縄張り行動

 カエデが旅を始めて、丸一日が経った。

 ふわふわと空を飛ぶのも丸一日が経ち、それなりの距離を横断している。昼夜関係なく飛んだ事で被災地域は離脱し、地震の被害が少ない場所まで横断する事が出来た。

 見下ろせば、眼下には明かりの付いた都市部が広がる。

 そこは駅前に広がる地域。大型ショッピングモールやビジネスビル、宿泊施設などが建ち並ぶ。人工の光が燦々と輝き、今が真夜中にも関わらずまるで昼間のような眩しさだ。

 亡霊であるカエデは、ショッピングモールもビジネスビルも分からない。されど人間の感情のエネルギーであれば理解出来る。

 現在カエデの飛行高度は地上から約一キロ地点。ここまで遠いと、人々の発する負の感情を喰らう事は出来ない。しかし感じ取る事は可能だ。人間が食べ物の存在を臭いで感知するように、カエデも感情の存在を彼女なりの五感で感知する。

 埼玉県某市――――大勢の人々がたくさんの負の感情を発するこの地は、亡霊には食べ物だらけの楽園に見えた。


【オオォオォオォオオオ……】


 カエデは町を気に入り、この地域を新たな住処にしようと考える。死人のような青ざめた顔に、にちゃりと得体の知れない笑みを浮かべた……意味合い的には「わーい! ご飯がたくさんあるー♪」だが。

 さて。獲物である人間が大勢いるのは、カエデにとって良い事である。しかし、だからといって考えなしに降下するのは好ましくない。

 というのも人間が抱く感情は、恐怖だけではないからだ。

 喜び、悲しみ、愛情、不安、希望、愉悦、怒り……人それぞれの人生が異なるように、人それぞれ、或いは時々に抱く感情は異なる。人口が多い都市部では、極めて多種多様な感情が入り乱れているだろう。

 問題なのは亡霊、その亡霊を含む霊という存在にとって『正』の感情は毒になる事。

 正の感情とは、喜びや愛情など、人間的にはポジティブな気持ちを示す。これらもエネルギーを持っているが、負の感情で生きる霊はこの力を利用出来ない。むしろ真逆の性質を持つエネルギーを上手く代謝出来ず、取り込むと身体が傷付く。毒と言い換えても良い。多少ならば自己修復も可能だが、大量に摂取すれば回復が間に合わず、負の感情エネルギーで出来た肉体が崩壊してしまう。

 そしてカエデが辿り着いた都市部では、正の感情が非常に多いのだ。

 人の社会なんて不幸の方が多い! という意見もあるだろう。確かにそうかも知れない。しかしここで重要なのは割合ではなく、あくまでも取り込む量の方。例え負の感情の方が割合的には多くとも、一吸いで致死量の正の感情が入り込むなら、それは霊にとって致死的な環境なのだ。

 大勢の人間がいれば、当然正の感情を抱く人も多い。感情のエネルギーは『向き先』があるので、その向いている場所にいなければ多少はマシだが、何万もの人々が行き交う場所では気休めにしかならない。よってこの都市に直接降り立つ事は自殺行為である。

 理想的なのは、正の感情が極めて少ない場所。それでいてそこにいる人々の負の感情を向けられる地域が好ましい。

 なんとも細かな条件に思えるかも知れない。しかしカエデが以前暮らしていた空き家の周りが、正にそのような環境だった。朽ちかけた空き家に対する不安、昔起きた殺人事件に対する恐怖……これらを周辺住民や、通りがかる小学生達から集めていた。時折心から喜ぶオカルトマニアもいたが、一人の正の感情ぐらいなら流石に問題はない。

 こうした環境を一言で言うなら「如何にも幽霊が出そうな場所」……即ち心霊スポットだろう。幽霊がいそうな場所には、亡霊もきちんといるのだ。

 残念ながら、そんな良い場所は現代において希少であるが。


【ォォ……】


 都市の中心から移動しつつ、カエデはあちこち探してみる。だが好ましい場所は中々見付からない。

 例えば自殺者が出たマンションの一室。此処は負の感情の溜まり場になっていたが、近隣住民はあまり気にしていないのか正の感情も大きい。人付き合いの薄さから、悲しむ者があまりいなかったようだ。

 そこら中にある交通事故現場は、負の感情自体が少ない。近くに花が供えられているのに、誰も気付いていないかのようだ。お陰で通行人の発する正の感情もたくさんあって居着けない。

 都会の人は、人と人の繋がりを重視しない。

 悪しき風習のように語られる要素は、亡霊という危険な存在の定着を妨げる働きをしていた。心霊スポットと呼ばれる場所の大半が、カエデ達亡霊の生活に適さないのが実情である。

 しかしそれでも皆無ではなく、幸運なカエデはある場所――――とあるトンネルを発見出来た。


【オ? オォォ……】


 上空からトンネルを発見したカエデは、されどすぐには降下しない。まずは注意深く、本当に良い場所かを探る。

 そのトンネルは、大きなビルが並ぶ都市部から遠く離れた、市民が暮らす住宅地の辺境に位置していた。

 トンネルと呼んでいるが、厳密には橋の下というのが正しいだろう。上には電車が通るための線路があり、その下を潜るように一般道が伸びている。線路が複数本並んでおり(大きな駅への向かうだけでこの地域には止まらない電車ばかりだが)、このため本物のトンネルのように長く暗闇が続いている。内部を照らすライトはろくになく、このため真夜中である今内部は非常に暗い。

 暗いというのは重要だ。人間は、見えない状況に強く恐怖する。実際何も見えない状況というのは非常に危ないので、怖がって近付かないのが正解なのだが……そうもいかないのが現生人類。過酷な労働で帰りが遅くなると、ついつい『最短距離』を通りたくなる。そして今の人類は、暗闇にお化けがいない事を。だから暗くとも、嫌々そこを通ろうとするのだ。

 昼間でも薄暗いため、周辺住民も此処にはいい感情を向けていない。淀んだ負の感情の溜まり場であり、正の感情は殆ど流れ込まない。

 とても良い環境だ。一旦周囲を見渡すが、他にもっと良い場所はなさそうである。


【オ、オ、オォ】


 この場所を新たな縄張りにしようと、カエデは一直線に降下を始めた。

 高度一キロからの降下であるが、自由落下ではないため加減速は自由自在。時速数百キロもの速さで降りつつ、地上が迫ると一気に減速して安全に着地する。

 こうも堂々と降りると、誰かの目に付きそうだと思うかも知れない。

 しかしその心配はいらない。以前述べたように、亡霊がものをすり抜けられるのはその身体を構成する心霊物質が、電磁気力の干渉を受けないため。電磁気力には電気や磁力だけでなく、光も含まれる。つまりその身体は光さえもすりぬけてしまう。

 物が見えるのは、反射した光が目に入るため。光を反射しなければ、どれほど巨大な物体だろうと見る事は出来ない。亡霊が人間に見えないのは、この科学的原理に由来する。

 ただし絶対に見えない訳ではない。物質をすり抜ける時と同じく、心霊物質の密度が増せば、光の波長が接触しやすくなる。つまり亡霊が人間に触れようとした瞬間は、人間にも亡霊が視認可能となる。

 それは即ち亡霊が、人間を喰い殺そうとしている時でもあった。


【……………ォオォ】


「えっ」


 そしてカエデは今、丁度トンネルを通ろうとしていた若い女性会社員を真正面から襲おうとしていた。

 突然『人間』が目の前に現れて、その女性会社員はさぞや驚いただろう。恐怖するでも、無視するでもなく、目をパチクリさせながら棒立ちしている。逃げ出す素振りもない。

 カエデにとっては好都合だ。丁度空腹だったので、この人間の恐怖を喰らいたい。


【ォオ、ォ、オオ】


 カエデは女性会社員に近付きながら両手を伸ばし、捕まえようとする。

 女性会社員はカエデの両手が迫ると、何か危害を加えられると察したのだろう。びくりと身体を震わせ、僅かだが後退りした。


「ひぃっ!?」


 更に悲鳴も上げる。

 悲鳴の原因は、カエデの顔だ。亡霊は人間に似た姿形をしていて、顔も一応は人間的な見た目をしている。だが頬はこけ、青ざめた顔色をし、目はまるで穴のように真っ黒。開いた口の中に見えるのも、舌や歯ではなくどす黒い何か。

 明らかに人間ではない。誰もが恐怖する顔である。

 しかしこの顔は、何も未練やら恨みやらを抱いた結果ではない。繰り返しになるが、亡霊と死んだ人間にはなんの関係もないのだ。

 では何故カエデ達亡霊はこんな恐ろしい顔をしているかと言えば、そういった顔の方が人間から恐怖を得やすいため。要するに食べ物に困らないのである。大昔には様々な顔立ちの亡霊がいたが、美人だったり滑稽だったりしたものは、十分な恐怖を得られず淘汰された。

 言うならばカエデの顔は、数多の淘汰を経て洗練されたとびきりの『怖い顔』である。ホラー映画に出てくる幽霊などお呼びでない、人間の生理的恐怖心を的確に煽る顔立ちと言えよう。事実女性はカエデの顔が迫るほど、どんどん恐怖心を増しているようだった。

 また、恐怖した人間は狩りやすい。

 強い恐怖を感じた人間は、腰を抜かしたり身体が強張ったりして、身動きが取れなくなるものだ。その隙に捕獲する事が出来れば、十分なエネルギーを得られるので生き残れる。これもまた生存戦略と言えよう。

 女性会社員相手にもこの作戦は上手くいった。カエデが伸ばした手は、動けなくなった女性会社員の首をがっちりと掴む。


「ひがっ?! あ、ぃ……!?」


 首を絞められて女性会社員は必死に対抗。爪を突き立て、引き剥がそうとする。しかし心霊物質で出来たカエデの身体は、この程度の物理攻撃では傷付かない。

 しっかり、着実に女性の身体を掴んで固定。逃げられないよう確保する。

 逃がす心配がなくなったところで、カエデは女性会社員の恐怖……精神を捕食する。精神を貪り食われて、女性は身体をガタガタと震わせた。

 心を食うといえば如何にもファンタジーだが、実情は極めて科学的だ。

 まず精神というのは、脳の神経作用により作り出される。一定の電気信号が流れる事で空間に特異な波を起こし、これが現人類では観測不可能な『精神エネルギー』として発生するのだ。正や負のエネルギーというのは、この精神の波形の違いと考えれば良い。抱いた感情により波形が変化し、一部が外へと漏れ出している。

 そして人間のように脳の発達した生物では、エネルギーが頻繁に発生。その余韻により神経回路も変化し、まるで精神エネルギーを取り囲むような配置を取る。

 取り込まれた精神エネルギーは、脳神経とは別の演算機能として働く。つまり喜怒哀楽などの感情から、身体で受けた刺激の良し悪しを判断し、その後の行動を決められるという事だ。興奮状態などの制御も可能である。

 これにより人間は脳神経に使うコスト・エネルギーの削減と、高度な判断力の両立を可能とした。これは優れた生存戦略なのだが、言い換えれば肉体行動の一部を精神に依存しているとも言える。

 亡霊がこの精神エネルギーを食べ尽くすと、人間は一部神経機能が停止。これが心停止という結果になり、死を迎える……というのが「亡霊に襲われると死ぬ」理屈だ。


「ひ、が、あが、ぁ、あぁ……!?」


 若い女性会社員は亡霊の食事方法や、精神の科学実在なんて知らない。しかしカエデの恐ろしい顔に加え、生理作用の狂いによる体調不良は感じている。己の生命が危機的状況にある事は理解しているだろう。

 その脳はさぞや恐怖心を感じているに違いない。

 湧き出す無尽蔵の恐怖を、カエデはぽっかりと開いた口で吸い込む。身体を満たす久方振りの食事に、彼女はご機嫌になる。

 とはいえ欲望のまま吸い上げるのは非効率だ。

 何故なら精神エネルギーを吸い尽くせば人間は死んでしまう。死んだ人間はただの肉塊。魂なんてなく、幽霊にもならず、故に恐怖も抱かない。つまり死んだら食事はお終い。じっくりと、少しずつ食べる方が、最終的に得られる負の感情は多い。

 しかし、ひょっとして助かるかも、なんて希望を抱かれてしまうのも不味い。恐怖が薄れたら生み出される負のエネルギーが減るのは勿論、希望自体が正のエネルギーとして放出される。プラスの感情は亡霊にとって毒。微かなら我慢出来るが、量が増えればこちらの身が危険だ。

 即死しない、けれども確実に殺す。絶妙な力加減をしながら、カエデは女性会社員の生命を脅かす。恐怖と絶望を抱きながら、若い女性会社員は白目を剥き、ぶくぶくと泡を吹き始めた。

 新しい餌場での、カエデの最初の狩りは成功した。

 ……と、なる筈だった。

 だがカエデにとって残念な事に、その狩りは妨害を受ける。

 カエデの『警戒心』を煽る、何者かの存在によって――――

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