する『リュウスイカッパ』や『ヒノモトオニモドキ』などが闊歩を始めた。
町はそこら中が霊だらけになる。尤も彼等は心霊物質が希薄なため、人間の目には見えない。足下を埋め尽くす蛆虫の大群を平気で踏み付け、オニの身体をすり抜けながら仕事の失敗や残業への不満を漏らし、知らず知らずのうちに彼等の繁殖を手伝うだけだ。
しかし亡霊カエデの近くに、それらの霊は寄り付かない。
圧倒的強者であるカエデの近くにいると、狩りに巻き込まれた際に危険だと霊達も理解しているのだ。いくらカエデに襲われずとも、踏み付けられたり、体当たりされては一溜りもない。
カエデが目を覚ませば、トンネル内を満たす霊達はそそくさと逃げ出すだろう。
【……ォ、オォオオオーン……ンォオ……】
ところがカエデは、辺りが暗くなってもまだ壁の中で休んでいた。休眠からは目覚めたものの、ろくに動こうともしない。
人間で例えるなら、微睡み状態と言うべきか。
その微睡み状態から起きようとはしない。より正しく言うには、まだ起きるべきではないとカエデは本能的に察している。何故なら早過ぎるからだ。
今の時刻は午後七時過ぎ。確かに夜ではあるが、まだまだ大勢の人間が活動している時間帯である。更にこの時間の人間は、そこまで負の感情を発していない。一般的に『定時』と呼ばれる時刻に退社しているため、むしろ上機嫌な人も少なくない。トンネルを通る人間達も、そこそこ元気な様子だ。
またトンネル周辺には幾つかの住宅が並んでいるが、どの家も明かりが点いている。住民が活動している証だ。家々からは正の感情がわんさか溢れ出し、トンネル近くまで浸している。昼間ほどではないにしろ、亡霊にとっては非常に居心地が悪い。
急いで獲物を探す必要がない限り、夜中まで待機した方が良いだろう。
【オッフゥゥ〜】
焦る事はない。そう言わんばかりにカエデはトンネルの壁の中で休む。トンネル内を通る人々を見送るのは少し勿体ない気もするが、環境が適していない以上致し方ない。
刻々と時間は進み、午後十時、十一時となると家々の明かりが消え始める。通行人の発する感情も、楽しげなものから暗いものへと移り変わっていく。
そろそろ外に出て活動しても良さそうだ。環境変化を肌で感じながら、カエデは壁から這い出そうと動き出した
寸前、ぴたりと止まる。
【……………】
口をきゅっと閉ざし、声を漏らさない。
今から外に出ようとした体勢はやや不安定で、気を抜けば倒れてしまうだろう。だがカエデは動かず、体勢を立て直そうとすらしない。
僅かでも動くつもりがないからだ。いや、正確には僅かでも動きたくない、という方が正しい。
動けば、たちまち食われてしまうから。
――――人間達には感じられないだろう。巨大な心霊物質の動きによる、津波のように大きなエネルギーの波動を。波動は進路上にある全ての、正と負の感情エネルギーをぐちゃぐちゃに掻き回し、押し流す。
これほどの力を有したそいつは、途方もなく巨大だった。
体長は二十メートル以上あるだろう。一軒家どころかアパートよりも大きい。姿形は巨人と言うべきものだが、されど人間とは似ても似つかない。飢餓に喘いでいるかの如く痩せ細った体躯をし、頭は髑髏に薄皮を一枚だけ纏わせたような様相。開いた口の中で、歯の代わりに触手が蠢く。胴体の二倍はありそうな長い手を引きずりながら、ゆっくりと歩き回る。
見た目だけなら圧倒的な存在感だが、クロパサランなどと同じく希薄な身体のようで、踏み付けた家が潰れる事はなく、すり抜けていた。人間達もその存在に気付きもせず、頭上を通り過ぎる『霊』に誰一人として見向きもしない。
これはウデナガダイダラボッチという、超大型の霊だ。
ダイダラボッチ属は日本に七種生息しているが、ウデナガダイダラボッチは山岳地帯を好む種である。本来人間が暮らす平野部では、アシブトダイダラボッチが支配的なのだが……都市開発の影響で森や草原が住宅地に代わり、近年はアシブトダイダラボッチの生息環境に適さなくなっている。ウデナガダイダラボッチも都市部を好む訳ではないが、他のダイダラボッチ属と比べて都市化に耐性があるため、ライバル達を押し退けて都市部や住宅地に進出出来た。
話をカエデの視点に戻そう。
【……………】
カエデはダイダラボッチの存在に気付いていた。故に口を閉ざし、身動きも取らないようにする。
何故なら亡霊にとって、ダイダラボッチは恐ろしい天敵だからである。
【オォアアギィイィイィィィ!?】
突如、悲鳴が上がった。
声を発したのはカエデとは別の亡霊。カエデが暮らす縄張りの近くに、亡霊の住処に適した場所(廃れた商店街の奥にある袋小路だ)があったようだ。
その住みやすい場所に、ウデナガダイダラボッチは巨大な手を突っ込んでいた。もぞもぞと両腕を動かし、ぴたりと止め……やがて持ち上げた時、ウデナガダイダラボッチの手は亡霊を一体捕まえていた。
【オォオオギィヤアァァアア!】
捕まった亡霊は雄叫びを上げた。ウデナガダイダラボッチを威嚇し、僅かでも怯んだ隙に逃げ出そうという魂胆だろう。
だがウデナガダイダラボッチはぴくりとも反応しない。捕まえた亡霊が悪足掻きをする事ぐらい、彼等はとっくに知っているのだ。分かっている事に驚くほど、ウデナガダイダラボッチの情緒は豊かではない。
加えて、力の差があり過ぎる。
亡霊は圧倒的に強い。しかしそれはあくまで同じ大きさの、人間を襲わないタイプの霊と比べての話だ。自分よりも遥かに巨大な怪物と力比べをして勝てるものではない。
昆虫界トップクラスの強さを持つカブトムシでも、人間の子供にすら敵わない――――それと同じ事が、ウデナガダイダラボッチと亡霊の間で起きていた。
そして亡霊にとって不幸な事に、人間とカブトムシの関係と違い、ウデナガダイダラボッチは明確な目的を以て亡霊を捕まえている。
食べるためだ。
【グバァ】
人間ならば顎が外れているほどに、ウデナガダイダラボッチは大きな口を開けて亡霊を放り込む。
口に入れば、もう亡霊の悲鳴は聞こえない。
代わりに、ぐしゃぐしゃと小気味よい咀嚼音をウデナガダイダラボッチは鳴らす。触手のような歯は、食べ物を噛む時だけ牙のように立つのだ。これで獲物を切り刻み、消化しやすくする。
【ン、ゲッブェェエェ】
そうして一体の亡霊を食べると、ウデナガダイダラボッチは満足げなゲップを吐いた。
ウデナガダイダラボッチ達ダイダラボッチ属は、亡霊のような『人喰い霊』を好んで襲う。
人間の味方とでも言うべき行動だが、ダイダラボッチ属は人間に興味などない。亡霊達を襲うのは、亡霊が持つ膨大な感情エネルギーを喰らうためだ。虫を食べるカエルが、その虫の被害を受ける人間の農家など気にもしていないのと同じである。
人喰い霊を獲物とする利点は二つある。一つは、大きなエネルギーを纏めて得られる点だ。人間を殺して得た膨大な負の感情は、巨大とはいえ一般的な霊と同程度の希薄さであるダイダラボッチ属の腹を満たすに足る。例えば先のウデナガダイダラボッチも、亡霊を一体食べるだけで満腹になった。数日間は何も食べずに生きていけるだろう。
もう一つの利点は、競争相手がいない事である。人間を襲う亡霊には、同じものを食べる土蜘蛛というライバルがいた。人間達から溢れる僅かな負の感情を食べるクロパサランやクロミミズも、夜には場所を明け渡さねばならないライバル種族がいる。しかしダイダラボッチ属にはそれがいない。人喰い霊を好んで食べるのは彼等だけであり、そして彼等にしか出来ない。つまり獲物を独占しているという事。潤沢な獲物を糧に、ダイダラボッチ属は大いに繁栄した。
またダイダラボッチ属の特徴として、正の感情に非常に強い耐性を持つ事が挙げられる。人喰い霊は名前の通り人間を襲う。つまりある程度人間が暮らす場所に生息している。その中でも正の感情が乏しい場所を縄張りにしている訳だが、ダイダラボッチ属の身体は途轍もなく巨大だ。正の感情の少ないところを選んで進むのは難しい。自分より遥かに小さな人喰い霊がそんな場所に逃げ込んだら、追えなくなってしまう。しかし耐性を持てば、逆に人喰い霊を追い込む事が出来る。
【……………】
カエデが身を縮こまらせるのも当然だ。力ではどうやっても勝てず、正の感情の漂う場所で撒く事も出来ない。見付かればその時点でほぼ間違いなく食われてしまう敵なんて、理不尽と言う他ない。
正に天敵。霊達の生態系の頂点と呼ぶに相応しい存在である。
更にダイダラボッチの厄介なところはこれだけに終わらない。
【ン、ゴォオオォ】
食事を終えたウデナガダイダラボッチが帰路に就く。
その巨大な身体は、心霊物質で出来たもの。心霊物質は周囲の通常物質には殆ど干渉しないが、人間から吐き出された感情エネルギーには干渉出来る。
これ自体は亡霊やクロパサランなどにも言える事だが、しかしダイダラボッチは途轍もない巨大霊。例えるならクジラのような存在であり、それが動けば相応に大きな『波』が生じる。
感情エネルギーに正負がある事はこれまで何度も話してきた。そして場所によって、その密度や量が違う事も。幸せな家庭が多い住宅地なら正の感情に溢れ、薄汚い路地裏や、人通りの少ない夜のトンネルには負の感情が多い。ダイダラボッチが通った際の大波は、これらの感情を撹拌していく。
撹拌される事で起きる作用は二つ。一つは局所的に集まっていた感情が広範囲に散らばる事。感情のエネルギーは発した生物の意識により向かう先がある程度決まるため、特定の場所に溜まりやすい。例えばカエデのいるトンネルは、負の感情を集めやすい場所だ。何もなければ、どんどんエネルギーは蓄積していく。
霊にとって負の感情は餌なので、溜まっていくのは良い事に思えるだろう。しかしあまりにも量が多過ぎると、空間に対する個体数が飽和して使い切れない。これは言うならば、三人しか入れない部屋に、十人前の食事があるようなもの。仲間を増やそうにも部屋に入れないため、どうしても食べ物が余ってしまう。おまけに一ヶ所に食べ物が集まっているため、他の場所は食糧不足で生きていけない。また正の感情が濃いと霊が近付けない。そこにある負の感情は手付かずになり、埋没した状態になってしまう。
ダイダラボッチが撹拌する事で、負のエネルギーが広い範囲に散らばる。正の感情も霧散し、霊達の入れなかった場所も縮小していく。これにより広範囲で霊が暮らせるようになり、霊の『総数』を大きく増やす。霊の数が増えれば捕食者なども増えるため、霊達の生態系が豊かになるのだ。
もう一つの作用は、負の感情が高く舞い上がる事。ビルの屋上など、普段は人間があまり訪れない場所にも負の感情が降り注ぐ。そこに棲まう霊達にとっては、食べ物が降ってくるようなものだ。つまりビルなどの環境では、人間に依存しない、或いは人間がいない環境を好む霊が生息出来るようになる。
これらの作用により霊の多様性が増大。生物相が複雑化し、霊達の生きる生態系がより強固(例えば環境変化で一部の種が減っても他の種が代替してくれる。多様性がなければたった一種の減少で生態系が壊滅しかねない)になって安定する。
どちらの効果も、霊全体で見ればプラスの作用だ。実際ダイダラボッチ属がいるだけで、霊達はより多くの種と個体が生きていけるようになる。
【ォウギギギ……】
しかし亡霊であるカエデにとって、ダイダラボッチの働きは歯軋りをするほど忌々しい。
亡霊は負の感情が多く、正の感情が少ない……偏りのある環境が好みなのだ。ダイダラボッチによって環境が均一化されると、活動出来る場所が狭まってしまう。それこそクロパサランやクロミミズばかりになってしまうだろう。
撹拌は永続的なものではなく、時間が経てばまた偏りが生じる。生息環境を破壊するほどではなく、ダイダラボッチのいる環境でも亡霊は生活可能だ。
だが正の感情が流れ込んでいる間は、亡霊的にはあまり活動したくない。濃度が致死的ではなくとも、長く活動すれば体調不良を引き起こすかも知れないのだから。そもそもダイダラボッチは危険な敵である。満腹時に襲い掛かるほど向こうも暇ではないだろうが、気紛れに襲ってこないとも限らない。
【オォォォ……】
今日はもう狩りなんて出来ない。
そう考えてカエデは、早めの休眠に入る。所謂不貞寝。
これもまた、亡霊にとってはあり触れた日常の一つだった。
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