縄張り争い

 何かが近付いている――――カエデは本能的に、その気配を感じ取った。

 普段であれば、気配の一つ二つなど気にしない。

 家屋の倒壊に巻き込まれても、ろくに怪我を負わないのが亡霊だ。例え此処にヒグマが現れ、カエデに襲ってきたところでダメージなど受けない。やられた事はないが、猟銃だろうが自動小銃だろうと同じ事。気配の正体が人間なら、新たな獲物であるため非常に喜ばしいぐらいだ。

 されどこの気配は、何か違う。

 本能的な警戒心が湧き立つ。食事なんてしている場合ではないと感じ、女性会社員を掴んでいた手を開く。


「かはっ!? え、ひっ!?」


 いきなり取り戻した自由に、若い女性会社員は唖然となる。しかしすぐに我を取り戻し、自宅があるであろう、トンネルの方に向けて駆け出す。

 ……もしもトンネルに逃げ込まなければ、無事家まで帰れたかも知れない。

 だがこの女性に、トンネルに何があるかなんて知る由もない。ただ必死に、がむしゃらに、家に帰ろうとしただけ。

 トンネルの天井に張り付いていたに襲われるなど、想像出来る訳もない。


「がっ、ご、ぼ」


 天井から落ちた化け物は、女性会社員の頭に絡み付く。顔面を覆われた女性会社員の身体は激しく痙攣すると、ばたりと倒れ、そして動かなくなった。

 精神をのだ。

 いずれこの遺体は通行人に発見され、警察に通報される。そして事件性のない、急性心不全で亡くなったものとして処理されるだろう。亡霊の存在が表に出る事はない……が、そんな事はカエデにはどうでも良い。

 今彼女にとって重要なのは、自分と同じぐらい大きな『霊』と鉢合わせた事だ。


【……!】


 カエデは咄嗟に、軽く足を開いて腰を落とした、臨戦態勢を取る。

 トンネル内から、女性を襲った蜘蛛型の化け物が這い出してきたからだ。

 蜘蛛のような、と先程から述べているが、節足動物のクモとは明らかに異なる。まず、その身体は体節構造を持っていない。直径五十センチほどの丸い球体型の身体から、直に八本の足が生えている。足はタコやイカの足に似た、軟体質な触手状をしたもの。虫の足のように、山を描くような曲がり方をしている。足の長さは、ざっと二メートルはあるだろうか。

 胴体である球体は黒い。より正しくは黒い毛がびっちりと全身を覆っている。正面には人間によく似た眼が四つあり、ギョロギョロと動く。そして中央に口があるが、胴体の半分近くが裂けるほど大きい。

 人類が知る生物とは明らかに異なる何か。

 この不気味な存在は土蜘蛛という。古来より伝わる妖怪であり、その身体は心霊物質から出来たもの。

 つまり霊の仲間であり、そして亡霊とは異なる種である。


【キチキチチチキチキチキチ】


 土蜘蛛は節足動物的な、薄気味悪い声で鳴く。人間ならばあまりの不気味さに腰を抜かすだろう。カエデも後退り……したが、彼女は不気味さに怯んだのではない。

 土蜘蛛の声が、威嚇だと気付いたのだ。

 カエデが新たな縄張りにしようとした場所には、既に先客がいたのである。此処は自分の縄張りだと土蜘蛛は主張し、カエデを追い払おうとしているようだった。

 お化け同士ケンカせず、仲良く一緒に過ごせば良いのではないか、と思うかも知れない。確かに亡霊と土蜘蛛は、直接的な食う食われるの関係ではない。気質が穏やか(人間を殺すのはあくまで餌として。無闇には殺さない)で、不必要な戦いは好まないのも共通している。

 それでも、土蜘蛛との共存は無理だ。

 何故なら土蜘蛛と亡霊は、同じものを食べる。即ちトンネル内を通った人間。何万人も一日に通れば話は別だが、こんな辺鄙な土地のトンネルを通る人間などごく僅か。周辺住民も少なく、集まる負の感情も少ない。だからこそ正の感情も少なく、亡霊達が暮らせるのだが……この程度では亡霊一体を養うのが精々だ。

 土蜘蛛の食事量は亡霊と同程度であるため、仮に共存した場合、個々が得られる負の感情は半分になってしまう。一体分しか生きられない食事を半分にすればどうなるか? 貧しいながらも楽しい生活、なんてメルヘンは起きない。両者共倒れ、双方『餓死』するだけである。

 自分がこの地で生きていくには、相手を追い払わねばならない。土蜘蛛は本能的にそれを理解しているのだ。


【ォ、オ、オ、オ、オオオオ】


 カエデも声を発し、土蜘蛛を威嚇する。此処は今日から私の住処だと、ふてぶてしくも力強く主張する。

 双方退かず、一触即発の空気が漂う。

 ……漂うが、互いにそれ以上接近しようともしない。動き自体はあるのだが、睨み合いながら横にずるずると動くだけ。最初こそ敵意を剥き出しにしていたが、段々嫌そうな気配も出す。

 戦いが始まらない理由は単純なもの。カエデも土蜘蛛も、戦いたくないのだ。

 何しろ相手の大きさは自分とほぼ互角。ならば相手の強さも、ほぼ互角と見て良いだろう。単純に考えれば勝率は五割しかない。

 負ける事は十分あり得る。戦いでは大量のエネルギーを消費するため、負ければ損が大き過ぎる。いや、それどころか最悪死ぬ可能性もあるだろう。仮に怪我で済んだとしても、その後の狩りが上手く出来ず、やはり飢えてしまうかも知れない。そして怪我については、勝てたところで負わないとは限らない。共倒れというのもあり得る話だ。

 だったら戦わず、さっさと逃げてしまうのも一つの手。また縄張りを探さねばならないが、死ぬよりは遥かにマシである。

 しかし必ずしも争いを回避するのが、正解とは限らない。


【オオォオオ……オオオオオオオ……!】


 カエデは退かない。意地でもこの縄張りを奪ってやるという気概を、土蜘蛛に示す。

 戦いを避けたところで、待っているのは長い放浪生活。今し方人間一人の恐怖を喰らったとはいえ、次の住処が見付かる方が飢えよりも早い保証はない。仮に見付けたところで、良い場所には大抵先客がいるものだ。

 逃げたところで、待っているのは今回と同じ展開。そして戦うのであれば、長旅で疲れ切っている時と、たった今人間を食って体力が回復した時、どちらがより勝てるだろうか?

 言うまでもなく後者。誰かの縄張りを奪うなら、今が最も合理的。


【オオオオオオオオオオオオッ!】


 覚悟を決めたカエデは、一際大きな唸り声を発しながら駆け出した! 両手を前に突き出し、掴み掛かるという意思を剥き出しにする。

 突然のカエデの動きに、しかし構えていた土蜘蛛はすぐに反応。八本ある足のうち、四本を前に突き出す。カエデを正面から受け止めるつもりらしい。

 カエデはこのまま接近戦をするつもりだ。動かないならば好都合と減速なく直進し、正面から両者はぶつかり合う。


【オグアアッ……!?】


 最初の一撃を受けたのは、カエデ。

 迫ってきた四本の触手のうち二本が、カエデの頭と腹を殴る。残り二本はカエデの腕を受け止めるのに使われたため、カエデは土蜘蛛の胴体に触れる事も出来ていない。

 そして殴られた衝撃で、カエデは大きく後退りしてしまう。

 亡霊であるカエデは、家の倒壊に巻き込まれても無傷だった。しかしそれは通常物質と心霊物質の質量差が生んだもの。此度の激突は心霊物質同士であり、その衝撃は普通の生物同様しかと伝わってくる。

 殴られれば身体はダメージを受け、蓄積すれば正常な機能を維持出来ず……人間と同じようにのだ。

 とはいえ人間が顔と腹をちょっと強く殴られた程度では死なないように、カエデもこの程度ではくたばらない。


【オオアッ!】


 突き飛ばされてすぐに、カエデはまた両腕を伸ばす。

 そうして掴んだのは、自分を殴ってきた土蜘蛛の足。

 足を掴まれた土蜘蛛は咄嗟に身体を捻り、振り解こうとする。しかしカエデはがっちりと掴んだまま、離す気配もない。

 亡霊は人間とよく似た姿形をしている。つまり人間に出来る事は彼女達も大体可能であり、人間が得意とする動作は亡霊達も得意。物を強く握り締めるのも、そうした得意技の一つである。

 カエデは大きく腕を引き、土蜘蛛の足を引き寄せる。強く引かれた土蜘蛛は、倒れるまではいかずとも、前のめりになった。

 瞬間、次にカエデが繰り出したのは膝蹴り。

 土蜘蛛の顔面に膝を思いっきり叩き込む! もしも心霊物質が空気と干渉したなら、ぐしゃりと生々しい音が周囲に鳴り響いただろう。強力な打撃を受けた土蜘蛛は悲鳴を上げ、よろよろと後退りしようとした。

 だがカエデは未だ土蜘蛛の触手を離していない。よろめいた時を狙って大きく腕を振るい、土蜘蛛を投げ飛ばす!


【キチャッ!?】


 投げられた土蜘蛛は電柱をすり抜け、衝撃を回避。しかし落下先での着地に失敗し、ごろんごろんと道路上を転がってしまう。

 心霊物質で出来ている霊達は、基本どんなものでもすり抜ける。だがそのままだと重力に引っ張られ、地面をすり抜けて地核までいく。故に霊達の多くは、地面をすり抜ける事を本能的に避ける。

 だからこそ土蜘蛛は地面を転がる羽目になり――――知性あるカエデはその展開を予期していた。荒々しく駆け出し、すぐさま土蜘蛛に肉薄する。


【アアアッ!】


 そして迷いなく、土蜘蛛を踏み付けた!

 渾身の踏み付けは土蜘蛛の胴体を直撃。土蜘蛛は鈍い呻き声を上げ、痛みを訴えるかのように八本の足をのたうち回らせた。

 しかしこんな事でカエデは臆さない。

 もう一回踏み付けを行い、徹底的に痛め付ける。これでも土蜘蛛が暴れると、三度目を行い、四度目も間もなく繰り出す。

 土蜘蛛は段々弱ってきたのか、足の動きが鈍くなる。

 だがカエデは止まらない。止まる理由がない。命を奪うまでは……等と人間なら思うかも知れないが、縄張りを奪う時点で相手が餓死してもと考えているのと同義。その情けに意味はない。ならばここで殺すつもりで叩きのめした方が、全力で戦える=勝率が上がる分だけ合理的というものだ。

 カエデはそこまで考えていないが、亡霊の本能として手を抜こうとは考えもしない。何度も何度も踏み付け、このまま止めを刺すため一際大きく足を振り上げ――――


【キチャアッ!】


 その隙を突くように、土蜘蛛が飛び上がる!

 まだここまで力強く動けるのは、カエデにとって想定外。しかも足を高々と上げた体勢は安定性が悪く、ぶつかった衝撃一つで呆気なくひっくり返されてしまう。地面をすり抜けないのは亡霊も同じ。カエデは大地に横たわる形となった。

 これは不味い。倒れたカエデはすぐに身体を起こし――――

 今までいた筈の土蜘蛛が姿を消していたので、呆気に取られた。


【オ? オォオ?】


 アイツ何処行った? また攻撃される可能性も考え、辺りを見回す。そうすれば発見は容易かった。

 土蜘蛛はカエデに背を見け、さっさと逃げていた。

 ……どうやらここまでの戦いで、勝ち目がないと察したのだろう。縄張りを放棄すれば飢え死にの可能性があるが、しかしここで殺されては元も子もない。意地を張っても仕方ないという事だ。

 カエデとしても、土蜘蛛を殺したい訳ではない。縄張りが得られればそれで十分である。


【……オフゥゥ】


 身体から力を抜き、臨戦態勢を解いた。

 カエデと土蜘蛛の戦いは、カエデの勝利に終わった。

 これは実のところ、必然の結果である。本来土蜘蛛は、こんな市街地に出てくる種族ではない。彼等は主に洞窟や洞穴など、閉所環境を好んで住処とする。その身体も洞窟などに適応しており、そういった環境では亡霊よりも俊敏かつ縦横無尽に駆け回って戦えた。死角から強襲し、カエデを一方的に痛め付けただろう。

 しかしこんなちっぽけなトンネルでは、その機動力を活かせない。このため正面からぶつかり合うしかないが、単純なパワーでは亡霊の方が上。力比べになるとどうしても負けてしまう。

 都市部で土蜘蛛は淘汰され、代わりに亡霊が定着した。人の暮らす地では、土蜘蛛など亡霊の敵ではないのだ。


【ォオォォ……】


 その順当な勝利により勝ち取った縄張りで、早速カエデは休息に入るのだった。

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