霊存競争

彼岸花

天変地異

 都内某所の住宅街に、その家は建っていた。

 築五十年以上の木造家屋。管理する者がいなかったのか、窓は割れ、壁は腐り、庭には雑草どころか樹木まで生えている。人の気配は感じられず、電気やガスのメーターまで壊れている有り様。長年放置されている事が、傍目にも明らかだ。

 事実、この家は四十年以上ろくに管理されていない。所謂空き家であり、老朽化が進んでいる。

 何時倒壊するか分からない状況なのもあって、近隣住民は撤去を望んでいる。しかしその動きは、現時点ではない。確かに法律上行政が動けばこの建物は撤去されるだろう。しかし行政はもっと危険な住宅への対応に追われているため、この家は後回しにされている。

 いずれは片付けられるだろうが、そのいずれが何時になるかの目処は立っていない。


「……ちっ。ろくなもんがなさそうだな」


 そんな空き家に一人の男が入ってくる。

 この男は家の持ち主でもなければ、『元所有者』の親族でもない。全くの他人であり、無断で侵入してきた狼藉者……ただの空き巣だ。今は真っ昼間だというのに仕事もしていない、就職活動にも励まない、端的に言い表すならば駄目人間である。

 普段の彼ならこんな廃屋など気にもしない。財産が残っているとは思えないからだ。今回入ってきたのは、良い獲物留守宅が見当たらず、だからといってパチンコなど遊びに行く金もないため、気紛れを起こしただけに過ぎない。

 その気紛れが彼の命運を決めた。


「……なんだか、気味が悪いな」


 寒気を覚えたように、男はぶるりと身体を震わせる。

 人がいない家に入ったのは、男にとって初めてではない。今回のような老朽化した空き家も、数回程度なら侵入した経験を持つ。

 そんな彼にとっても、この廃屋は不気味に見えていた。朽ちた壁や床など、雰囲気の影響は小さくない。だが何より暗いのが、最も大きな要因だろう。

 家中の雨戸は閉められており、窓から外の明かりは入らない。僅かな隙間さえ、伸び放題の草木が塞いでいる。壁が朽ちて大穴が空いていればまだ良いが、そうでない大部分の場所には夜のような闇が満ちている。

 男はペンライトを持っていたので足下を照らせるが、そうでなければ前進すら困難だろう。男にしても小さな照明道具一つでは、精々三歩先までしか見えやしない。歩みは慎重にならざるを得なく、そんな自身の行動が己の心の不安を煽る。


「……クソが」


 男はそんな自分の感情を否定するように、悪態を吐いて更に奥へと進んだ。朽ちた廊下を土足で踏み付け、一歩、また一歩、着実に前進する。

 いくら進み辛いとはいえ、所詮はただの一軒家。すぐになんらかの部屋……リビングとの境目に辿り着く。

 老朽化により蝶番が壊れたのか、扉はリビング側に向けて倒れていた。無遠慮に男は扉を踏み、ついにリビングへと入る。古い家の割に、比較的今風の作りだ。中央にあるテーブルや椅子は残骸と化していたが、大きさからして五十年前なら中々立派なものだった事が窺い知れる。当時としては比較的裕福な家庭だったのかも知れないと考えた男は、金目のものが落ちていないかリビングをぐるりと一望し、

 視界の隅に、髪の長い女の姿を見た。


「っ!?」


 跳ねるように、男は女がいた場所へと振り向く。

 そこはリビングからキッチンへと続く場所。キッチンは奥まったところにあり、男のいるリビング入口から中の様子は窺えない。

 電気一つ付かない家だ。自分のような犯罪者を除いて、人間、ましてや女がいるとは思えない。

 やはり気味が悪い。リビング内にも金目のものは見当たらず、探し回るにしても当てがない。ただの好奇心で物色するのは割に合わないだろう。

 そう考えた男は帰ろうと、踵を返した。

 自身の背後に、女がいるとは思わずに。


「えっ」


 間の抜けた一声。これが男の末期の言葉となる。

 女は、長い黒髪を携えていた。髪はびっしょりと濡れているようで、まるで風呂上がりか、池から這い出した直後かのよう。しかし滴る液体はなく、足下に水溜りなどは出来ていない。

 着ている服は白いワンピース……というより、ボロ布のようなもの。薄汚れており、所々解れている。手はあかぎれが目立ち、朽ちた床を裸足で踏み締めていた。体型は痩せ型、というより飢餓に陥っているように見えるほど細く、やつれている。

 そしてその顔は、常軌を逸していた。

 顔立ちは整っている。だが本来目がある筈の場所は、まるでくり抜かれた『穴』のように真っ黒だ。半開きの口内から見えるのも、歯や舌ではなくどす黒いもの。顔は青ざめ、水死体を思わせるほど血の気がない。

 人間的な姿なのに、明らかに人間ではない顔。男の心は吹き出した生理的恐怖に埋め尽くされ、全身の震えが止まらなくなる。顔からは血の気が引き、恐怖が臨界に達するやあらん限りの声で叫ぼうとした。

 だがその直前に、女は痩せた手で男の口を塞いだ。

 瞬間、男はぐるんと白目を剥く。

 ガタガタと身体が震える。しかしそれは、恐怖による震えではない。手足の末端まで大きく揺れ動く、痙攣と言うべき動きだ。ついには失禁し、朽ちた床に滴り落ちた小水が染み込んでいく。広がった汚水は女の裸足にも触れたが、女はまるで意に介さず。

 しばらくして男の痙攣は収まるが、男は女の手を振り解こうともしない。結局女の方から手放したが、すると男はばたりと倒れる。意識のない人形のように。

 そして男は立ち上がらない。

 当然だ。男は、もう死んでいるのだから。


【ォ、オ、オオオオオオオオア】


 女の口から出たのは、この世のものとは思えない不気味な唸り声。

 もしも男が生きていたなら、この声一つで恐怖のあまり失神しただろう。声には強烈な怨嗟が込められ、聞いた者の精神を狂わせるのだから。

 男の口を片手で塞いだだけで殺め、声で人の気を狂わせる。言うまでもなく、これは人間の技ではない。そして彼女は人間ではない。

 彼女達に自分を言い表す言葉がないため、敢えて人間の言葉で名付けるならば――――亡霊と呼ぶべきだろう。

 ……彼女が居座るこの家には、一つ、おどろおどろしい噂話があった。

 それは四十年以上前、この家の妻が夫に殺されたというもの。夫は日頃から暴力的で、妻を痛め付けていたが、ある日怒りのあまり風呂場に顔を沈め……そのまま溺死させてしまった。

 夫は死体を家の庭に埋めて隠した。夫にとって幸いな事に、粗暴なこの男は妻が外を出歩くのも嫌がっており、妻の姿を見掛けない事を不審がる近隣住民はいない。このため事件の発覚すらしなかった。

 しかし殺された妻の恨みは消えなかった。

 死後数年が経ち、積もりに積もった怨恨が妻を亡霊に変えた。亡霊となった妻は夫を呪殺。それでも恨み辛みは消えず、今でもこの空き家に残り、来訪者を無差別に殺しているという……

 なお、この話はただのフィクションホラ話であり、事実ではないが。

 実際は妻殺害の数ヶ月後に夫は逮捕され、妻の遺体は警察により発見されている。日本の警察力を甘く見てはいけない。この亡霊はこの空き家に(ほんの五年前に)住み着いただけで、この家とは縁もゆかりもない、全くの『他人』である。

 とはいえそれだと、この亡霊には名前もなくなってしまう。事実名前はないのだが、それでは識別に困る。ここでは噂の元である事件の被害者の名前から、カエデと呼ぼう。


【オオオ、オオオオ……】


 カエデは殺した男を放置し、リビングを後にする。

 遺体の片付けはしない。男の死体はリビングに放置され、後は腐るに任せるまま。尤もこの廃屋に踏み込もうとする人間は皆無であり、例え腐臭がしても獣が死んでいるぐらいにしか思われない。男もリビングの隅をもっと注意深く見れば、獣にしては大きな白骨を発見出来ただろう。

 仕事もしていない男を探すものはなく、彼はとなった。

 男の死が表沙汰にならなければ、カエデの存在もまた隠されたまま。知られなければこの家が急ぎ立入禁止になる事も、好奇心旺盛な小学生が侵入を躊躇う事もない。

 更に彼女は多くの人々を殺すだろう。

 ……と言いたいところだが、事はそう単純ではない。確かにカエデは人間では手に負えない力を持った亡霊であるが、この世には人間以上の存在がある。

 自然だ。


【……………オ?】


 カエデはキッチンの奥に座り込もうとした時、ぎしりと家の柱が軋んだ。

 また誰か侵入したのか。カエデがそう思ったのも束の間、ギシギシミシミシと、軋む音はどんどん大きくなる。

 いや、大きくなるというより……五月蝿いほど聞こえてくる。


【オ、オ? オオオ?】


 そしてカエデは、家全体が揺れている事に気付いた。

 地震だ。

 それもただの地震ではなく、震度六弱にもなる大地震である!


【オ、オオオ!? オオオオオ……!?】


 大地震を前に、カエデは動揺していた。

 彼女はこれまで大きな地震に遭遇した事がない。亡霊にこういうのも難だが、生まれて初めての経験だ。そのため何をすれば良いか分からず、右往左往してしまう。

 右往左往しなければ、何か出来た訳でもないが。

 震度六弱もの大地震となれば、いくら耐震設計をした昨今の家でも被害は小さくない。ましてやカエデがいるこの家は、築五十年かつ放置されていたもの。柱は水気で腐り、壁は補修されずにボロボロ。当時最先端の耐震工事をしていたところで、今ではろくに機能しない。

 メキメキと音を立て、天井の崩落が始まるのは必然だった。


【オゥワッ!? オォオオオ!?】


 慌てて両手を掲げ、落ちてくる天井を支えようとする。しかしそんなやり方で支えられる訳もなく、そもそも天井一枚を支えたところで家の崩壊は止まらない。

 ならば男を殺した力で地震をどうにか出来ないかと問われれば――――答えは無理。あれは地震に通用するような力ではない。

 仮に通じたとしても、やはり止める事は不可能だ。此度の地震は相模トラフに由来するもの。東京都内にあるこの家から見て、震源地は横方向ですら百キロ以上離れている。もっと詳細な震源地は相模トラフの深さ五十キロ地点。三角関数を用いて単純に計算すると、この家から直線距離ですら百十二キロ以上も離れているのだ。力の射程圏外である。

 そもそもこの地震はマグニチュード7以上のエネルギーを有している。マグニチュード7とは具体的にいうと約二ペタジュール。これは広島型原爆の八十倍ものエネルギーに相当する。流石にこれを止められるほど、カエデは強くない。


【オオォォォオオオアアァァアア!】


 「こんなものでぇえええ!」的な意味の雄叫びを上げるも、亡霊がこれを言っても悪役の悪足掻きでしかない。そしてそんな事を言い出した悪役が、現状を打開出来た例など殆どない。

 カエデの抵抗も虚しく、築五十年の空き家はこの地震で倒壊。五年間暮らしていた家を、呆気なく失ってしまうのだった。

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