環境変化

 関東圏の広範囲を襲った大地震。

 百年前であれば、未曾有の大災厄として歴史に残る被害が出ただろう。しかし令和六年を迎えた現在、人類の科学技術は江戸時代とは比較にならないほど発達した。特に日本の耐震技術は世界トップクラスであり、大地震の度に世界から驚愕と称賛の声が上がる。

 今回の震度六弱もの大地震でも、倒壊したビルや家屋は、あくまで世界的に見ればという話だが、ごく僅かだった。

 とはいえ潰れた建物もゼロではない。故に犠牲者の数もゼロではなく、東京全域で避難・救助活動が進んでいる。

 そして残念ながら、カエデの家は行政的には完全な空き家。ぺしゃんこに潰れたところで、助けに来てくれる者などいなかった。


【オ、ゥ、オウウゥ……!】


 助けなどなくとも、カエデは生き埋め状態から自力で脱出出来るが。瓦礫の山を両手で掻き分け、身を捩りながら這い上がり、どうにか太陽が燦々と輝く外へと出る。

 カエデの身体には傷こそ付いていないが、顔は疲れ切っていた。見ただけで悍ましい顔が、今は悲哀に満ちている。そしてかなり疲れたのか、瓦礫の上に俯せで倒れ伏す。両手両足を広げた様は、潰れたカエルのようだった。

 傍から見れば、今のカエデはちょっと逞しい人間の女性にしか思えないだろう。少なくとも亡霊には見えまい。太陽の下で堂々と活動しているのも、殊更彼女を健康的に魅せるだろう。

 ――――そもそも亡霊とは何か。

 端的に言うならば心霊物質エクトプラズムで出来た身体を持つ存在(これを『霊』と呼ぼう)であり、その中でも人型かつ人類に攻撃的な性質を有する『種』と定義すべきか。心霊物質とは人間が把握している通常の物質……炭素や酸素とは、全く挙動・性質の異なる元素だ。

 そして魂や精神などの事ではない。

 実のところ亡霊と呼んでいるカエデ達の種族は、死んだ人間から生まれた訳ではないのだ。ただ外見的特徴や性質が、人間達に語られている亡霊と酷似しているだけ。だからこそ亡霊が持つと思われる能力も、あったりなかったりする。

 例えばものをすり抜ける事は可能だ。だがこれは霊体だから、という非科学的理由ではない。心霊物質がニュートリノという素粒子に近い性質を持つからだ。

 そもそも通常の物質は何故物をすり抜けられないのか。物質の大元である原子は原子核と電子により出来ているが、原子核は原子の直径のほんと十万分の一しかなく、その原子核の周りを飛ぶ電子は更に小さくてほんの数個しか飛んでいない。例えるなら人間から数キロ離れた地点に数個の野球ボールが飛んでいるようなもの。この状況を前にして、『原子』の中を通れないのは不自然に思えるだろう。

 だが原子は電磁気力という、電気や光の性質を持つ。この力は原子の周囲に満遍なく存在しており、触れた原子や光の動きを変化させる、つまり直進させない――――すり抜けさせない。これが物と物がぶつかり、光を反射する理由だ。

 ところが心霊物質やニュートリノはこの電磁気力と干渉せず、更に粒子の大きさ自体が極めて小さい。このため原子に影響を与えず、その中を直進する事が可能だ。これが心霊物質がものをすり抜ける原理である。

 ちなみにあくまですり抜けるのは電磁気力などの影響を受けないからで、原子核自体と接触すれば触れる事も出来る。カエデが人間を襲った時掴めたのは、身体を構成する心霊物質の密度を高めたからだ。

 ……だったら今回みたいに生き埋めとなったカエデは、瓦礫をすり抜ければよいのではないか。そんな考えも浮かぶかも知れない。確かにその方法でも抜けられたが、心霊物質の濃淡を『切り替える』にはエネルギーを使う。男を襲うため密となったカエデは、瓦礫と干渉する状態ひなっていた。ここで切り替えても大きな消耗はないが、ちょっと勿体ない。そう思ったカエデは、要するにケチったのである。

 ちなみに生き埋めになった身体に傷がないのは、心霊物質は直接的な接触(原子核との接触)で壊れ難いため。心霊物質は非常に重たい元素であるため、水素や炭素ぐらいなら跳ね返し、自身が欠損する事はない。このため物理的衝撃で亡霊を『破壊』する事は極めて難しい。


【オ、オヒュー……コヒュー……!】


 しかしいくら身体が丈夫でも、瓦礫を退かすのは純粋なパワー勝負。生き埋めから脱したカエデの消耗は激しい。

 亡霊といえども無限の体力がある訳ではない。動けば疲れて、休息を必要とする。疲労すれば息を荒げ、身体の動きは鈍くなる。

 ただ、行動の意味は人間と異なる。

 心霊物質で出来た身体は、酸素と反応しない。ニュートリノと同じく電磁気力との干渉がないため、他元素との結合もしないのだ。よって酸化、それに伴う自由電子の放出などの化学的反応は起こらず、エネルギーは取り出せない。

 では何故息を荒くするのかと言えば、身体のエネルギー循環を加速させるため。息を荒げた、つまり激しい胸部の動きにより、全身にエネルギーを巡らせる。これにより疲労の回復を行う。


【ヒュー……ヒュー…………………………】


 ある程度息(のような動作)をしたところで、疲れも取れた。カエデは身体を起こし、その場に座り込む。

 そして胡座を掻いた姿勢で、ぼうっとし始める。

 家がなくなった事に今更ながら唖然としている……訳ではない。先程述べたように、亡霊はあくまで人間に似ているだけの、全く異なる存在だ。感染症には掛からず、雨風もへっちゃら。電磁気力の干渉がないため温度変化もなく、故に真冬の豪雨でも活動に支障はない。唖然とする必要がなかった。

 では何故動かないかと言えば、此処がカエデにとっての、即ち縄張りだからである。

 亡霊は確かに生きた人間ではない。しかしその身体を動かすものは、やはりある種のエネルギーだ。そしてそのエネルギーは人間の身体にあるような、熱や電気などではない。

 精神のエネルギーである。

 具体的には様々な負の感情であり、特に好むのが恐怖や絶望だ。カエデが空き家に侵入した泥棒を殺したのは、死の恐怖、逃れられない絶望を喰らうため。これにより亡霊は身体を動かし、自らの存在を維持している。なお厳密には殺して食ったのではなく、食べた結果死んだというのが正しい。精神を食い尽くされた人間は心停止を引き起こし、そのため死んでしまうのだ。

 そしてカエデの活動エネルギーは負の感情により賄われる。人間が生命活動を維持するため、食べ物から得たカロリーを消費するのと同じだ。空き家の中で息を潜めて待ち、好奇心から家に入り込んだ人間を喰らう……これが今までのカエデの生活。彼女はそれを続けようとしていた。

 そう、この状況でも。

 瓦礫から抜け出した一日目は、誰も来ず。

 二日目になっても、人の気配はなく。

 一週間が過ぎたが、やはり誰も近寄らず。

 一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月……月日は流れていき、ついには半年が過ぎた。

 足を踏み入れるどころか、最近は近くに寄る事すらない。


【……………ォウ?】


 あまりにも誰も来ないものだから、カエデもようやく「あれー?」と首を傾げる。

 何故カエデがいる元空き家こと瓦礫の山に誰も近寄らないのか?

 その答えは地震の影響だ。震度六弱もの大地震により、カエデがいた住宅地の家々も少なくないダメージを受けた。全壊した家は多くないが、傾いたり、一部が倒壊したりした家はそこら中にある。壊れた家に居続ける事は危険なため、多くの住人が避難所に移っていた。生き埋めなどの被害もなく、救助活動は最小限しか行われていない。

 やがて復興が始まるが、この時人々は家の建て替えか、引っ越しの選択を迫られる。住み慣れた土地にまた暮らしたい、という者は少なくないが……この辺りの住宅地はお世辞にも住心地が良くない。高齢化などで町全体が廃れつつあり、空き家の多さから治安も悪化していた。

 このため引っ越しが多く、町からどんどん人がいなくなっていた。ボランティアも町ではなく避難所で作業し、余所者さえ集まらず。

 これが今のカエデの生活環境。誰もいない空き家に立ち寄る動機も余裕も、誰にもないのだ。


【ォググググ……】


 カエデは腕を組み、考え込む。

 亡霊の生態的に、半年程度人間を喰らわずとも問題はない。

 何故なら負の感情は、人間を直接襲わなくてもある程度得られるため。例えば人間達がこの空き家周辺に負の感情……恐怖だけでなく不安や嫌悪感を抱いていれば、人間達から発せられた感情は空き家周辺に蓄積していく。例え恐怖の対象がカエデではなく、出鱈目な噂話や治安、庭で発生した虫相手でも問題はない。

 そんな通行人や周辺住民からの感情を『間食』代わりに食べる。細々と食いつなぎながら待ち続け、迂闊な人間がテリトリーに入り込んだら殺して大量の恐怖と絶望を喰らう。そしてまた次の獲物を待つ……これが亡霊の基本的なライフスタイル。これまでカエデがしてきた暮らし方だ。

 ところが震災により、侵入者どころか通行人すらいなくなってしまった。今までカエデは縄張り内に残っていた負の感情を少しずつ食べていたが、補充がない今、間もなく枯渇するだろう。

 最低限の『生命』維持でも、エネルギーは少しずつ使う。もしも空間内の負の感情も尽きれば、その先に待っているのは『餓死』だ。


【……………ォォオオ、ォォォォ……】


 地震から半年が過ぎて、ようやくカエデも環境の変化を感じ取った。空を見上げ、ため息のように(呼吸なんてしていないが)声を鳴らす。

 これから取るべき選択肢は、二つある。

 一つはこの場に居座り続ける事。今は偶々通行人がいないだけで、明日にはまた人が近くを通るようになるかも知れない。またカエデは地震の前に男を一人いる。仮にこの縄張り内から負の感情が枯渇しても、二ヶ月は耐えられるだろう。その間にまた人が通るようになれば良い。

 もう一つの選択肢は、縄張りを変更する事。即ち住処を移すのだ。

 こちらはリスクが大きい。まず、一言で『いい狩り場』といっても、それが一体何処にあるのか分からない。探し出すにはそれなりの時間が必要であり、それこそ見付けられるのは餓死寸前である二ヶ月後、或いはそもそも見付けられない事だって十分あり得る。

 だが、もしもこの縄張りがもう狩り場として使い物にならないなら、早めに移動した方が良い。少なくとも、あちこち探し回れるだけの体力があるうちに。

 ……人間であれば、後者を選ぶべきだと分かるだろう。大きな地震の後となれば、この住宅地から人が去っていく事は明白なのだ。

 しかしカエデは亡霊であり、死んだ人間ですらない。知能は高いが人間社会のルールなどまるで知らず、地震後に人間がどう動くなんて想像も付かない。だからこの周囲から人間がいなくなった事にも気付けない。


【……………】


 知識がないままカエデは考える。迷い、悩み、丸一日考え……その間一人も通行人が近くを通らなかった事で、ついに決心する。

 新たな『狩り場』を探そう。

 五年以上暮らした場所から離れる事への、名残惜しさは感じる。だがそれだけ。彼女は亡霊であるが、この地とは縁もゆかりもないのだ。

 カエデは重たい腰を上げ、空を見上げた。空に広がる無数の星は、町から明かりが消えた証。文明的な知識を持ち合わせていないカエデはその星空を綺麗としか思わず、見惚れるようにしばし見つめ……やがてふわりと浮かび上がる。

 心霊物質で出来たその身は、重力の影響も受け難い。全く影響を受けない訳ではないが、体内のエネルギーを一定方向に『噴射』すれば軽々と空中に浮かび上がる事が可能だ。空高く上がれば周囲を見渡し、よい場所を見付けやすい。障害物も回避出来、移動もスムーズになるだろう。

 後は気の向くまま、空を漂うだけ。

 次の住処を目指す、カエデの旅が始まった。

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