第二章 人外なるものの王国】冒険行12)ゼベデー城の一日
「さーて」
魔術師ゼベデーが去った後に、現れたのはあの妖精小人だ。彼はテーブルの上に立って腰に手を当てると口を開いた。
「話は決まったようだから、城の中を案内したげるよ。言っておくけど、あんたには三人の教師がつく。かくいうおいらはその一人さ。あんたのその空っぽのおつむに常識ってやつを教えてあげるよ」
そこで言葉を切ると、妖精小人は我が輩を見つめた。それからまた口を開いた。
「けっこう。合格だよ。ここで大概の人間は、おいらにつかみかかるんだけどね。まあ、もしそうしていたら、とっても痛い目にあっていたけど」
妖精小人はどこからか小さな棒を取り出した。手の中でくるくるとそれを回すと、またどこかに納めてしまった。その小さな棒で、我が輩の指でも叩くつもりであったのだろうか? まだ何も知らない我が輩は、そんな呑気なことを考えていた。
「これからあんたが住む部屋に案内するよ。ついてきな、って本当なら言うところだけど、それじゃ時間がかかりすぎる。さあ、間抜け頭。おいらをあんたの肩の上に乗せるんだよ」
我が輩はその通りにした。手を伸ばして彼をつかまえると、言われた通りに肩の上に乗せる。小さな手が伸びると、落ちないようにと我が輩の髪をつかんだ。
何とも奇妙な風景だ。これもどこから取り出したのか、赤い帽子を自分の頭の上に載せると、妖精小人は道を示した。
「ええっと、何と呼べばいいのかな?」
我が輩は記憶を探った。
「ファファニール?」
「正解」一言だけ答えると、妖精小人は押し黙った。ときたま進むべき方向を指差すだけで、あとは我が輩が歩くのに任せている。
しかしこれは何という建築物なのだろうか。いつの間にか我が輩たちは城塞から出て、街の中を歩いていた。歩くに連れて周囲の光景が変化して行く。道の両側には見たこともない奇妙な形の家が連なっている。人の気配はない。ときたま遠くの町角を何かの影が横切るのが見える程度だ。
「この城は家よりも住んでいる人のほうが少なくてね」妖精小人のファファニールは説明した。
「じゃあ、我が輩の部屋はどこでもいいのでは?」
「それがそうもいかない理由があるんだ」ファファニールはそれ以上は説明しなかった。「さあ、その先だよ」
ファファニールが案内した部屋は、石で作られた建物の一部であった。左右に同じような部屋がいくつも並んでいる。我が輩はその中を覗いてみた。一人用の小さな部屋だ。木のベッドの他には家具が一つきり。
我が輩はがっかりした。これだけの家があるのだ。もっと豪華な部屋が貰えるものと思っていた。
「なんだ。不満なの?」ファファニールは尋ねた。「じゃ、他の部屋を紹介しよう。ついておいで」
彼に先導されて長い長い廊下を歩いた。日だまりのある中庭を持った僧院らしき場所を抜け、曲がりくねった坂を上る。この辺りでは周囲の家は泥作りのものに変わっていた。
「いいかい? 一つ言っておくけど、おいらが教える道以外をむやみに歩くんじゃないよ」ファファニールが指摘した。
「どうして? 何か危険なものでもいるのかい?」我が輩は奇異に思って聞き返した。
「直接的な危険はないよ。暴力的な怪物はこの城にはいないから。でも、迷子になるんだ」
「迷子?」我が輩は聞き返した。確かにこの城の規模では迷子が出るのも不思議はない。内側に入ってみると、ゼベデー城の本当の広さがわかる。大きな山一つ分すべてを街に変えたほどの大きさなのだ。
「いいや、あんたは何もわかっていない」ファファニールはつぶやいた。
今度、我が輩が連れていかれた場所は、我が輩の体よりも大きな岩を、隙間一つなく見事に組み上げた建物だ。この建物一つで、優にブランザック王の王城に匹敵するほどの大きさだ。ファファニールが示したのは、その中の部屋の一つであった。
最初は部屋の中に、大きな家が立っているのかと思った。大木から切り出したものと思われる板で作られた家だ。しばらく見つめてようやく、それがベッドであると気がついた。
「あんたも見ただろ? 門番の巨人。あいつらが住むための部屋さ」
にやにや笑いを浮かべてファファニールは説明した。
「ここに住みたいかい?」
我が輩は首を横に振った。こんなベッド、寝るどころか上に登ることもできはしない。
しかたがない。引き返そう。
その建物から出て、来た道を戻ろうとすると、またもやファファニールが喚いた。
「そっちじゃないって!」
「どうして? こっちから来たはずじゃないか」我が輩は不思議に思って尋ねた。
「たしかにそうだけど、帰り道は違うんだ」
我が輩が間抜け面をさらしていると、彼はいらだたしそうに腰に手を当てて我が輩をにらんだ。
「まあ、いいさ。阿呆面君。あんたの好きなようにしてみるといいさ」
それで我が輩は自分の好きなようにしてみた。
いま来た道を戻ってみたのだ。
家の様式が変わり、皮でできた天幕が立ち並んでいる場所にでた。その周りは真っ赤な花が一面に咲き誇っている空き地だ。
ここは違う。我が輩はそう感じた。来るときにはこんな場所はなかった。これほど印象的な場所なのだ。見過ごすはずがない。しかしここまでは一本道であったし、途中で道を曲がった覚えもない。それなのに我が輩は見事に道に迷ってしまっていた。
これはいったいどういうことだろう?
「だから言っただろう」ファファニールは我が輩の肩の上で、得意げに言った。
「この城の中は普通の空間じゃないんだ。行った道と帰る道は同じじゃない。下手に迷えば、百年経っても元の場所にはたどりつけないのさ。だからこそ、あんたにはあの部屋を選んだんだ。あの部屋の周辺は比較的に空間の配置がまともなのさ。つまり迷子になりにくいんだ」
ここに至ってはじめて、我が輩は妖精小人にあてがわれた部屋におとなしく入ることにした。ゼベデー城とは魔法に満ちた見知らぬ場所なのだ。何ごとも控え目に、慎重に行うのが無難である。
「さて、それじゃ、残りの場所への案内は明日にしよう。あれだけ食べたのだから、もう夕食はいらないね。間抜け面」
「我が輩の名前はウェトニクスだ」我が輩はうめいた。
「わかったよ。あんたが気にしたんなら謝る。だが、あんたが物事をきちんと覚えるまでは、おいらはあんたを間抜けと呼ばせ続けてもらう。常に正確な批評を受けることは自分の進歩を知る上でとても重要だからね」
彼が我が輩を間抜けと呼ばなくなるまでにほぼ半年が経過したとだけ言っておこう。その間に彼は膨大な知識を我が輩に注ぎこみ、我が輩はその一部をようやく飲みこんだだけであった。
彼の頭はたしかに我が輩の手のひらにすっぽり納まるほど小さかったが、その中身はとても我が輩の追いつくところではなかったのである。
我が輩は最初見たとき、彼のことを非力な小人であり、恐るべき魔術師の使い走りしかできない存在だと考えたが、それが大きな間違いであることはじきにわかってきた。一方、彼からすれば我が輩は図体がでかいだけのろくでなしの間抜けであり、しかももっと悲しいことに彼の批評は正確であった。
我が輩が住むことになったのはこんな奇妙な城だったが、それでも夜は訪れた。居心地悪い思いをしながらも、我が輩はベッドの中に潜りこみ、眠ろうと努めた。実際に眠りに入るのは大変だろうなと思いながらも、我が輩の意識はすぐに忘却の闇の中へと滑りこんでしまった。
朝日とともに目が覚めると、枕許に立っていたのは、またもや妖精小人だった。
「おはよう。あんた、ねぼすけだね」
我が輩はベッドの上に起き上がった。
「やあ、ファファニール」
「違っているよ」
「?」我が輩は目をしばたいた。
「おいらの名前だ」
「すまない、だが間違っていたら正してくれ。昨日、きみはファファニールと名乗っていたように思うが」
「その通りだよ。間抜け」彼は語気も荒く答えた。だがその口調にはどこか楽しんでいるような響きが含まれていた。
「じゃあ、ファファニールでいいんじゃないか」
「それは昨日の名前。おいらは毎日、名前を変えるんだ」
毎日名前を変えるだって? 妖精小人とはなんと奇妙な習慣を持つことか。
「今日の名前はなんと言うんだい?」我が輩は尋ねた。
「教えないよ」妖精小人は断言した。「名前を知れば、それを支配できる」
「支配だって?」
「そうだよ。だからもし昨日、あんたがおいらの名前を正しく使っていれば、おいらを奴隷のようにこき使うことができたろうね」
「我が輩はそんなことをしたりはしないぞ」
「どうだかね」妖精小人は鼻で笑った。
「しかし、じゃあ、きみのことをなんて呼べばいいんだ?」
「あんたの好きに呼べばいいじゃないか」
「わかった」我が輩は少し考えてから言った。「これからきみのことはファファニールとだけ呼ぶことにする」
「ご勝手に」ファファニールはそう答えると、我が輩のベッドから床に飛び降りた。
「ベッドの掃除なんかはボスコースたちがやるから、あんたは何もしなくていいんだ。さあ、おいらについてきて。あんたの教師に割り当てられた連中を紹介するから」
ボスコースって何だ? そう思ったが、あえて我が輩は聞き返さなかった。
ファファニールが案内して行った先は、近くの城壁であった。そこに待っていた教師とやらの姿を見て、我が輩は目を丸くした。
太くて長い腕のついた巨躯。毛むくじゃらのその体。
昨日、ゼベデーとの会談の最中に見たブリッジトロールだ。
ブリッジトロール!
そう、おとぎ話に出てくるあの怪物である。橋の下に住み、橋を通行する者を脅して金を取るという、強欲で有名な怪物のことである。しかしそれを実際に目の前にしてみると、狂暴そうなのは彼の外見だけであることに、我が輩は気がついた。
ファファニールの挨拶に答えて、そのブリッジトロールは我が輩を上から下まで素早く目で調べた。その大きな顎が開く。たどたどしい言葉がその口から漏れた。
「生徒。承知、した。イムカナイ。教師、勤める」
ファファニールは我が輩の肩の上に座ったまま、耳元で怒鳴った。
「さあ、イムカナイがあんたの魔法の教師さ。ほら挨拶はどうしたの。間抜け面」
「小人の言葉、気にすること、ない」イムカナイは言った。
その毛むくじゃらの胸に、橋を摸した小さな石の飾りがぶら下がっているのが見えた。なるほどこれが、ブリッジトロールの名の由来なのかと、我が輩は奇妙なところで納得した。
「授業、明日から、始める。毎朝、ここ、来る。わかった?」
我が輩はわかったと答え、その場を離れた。
怪物に魔法を教わるだって?
正直、我が輩は呆気に取られていた。しかしある意味では正しいようにも思える。魔法などという不可思議なものを教えてもらうのだから、人間以外の存在から学ぶのは正しいのだ。一方、ある意味では正しくないようにも思えた。あのような愚鈍な存在に、果たして物事を教えることができるのだろうか?
結論から述べよう。我が輩の考えはまったく間違っていたと。
ブリッジトロールのイムカナイは我が輩がいままで出会ったどのような人間よりも、賢い存在だったのだ。
いや、それを言うならば、ゼベデー城に住む怪物の多くが、いずれも素晴らしい知性を誇っていた。
いや、もっと正直に述べよう。その時点でゼベデー城に住んでいた存在のうち、もっとも愚かなのは我が輩だったと、そう言える。もちろん、我が輩の愛馬の食いしん坊を除いての話だが。
「しかし、どうして我が輩が魔法を学ぶ必要があるんだい? 我が輩は騎士であって、別に魔術師になりたいわけじゃないんだ」
肩の上のファファニールに先導されながら、我が輩は尋ねた。
「あんた、ドラゴン退治には魔法の武器を使うことになっているんだろ?」
ファファニールは逆に質問で返してきた。
「その魔法の剣を自分の足の上に落っことさないようにさ」
「なんと! 我が輩はそんなに馬鹿じゃないぞ」
「さて、それはどうかな」ファファニールは笑った。「あんたが間違って剣の刃のほうを握らないようにするのが、おいらとイムカナイの仕事さ」
「まさか」我が輩は否定の印に肩をすくめてみせた。
ああ、なんと我が輩は己というものを知らなかったことか。
ファファニールが最期に我が輩を連れていった場所は、城の外庭とでもいうべき場所だった。この限りなく広いゼベデーの城の中では、城壁と建物の間は広大な敷地になっている。この場所の周囲は森とでも言うべき木々の集団に囲まれていて、その中にぽっかりと平らな空き地が広がっているのだ。
その中央に立って我が輩を待っていたのは、全身を漆黒の鎧に包まれた一人の騎士であった。
その鎧の色は、まさに黒の中の黒。黒光りという言葉があるが、その鎧は何でできているのか、そもそも光というものを全く反射しなかった。まるで闇自身から作り出されたように見える鎧であり、鎧を構成する各部品の周囲を彩る細い銀色の線がなければ、それが影絵から切り抜かれてきたと言われても、我が輩は信じたであろう。
手には抜き身の剣を持っている。剣の刃までが真っ黒だ。これも銀の線が不思議な文様を描きながら、刃の線を象っている。地面にまっすぐ突き刺したその剣の柄に軽く手を載せて、微動だにすることなく、彼は我が輩たちが近づくのを待っていた。
「きっとあんたは驚くよ」ファファニールが我が輩の耳にささやいた。
我が輩は黒の騎士の前に立った。何と声をかければよいのか、我が輩にはわからなかった。
先に動いたのは黒の騎士だった。彫像かと見紛うその腕が上がり、兜の面頬を開けて見せる。
兜の中の闇から、骸骨の瞳が我が輩を見つめていた。何も納まっていない眼窩。緑の光がそこから発している。揺らめく淡い緑の炎でできた目。それが視力を持つなんて、とても信じられない。だがそれでも彼は、我が輩をその目でじっと見つめてみせた。
「ゼベデー様から紹介されていると思うが、私がきみの剣術の師となる。私のことはウォーと呼んでくれ。その名の表わすものが、私の作られた理由であり、存在している理由でもあるのだから」
彼は言った。その声は驚くべきことに普通の精悍な男の声であった。
「私は魔法により命を得ている骸骨剣士だ。戦うことが私の目的であり、今までの人生の中で、さまざまな武器の使い方を習ってきた。その一部をこれから君に伝えよう。期間は一年。その間にきみに教えられることはほんのわずかではあるが、真剣に習うべきだ。賭けられているのはきみの命なのだから」
ウォーは面頬を下ろすと、言った。
「では、そこにある剣を取り、構えなさい」
彼は剣先ですぐそばの地面に置いてあった大きな木箱を示した。開けて見て、我が輩は思わず口笛を吹いてしまった。あらゆる種類の剣がその中に納まっていたからだ。
各種の曲刀。短剣。長剣。それに投げナイフまである。先端が前のほうに曲がった奇妙な刀まであった。
しばしためらった後で、我が輩は手慣れた長剣を選んだ。
黒の騎士の前に立ち、騎士団で習ったやり方で、体の前に剣を構える。
堅い金属音がした。手がじんと痺れ、我が輩は呆気に取られた目で、地面に転がった自分の長剣を見つめた。
いったい、何が起こったのかわからない。
「剣を拾い、もう一度」さきほどの位置から微動だにしていないウォーは静かに言った。
我が輩はその言葉通りにした。
金属音。手の痺れ。同じことがくりかえされた。
こんなときに言うべき言葉はただ一つ。
「魔術だ」我が輩はつぶやいた。
「訓練の結果だ」ウォーは言い放った。「剣を拾い、もう一度」
今度はウォーはゆっくりと動いてくれた。いや、それでも信じられない速さであったが。
動いたのは彼の手首だけだ。それだけで地面に刺さっていた剣が見事な弧を空中に描くと、我が輩の握った剣の柄のすぐ前を打ち、それからまた元の位置へと戻ってふたたび地面へと突きこまれた。少し遅れて金属音。剣が我が輩の手の中から叩き出され、地面に転がる。
「教えることはたくさんありそうだ」
ウォーはそう言い、そばで見物を決めこんでいたファファニールに軽く頷くと、立ち去った。
我が輩は彼の後ろ姿をじっと見つめてから、地面に転がった剣を拾い上げた。
「自信を失ったよ」ファファニールに向けて言ってみせた。
その言葉に対する返答として、妖精小人は小さな眉を精一杯上げてみせた。
「いやいや、自信をなくすにはまだ早すぎるよ。間抜け頭。あんなのは、ウォーの力のごく一部でしかないんだから」
それから我が輩たちは広い前庭を歩いて横切ると、部屋へと戻った。
部屋の中はきれいに整えられており、机の横には我が輩の荷物が置かれていた。
「ボスコースたちがやったんだよ」我が輩の疑問の視線に、ファファニールは答えた。
「部屋の片付けに、トイレの掃除。そういったことは全部ボスコースがやるからね」
妖精小人の返答は何一つ、我が輩の疑問を解く役には立っていない。
「ボスコース?」
「おいで」ファファニールは我が輩を部屋の外に招いた。
我が輩に割り当てられた部屋は、長方形に切った石をきれいに積み上げて作られた建物の中にある。彼が我が輩を連れていったのは、その建物の外側の日当たりの良い空き地だった。空き地の中央に木が一本、葉を茂らせている。
ファファニールはその木の前にちょこちょこと歩いて行くと、小さな足を上げて、木の幹を蹴った。
「ボスコース。ボスコース。ちょいと出てこい」
そう歌いながら、赤い帽子を手の中でくるくると回した。
木の表面が波立ち、蠢いた。そしてそこから顔が浮かび上がった。
木の中の顔である。それは人間の顔に似ているようでもあり、同時に違うようにも見えた。
驚いたかって? 当たり前だ。
「ボスコースってのは種族の名前さ。もちろん、個別に名前を持っているけど、人間には発音できるわけがないから、聞かないほうがいいね」
妖精小人はそう説明してから、今度は我が輩のほうに駆け戻って来ると、我が輩の足を嫌というほど蹴りつけた。痛みで我が輩は我へと返った。
「あんたがたの宗教じゃ、人間は土から作られたんだろ? ボスコースは木から作られた人間なんだ。木になることもできるし、人になることもできる。もっとも木になっているほうが楽なようだけどね」
人間が驚きというものに、どれだけ耐えられるものなのか。我が輩に関してはそれはわかっている。少なくとも一日の間は、新しい驚きに会うたびに、我が輩は体を硬直させてしまうようだ。
用事がないと見たのか、木に浮かんだ顔はふたたび、木の中へと戻って行った。
「一つだけ注意しとくけどね。この辺りの木を切るときは、ちゃんと声をかけてから切るんだよ。そうじゃないと本物の木に紛れこんだボスコースを殺してしまうかも知れないからね」
うん、だか、ああ、だかを返事して我が輩は自分の部屋に戻った。
そんな我が輩の鼻をつかむと、ファファニールは我が輩をまた引っ張りだした。連れていかれた先は、旨そうな匂いの漂う恐ろしく大きな広間だ。部屋一杯に棚がずらりと並んでいる。
「とにかく人間は食べないと死んじまうからね」ファファニールは指摘した。「さあ、食い物はここで手に入れるんだよ」
「食い物って」我が輩は辺りを見回した。
ここは台所か? それにしては部屋の中に、かまどの類が見当たらない。いや、そもそも火を使っている気配そのものがない。
我が輩は目を細めた。
棚の中に食器が並んでいる。いや、食器だけじゃない。その上には何かが盛られている。
食料だって?
なるほどたしかにそうだ。ここにある棚のすべてに、皿に載せられたままの料理が置かれているのだ。しかしこれだけの量を平らげるほどの人間、いや、怪物がこの城にいるのだろうか?
ここにある量だけでも、王国一つが食べるのに十分であると、我が輩は見て取った。
そうしていると、大きな黒い影が音もなく我が輩の前に降り立った。
一瞬だが、我が輩は自分が見ているものを信じられなかった。それから声を出す余裕もなく後ろへと跳んだ。敷石に足が引っ掛かり派手に転ぶ。後頭部がどこかに当たり、目から火花がでた。
「あんた、いったい何やってるの?」
人間の数倍はある大蜘蛛の横で、ファファニールが言った。
「そんなところに寝転がっていては、ここの管理人に紹介できないじゃないか」
「管理人?」我が輩は転がったままでつぶやいた。
頭を上げ、大蜘蛛を見る。これはどうみても巨大な蜘蛛そのものだ。毛むくじゃらで、足は八本。それに大きな顎。
大蜘蛛は顎をかちかちと打ち合わせ、前肢を複雑に振ってみせた。
「彼女の姿にあんまり驚くなって」ファファニールがその動きを翻訳した。「こう見えても、繊細で傷つきやすい性格なんだって言ってるよ」
「言葉を話せるのか?」我が輩は頭を振って意識をはっきりさせると、立ち上がった。
「人間の言葉は無理だね。顎の構造がそうなっていないんだ」ファファニールは説明した。
「でも蜘蛛族の言葉はもちろん喋れるし、他にも何種類か使えるよ」
我が輩はあらためて大蜘蛛を見た。どうみても狂暴な怪物にしか見えない。
それに、彼女だって?
「この城の怪物はどれも人間の言葉が使えるのかと思っていた」
「またそういう馬鹿なことを言うんだ。この間抜け頭は」
ファファニールは冷たく言い放った。
「世界は自分を中心に回っているとでも思っているの? あんたの使っているような人間の、それも田舎の地方の言葉なんか、知っている者のほうが少ないのさ」
「でも、今までに我が輩が会った連中はどれも我が輩の言葉を喋っていたぞ」
「当然だろ。おいらはあちらこちらの世界にお使いに出されるから、どこの世界の言葉も大概は知っているし、ゼベデー様ももちろんどんな言葉だって喋れる。それにブリッジトロールのイムカナイと骸骨剣士のウォーは、前にウィリアムって名前の人間が来たときに言葉を覚えたからね」
ううむ。我が輩はうなった。こんなところでぶつかるのが言葉の壁とは。我が輩はこの魔法の世界をおとぎ話の世界と重ねて考えていたが、どうやら現実はそうでもないらしい。
「まあ、いいさ。あんたが無知なのは当たり前だから、責めはしないよ。間抜け頭。それをこれから教えるのがおいらの役目さ。まあ取合えずは、彼女に食事をもらう合図を教えておくよ。餓死したくなければ一度で覚えるんだね」
それからファファニールはある手つきを我が輩にやってみせて、我が輩はそれを覚えた。もっともそれは一度で覚えるのは無理であり、ファファニールは何度も我が輩にそれをやってみせてくれた。口こそ悪いがファファニールは意外と親切な妖精小人なのである。
我が輩の合図を受けてから、大蜘蛛はするすると天井まで上がって見せると、棚の一つに降りて、料理の一つを運んで来てみせた。何かの肉と野菜を煮込んだ料理だ。驚いたことに、それはまだ熱い湯気が上がっていた。
「停止場さ。取り出したときは、いつでも出来立てって仕組みさ」ファファニールは言った。「もちろん魔法だけどね。その料理が作られたのは百年前かな」
我が輩は目の前の料理を見つめ、それがいまにも塵に変わるのではないかと想像した。
結局、その料理は我が輩の腹に納まったのだが。
こうして我が輩のゼベデー城における最初の日々は過ぎ、我が輩はこの奇妙
な魔法の城での、不可思議な生活を始めることとなった。
異国情緒に満ちた、新鮮な驚きに満ちた生活?
いやいや、とんでもない。そこに待っていたのは、息つく暇もない、特訓の
日々だったのである。
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