第二章 人外なるものの王国】冒険行11)魔術師ゼベデー
長いようでいて、短い旅であった。いや、短いようでいて、なおかつ長い旅であったのか?
不思議な魔法のランプに照らされての旅だ。空にかかる月は動いているようで、その実は止まっていた。昇り来る太陽は、永遠に地平線と競争をしているかのようにも見えた。
だがそれでもやがて陽は昇り、朝がやってきた。森の木々はもう蠢いてはおらず、陽の光の下で健康な姿を取り戻している。その森もやがては開けて、涼やかな風が気ままに吹きぬけている平原へとでた。
伝説とは違って、妖精小人は太陽の光を浴びても石にはならなかった。それどころか、彼は陽光を恐れもせずに、我が輩の馬のたてがみを握り締めたまま、小さな顎でできるかぎりの大アクビをする始末。目の前に彼がいなければ、我が輩はまだ自分が退屈な日常のただなかにいるのだと、そう信じこんでいただろう。
平原は徐々に緑の色を失って行き、その代わりに土がはげて岩がむき出しになっていることが多くなってきた。ここは人住まぬ荒野だ。心を傷める荒涼とした風景。今までこんな場所は見たこともない。地平線の彼方まで、そんな光景が続いている。我が輩がどこまで行くのだと尋ねると、妖精小人は手を先に伸ばして、行く手に盛り上がる岩山を示した。
この旅の果てに、我が輩がたどり着いたのは、岩山の中腹に建てられた奇妙な塔であった。
それは四本の石作りの大塔を柱として、それらの間をこれも石作りの城壁でつないだものであった。全体の大きさはさほどでもなく、ブランザック王の城や幽霊城と比べると、驚くほどみすぼらしかった。
そもそも四本の大塔の間はそれほど離れていない。塔そのものを除けば、城壁の中に人が住む空間があるとはとても思えなかった。つまるところ、これは四隅の塔と短い城壁だけで構成された建物なのだ。高い城壁に小さな中庭。これでは城の中には、太陽の光さえ差しこまないに違いない。
この奇怪で平衡を欠いた建物が、抜けるような青空に向けて、岩山の端にしがみつくようにして建っているのを見て、我が輩は嘆息した。これは誰かが城を作ろうとして最初の塔を作り、それから何かの事故が起きたために、そのまま計画を中止して立ち去った結果ではないかと、我が輩は想像してみた。
はっきり言えば、我が輩は失望していたのだ。
悪魔のゼベデー。魔術師のゼベデー。幽霊城を建て、生きている死人を作りだし、あれだけの魔法の驚異を作り出した存在。その人物が住むという城を求めて、遥かにここまで妖精小人と一緒に旅をして来たのに、その結果がこれとは。
果たして、ここに住んでいるというゼベデーなる人物は、我が輩が予想していたような力ある人物なのであろうか?
「あんた、がっかりしたんだろう?」
妖精小人は我が輩のそのような思いを見抜いて言った。
「じゃあ、少しばかり予定を変更しよう、次の分かれ道を左へ行くんだ。そうすれば岩山のもう一方のでっぱりの上に出る。あの城を上から見れば、あんたの空っぽのおつむでも納得が行くだろう」
我が輩は自分の頭を空っぽ扱いされたことに少しばかり腹を立てたが、妖精小人の言う通りに道を進み、やがて岩山の頂上に出た。
ここは周囲が一望できる場所だ。岩山の周囲には果てなき荒野が広がり、人の気配というものは絶無だ。とても寂しい、荒れ果てた場所だ。まるで世界が滅びつくし、我が輩ただ一人が残されたような錯覚に捕われる。
我が輩は目を転じた。眼下に目的地である塔が見えた。それを見て、我が輩の唇から思わず声が漏れた。
塔の上にはそれぞれ簡素な石作りの小屋があり、扉のない入り口が開いている。それらをつなぐ城壁の上には幅広い通路が設置されている。通路というよりは庭園だ。美しい色とりどりの花が咲き、見事な散歩道が作られている。
誰もいないこの岩山の上に、驚くばかりに美しい屋上庭園を作るとは。この庭園の主がゼベデーなる魔術師ならば、それはきっと優雅な趣味の持ち主に違いない。
庭園の間には川までも作られている。それは曲がりくねり、ここでは小さな滝を形作り、そこではこれも小振りの橋の下を潜っている。ときどき、小さなきらめきがその上に見える。魚が跳ねる姿ではないかと我が輩は思った。
複雑で、奇抜で、そしてとても美しい。まさに感嘆すべき所業。
だがそれがいったいどうしたと言うんだ?
どう考えても、偉大なる魔術師のものと主張するには、この建物は小さすぎる。
妖精小人はしばらく我が輩の顔を見ていたが、そこに理解の色が見えないことに失望したようであった。
「ええい、何て頭の巡りが悪いんだい。この人は。これだから騎士って手合いは付き合いにくいんだ」
妖精小人は自分の小さな頭をかきむしってその気分を表現してみせた。
「水路だよ。川だよ。水の流れを追ってみるんだよ」
水路だって?
我が輩は言われた通りに、ここから見える水の流れを追った。ここをこう曲がり、あそこを迂回し、小さな滝となって水煙を上げ、こちらで水車を回し、池に入って、それからまた次の川へ流れこむ。
どこが変だと言うんだ?
川は壁の上をうねり、左下の塔へ入り、そのまま次の城壁へと流れこむ。同じような複雑な経路を通り、また次の塔で向きを変え、次の城壁へ。そのくり返しだ。そして最初の塔をめぐり、また元の川へ。
ほら、どこもおかしくはない。川は流れ流れて、くるりと・・。
また元の川へ?
突然、我が輩は自分の目が信じられなくなった。きっとどこかで間違えたのだと自分に言い聞かせてから、もう一度最初からやり直してみた。
それからもう一度。
さらにもう一度。
そして突然、我が輩はこれが目の錯覚ではないことを理解した。水路はすべて一つにつながっており、水はその上を永遠に流れ続け巡回する。水路のすべての場所で水は下へ下へと流れ落ちているのに、いつの間にか元の位置に戻っているのだ。
我が輩が説明を求めて妖精小人の顔を見ると、満足のため息をついて彼は言った。
「あんた、やっとわかったようだな。ここでは普通の世界の法則は通用しない。ゼベデー様の城は無数に存在する世界のさらに広い各地に分散していて、それでいながらまた同時に、一つの城でもあるんだ。
あんたが今見ているこの塔は、ゼベデー城の一部さ。これは城壁の四隅の塔がこちらの世界に突出しているもので、塔と塔の間の有限の空間の中には無限の空間が折りこまれている仕組みになっている。空間が特殊な方法で湾曲しているために、水の流れはその一部を取ると自然の法に従っているが、全体として見ると自然に反しているのさ」
我が輩は馬鹿ではないが、賢者でもない。妖精小人の説明が小指の先ほどでも我が輩に理解できたなどと言う気はない。
こういうときに言うべき言葉はただ一つ。
「魔術だ」我が輩はつぶやいた。
「芸術さ」妖精小人は言い返した。
ずいぶんと昔に、アリョーシャ神父は我が輩に幾何学なるものを教えようとしたことがある。ギリシアの昔からある学問だそうだ。
その教育の結果は、神父がお茶を入れに行った隙の脱出行へと相成った。授業はセミ取りに化け、神父はそれ以来、我が輩に対して幾何学を教えようとはしなくなった。あのとき、我が輩は少なからぬ罪の意識に責め苛まれたが、結局その報いは我が輩自身に返ってきたわけである。
妖精小人の言う通りに我が輩のおつむは空っぽであった。その上、我が輩はこの空っぽのおつむを持ったまま、計り知れない技を使う人物と対決しようとしているのである。
いったいこの世のだれが、こんな塔を建てることができるのだろうか?
永遠に庭園を循環する川の流れ。ただ美しいばかりではなく、不思議そのものだ。ゼベデーに関して悪魔との噂をも聞いていなければ、我が輩はこのすべてを神が引き起こした奇跡だと思いこんだであろう。
「いつまでその阿呆面をさらしているの。さあ、いくよ。ゼベデー様が待っている」
妖精小人は指摘した。
彼の指示に従って道を降った我が輩は、ようやくこの魔法の塔の下へとたどり着いた。
さて、こうして魔法の塔の前に立って見ると、どこにも城門らしきものが見当たらない。我が輩が戸惑っているのを尻目に、妖精小人は甲高い声で開門を叫んだ。
すると驚いたことに、我が輩の目の前の城壁の一部が静かに後退した。
その通り。城壁が後ろに引いたのだ。恐ろしい重量を誇る城壁の一部が、音もなく。
あっと言う間に、塔の内部へと通じる通路ができた。だが、我が輩の驚きはそれだけでは済まされなかった。開かれた城壁の向こうに広がるのは、どこまでも延びる石畳の街路だ。道の周囲にはきれいに手入れされた木々が並んでおり、それらの間からさらに広大な城の敷地が見えた。
めまいがした、とだけ言っておこう。反射的に我が輩は体を後ろに引き、魔法の塔を見つめ直した。
脳裏に浮かんだ言葉はたったの一つだけ。
在りえない、だ。
城の中のほうが、城の外より広いなんて、在りえない。これは何かの嘘だ。
「なに、立ち止まってんの。さあ、行くんだ」ふたたび妖精小人がきんきん声で言った。
こんなときに本当に強いのは、人間ではなく、馬のほうだ。
我が輩の馬である食いしん坊はためらうこともなく、城の中へと歩みを進めた。
罠に足を踏みいれるというのは、このような感じがするものなのだろうかと、我が輩は内心でそう思った。
我が輩が乗り入れるのと同時に、城壁の内側から男が一人現れた。それは見るからに貧相な小男で、地味な色の粗末なローブを着ていた。
その男が手を上げると、手の平の上に奇妙な模様がいくつも描かれているのが見えた。
そう、刺青である。以前に、我が輩の村に巡業に来た旅役者の一人が、体に彫っていたものと同じである。ただこちらのほうが、数が多いし、色も派手だ。それに絵柄も奇妙である。それは絵というよりは図形と言ったほうが正確な代物だった。
しかし、ここは魔法の城である。この程度のことでいちいち騒ぎ立てていたら、先に進むことができない。
我が輩は馬から降りると、食いしん坊の手綱をその男の手に預け、それからまだ馬の上にしがみついている妖精小人を見て尋ねた。
「魔術師のゼベデーとやらのところにはどう行けばいいんだ? この城の中は無限の広さだと言ったな」
妖精小人は我が輩の馬の上から降りようと苦労して、それから答えた。
「このまぬけめ。あんたはその答えをすでに得ているじゃないか」
「その通りだとも。若者よ」
静かな、それでいて強さと自信を内に秘めた声が背後から聞こえてきた。
我が輩は振り返り、そうして自分の間違いを悟った。我が輩の馬の手綱を握ったまま、その小男、魔術師ゼベデーは言った。
「もうおわかりだとは思うが、改めて自己紹介させていただこう。私の名前はゼベデー。魔術師のゼベデーである」
それから彼は、我が輩を頭の先から爪先までじろりと眺めてから言った。
「ようこそ、我が城へ。ファファニールは間に合ったようだな。幽霊城の地下の巨人が失礼なことをしたようだが、ここで改めて、あれの主人たる私からの謝罪を受け取って欲しい」
「ファファニール?」
「おいらの今日の名前だい」妖精小人が口を挟んだ。「明日はまた別の名を使う予定だけどね」
ゼベデーは身振りで我が輩についてくるようにと指示すると、馬の手綱を持ったまま、我が輩の前に立って歩き出した。
こうして機会を得たのだから、我が輩は彼の後ろ姿をじっくりと観察してみた。
彼の身長は我が輩の肩の辺りまでしかなかったが、その歩みはしっかりしていて、しかも機敏であった。ローブを着ていたからはっきりとは言えないが、体は痩せている。年齢は中年から老年へ差しかかるというところか。短く刈りこまれた髪のところどころに灰色のものが混ざっている。
いや、魔術師の年齢を外見から計ってはいけないのだと、我が輩は思い直した。幽霊城の領主がゼベデーを裏切ろうとして死んだのは、いったいいつのことだったのだろう?
歩く死人の群れを作ることができるような存在が、若返りの魔法を作り出していないとはとても考えられない。
いや、それとも、我が輩が見ているのは、死んだ魔術師その人なのだろうか? どこかで聞いたことがある。魔術師は死んでも、なおかつ生き続けることができるのだと。
わからないことだらけだ。
石畳の道はどこまでも続くかに思えたが、やがてはそれも尽きるときがやってきた。目の前にあるのは、巨大なとしか表現のしようがない背の高い建物であり、しかも見渡す限りの左右に広がっていた。中央にそびえているのは確かに城塞らしき建物だが、左右に伸びている建物は色々な種類の混合物だ。納屋らしきものもあれば、渦巻型の塔のようなものもある。針のような突起が無数に突き出ているものもあれば、小さな庭つきの農夫の小屋らしきものも遠くに見えた。
奇妙に大きな目をした、それでも人間に見える男たちが近くの建物からばらばらと走り出して来ると、魔術師ゼベデーの手から、うやうやしく馬の手綱を受け取った。
「ファファニール。この馬の世話が正しく行われるように、監督をしなさい」
魔術師ゼベデーは、いまだ馬の上に乗ったままの妖精小人に命じた。
「さあ、騎士よ。きみはこちらだ」
建物の扉が滑るように開いた。一口に扉と言っても、建物の大きさに合わせた巨大なものだ。その扉に押されて、ごうっと風が吹いた。
周囲で砂埃が舞う。我が輩は思わず顔を庇い、そして自分の周りを風が避けて通っていることに気がついた。正確に言えば、魔術師ゼベデーの周囲をだ。
扉の内側には、巨大な扉そのものを威圧するかのような巨人の像が両脇に立っている。この巨人の頭ときたらそのまま雲の上に出てしまいそうだ。皮膚の毛の一本一本まで再現した、まるで生きているかのように見事な彫刻に、我が輩は感心した。
魔術師ゼベデーは振り返りもせずに、建物の中へと足を踏みいれた。我が輩がついてくると信じきっている。
ふと、我が輩はいたずら心を覚えた。ここで我が輩がこっそりと姿を隠せば、彼はいったいどうするだろうか?
いや、それは無意味な行動だ。我が輩はこの状況を恐れている。だからこそ、あえてそんな行動を取りたくなるのだ。
背後の音に振り返ると、扉の両脇の巨人の一体が、足を踏み替えているところであった。
彫像だって? とんでもない。
我が輩は首筋の毛が逆立つのを覚えた。目の前のこの小男は、あのような存在を僕としているのだと知って、口の中がからからになる。
目的の部屋に着くまでに、魔術師ゼベデーはただの一度も振り返りはしなかった。
彼に先導されて城の奥深くにある部屋に入ると、そこは湯気を立てる料理が一杯に並んでいるテーブルの部屋だった。我が輩は幽霊城の料理のことを思い出し、もしこれが同じぐらい美味ければ、わざわざこの城に来た甲斐があったなと考えた。
「さあ、遠慮なくやってくれ。この城を訪れた客人に出し惜しみはしない」ゼベデーはそう言うと、我が輩の向かいの席に座った。
「私も一緒にお相伴させて貰うよ。食事は二人で話をするのに良い機会だからな。さきほど私が出し惜しみしないと言ったのは一点だけを除いて本当だ。その一点とは、私は時間を非常に大事にしているということ。それゆえに、君とゆっくり話ができるのは今このときだけだと思って欲しい」
ゼベデーは目の前の料理を自分の口に詰めこみながら言った。
「ちょっと待ってくれ、我が輩はこの城に長居をするつもりはない」我が輩はゼベデーの言葉を遮って言った。
「我が輩だって? なんとも古式ゆかしい言葉を使うものだ」
ゼベデーは口の中のものを飲みこんでから言った。
「いや、きっときみは長居することになる。私ときみの利害はその点で一致するはずだからだ。まず、私の要求を話そう。君の着ている鎧だが、それはアンモリカルの鎧と呼ばれているものだ。精霊アンモリカルを中に封じてあるのが、その名の由来だな。ウィリアムという人物が二十と三年ほど前に、幽霊城の試練をくぐり抜けたことに対して、報償として与えたものだ。作ったのはもっと昔の話だが、自分でも良くできたものの一つだな。さて、それを渡して欲しいというのは、年月によりその鎧の特性が劣化したのか、鎧の魔法が減衰したのか、あるいは魔法工学的に致命的な状態になってはいないか、それが知りたいためだ」
正直に言おう、そのときの我が輩には彼の言うことの半分も理解できていなかった。
わかったのはただ一つ、彼が我が輩の鎧を取り上げようとしていることのみ。
我が輩は警戒していたのである。これはもしや悪魔の仕掛けた罠であり、まず先に我が輩の鎧を取り上げて、抵抗できないようにしようというのではあるまいかと、そう思ったのである。
それをどうやって確かめれば良いのか?
我が輩はブランザック王のところで学んだ戦術を使ってみた。すなわち、その疑念を真っ向から彼にぶつけてみたのである。我が輩の質問に対して、彼は笑って答えた。
「いいぞ、いいぞ。そうやって私の反応を見る。実によい試みだ、お若いの。ではきみの疑念を晴らそう。つまらん駆け引きに、無駄にしている時間は私にはない」
ゼベデーは指を一本、我が輩の目の前で立ててみせた。
「まずは証明の一。私がきみに害意を抱いていない証拠。たとえきみがその鎧を着ていても、私はこの指一本できみを殺せることを示してみよう。そうすれば、私がきみを殺していないというその事実こそが、害意を持っていない証拠となる。ここまではわかったね?」
いきなり話が物騒な方向に向かって、我が輩はぞっとした。あわてて椅子から立ち上がる。
そうしてから、あらためてしまったと思った。剣も盾も馬に負わせた荷物の中だ。
魔術師ゼベデーはこの我が輩の行動にも、まったく動じなかった。立てたままの一本の指で、静かに空気をかき混ぜる。
「これから私は空中に炎の球を作り出す。これは風と炎の精霊を使役して作り出すもので、まあ簡単に言えば、空気の成分を加熱し分離、しかる後にそれらを互いの間を回転する小さな構成要素に変え、極めて不安定な高熱を発する球に再変換したものだ」
この説明のどの辺りが簡単なのか、我が輩にはわからなかった。
「この球の破壊力を見てもらいたい、私がきみを恐れる必要がないことがわかるものと思う。言っておくが」彼は片手を振った。「これは私に取っては児戯に等しい術だ」
彼の腕に彫られた模様の一つが微かに輝いた。それとほぼ同時に、空気をかき混ぜていた彼の指先に光が生れた。それは我が輩の目の前でどんどん輝きを増すと、赤く光る小さな球と化した。
「今はこの球体が存在できる最低限度の温度に制御してある。君から見て左側の壁が見えるな? これをあそこに投げることにする。球の高熱に触れた壁の石は瞬時に蒸発し、それが球の存在条件を乱す。その結果として炎の球体は膨れ上がり、さらなる破壊を引き起こす」
そこまで言ってから、魔術師ゼベデーはうめいた。
「むむむ。この時代の人間に、魔法理論を説明するのは骨が折れるな。専門用語のほとんどがまだ生まれていないからな」
ゼベデーが右手を振ると、赤い炎の玉は宙を飛んだ。
あんなものはいままで見たことがない。
膨れあがった炎がすべてを圧し、視界が赤一色に染まる。天地が破裂するかのような轟音が響き、我が輩の目の前で、炎の玉が命中した壁が一瞬で崩れ去った。
後に残ったのは、縁がわずかに溶けた壁の残骸のみだ。それと煙。大量の煙だ。灰色の煙が天井めがけてもうもうと上った。
それよりも驚いたのは、まるで何事もなかったかのように、魔術師ゼベデーが食事を再開したことだった。いや、実際に彼にとっては、この程度のことはなにほどのことでもなかったのだろう。魔術師の日常というものがどんなものかは知らないが、それは我が輩の想像をはるかに越えたものにちがいない。
我が輩はあの炎の玉が自分の鎧にぶつかるところを想像して、少しばかり気分が悪くなった。たしかに彼は恐ろしい力を持っている。彼とまともにぶつかって勝てる騎士は、勇猛果敢で知られるブランザック王の騎士団配下にもいないだろう。もちろん、我が輩もそうだ。
「これは脅しと取ってよいのか?」それでも我が輩は虚勢を張って言った。
「脅し? ああ、きみは根本的に間違っている。私は誰も脅したりはしないよ」
そこで言葉を切ると、ゼベデーはじっと我が輩を見つめた。
我が輩は理解した。そもそも魔術師ゼベデーには人を脅す必要なんか、微塵もないのだ。本当に必要だと思えば、奪えばよい。彼にはそれだけの力がある。そうしないのは、それが彼のやり方ではないからなのだ。
我が輩は今度こそ完全に理解した。意地を張る必要もない。面子にこだわる意味も。目の前にいるこの人物こそ、真の実力者なのだ。
「わかった」我が輩は言った。「鎧を渡そう」
「賢いな。騎士ウェトニクス」静かにゼベデーはそう言った。それから手を伸ばすと、目の前の鳥の足にかぶりついた。
「きみの協力に感謝するよ。何、検査にはそれほどの時間はかからない。明日には鎧を返せるものと思える」
「返す?」我が輩は一瞬、話の筋を見失って尋ねかえした。
「当たり前だろう? 何を驚いている。必要な情報を回収したら、鎧は持ち主に返すのが一番よい。魔法の鎧が必要ならば、他人が着た汗臭い古ぼけた鎧よりも、まっさらの新しい鎧のほうが気持ちが良いに決まっておる」
ゼベデーは食事を続けながら言った。驚くべきことに彼は我が輩より小さな体をしているのに、我が輩の数倍の量の食事を片付けてしまっていた。
ごとごとと重い足音を立てて、何かが壁に開いた大きな穴の向こうにやって来たと思ったら、そこから醜くもいかつい顔が、ぬっと突き出してきた。
大きな頭に異常なまでに発達した顎。それはどう見ても人間のものではない。
そいつは鉄がきしる音を思い出させる声で言った。
「ゼベダイ、先生。また、壊した」
「おお、イムカナイか。お前も文句を言っておったではないか、その壁は正しくないと」
名前を呼ばれるとともに、その全身が壁の背後から現れた。
人間じゃない。怪物だ。恐ろしく太く長い手。人間のものの数倍の太さがある瘤だらけの足。全身を覆うのは密生した体毛。体そのものの大きさも、人間の大人三人分を合わせたよりまだ大きい。それよりもなによりも、そんな怪物が人間の言葉を喋ることが、我が輩には一番の驚異であった。
イムカナイと呼ばれた怪物は、ぼりぼりと頭を掻きながら大穴の周囲の壁を眺めていたが、ようやくのことに納得がいったとみえて、また奥に引っこんだ。
「彼はブリッジトロールのイムカナイだ。私の下に建築学の勉強をするために来ておる」ゼベデーは説明した。「その様子ではブリッジトロールは初めて見たのだな」
初めても何も、怪物を見るのが初めてなのだ。いや、かってあの十字路で見た幻を除けばだが。まてよ、そうだ、幽霊城でも動く怪物たちを見たじゃないか。あの燃え上がる人影もそうだ。巨人のゴルナスもそうだった。ううむ。こうして考えてみると、我が輩は存外に怪物を目撃している。いまさらブリッジトロールごときに、驚いていてどうする。
我が輩がそう考えている間も、ゼベデーはとどまることなきお喋りを続けた。
「壁についてはイムカナイが明日から修理にかかるだろう。今度はどんな感じの壁になるか楽しみだな。どうした、もう食べないのか? 君は若いのだからもっと食べなくては」
相手の食欲を確実になくす方法の一つを我が輩は知った。相手の十倍の量を目の前で食べてみせればよいのだ。
そんなことには少しも気づく様子もなく、ゼベデーは食べ続けた。
「では、話を続けよう。きみは幽霊城の試練を潜りぬけたし、アンモリカルの鎧をここに戻してくれた。どちらも報酬を払うのには十分な働きだ。
さて、ここで私が提案するのはきみへの報酬であり、同時に私への奉仕も兼ねている。
きみに真っ向からこう聞こう。すべての騎士の夢見るものとはいったい何か?」
いきなりの謎かけに我が輩は戸惑った。
これはまた予想もしなかった問題だ。そもそもここにいることこそ、まるで夢を見ているようなものだ。そこにさらに、騎士が見る夢だって?
騎士の夢。我が輩は考えてみた。
ブランザック王のような王になること。
美しい妻を娶り、高い地位につくこと。
名誉ある行いをすること。
財宝を手に入れること。
どれも騎士の夢のようであり、そうでないようにも思える。
我が輩はもっと考えてみた。
王国。これはあの権力欲の塊であるバルダーン公爵が夢見たものだ。だがそれを言えば、政治というもののおぞましさに呆れるまでは、一介の農夫に過ぎなかった我が輩でさえも夢見たものであった。そこに至るまでの道の遠さ近さに違いはあるにしても、乞食から王様まで、誰もが夢見るものだ。逆に言うならば、これは少なくとも騎士だけが夢見るものではない。それは財宝を取っても同じこと。
では名誉はどうか?
これも違う。ウィリアム王こと、アリョーシャ神父は騎士としての身分を捨てたが、名誉ある行いについては生涯それを求め続けた。気高き行為を行う誇りと、神に仕える無私の行いの神聖さ。それが彼の求めたものであった。
では、騎士の求める真実とは何だろう?
騎士のみが求め、また騎士のみが行えること。
我が輩はここまで考えたところで降参し、ゼベデーに教えを請うた。ゼベデーは答えを言う前の期待の時間を十分楽しんでから、言った。
「騎士の究極の夢とくれば、決まっておる。それはドラゴン退治だ」
我が輩は唖然とした。こんな答えは予想さえしたことがない。
ドラゴン退治だって?
おとぎ話じゃあるまいし。いったいこの世のどこにドラゴンなんてものがいると言うのだ?
いや、我が輩がいるこの場所、ゼベデー城こそおとぎの国なのだ。
だとすれば。
もしかしたら。
本当にドラゴンが存在するのかもしれない。
そう我が輩は気がついた。あの広い敷地の中のどこかにドラゴンの一匹ぐらい紛れている可能性はある。
ドラゴン!
なんという誘惑。巨大なる怪物。恐るべき悪の体現者。ドラゴン。
すべての騎士の望むべき敵。神への反逆者。ドラゴン。
わああお。何てことだ。我が輩は心の中で喜びの叫び声を上げた。
その間も、ゼベデーは我が輩にお構いなしに喋り続けている。
「よいか、お若いの。
領主はドラゴンを退治したいと思うかもしれん。だがそれは己の領地を守るためであり、決して自分の手で退治したいわけではない。もしできることならば流れ者の騎士を雇うことだろう。
農夫はドラゴンを退治したいと思うだろうが、自分がそれをやるぐらいならば逃げるほうを選ぶだろう。
ただ一人、騎士だけが、己の手で強敵を屠り、ドラゴン殺しの称号を手にしたいと願うのだ。
よいか、お若いの。
騎士の中には死んだドラゴンを見つけて、その死骸の上に足を載せ、俺がドラゴンを殺したのだと威張りたがる者もいるだろう。だが、きみはそんな騎士を騎士と認めるだろうか?
いいや、認めはしない。私にはわかっている。
真の騎士ならば死んだドラゴンなぞには目もくれないだろう。老いて今にも死にそうなドラゴンでも駄目だ。もし病気のドラゴンにしか出会えないとなれば、そのドラゴンの健康を取り戻すために夜も寝ずに看病してやって、しかる後に元気満々のドラゴンの鼻面に挑戦状を叩きつけるのが、真の騎士というものなのだ」
我が輩は呆気に取られて、ゼベデーのこの論理に聞き入っていた。
とんでもない話だ。
だが真実でもある。
我が輩の心はすでに決まっていた。
我が輩は彼の言葉を止め、ではドラゴンの居場所を教えて欲しいと言った。彼の答えはこうだ。
「いいや、お若いの。私はドラゴンがどこに棲んでいるのかは知らない。
かってこの世界には無数のドラゴンが棲んでいた。だが、ある日を境に、彼らはこの世界を離れてしまったのだ。魔法の門を創造し、異世界へと旅立ってしまったのだ」
ゼベデーはテーブルクロスの端を引き上げると、それで自分の口を拭った。真っ白なテーブルクロスにべったりとソースの染みがつく。
「ゼベデー城はあらゆる世界に延びている。だがそれでも、彼らの足跡はたどることはできない。私の手の届く範囲からは、完全に逃れてしまっているのだ」
我が輩はまばたきをした。どうも話がよくわからない。
「ちょっと待った。じゃドラゴンはいないんだな」
「いや、いる。最低でも一匹」ゼベデーは即答した。「信頼できる古代の文献の一つに、置き去りにされたドラゴンの話が残っているのだ。驚くべきことに、きみの世界の中にだ」
「我が輩の世界?」我が輩はわけがわからなくなった。
どうにも奇妙だ。彼の話を聞いていると、世界というものが無数にあるように思えてしまう。
「そう、きみの世界だ。だが問題は、私にはその居場所を見つけることができないということだ。ドラゴン種族というものは原則的に魔法に対して透明であることは知っているかな?」
むろん、我が輩がそんなことを知るわけがない。つい先日まで、魔法だっておとぎ話の存在だと思っていたのだ。
「だから私にはドラゴンを見つけることができない。しかしそれが居そうな場所ならばだいたいわかる」
ようやく話が見えてきた。魔術師ゼベデーはじっと我が輩の顔を見つめながら言った。
「さて、ようやく話の焦点が合ってきたようだな。きみにドラゴンの退治を依頼したい。ドラゴン殺しの称号を手にいれる絶好の機会だぞ。わたしにはドラゴンの死体を持ち帰ってもらうだけでいい。研究に必要なんだ」
ええと。我が輩は返事をする前に考えた。相手の提案にうかつに乗ることが、どんな結果を引き起こすのかは、バルダーン公爵のときに身に染みて味わっている。
「どうも奇妙な提案に思えるのだけど」
ゼベデーの瞳に奇妙なきらめきが宿った。
「きみの考えはわかっている。もちろん、ただとは言わない。いまのままのきみでは、ドラゴンと真っ向から戦うのは無理だ。こちらからは、一年間の訓練期間とそれに必要な教師。それに加えて魔法の武器を供給しよう。さらにはドラゴンの探索に必要な装備一式。魔法に関する基礎知識。その他もろもろだ」
「ちょっと待ってください」
すでに彼の提案を受け入れることに我が輩は決めていたけど、それでも言わざるをえなかった。
「どうして我が輩のような人間にそれほどのものを提供するのです? 他に強い騎士はいくらでもいるでしょうに」
「たしかにそうだな。他に強い騎士ならいくらでもいる」魔術師ゼベデーはあっさりと肯定した。「だが彼らでは駄目なんだ。きみでなくては」
「どうして!?」
「私がどうして、城門まできみを迎えにいったのかわかるかな? あれはきみという人間を観察するためなのだ。そして確信した。たしかにきみは、力も弱く、まともな教育も受けていない。魔法の素養もないし、人生経験も少ない」
「だったらどうして」我ながら、情けない声がでた。
ゼベデーはどこまでも深い瞳で、我が輩を見つめている。
「そしてまた、この城で見るものすべてを恐れていた。だが、きわめて重要な一点で、きみは私の必要とするものを持っていた。それは実に単純なものなのだが、驚くことにほとんどの人々が持っていないものなのだ」
我が輩はただ無言で、彼の次の言葉を待った。
「きみは自分が見たものを一切否定しなかった。そう、見たものを素直に受け入れ、決して否定しなかった。それが私がきみを選んだ理由なのだ」
「それだけですか」
「それだけだ。しかしそれこそが、これからのきみにもっとも必要とされるものでもある。魔法の働く世界では、自分のやり方に固執する者は生き残れないのだ」
魔術師ゼベデーは自分の言葉に頷いた。
我が輩が何と答えたかって?
いやいや、その質問の答えは、もうわかっているのではないかと思う。
こうして我が輩は、ゼベデー城にとどまり、魔術師ゼベデー配下の不可思議
な連中により、訓練を受けることになった。
今でもこうして目をつぶると、あの城の中の光景を思い出すことができる。
そこに住む奇妙な人々たち。いや、怪物たち。目に映る異国の風景。城の外
に広がる驚異。
そして口にすることができない多くのことども。
だがこの妖精の国は、おとぎ話とは違って、酒を飲んで浮かれ騒いでいられ
るような気楽な場所ではなかったのである。
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