第一章 人たるものの王国】冒険行10)幽霊城
頭の上がやけに騒がしいので、我が輩は目を覚ました。
最初に目に飛びこんで来たのは、まぶしい木漏れ日だ。その次が、木の枝から若葉を噛み千切ろうと努力している馬の顔であった。騒音の原因はこれである。まったく、食いしん坊ときたら、いつでも、どこでも、何かを食べている。まあそれがその名の由来なのだから、仕方がないのだが。
頭の中の記憶をまさぐりながら、我が輩は起き上がった。どこかでひどくぶつけたらしく、体のあちらこちらがズキズキと痛んだ。その反面、気分は奇妙にすっきりしている。
毒を飲まされ、意識を失ったところを、川の中へと投げこまれたのだ。どうして我が輩は生きているのだろう?
普通ならばとても命が助かるような状況ではなかった。そうだとすれば、もしかしたら、我が輩は死んだのかもしれない。するとこれは死後の世界なのか。果たして死んだ人間でも、このように体が痛んだりするものなのか。そう疑問に思いながら、我が輩はふらふらと立ち上がった。鎧の隙間から水が音を立ててこぼれ落ちる。
我が輩は自分が川のすぐそばに寝ていたことに気がついた。川縁からは何か濡れたものを引きずった跡が、我が輩の寝ていた位置まで続いている。その通り、誰かが我が輩を川から引きずり上げて、ここまで連れてきたのだ。
我が輩はまだ木の枝に挑戦し続けている食いしん坊のほうを振り返った。我が輩の命の恩人はこの馬なのか?
果たして馬というものが、人間を川から引き上げるほど賢いものなのか、我が輩には判断がつかなかった。だが、お陰で我が輩は助かったのだ。これはニコラスの誤算というべきものだろう。本当なら馬は川から逃げ出してそのまま行方不明となり、鎧を着た我が輩はどこか川の下流で沈んでいるのが発見されるという筋書きだったのだろう。
彼をよく見て、我が輩は目をむいた。なんと驚くべきことに、食いしん坊のお尻には短剣が刺さったままだ。我が輩が意識を失った後で、ニコラスにやられたのだ。これでは、我が輩を乗せたまま、彼が川に飛びこむのも無理はない。我が輩は奇妙なところで感心した。逃げないように食いしん坊の手綱を押えると、我が輩は短剣を彼の尻から抜いた。傷が浅いことを確認すると、抗議の声を張り上げる馬のことは無視して、その短剣を調べた。どこにでも売られている安物の短剣だ。毒は塗られていない。我が輩は少しばかりほっとした。近くで血止めの草を探すと、馬の手当を終え、我が輩はようやくゆっくり考える時間ができた。
どういうわけか我が輩は助かったようである。川に浸かっている間に、毒が抜けてしまったのだろう。
さて、これから我が輩はどうしよう?
我が輩は腕を組んで考えた。我が輩の体から、残りの水が垂れる。周囲の地面に濡れた染みが広がって行く。
ニコラスの魔手は、ブランザック王の周囲に、思ったよりも深く浸透している。たまたま選ばれた二人の護衛の騎士が、バルダーン公爵の息のかかった者だったということは、王国全体ではどれだけの数の騎士が、裏切り者ということになるのか。我が輩にはそれを警告する義務がある。何と言っても我が輩は、王国公認の騎士なのだから。
だが、問題がある。ここがどこなのか、我が輩にはちっともわからないということである。どれぐらいの間、流され続けていたのか。どの川の支流に入ってしまったのか。
取合えず、川に沿って上流に向かえば、元の所に着く理屈だ。我が輩は上流の方を見た。駄目だ。木々が密生していて、とても通れたものではない。
我が輩は心を決めると食いしん坊の手綱を取り、彼の上にまたがった。幸い剣と盾は馬の体にくくりつけた袋の中に入ったままだし、旅の路銀もいくらかは残っている。我が輩を事故による溺死に見せかける必要があるために、ニコラスの手下たちも、金や武器には手をつけなかったのだ。不幸中の幸いとはこのことだ。
道に沿って動いてみよう。人家を見つけて、ここが王国のどの辺りなのかを知るのだ。我が輩は馬の頭を手近な小道へと向けた。
周囲は深い森である。人知れぬ森の中の小道を、我が輩はたどっている。どこかで聞きなれない鳥の鳴き声がする。いや、それともあれは、女性のすすり泣く声か?
我が輩の腕に鳥肌が立った。奇妙な冷気が森のなか全体を覆っている。
変だ。我が輩はそう思った。正確に指摘することはできないが、この森はどこか変だ。
日が暮れるころになってようやく、我が輩は遠くに建物らしきものが見えるところまで、やって来た。森が開け、畑へと変わる。良く手入れされた麦が並ぶ、実に見事な畑だ。豊かな土地の中心に、建物がその所領を誇るかのように建っている。夕暮れの光に照らされて、建物の一面は血のような赤に染まっていた。
我が輩は何か救われたような気分で、馬の足を速めた。冷気に満ちた森から出ることができて、ほっと安心する。少なくともあの建物には、誰かがいるにちがいない。
それはどうやら小さな城らしく、この当たりの領主の住処と見えた。城壁の向こうに塔が幾本かそびえている。王城とは比べようもないが、それでもこの地方の豊かさを示すかのように、ずいぶんと立派なものである。
城の中に足を踏みいれたらニコラスが迎えに出るのではないかと、我が輩は一瞬だけ想像してしまった。馬鹿な。いくらなんでもそこまでの偶然はないだろう。我が輩は無理に自分の想像を笑い飛ばした。どちらにしろ、ここがどこなのかを確かめるまでは、どこにも行きようがない。城を訪ねてみる以外に、手はないのだ。
我が輩は畑の中の道へと馬を進ませた。沈みゆく太陽が最後のあがきをして、周囲を照らしだす。城の姿が徐々に大きくなってきた。細部が見え始める。城壁の一部が崩れていて、そのまま放置されているのが目に止まった。人の気配もない。
変だ。この規模の建物ならば、いつでも数人の人間が出入りしていてもおかしくないのに。
近くの畑の中で何かが動き、我が輩はそちらのほうに顔を向けた。
人だ。高く伸びた作物の間に身を埋めるようにして、何かの作業をしている。我が輩はようやく安堵のため息をつき、その人物に声をかけた。
「すまないが教えてもらいたい。ここは誰が治めている領地なのだ?」
その人物は麦の間から顔を上げ、まっすぐに我が輩の顔を見つめると、また麦の海の中へと分け入って、我が輩の視界から消え去った。
我が輩は馬の背の上で、わずかに体を強ばらせたまま、それを見送った。いま見たものの衝撃で体が、いや、心が痺れていたのだ。
腐りかけた肉がついた眼窩。腐敗し、中身が抜けて、骨の上に直接張りついた皮膚。そして、蛆が涌いているその肉。
我が輩が見たのは、確かに死人だった。だが、それは動いていたのだ。
魔の森の中にあるという幽霊城!
我が輩は自分がどこに来てしまったのか、ついに理解した。王国の人々が、夜の炉端で寝つきの悪い子供に語るおとぎ話の一つ。最初はその内容に怖がり、最後には在り得ないことと笑う、ごく普通の怪談話である。
しかし子供たちの知らないことが実はもう一つある。
それは子供たちが寝静まった後に語られる、本当の魔の森の物語。自分の目で見た森の怪異の話だ。動く死人。夜な夜な幽霊城の中から漏れる奇妙な明り。どこからともなく現れる幽霊馬車。そしてそれに挑戦した帰らぬ人々の名前。幽霊城はあくまでも噂の存在だが、それを見たと断言する者は大勢いるのだ。
日はもうすでにとっぷりと暮れていて、空は余すところなく真っ赤に焼けていた。もう後少しで、暗闇がすべてを支配する。我が輩は目の前の城をにらみ、そして後ろを振り返った。
道の先は黄昏の暗き境界の中に消え、しかもその境界はひたひたと、我が輩目がけて近づいている最中であった。闇と光の永劫に渡る戦い。しかしいま近づいているのは闇が支配する時間である。森が落とす薄暗がりの中に、顔形も定かではない人影が一つ、二つと起き上がる。
奇妙な冷気を感じたのも当然だ。我が輩は森の姿を取った墓場の中を、通り抜けて来ていたのだから。我が輩が道を急ぐなか、その両側では死人が静かに横たわっていたというわけだ。
ただひたすら、彼らのための時間である夜を待って。
我が輩は今の今まで作り話だと信じていた、この幽霊城について聞かされた話を思い出していた。家出してきた我が輩を、教会の裏手にある自分の小屋に泊めた夜、アリョーシャ神父は誰にも話すなと念を押してから、我が輩にこの城の伝説を話してくれたことがあった。それはこんな話である。
・・その昔、ゼベデーと呼ばれる悪魔と、一人の欲深な領主がいた。領主はゼベデーと取り引きを行い、働き者の領民たちを手に入れることに成功した。彼らは忠実で、きつい労働に対して文句も言わず、眠りも休みもしないで働き、その上おまけに死んでいた。
良く手入れされた畑は無尽蔵の富を産み出し、領主の懐は大いにうるおった。死人たちは食事もせず、手を休めることもなく働き続ける。
こんなに素晴らしい領民たちが、いったいこの世のどこにいるだろう?
死人たちのたった一つの欠点は、決して笑わぬこと。十分な金ができると、やがて領主は物言わぬ死人たちを、うとましく思うようになってきた。悪魔のゼベデーから毎年要求される貢ぎ物に関しては言うに及ばず。
ついに領主は心を決め、ゼベデーに契約の破棄を申し出た。死人たちを地面の下に戻して欲しい。わしをこの契約から自由にしてくれ。この領主の願いに対して、ゼベデーが要求した代価は、彼の持つすべての富の半分。それは領主に裏切りを決意させるのに十分な額だった。
領主は己の領地にまだ残っていた悪党どもの中から、金に目がない命知らずたちを集めた。そしてある晩、領主の城を訪れたゼベデーを殺そうと試みたのだ。自分の馬の頭も尻も見分けがつかぬほどの愚か者であろうとも、これほど馬鹿な真似は行いようがなかった。その結果、領主は死よりも恐ろしい運命を得ることになった・・
それこそが、今、我が輩の目の前にある城の中で行われたことであった。
神父の話にはまだ続きがあった。この幽霊城を訪れた者は三つの試練を受けることになっているという話だ。その三つの試練を通り抜けた者には素晴らしい財宝が与えられる。しかし失敗すれば命はない。お定まりのおとぎ話の形である。
だが、これはおとぎ話ではない。我が輩の目の前にある現実なのだ。
我が輩は夕暮れの中に暗くそびえ立つ廃城の姿を見つめた。空はすでに大部分が薄闇に覆われ、大地の上にうっすらと残った雲があかね色に染まっている。城もいつの間に降りたのか深く濃い闇に包まれて、その異様なシルエットを際立たせている。小さな光がぽつんと一つ、城の窓の中に灯ると、ゆらゆらと揺れた。誰かが城の中から我が輩を招いているのだと知って、恐怖が我が輩の心をつかみ取った。
賢き者はここで引き返すべし。
我が輩は後ろを振り返った。背後の道には、いまや無数の人影が立ち並び、もっと恐ろしいことに彼らはみな、我が輩のほうをじっと見ていた。太陽の最後の一矢が照らす我が輩の場所を除いて、周囲のすべては闇に包まれており、それに紛れて物言わぬ死者たちが隠れていた場所から続々と這い出て来ていた。
腐り果てた肉。崩れ落ちた顔。変色した肉から突き出た骨に、無数にたかる蛆虫。
この死の大群の中をかき分けて、彼らが眠る森の中へと戻れと言うのか?
我が輩は心を決め、いら立つ我が輩の馬の首を撫でて彼をなだめると、幽霊城を目指して歩みを進めた。元より逃げ道はないのだ。
我が輩の接近に伴って、城の門が錆びついた音を立てながら勝手に開くと、我が輩を迎え入れる。もはや驚きはしなかった。この我が輩を呼んでいるのだ。何者かは知らぬが。
こうもりが二、三匹城門の上の空を飛び回っている。これだけが我が輩が見慣れた生物だ。
馬が城門を通過すると、城門はひとりでに閉まり始めた。その音に振り返った我が輩は、閉まりつつある隙間の向こうに、茶色の髪の少年が立っているのを認めた。その少年はじっと我が輩を見つめている。どこかで見た顔だ。
こんな場所に、子供だって!
我が輩は閉まりつつある城門へと馬の向きを変えた。城門の外には歩く死者どもが群れているのだ。そんな中に、子供を一人、残しておけるわけがない。
城門が我が輩の目の前で閉まる。なんてことだ、押しても引いてもびくともしない。
我が輩は剣を引き抜くと、門の板に叩きつけた。剣先から青白い火花が散る。堅いものを叩いた衝撃で、我が輩の手はじんと痺れた。馬鹿な、我が輩は舌を巻いた。腐りかけた古い木の扉のはずなのに、鋼鉄の剣の刃が弾かれるなんて!
我が輩は叫んだ。扉の向こうからは返事がない。少年はすでに死者たちの餌食とされてしまったのだろうか?
いや、ちがう。我が輩は城門から身を引いた。
あの少年はいったい誰だったのだ? こんな場所に普通の少年がいるわけがない。それにあの少年には、まったく周囲を恐れている様子がなかった。
あれもまた化け物の類だったのか。我が輩は馬の向きを変えた。ここでは物事は見かけ通りではない。よく覚えておこう。そう、自分の心に言い聞かせた。
城壁の中は静かで、人の気配はなかった。動く死人たちもここには入って来ないらしい。いや、変だ。もしそうだとすれば、我が輩が外から見たあの灯の主はいったい誰なのだろう?
見せかけの平安さ。そう気づいた。すべての怪異の原因がこの幽霊城にあるとすれば、建物の外よりも、中の方が危険に決まっている。我が輩は死者に追われて、罠の口へと足を踏みいれつつあるのだ。
だが、いまさら引き返せるものか。罠と知っても進む以外に道はない。
そのまま城の中庭にまで歩みを進めると、次に現れたのは建物の正面を構成する巨大な門だ。それはすでに半分腐り、ひねこびた蔦とカビに蝕まれて、今にも崩れ落ちそうに見えた。門の両側には松明が掲げられており、どことなく嫌気を催させる色の炎が、風もないのにゆらゆらと揺れて、奇妙な形の影を中庭のあちらこちらに落としている。
まったく、何という歓迎のやり方だ。ここの主は。悪魔ゼベデー? それとも欲深な城主とやらのほうか?
我が輩は馬から降り、扉の前に立った。左手に盾を構え、右手に剣を持つ。何度か剣を振ってみて、ようやく落ち着いた。片手で扱うにはやや重過ぎる剣ではあるが、このときはそれが頼もしかった。
我が輩は城の中に馬を持ちこんで良いものかどうか迷っていたが、彼をここに放り出して何か危害にでもあったらと考え、彼も連れこむことにした。
軽くたたくとそれだけで門はきしみ、錆びた閂が扉の向こうで外れて落ちる音がした。その衝撃で舞い上がった埃が、壊れた門扉の隙間から吹き出してくる。ここでは何もかもが腐っている。
だがそれでも死んではいない。人も建物も。
ふと奇妙な考えが我が輩の頭の中に浮かんだ。剣を振り、扉の上に絡みついている蔦へと切りつける。堅いもの同士がぶつかる音が響き、またもや我が輩の手が痺れた。蔦には傷一つついていない。
古くて腐っているなんて冗談じゃない。そう見せかけているだけだ。剣で叩いても傷一つつかないなんて、この蔦はいったい何でできているのだろう?
答えの出ない疑問は脇において、我が輩は門の片側を押すと、馬と共に城の中へと足を踏みいれた。
扉の向こうには、奥へと続く廊下が延々と伸びている。両側では松明が燃え、闇の中に埋まるはずの廊下を、逆に明々と照らし出している。
我が輩は馬の手綱を持ったまま、できるかぎり音を立てないように静かに歩くと、奥へと進んだ。廊下はやがて尽き、また大扉となる。
この扉は腐ってはいない。我が輩は扉を開けると、中を見て、口笛を吹いた。
目の前に広がったのは予想通りの大広間だ。こういった建物はどれも似たような作りらしい。しかも意外ときれいだ。埃も少ししか積もっていないし、蜘蛛の巣がすべてを覆うということもない。
おまけに、こここそ明りの王国だ。無数の蝋燭が壁を埋め尽くしている。それは地上に降りた星々のように、不思議な彩りを沿えて、大広間を満たしているのだ。
だがもっとも驚いたのは、大広間の中央に置かれていたものだった。
それはどこにでもあるありふれたテーブルで、その上にこれはどうしたことか、湯気の上がっている出来立ての料理が所狭しと置かれていたのだ。
湯気の上がる料理だって? この幽霊城の中で!
それこそ奇妙というものである。テーブルの横には、上質の麦と干し草が詰めこまれた飼葉桶、それにきれいな水が入った桶が置かれている。
さて、どうしよう。我が輩は迷った。
料理も餌も、明らかに我が輩たちのために用意されたものだ。料理の中に毒が入っている可能性もあるが、そもそも我が輩たちを殺すつもりならば、もっとてっとり早く、城の外で待っている動く死人たちにやらせただろう。
恐らくは大丈夫だ。だが確信はない。
我が輩の馬はそのようなことは全く考えなかったらしく、飼葉桶の中に顔を突っこむと、早速にこのご馳走に預かった。それを見ているうちに、何だかぐずぐず考えているのが、馬鹿らしくなった。意を決してテーブルに座ると、料理に手を伸ばす。ニコラス子飼いの暗殺者の毒にも死ななかった我が輩である。余計な心配はするだけ損というもの。そう達観した。
パンを一つ手に取ると、かじってみた。
信じられないくらいに旨い。これほど柔らかで、甘みのあるふっくらとしたパンは、バルダーン公爵の館の食事にだって出たことはない。他の料理もどれも素晴らしい味である。これならば、仮に毒が入っているとしても、我が輩ならばためらわずに食べるであろう。
しばらく黙々と食事をした後、テーブルの向こうに見える壁に、ふと注意を向けた。それから口にしたものを吹き出してしまった。
そこにあったのは宝石で飾られた立派な玉座である。宝石の切り子面が、周囲の蝋燭の光を反射して、きらきらと輝いていた。その椅子の上には何かボロ布らしいものが置かれており、よくよく見ればそれは、かっては高価であったにちがいない衣装を着た人間の骸骨だ!
こんなものが大広間に飾ってあるなんて、冗談じゃない。一気に安心感が吹き飛んでしまった。我が輩は食事を中断すると、剣を手に持って、骸骨を調べに行った。
玉座の周囲にはそこだけうっすらと蜘蛛の巣が張り、骸骨の骨はまだばらばらになるところまでは腐敗していなかった。虫食いだらけではあったが、金で縁取りのされた衣装がその体を覆っている。むき出しになった頭蓋骨の上には、これも宝石で飾られた冠らしきものが、危ういバランスで載っている。
この骸骨は、悪魔ゼベデーを裏切ろうとした領主のものだと、我が輩は判断した。彼はこの玉座の上で永遠に、あるいはゼベデーの気が晴れるまで、この城を見張り続ける運命にあるのだ。
我が輩はアリョーシャ神父の話を思い出そうとした。神父はこの幽霊城について何と言っていた?
三つの試練。その試練を越えた者には素晴らしい宝物が贈られる。だが不思議なことに、その中身が思い出せない。我が輩はそれほど物覚えは悪くないほうなのに。
この骸骨の領主については思い出した。神父の話では、彼はまだ死んではいないということであった。何と言っていたっけ? そう、確かこうだ。
・・そは横たわる死者なれど、永遠に動かざる者にはあらず・・
ぶるるるる。冗談じゃない。だとすればこれも、城の外の動く死者たちと同じ類のものだ。
我が輩はテーブルに戻ると、ふたたび料理に手を伸ばした。深く考えても仕方がない。これから何かが起こるとすれば、食べられるときに食べておこう。こんな状況でよく食欲が出るなとも思ったが、少なくとも食べている間は、怖さを忘れることができる。
さっさと自分の分を片付けた食いしん坊は、テーブルの上に並べられている我が輩の食事の匂いを嗅ぎ、馬なりのやり方で露骨に嫌な顔をすると、そのまま居眠りを始めた。
やがてテーブルの上がすっかり空になると、我が輩は領主の骸骨に向けて、大きな声で食事の礼を述べた。いや、それが礼儀ではないかと思っただけで、やはり領主の骸骨からは何の返事も貰えなかった。
我が輩は骸骨の横に、上からひもが垂れていることに気づいた。それに沿って視線を上げてみると、ひもの先は天井から吊るされた大きな鐘へと繋がっている。
玉座に鐘だって? 奇妙なことをする。この領主は生きている間には、きっと変人だったにちがいない。
さて、次はどうなると考えているうちに睡魔に襲われ、我が輩はテーブルの上に頭を載せると、静かな眠りへと落ちて行った。
どうしてこの状況で眠れるのかと言われても困る。抵抗しようもない強い睡魔だったのだ。もしかしたら食事の中に何かの薬が入っていたかもしれない。
次に目が覚めたとき、我が輩の周囲には賑やかな音楽が流れていた。目蓋の向こうで、大勢の人が動いている気配がして、我が輩は眠い目をこすりこすり、ようやく起きた。うんと大きく一つ伸びをしてから、目に飛びこんで来た光景に我が輩は凍りついた。
周囲で踊っているのは、無数の骸骨たちだ。あるものは宮廷用の正装で、あるものは棺桶に納められたときの衣装のままで。色とりどりの宝石や金の鎖に飾られて、暗く空ろな眼窩がお互いを見つめ合う。これも骸骨で構成される楽団の演奏に会わせて、白い骨だけの手が同じような相手の骨の手を取り、一心不乱にダンスを踊る。
華やかだが、無気味な光景。
我が輩はその骸骨の群れの中で、テーブルにもたれたまま眠っていた。なんという命知らずな行為。いや、これは無謀というのが正しい。
剣と盾を見つけだすと、我が輩は料理皿を蹴散らしながら、テーブルの上に立った。騎士団で教わった通りに、左半身を盾で防御し、構えた剣をやや上向きに構える。
音楽は続き、骸骨たちは踊り続ける。笑い声こそ一つも上がらないが、それなりに盛り上がっているらしく、舞踏会は我が輩を無視して続いていた。男の服装を着た骸骨が、女の服装をした骸骨を踊りに誘う。誰も我が輩に注意を向ける者はいない。
彼らには我が輩が見えないのだと、ようやく理解した。
しかし、当面の危険は去ったとは言え、これから我が輩はどうしたらいい?
一瞬、骸骨たちに混ざって踊る自分の姿が脳裏に浮かんだが、我が輩はあわててそれを打ち消した。根拠はなかったが、一度この骸骨たちと踊り始めたら、我が輩も彼らの仲間入りをすることになってしまうと、そんな予感がした。死ぬまで踊るのだ。夜が来るたびに。世界が滅ぶ、その日まで。
我が輩は舞踏会を観察した。貴族のきらびやかな服。止まることなく行われる踊りに擦り切れてはいるが、それでもその豪華さは見紛えようもない。
その中に、ひときわ見事なドレスを着た骸骨女性がいた。
その衣装は、他の骸骨のものと比べても一際豪華であり、しかもそれでいて清楚な感じを強調していた。骸骨女性の頭についた飾りは黄金の見事な輝きを放ち、その他の装身具も一目で恐ろしく高価な品とわかるものであった。おまけにどういうわけか、彼女の衣装だけは新品同様だ。綻んだところもなければ、痛んだところもない。
その骸骨女性は、次から次へと踊りの相手を変えていたが、始終、ちらちらとある方向を振り返ることに、我が輩は気がついた。その視線の先にあるのは領主の骸骨だ。とすればこの骸骨女性は、領主の奥方か、娘のなれの果てなのだろうか?
いや、ちがう。我が輩は顔を上げた。彼女が見ているのは、領主ではなく、その頭上に吊るされている鐘のほうだ。
そもそも領主の椅子の上に、なぜ大鐘が吊るされている?
そうか、あれこそが、鍵だ。ついに我が輩は答えらしきものに到達した。
骸骨の群れをかき分けて、玉座まで歩く。どの骸骨も乾いて軽く、我が輩が押しのけるとそれほど抵抗することもなく、道を開けてくれる。我が輩は骸骨の一つを正面から観察してみたが、向こうは我が輩を見ている気配もなく、踊りながら離れて行ってしまった。
骸骨の音楽隊は壁の横に並んでいて、ひたすら音楽を紡ぎだすのに忙しくしている。我が輩は彼らの正確な演奏に感心した。疲れを見せずに楽器を弾き続けるその姿は、まさに死人ならではのものであった。
ようやく領主の席のところまでたどりつくと、我が輩は例の大鐘につながる紐をつかみ、思いっきり引っ張った。
鐘の音が勢い良く鳴り響き、それを聞いた骸骨たちの動きが一斉に止まった。その腐り果てた静寂の中で、あの女性骸骨だけは何かに弾かれたかのように、城の扉に向かって走り始めた。
ばたばたと骸骨の足が石の床を叩く音が、城の中に木霊する。それを追いかけるかのように、大鐘の音が時を刻む。
十二の鐘の音を数えたとき、いきなり大広間が揺らめいたかと思うと、骸骨たちは宙に溶けこむように消えてしまった。後に残ったのは、ふたたび聖なる静寂に満たされた大広間と、これだけは一人残されている領主の骸骨だけであった。
あの骸骨女性はいったいどこに行ってしまったのだろう?
我が輩は空っぽの広間を横切り、廊下の先を覗いて見た。床の上に何かが落ちている。拾い上げて見ると、それは見たこともない動物の毛皮で出来た女性用の小さな靴であった。我が輩がここへ来るときにはなかったものだ。とすれば、これはどうやら先ほどの骸骨女性が落として行ったものということになる。
どうもよく意味がわからない。
我が輩の目の前で行われた、これらの怪異には何かの理由があるのだろうか?
それともこの毛皮の靴はただの落とし物?
我が輩は幽霊城の試練とやらに成功したのか、失敗したのか?
我が輩は毛皮の靴を持ち帰ると、明日の晩に返せるようにと、それを骸骨の領主の骨ばかりの手の上に載せた。
骸骨領主の顎がガチガチと鳴った。
「ああ、毛皮の靴だ。毛皮の靴だ。また、毛皮だ」骸骨領主は叫んだ。
「おのれ、ゼベデー。まだわしを赦さぬのか? 時代が進み、ガラスの靴がこの手に載ったときに、わしを解放すると、あやつは言った。ガラスだと? ガラスとはいったい何だ?」
椅子から起き上がろうと努力しながら、ついにそれを果たせぬまま、骸骨領主はふたたび椅子に倒れこんだ。
我が輩は振り上げていた剣を脇に下ろすと、骸骨領主の前に立った。
骸骨領主の頭が我が輩のほうを向いた。
「愚かなる若者め。この幽霊城に足を踏みいれるとは。何という命知らず。去れ。いまならば間に合う。ゼベデーに会う前に、ここを去るのだ」
「外には死人たちが居て、出られないのだ」我が輩は答えた。
死人を相手にして、真面目に会話をするのは、果たして賢いことなのだろうか?
死者は新しい仲間を求めると、どこかで聞いたような覚えがある。
「あやつらは、そなたをわしと勘違いしておるのだ。だから、わしを真似て、下がれ、と一言いえば、それでよい。森の中の道をまっすぐにたどれば、やがては生きている者たちの街へ行き着くことができるだろう。その逆は無理なのだがな」
骸骨領主は押し黙った。宝石に飾られた玉座の上で、ことりとも動かず、静かになる。
我が輩は迷っていた。骸骨領主は城の外の死人たちの取り扱い方を教えてくれた。これで我が輩は街へと帰ることができる。だが、ここで引き返すことは、はたして正しいことなのかどうか?
我が輩は騎士なのである。冒険の先を知ることもなく、ここであっさりと引き返すのは、臆病の表われではないのか?
そんな我が輩の思いを読んだかのように、領主の骸骨の首がまた上を向いた。かっては目玉が納まっていた黒の穴が、我が輩の姿を探るかのように、空中に向けられる。
「逃げぬのか? 愚かな若者よ。逃げる道は示してやったのに。逃げぬのならば、夜は長い。幽霊城の中ではとくにな。さあ、わしのベッドを貸してやるから、それを使うがよい。ベッドは二階だ。階段を登ってすぐの部屋にある。そこで寝るがよい。だが、忠告しておくぞ。ベッドが揺れ始めたら、それが止まるまで決してそこから降りてはならん。声の一つも立ててはならんぞ」
また骸骨領主は静かになった。沈黙。そしてふたたび顎の鳴る音。
「聞くがよい。若者よ。貴様はわしのようには決してならないと思っている。そう信じこんでいる。自分はどんな危機でも切り抜けることができる、とな。だが、貴様もやがてはわしのような姿となるのだ。さあ、行け。わしの警告を受け入れて、城から出るも自由ならば、わしのベッドで寝るのも自由だ」
それきり骸骨領主は押し黙った。ふたたび死者に戻ったのだろう。
我が輩は迷い、それから誰もいない大広間に向けて肩をすくめて見せると、二階へとつながる階段を上った。
好奇心は猫をも殺す。だがそれが、いったいどうしたというのだ。
階段の上の横の部屋は、素晴らしい調度品に満ちた、豪華な部屋であった。ただし、とても不思議なことに、この部屋には扉がなかった。誰がつけたのか知らないが、ここも蝋燭の光で照らされている。中央に鎮座しているのは領主の言っていた大きなベッドだ。四隅に柱があり、天蓋がついている。貴族の持ち物に相応しい優雅さがある。
我が輩は剣を持ったまま、ベッドの上に大の字になった。
どんな怪物が現れるのか知らないが、来るなら、来い。呪われた古城での幽霊退治、いや、悪魔退治だ。考えてみれば、これぞ騎士の冒険というものだ。
どこで寝こんでしまったのかは、記憶にない。
次に目が覚めたとき、我が輩は自分が揺れる馬の上に乗っていると思った。寝ぼけながらも伸ばした手が堅い板にぶつかる。それではっきりと目が覚めた。いま我が輩がつかんでいるのはベッドの板だ。
つまり、いま、我が輩はベッドの上にしがみついているのであり、そのベッドときたら夜の森の中を全力で疾走しているのだ。星明かりの下で、ただ黒く見えるだけの木々が、後ろに流れる。
風に飛ばされた木の葉が一枚、我が輩の顔に張りついた。夜露にべっとりと濡れている。冷たい。これは夢ではないのだ。
ベッドが走るだって? いったいどうやって?
我が輩はベッドから身を乗り出して、下を見た。ベッドの脚がまるで生きているもののように曲がって、力強く地面を蹴っている。
我が輩はしばらく大声で笑い続けた。風はびゅうびゅうとうなり、そんな我が輩の笑い声を、遥か後ろへと運んで行く。
やがて我が輩は笑い止めた。このまま笑い続ければ、自分の精神が壊れることを理解していた。
魔法だ。それ以外に説明がつかない。
魔法だ。幽霊城の主は悪魔のゼベデー。悪魔が魔法を使っていったい何が不思議だろう?
魔法だ。確かに大変な状況だが、認めるしかないのだ。魔法は存在する。動く死人も、幽霊も、緑の騎士も、奇跡の力も、すべてが存在する。
幻でも夢でもない。すべては現実だ。
頭が冷えた。その冷えた頭で、注意深く観察して見て、少しは何が起こっているのかわかってきた。ベッドの足は地面を蹴っているが、その短い足で馬よりも速く駆けることができるものではない。とすれば、ベッドそのものが空中を飛行しているのだ。
ベッドは我が輩の意向を完全に無視して、夜の中を突き進んだ。森を駆け抜けると荒野へ突入し、続いて焼けただれた溶岩地帯へ入ると、火山の吹き上げる噴煙の中へと飛びこんだ。
これにはさしもの我が輩も驚いたが、ベッドは自分がどこに行くべきかを承知しているらしく、火山の中に開いた秘密の入り口を抜けて、大地の懐の奥深くへと滑りこんだ。
卵の腐ったような噴煙の匂い。大地にできた裂け目が上へと流れ、やがて我が輩の目の前に異様な光景が広がった。
地底に存在するもう一つの世界。薄闇の大空洞。
そこでは絶叫を上げる人影が見渡す限りの大地を満たしており、硫黄の強烈な匂いが我が輩の咳を呼び出した。あまりの匂いにむせんでいると、頭の上に曲がった角を生やした悪魔どもが、我が輩の姿を見つけてわらわらと寄って来た。
確かに話に聞いた悪魔そのものだった。異形の角を生やし、逆鉤のついた尻尾をしている。目はぎらぎらと何かの炎に燃え、噛み合わせた口の中から、牙がわずかに覗いている。その中にはいびつな皮の翼を背中につけている者もいた。手にした武器は、先が二つに分かれた刺す又だ。自分の身長ほどもあるやっとこを担いでいる者もいる。
地獄。その言葉が頭に浮かんできた。我が輩は地獄に落とされたのだ。
ベッドはまるで自分がここまで駆けて来たことなど、すっかりと忘れてしまったかのようでピクリとも動かず、悪魔どもはそのベッドの周囲を取り囲んで、口々に脅しの文句を叫んでいた。
我が輩は何も言わずに、ベッドの上にただ座っていた。これが試練であるのならば、怯えても仕方がない。単に挑戦者を地獄に落とすだけだとすれば、試練になど何の意味もないことになる。
いや、実際には我が輩には成す術がなかったというのが正しい。周囲を取り巻く悪魔相手に、剣を握り締めて飛びこむという選択肢はあったが、そこまでの勇気は我が輩にはなかった。幸い、悪魔たちもベッドの周囲を取り囲んで叫ぶだけで、それ以上近寄ろうとはしなかった。
骸骨領主の警告によれば、我が輩が守らなくてはならないのは、ベッドから降りないこと、そして、声を出さないこと、この二つだ。
ベッドの周りを取り囲む悪魔たちの向こう、そのずっと遠くで、一際大きな体をした人物が、我が輩を指差しながら何かを叫んでいるのが聞こえた。それが我が輩の注意を惹いたわけは、彼の叫びに従って、ベッドの周りを取り囲んでいた悪魔どもが、彼のほうを一斉に振り向いたせいであった。
その人物は、悪魔たちが担ぐ輿の上に乗っていた。薄闇の中の黒い人影だ。元より良く見えるわけがない。しかし、その人物には、角も尻尾らしきものも見当たらないことに、我が輩は気がついた。この距離と暗さでは、顔はもちろん判別がつかない。
人間か?
だとしたら、その人間は悪魔を支配していることになる。そんなことがあるものか。
その人影は、わめき声を上げながら、我が輩のほうに近づこうとしていた。それを見た悪魔のうちの一体が我が輩に手を伸ばしてきた。ベッドの上の我が輩に触る直前に、その悪魔の手が青い炎を上げて燃え上がった。腕を焼かれて、悪魔が情けない悲鳴を上げる。
我が輩が座っているベッドの周囲に半球形の光の領域が浮かび上がった。それに触れまいと、我が輩めがけて殺到していた悪魔どもが、狂気の動きで逃げ回る。無理もない。青の光に触れた部分は燃え上がるのだ。自分がすっぽりとその光の繭に包まれていることを知って、安堵の余りに、我が輩は溜めていた息を吐き出した。
やはり思った通りだ。幽霊城の試練は、あくまでも挑戦者の勇気を試すためのものであり、直接に命を奪うような類のものではない。
悪魔たちが喚き、怒りを巻き散らす。しかし、青の光に包まれている我が輩には、それ以上は何もできはしない。
それを何かの合図と見たのか、ベッドがふたたびそろそろと動きだす。宙に舞い上がると、復讐を叫ぶ悪魔どもの頭上を飛び越え、火山の洞窟を抜けて荒野を渡り、そうして森へと飛びこむと、元の道のりをたどって幽霊城へと戻った。
我が輩はようやく静かになったベッドから降りた。うんと、一つ大きく伸びをしてから、ベッドの上に持ちこんでおいた盾と剣を取り上げた。
第二の試練は終わりだ。我が輩は少しばかりいい気分であった。この調子ならば第三の試練も難なく潜り抜けることができるだろう。
しかし、いま我が輩が見たものは、本物の地獄だったのだろうか?
それとも幽霊城の魔法によって幻を見せられたのだろうか?
あの悪魔に囲まれていた人物にどことなく見覚えがあったのはなぜだろう?
謎はつきない。だが、その答えを我が輩が得ることはあるまいと、そのときの我が輩は単純に考えていた。
もう今夜は眠ることはできまい。我が輩はベッドから離れると、城の外壁を巡る廊下へと出た。もう何時間も経っているだろうに、燃え尽きるどころか、減る様子さえ見せない蝋燭に囲まれて、我が輩は廊下を歩いた。
ところどころ、窓を塞いでいるはずの木の板が外れていて、我が輩はそこから城の外を順に覗いて見た。
月明かりに照らされて、見事に育った畑が眼下に見える。その中をごそごそと動いているのは、あの死人たちだ。腐った体で、よろめきながらも、一心不乱に畑の世話をしている。
やはりここは幽霊城なのだ。我が輩は思わず目を背けてしまった。あまり安心しない方がいい。少なくともここは、生きている人間のいるべき場所ではないのだから。
窓の外がいきなり明るくなり、我が輩はまた城の外に目をやった。森の暗い裾の中から、燃え上がる人影が飛び出したのだ。それは馬に乗った人の姿をしていて、ただ普通と異なるのは、その全身が炎に包まれていることだった。
その炎に触れて周囲の作物が燃え始め、畑の中から死人たちが飛び出してくると、あわてて火を消し始めた。自分たちの体にも火が燃え移るが、そのことはまったく気にしていない。
炎にあぶられる騎士。また新手の怪物だ。
第三の試練は、この炎の人物が行うのだろうか?
我が輩が城の窓から見守る中、この炎の騎士はしばらくその場にたたずんでいたが、やがて馬首を巡らせると、あっと言う間に森の中へと消え去った。後に残ったのは、畑に燃え広がる炎を消そうとしている死人たちだけだ。
ふむ。理解に苦しむことばかりだ。
我が輩は大広間に戻ると、自分の馬の食いしん坊の様子を見た。彼はまだ立ったまま惰眠をむさぼっていた。
外はまだ暗い。日が昇るまでには、まだ一、二時間の時はある。
我が輩は椅子に腰掛けた。テーブルの上が奇麗に片付いていることを知り、静かな驚きを感じた。いつ、そして、誰が、食べおわった食器を片付けたのだろう?
そんなことを考えていると、今度はどこからかハンマーを叩く音がしてきた。
そう、ハンマーの音だ。これは確かに鍛冶を行う音で、しかも音の大きさが並みではない。まるで城全体が、このハンマー音に満たされているかのようだ。
我が輩は骸骨領主のところに行き、この音の正体は何かと尋ねてみた。彼はしばらくは死体のままではあったが、やがて、その顎を鳴らして、言葉を発した。
「なんだ。若者よ。まだこの城にいたのか。その様子では、ベッドの試練を乗り越えたようではあるな。だが、賢ければ、すぐにここを逃げ出すのだ」
「我が輩が聞きたいのはそんなことではない」我が輩は言った。
「我が輩!? 何とも古風な物言いをするものよの。まるでわしが生きていた時代を思い出させるような言葉だ。我が輩か。なんとも懐かしい。よろしい、本当はいけないのだが、特別に答えてやろう。いいか、あれこそは第三の試練、巨人の鍛冶場の試しだ。この城の地下には、大きな鍛冶場が作られていて、そこでは巨人が一人、鍛冶を行っている。貴様はその巨人と、ハンマーの技を競わなくてはならないのだ。
貴様もすでに気づいているだろうが、第一と第二の試練は、勇者の勇気と忍耐力を試すためのもので、命に別状はない。だが、この第三の試練はちがう。勇者の技と力を試すためのもので、破れた者には確実な死が与えられる仕組みだ」
それだけを言うと、骸骨領主は動きを止めた。どうやら元の死体に戻ったらしい。後は我が輩が何を言おうが、まったく反応を見せなかった。
巨人とハンマーの技比べだって?
やっと記憶の蓋が開き、アリョーシャ神父が我が輩に語ってくれた幽霊城のことが思い出せた。まるで我が輩が答えを知るまでは、記憶が封印されていたかのようだ。
第一、ニの試練は確かに教えられた通りだ。そして第三の試練では巨人との腕比べとなる。巨人は長い髭をした文字通りの大男であり、ハンマー打ちの勝負を挑んでくるのだ。
アリョーシャ神父の話の中では、その勇者は隙を見て、巨人の髭の先端を鉄床に打ちこんでしまう。そして巨人の頭を殴りつけると脅すことで、勝負に勝ったのだ。
あまりにも出来すぎた話。きっとこのくだりは、アリョーシャ神父の作り話だろう。
しかし巨人との勝負は本当だ。
我が輩は腕を組んで考えた。やるべきか、それとも逃げるべきか。骸骨領主が嘘をついているとは考え難い。きっと命の危険があるというのは本当だろう。
我が輩は鎧をつけたままの手を握り締めてみた。奇跡の力。それがあれば巨人と戦うこともできるかもしれない。しかし、評議会の席上で我が輩を救ってくれた奇跡の力は、あれ以来、我が輩を訪れることはなかった。きっと王国の危機のときにだけ発揮される力なのだろう。ウィリアム王も王国を守護する戦でその力を見せた。だとすれば、巨人との力比べに奇跡の力を期待するわけにはいかない。
しかしここであっさりと逃げ出すのは騎士らしくないと言うもの。我が輩は敢えて自分に言い聞かせた。強い敵の前に立ちはだかって、男らしく死ぬことこそ、騎士の本望。そうではないか?
我が輩は骸骨領主に教えられた地下へと続く階段へと向かった。ちょっとだけ、その噂の巨人とやらを覗いてみよう。それから踵を返して、この城から逃げ出そう。勝てるはずもない敵に真っ向から勝負して、無駄に死ぬだけが騎士の努めではあるまい。
蜘蛛の巣の張る階段を、鎧を着たまま音を立てないように注意して、大変な苦労の末に降りてみると、その先は鍛冶場だった。
地下の鍛冶場へ通じる扉は大きく開いており、中から炎の燃えるごうごうという音と、真っ赤に燃える木炭の放つ力強い明かりが漏れていた。
そこでハンマー音を立てていたのは、身の丈が我が輩の倍はあろうかという巨人であり、彼は入り口に背を向けて一心不乱にハンマーを振るっていた。着ているのは袖なしのチュニックで、ズボンの裾はぼろぼろに千切れかけていた。我が輩は彼の肩の上に盛り上がっている筋肉の膨らみに、内心ぞっとした。
この筋肉の怪物と力比べの勝負をするだって?
いままでに、この第三の試練とやらを受けてきた勇者たちは、いずれも自殺志願者であったにちがいない。それとも、決して癒されることのない強烈な頭痛持ちであったのかだ。
問題外だ。回れ右。我が輩は巨人に悟られないように、そっと体の向きを変えると、この地下の鍛冶場を出ようとした。
そのときだ、我が輩の目の前で、大きな音を立てて扉が独りでに閉まったのは。あわてて扉を開こうと引いてはみたが、びくともしない。まずい! 振り返った我が輩の目に、こちらを見つめている巨人の姿が飛びこんできた。恐ろしく長い顎鬚をした、とても醜くて、そしてごつい顔の巨人である。彼は我が輩の顔をしげしげと観察すると、心の底からの悪意を見せて、わざとニヤリと笑ってみせた。
「だまし討ちをしたみたいで、少しばかり気分が悪いな。最近は、わしの姿を見ただけで逃げ出してしまう、根性なしの勇者が多くて困る。これでは商売上がったりというもの。こちらもそれなりの工夫をしなくてはならないというわけだな。さて、この部屋に足を踏み入れた以上、お前には第三の試練を受ける意志があるものとみなす」
かあっと我が輩の頭に血が上った。その代わりに、冷たい恐怖が我が輩の背骨を駆け降りた。逃れられない死の予感。
罠だ。彼の姿を見た挑戦者が逃げることがないように、あらかじめこの部屋の扉には細工がしてあったのだ。我が輩はそうとは知らずに、うっかりと罠の中に飛びこんでしまった。好奇心は猫をも殺すと言う。殺す相手が我が輩ならば、それはもう実に簡単だ。
「卑怯だぞ!」我が輩は叫んだ。言うだけならば、タダだ。
巨人は我が輩の抗議に対してうなり声を上げてみせると答えた。
「卑怯だと? 貴公、もしや、臆病の虫にでも取りつかれたのか? その立派な鎧はただの飾りなのか。騎士殿」巨人は揶揄するかのように続けた。
「逃げるのならば、第二の試練のときまでにさっさと逃げておれば良かったのだ。何度も警告されたはずだぞ。好奇心に惹かれて、ここまで来た以上、わしに向かって文句を言うのは、そもそもお門違いというもの」
その野蛮人的な見かけに関らず、巨人の主張は正しい。どのみち、この巨人には我が輩を見逃す気などないのは明らかであった。我が輩は盾と剣を引き寄せると、手早くそれを装備した。
左腕につけた盾をできる限り体に密着させて巨人に向け、右手に持った剣をいつでも突ける体勢にして体の脇に寄せる。我が輩が知っている、たった一つの構えだ。
剣と盾。単純な組み合わせだが、効果は高い。
力の強い敵との戦いでは、盾を体から離してはならない。そんなことをすれば盾をあっさりと弾き飛ばされて、それでお終いである。盾が体のすぐそばにあれば、我が輩を攻撃するためには、我が輩の剣の届く距離にまで近づかなくてはならなくなる。我が輩はその機会を待って、ためらわずに剣を突き出そうと心に決めた。
「良い態度だ。騎士よ。ここのところ、この城を訪れる者もめっきりと少なくなったのでな。今日は存分に楽しませてもらうぞ。だが、剣などという無粋なものはわしの趣味ではない」
巨人はそう宣言した。それから我が輩が構えている剣を完全に無視すると、我が輩の脇を通り抜け、入り口の扉の横に吊るしてあった大振りのハンマーを二つ手に取った。その内の一つを我が輩の足元に投げ出す。
ハンマーが地面に触れた衝撃で、地響きがしたように、我が輩は思った。
「力比べはこれで行う。使い方は、お主の自由だ。もっとも片手でこのハンマーを持ち上げることができれば、人間にしては大したものと言えるがな」
その言葉通りであった。巨人が寄越したハンマーは、あの王位継承の試練の場で使ったサマニー卿の戦槌が、まるで子供の玩具に見えるような代物だ。恐ろしく重くてでかい。我が輩は両手で支えて、それをやっと持ち上げることができた。
「名前を聞いておこう。騎士よ。まだ口がきける内に」
巨人は我が輩の動きをじっと見ながら言った。どことなく、満足げな様子がその表情の中に浮かぶ。強い者が弱い者をいたぶるときに見せる、優越感の表情だ。
「騎士ウェトニクス」我が輩は暗い気持ちで答えた。それでもその名には我が輩の誇りの全てがこもっていた。
「そうか、わしの名はゼベデー。悪魔のゼベデーとはわしのことだ」
巨人はそう言い、片手でハンマーの重さを計るかのようにぶんぶんと振り回して見せた。岩の塊を思わせる筋肉が盛り上がり、その皮膚の下で動く。快活な口調で巨人は言った。
「よしそれでは、力比べを開始しよう。お互いに手にしたハンマーで自分に割当てられた鉄床を叩く。ここの床はこの世で一番丈夫な岩盤から切出してきた一枚の大岩で出来ているのだが、十分な力で鉄床を打つと、この石の床の中に鉄床をめりこますことができる。これは鉄床打ちと呼ばれるもので、わしら巨人族の間では腕力と技術を示す競技として貴ばれているのだ。もちろん、先に鉄床を完全に埋めこんだほうが勝ちとなる。さあ、ルールはわかったな? もしお前がわしに勝てば、この城の地下に眠る財宝をお前にやろう。わしが勝てば、お前はここで死ぬことになる」
勝てばお宝、負ければ死。罠の口はすでに閉じていて、逃げ出すこともできなければ、この巨人を相手に勝算もない。絶対絶命だ。こうとなれば覚悟を決めるしかない。
や・け・く・そ・だ!
「待て、それでは卑怯だ」我が輩は叫んだ。
巨人の顔が怒りで真っ赤になった。
「卑怯だと? どこが卑怯だというのだ。貴公、少しばかり見苦しくはないか?
騎士道精神とやらは、どこに落として参られた?
そうかわかったぞ。ずっと前に来たどこやらの騎士のように、最後の試練をチェスの勝負か何かで決めようとか言い出すのではないだろうな?」
「卑怯だから卑怯だと言うのだ」
我が輩もまた顔を赤くしていた。怒りの演技をしているうちに、本当に腹が立ってきた。どうしてバルダーン公爵といい、悪魔のゼベデーといい、こうも汚い勝負をやりたがるのか?
「我が輩が文句を言っているのは、賭けているものの内容についてだ。こちらは命を賭けているのに、そちらは財宝だと? 命には命をもって対するのが礼儀と言うものだろう」
我が輩は舌が良く回るほうではない。だが、これで少しは、巨人も恐怖を感じるだろうか?
鉄床打ちか。ハンマーをただ振るだけでは駄目なのだろう。力もそうだが、それ以上に道具の扱いが器用でなければ、うまくはいかないものだ。いや、それとも単に腕力だけが関係する勝負なのだろうか?
ああ、奇跡の力が我が輩にありさえすれば。
巨人は床に座りこむと、自分の頭を叩きながら、しばらく考えていた。
その頭は小回りをするには大きすぎて、彼の脳味噌の働きはあまり良くはないらしい。その隙に我が輩は、この状況を改善する良い手だてがないものかと、周囲を見回した。
中央には燃え盛る炎、左右には金属のかすや、壊れた武器の類が転がっている。馬の皮を使ったものらしい大きなふいご。部屋の奥には水を張ってある大きな石の箱があり、どうやらこれで打ち上がった鉄を冷やすらしい。扉はその反対側だが、いつの間にか巨人は我が輩とその扉の間に割りこんでいたので、彼を倒さない限りは、我が輩が逃げることはできそうにない。
こうして改めて巨人を見てみると、色々なことがわかる。
体躯は我が輩のほぼ二倍だ。筋肉は見事な塊が、全身についている。眉毛の辺りの骨が大きく盛り上がっているが、大きささえ無視すればその顔は人間そのものと言ってもよい。
これが悪魔のゼベデーだって? ちっとも悪魔らしくない。それに幽霊城の主人がどうして地下室で鍛冶仕事をしているのだろう?
巨人の体の前に垂れているのは、恐ろしく長い髭だ。それは巨人の顎から生え、いったん首の周りをぐるりと回ってからふたたび体の前に出て、そのまま巨人の着ているチュニックの間に押こまれている。これほど長い髭をしている人物は、我が輩はいままで見たことがない。
確かにそれほどの長さの髭を垂れるままにしていたら、鉄床をハンマーで打つ邪魔になる。我が輩が見ていたのは、そのチュニックの端からはみ出している髭の先端で、もし、その先を鉄床の間に打ちこむことができたら、それを引き抜くまでは、巨人は我が輩を追いかけることもできないことになる。おとぎ話の結末通りに、我が輩は勝ちを拾うことができるだろう。
我が輩は巨人のチュニックを脱がせる手だてがないものかと考えた。
不幸にして我が輩がその手段を考えつくまでに、彼は態度を決めた。顔を上げて我が輩を見つめると、彼は言った。
「確かにお前の言う通りだ。勝負は公正でなくてはならぬ。よし、こうしよう。お互いに相手の頭を鉄床と見立てて、ハンマーで打ち合うのだ。これならば負けたほうがその場で死ぬことになる。実に公平だ」
この提案を聞いて我が輩はあわてた。冗談じゃない。これでは先ほどよりも悪い状況だ。我が輩の死は間近に迫っている。巨人は我が輩の意向を無視してハンマーを撫でると、ついでに自分のチュニックの裾からはみ出ている髭の先も撫でてから言った。
「どうも、このわしの美しくも素晴らしい髭を鉄床に打ちこみたがる輩が多くてね。困っておるのだよ。これは公正な勝負だというのに、人間は誰でもインチキをしたがる。わしを見事にペテンにかけたあやつの名は・・・そうそう、たしかウィリアムとか言ったな。あのときは随分とひどい目にあったものだ。よもやお前はそんな馬鹿なことは考えないだろうな?」
彼はそう言いながら、我が輩の瞳を覗きこんだ。彼の巨大な瞳の中に、弱い者をいたぶる残酷な意思と、そしてもっと恐ろしいことに強烈な知性の閃きを、我が輩は見て取った。
鈍重そうな見せかけ、そしてその中に隠された悪賢い知性。我が輩はようやく、自分ががっぷりと開いた罠の中に、実に巧妙に誘導されていたことに気がついた。我が輩がこうして絶体絶命の窮地に追いこまれたのは、決して偶然ではなかったのだ。
巨人はハンマーを胸の前に構えた。それを完全に振りかぶるには天井は低すぎる。少なくとも、彼に取っては。
我が輩もまたあわててハンマーを構えた。防御しなくては、頭を叩き潰されてしまう。
我が輩が逃げる間もあればこそ、彼は一声叫ぶと、ハンマーを振り下ろしてきた。我が輩も手にしたハンマーを振り上げ、お互い同時に打ち合った。
ハンマーが衝突し、派手に火花を巻き散らした。両手に強烈な衝撃が伝わり、我が輩の肩が痛みに悲鳴を上げる。痺れた手からハンマーが滑り落ちると、重い音を立てて、石造りの床に転がった。
「どうした、早く拾わないと、頭が潰れてしまうぞ」
巨人はにやにやと笑いながら言った。
「そら! 次は本気で打つぞ!」
喋りながらもう一度、胸の前にハンマーを構え、我が輩の頭めがけて振り下ろしてきた。
ハンマーを拾う隙なんかない。我が輩は必死の力をこめて背後に跳んだ。すぐ目の前を、うなりを上げながらハンマーがかすめ去り、石の床に激突すると大穴を開けた。我が輩の足に何かが当たり、バランスを崩した我が輩は背後に倒れこんだ。柔らかな衝撃。水しぶきが周囲に上がる。
鍛冶に使う大水桶へ背中から突っこんでしまったのだ。
「言い忘れたが」ボリボリと音を立てて、太い指で胸を掻きながら巨人が言った。
「わしは魔法の力を持っている。ハンマーを一打ちするたびに、前の二倍の力で打つことができる。だから次の打撃は」わざと指折り数えて見せた。「ええと、お前が最初に受けた打撃の四倍の力ということになる」
巨人はハンマーをふたたび構えてみせた。
「さあ、次の一打ちだ。そこから出てこい、それはわしのお気に入りの水入れなんだ。まだ壊したくはない」
我が輩は何とか体勢を立て直そうと、大水桶の中であがいた。これでは水桶というよりも池に近い。打ち上がった鉄をこれにつけて冷やすのだから、この大きさも無理はない。巨人の鍛冶屋の作る武器は、それなりに大きいものなのだ。
幸い底は深くないので、我が輩はその中で溺れることだけは免れた。水から首だけ出して、自分の剣を置いたところを目で探る。ハンマー勝負では勝ち目はない。剣ならば、この巨人の隙をついて、傷を負わせることができるかもしれない。我が輩は大水桶の縁に手をかけながら、次の一撃をどうやって避けようかと思った。ざあっと、我が輩の体から、鎧の隙間から、鉄の匂いがする水がこぼれた。
体のあちらこちらが痛む。ふらつく体を支えながら、我が輩は大水桶から立ち上がった。このぼろぼろになった体で、巨人が振り回すハンマーを避けながら、剣のところまでたどりつかねばならない。
できるだろうか? だがやるしかない。
覚悟を決めると、不思議に心が落ち着いた。体の中で静かな火が燃えるかのようだ。痛みが徐々に消え去り、力が満ちてくる。それは段々強くなってきた。
待ちきれない様子で巨人が我が輩のほうに近づいて来た。その腕に力がこもり、彼の手に握られたハンマーが、いまにも我が輩の頭の上に振り下ろされたがっているかのように、空中でゆらゆらと震えた。
声が聞こえたのはそのときだ。小さいが、恐ろしくかん高い声だった。
「ああ、巨人のゴルナス。巨人のゴルナス。それをやってはいけないよ。さて、ゼベデー様からの御通達だ」
我が輩は声がしたほうに目を向けた。居た! 地下室の天井付近に横に渡された梁の上だ。
しかしこれはいったい何という存在だ。どうみてもそれは我が輩の握り拳ぐらいの大きさの小人で、頭の上に赤い帽子を被っている。
妖精小人。そんな言葉が頭に浮かんだ。
「なんだうるさい。わしは今、忙しい」
巨人がうなるように言った。その目は我が輩の動きをしっかりと捉えていて離さない。獲物を見つめる猟師の目である。
「それをやってはいけないよ。巨人のゴルナス。ゼベデー様の命令だ。その男には手を出すな。傷一つつけずに、丁寧にご招待申し上げろとのことだ」
天井の梁から、妖精小人が飛び降りて来た。空中で帽子を振ると、まるで綿毛か何かのように、ゆっくりと舞い降りる。
床に静かに降り立ち、妖精小人はちょこちょこと歩いて前に出て来ると、我が輩の前でお辞儀をして見せた。
「我が御主人たるゼベデー様はあなたを招待されております。どうか、この招待をお受け下さいますように」
「待て!」巨人が吠えた。「最後の試しを越えられない限り、ゼベデー様には会えないはずだぞ」
「その規則を決めたのはゼベデー様御自身であることを忘れたのかい、このろくでなしの大食らいの巨人め」妖精小人はぴしゃりと言った。「さあ、さっさとそのハンマーをしまえ、それとも御主人様の怒りがどれほどのものか知りたいのか」
「この腰巾着め」ぶつぶつ言いながらも巨人はハンマーを下ろした。
「彼がゼベデーではなかったのか」我が輩は妖精小人に尋ねた。
「またそんな嘘を言ったのかい。この唐変木は。いやいや、我が偉大なる主人、この世で最高の魔術師であるゼベデー様が、こんな阿呆であるものかい。あんた、運が良いよ。御主人さまは、あんたの鎧に興味がお有りのようだ。失礼のないように、聞かれたことにはすべて正直に答えるんだね」
妖精小人はそこまで言うと、我が輩についてくるように促した。
どうする? 我が輩は床に転がったままのハンマーを見つめた。
勝負は勝負だ。ここで妖精小人の招待を受け、この危機から逃れることは、果たして騎士道の観点から見て、正しいことなのだろうか?
何よりも、やられるばかりでやり返さないで、それで我が輩の気が済むのだろうか?
幸い体の痛みも消え去った。騎士ウェトニクス。さあ、どうする?
我が輩はためらい、それからハンマーを拾うために、身を屈めた。我ながら愚かな行為だとは思った。助けの手を無視して、勝てるはずもない勝負に身を投げるのだから。だが、我が輩は騎士であり、騎士は挑戦から逃げ出さないものなのだ。ここに至って我が輩には、ようやく覚悟ができたのである。
指先がハンマーに触れる。ハンマーの無骨な柄を握り締め、我が輩はそれを引き上げた。まるで細い木の枝でもあるかのように、それは軽々と持ち上がった。
奇跡の力! 戻って来たのだ。
我が輩は口笛を吹いた。妖精小人が振り返る。
こうなればこっちのものだ。我が輩は手の中でハンマーを回転させた。奇跡の力の下ではそれは非常に軽く、我が輩の手の中で何かを期待するかのように震えていた。巨人が我が輩の行動に対して奇妙な表情を浮かべて見せたので、我が輩は言った。
「これは公正な勝負だ。本物のゼベデーに会うためには、お前を倒さなくてはならない」
巨人ゴルナスは我が輩の言葉の意味に気がついた。それからその醜い顔一杯に喜びの表情をたたえて言った。
「そうだとも、そうだとも。それでこそ騎士の鑑と言うもの。これならゼベデー様もわしを責めはすまい。さあ、勝負だ」
妖精小人の喚き声に近い抗議を無視して、巨人のゴルナスはハンマーを構えた。
「今度はこちらから行くぞ」我が輩は宣言し、そしてハンマーを振り上げた。
大ハンマーを握ったまま、我が輩の両手が大きく上がる。鎧の飾り、緑の輝石でつづられた目の模様が奇妙な輝きを見せる。
巨人の目が驚きに大きく開いた。
「ゼベデー様が鎧に興味があるだと。おい、待った! お前が着ているのは、アンモリカルの魔法の鎧じゃないか!」
アンモリカルの・・魔法の・・鎧だって!
何のことだ?
「止めろ!」巨人は我が輩のハンマーを見つめて悲鳴を上げた。
止めるものか。
巨人の体は我が輩の倍だ。前に叩きつけるようにしないといけない。下に振り下ろしただけでは、相手の足を殴ることになってしまう。運が悪ければ、殴るのは自分の足だ。
我が輩は、渾身の力をこめてさらに大きく伸び上がると、高く掲げたハンマーを巨人目がけて叩きつけた。時の歩みが遅くなった。恐怖に歪む巨人の顔。まだ喚き続ける妖精小人。我が輩の全身を満たす奇跡の力。そんな光景に囲まれて、ハンマーの先は驚くほどの遅さで空中を横切ると、その旅の最終目標である巨人の構えるハンマーに命中した。
巨人の手に握られた無骨な大ハンマーが、小枝のようにあっさりと折れて吹き飛ぶ。それはわずかに回転した後、巨人の顔に激突する。我が輩のハンマーはわずかに軌道を変えると、そのまま巨人の肩へと命中した。頑丈な木がへし折れるような音を立てながら、ハンマーの先が巨人の体にめりこむ。
今度は彼が後ろに向けて飛ぶ番だ。我が輩のハンマーに弾き飛ばされて、巨人の体が宙を舞った。わずかな飛行の後に、巨人は入り口の扉に激突して、それをばらばらに割り砕く。幽霊城全体がこの打撃に揺れた。細かい塵が石の隙間から飛び出ると、我が輩の周囲に振り注いだ。
妖精小人は口笛を吹いて、言った。
「ひゃあ、こりゃあ、凄いや。ゴルナスをあそこまでぶっ飛ばしたやつは、初めて見たぞ」
それから小さな両手を自分の腰に当てると、妖精小人は我が輩をしげしげと見つめてから、言った。
「しかしまあ、まだ魔法の鎧には馴染んでいないようだね。本当ならこの程度の巨人は一撃で跡形もなく叩き潰せるはずなんだけどね」
奇跡の力の感覚が消える。手の中の大ハンマーがいきなり重くなった。我が輩はハンマーを投げ捨てた。
そこでようやく、妖精小人の言葉が我が輩の頭にまで届いた。
「魔法の鎧だって!」我が輩は叫んだ。
妖精小人が答えた。
「そうだよ。あんたが着ているのはアンモリカルの魔法の鎧。水に触れると魔法の怪力を生み出す。あれ? まさか知らないで使っていたの?」
なんだって? 水に触れる?
そうだ。なんてことだ。我が輩は自分の頭に手を当てた。
そうか。バルダーン公爵の都市の城壁に穴を開けたとき、我が輩は汚水を被っていた。ニコラスの腕を折ったときは、雨に濡れていたし、王城の試しの場では水差しの水を浴びていた。
汚水、雨、水差し。
わかってみれば、簡単なことだ。我が輩は何と愚かであったのだろう。答えは常に目の前にあったのに。ウィリアム王の奇跡の力は、魔法の鎧によるものだったのだ。我が輩は彼の息子ではない。彼も我が輩も、魔法の鎧を着ていたからこそ、奇跡の力を揮うことができたのだ。
我が輩はそうやれば賢くなるとでも言うかのように頭を振ると、扉のところに倒れている巨人の具合を見に行った。彼の頭の片側は大きく陥没し、その右肩も我が輩の与えた打撃のせいで半分潰れていた。それでも血はほとんど流れていない。驚くべきことに彼はまだ呼吸をしていた。
妖精小人は我が輩の横に立った。我が輩は彼に関する見積もりが間違っていたことに気がついた。彼の身長は我が輩の膝までの半分の高さがある。
「巨人の体の丈夫さには驚いただろう。こいつらときたら、このぐらいの打撃じゃ死なないんだ。せいぜいが気絶するだけ。もっともこれだけ頭がへこんでしまえば以前ほどには悪知恵も使えないだろうし、肩が潰れちまえばハンマー勝負で命知らずの阿呆どもを殺すこともできないな。まあ、天罰覿面ってところだね」
我が輩はもう一度頭を振って、問題をはっきりさせようと試みた。
この巨人の名はゴルナスで、主人が悪魔のゼベデー。それとも魔術師ゼベデーか?
幽霊城のおとぎ話では、三つの試練を越えた者は、城に隠されている財宝をもらえるという話だ。だが、この妖精小人は、我が輩をどこかに連れてゆくと言う。
財宝はいったいどこだ?
この妖精小人は我が輩をどこに連れて行くつもりなのか?
ゼベデーとは何者?
そしてもっとも重要な問題は、我が輩の日常というものは、いったいどこに行ってしまったのか?
怪奇、驚異、奇跡。いまの我が輩の周囲にあるのは、間違っても普通の人間が日々、目にするようなものではない。
「さあ、おいらと一緒に来るんだね。色々と疑問はあるだろうけど、その答えが知りたければ、ゼベデー城に来るしかない」
妖精小人はそういうと、城の中庭に出た。我が輩の馬はそこに引き出されていて、出立の準備はすでに整っていた。
新たなる冒険への誘いだ。我が輩の身に起きた数々の出来事への答え。夢にも思わなかった魔法の世界への入り口。
そして好奇心。好奇心は猫をも殺すと、人は言う。だが我が輩はまだ死んではいない。
騎士たる者、どうして挑戦から身を引くことができるだろうか?
結局、妖精小人に促されるまま、我が輩は馬に跨ると幽霊城を出た。妖精小人は我が輩の前に座り、どこから取り出したのか小さな光を一つ掲げた。それは透明な球体で、その中で何かが燃えて、光を発している。外はまだ暗かったが、ここから見える地平線の遠くに、わずかに新しい日の曙光が差し始めていた。
「急ぐんだ。日が昇ってしまえば、ランプの魔法は働かなくなり、ご主人様のところへ到着するのが一日延びることになる」
妖精小人はそう言うと、幽霊城の背後の森へ馬を進めるように指示した。
妖精小人の持つ魔法のランプの光を浴びると、森はざわざわとざわめき、そうして枝が揺れたと思うと、木々が左右に身を引いた。たちまちにして森の中に道ができ上がる。
我が輩はぞっとした。この光景はまるで、あの緑の騎士と名乗った存在が使った魔法のようだ。
「ご主人さまのところへの近道だあね」妖精小人は説明した。「他の方法だと、この世界にあるゼベデー城に行き着くまでは、まあ五十年はかかるな」
それがどこか、とは我が輩は訊かなかった。きっと聞いても我が輩にはわからないような遠い国にちがいなかった。ただ一つだけ、我が輩にも理解できたのは、行くのがそれほど遠いのならば、帰るのも同じだけかかるに違いないという事実だけだった。
つまりゼベデーなる人物の機嫌を損ねれば、我が輩が生きている間にこの地に戻るのは不可能になるということ。なんたる危険。なんたる無謀。
それでも我が輩は出かけるのだ。悪魔だか魔術師だか知らない人物の下へ。
何故か?
その答えは簡単である。我が輩の名はサー・ウェトニクスであり、騎士である。そして騎士というものは、いつだって冒険を求めるものなのだから。
我が輩は馬の腹を軽く叩くと、森の中に出来た魔法の道へと飛びこんだ。
夜も更けた。今日はここでペンを置きたいと思う。
若さというものが無知を意味するとすれば、我が輩は確かに若かったのだ。
ここに至るまでの我が輩を救ったのは、鎧に宿る奇跡の力、ブランザック王
の叡智、そして驚くばかりの幸運であった。
冒険の旅をすることができる者は幸いである。一歩進むごとに、新しい光景
が開け、驚異としか表現のしようがない事柄の数々が展開する。冒険に生きる
者は、いくつもの人生を同時に味わうことができる。
見物料はわずかなものだ。自分の命、ただ一つ。無闇に捨てるものでもない
が、後生大事に抱えるものでもない。
立ち止まるな、若者よ。引き返せば、そこで物語は終わる。たとえ根拠のな
い自信であろうとも、それを頼りに進むのが、正しいのだ。
こうして我が輩は人の世界での最初の冒険を終え、妖精小人の導く次なる冒
険へと旅立った。
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