第一章 人たるものの王国】冒険行9)ニコラス
「では、我が輩がウィリアム王の息子でないことは、知っていたのですね」
目の前におかれた湯気の立つコップを見つめながら、我が輩は言った。
「ああ、そうだとも。君のお陰でわたしは嘘をつくという悪徳を一つ犯してしまったわけだ。今夜は夜通しで、赦しを求める祈りを捧げなくてはなるまい」
エドワード神父はそう言うと、手にしたポットを暖炉の中の金網へと戻した。
「その我が輩という古風な言い方は何とかならないのかね?」
「ああ、そのすみません。我が輩は、あ、また、その」我が輩は口ごもった。「実はその、騎士というものは、こういう言葉を使うものだと思っていたのです。アリョーシャ神父の騎士物語の中ではみんなそうでしたから。直そうとはしているのですが、ついこの言い方が」
「善い。許す。今後も、我が輩と言うがよい。これは国王としての余の言葉だ」
ブランザック王はそう言うと、我が輩の前でそっと涙を拭った。王の執務室の中は、外界での騒がしさがまるで嘘のように静かであった。王の両側に腰掛けている二人の貴族も、我が輩がアリョーシャ神父の思い出について語っている間は、口を挟もうとはしなかった。
我が輩が理解したところによると、この二人の貴族は王の片腕とも言うべき存在で、この王国を守護する騎士団の団長も兼任している。どちらも大領主に属しているが、品格はバルダーン公爵とは比べようもなく、その物腰はとても優雅であった。
我が輩は自分がウィリアム王の鎧を手に入れた経緯も、バルダーン公爵が我が輩を利用しようとしたことも、包み隠さず王に話してしまっていた。今やウィリアム王であったと判明したアリョーシャ神父のことを話し終えれば、もはや我が輩には言うべきことは何もなかった。
うつむいたままの姿で、バルダーン公爵の最後の姿を思い出す。我が輩が投げた剣は、バルダーン公爵の胸に吊るされた金袋を切り裂いて、その下の心臓を貫いていたのだ。血と金貨が飛び散る中で、バルダーン公爵の遺体は、天をにらむかのように目をむき出していた。まさに彼の生き方に相応しい死に様である。
かすかに、吐き気が我が輩の中で動く。これこそは、逃れようもない我が輩の罪の証しである。王国は救われたが、我が輩は本物の殺人者になってしまった。あれは以前に我が輩が殺した山賊のように、事故で殺したものではない。我が輩は最初から人を殺すつもりで剣を投げた。ただそれが狙った暗殺者ではなく、その背後にいたバルダーン公爵に命中したのだ。さらに困惑することは、ここにいる誰も我が輩の殺人を責めないことである。
エドワード神父はそんな我が輩の様子をちらりと見て取った。
「気分が優れないようだな。後で修道院を訪れなさい。色々と懺悔したいこともあるだろうし。場所はこの城の右奥だ。修道院の入り口でエドワードに呼ばれたと言えば、それで案内して貰えるだろう」
ふと気づいたようにブランザック王が尋ねる。
「ところで、エド。彼がウィリアム王の息子でないのは明らかなのかね?」
「それがわたしにもよくわからないのです。はい、でも、いいえ、でもない。おそらく彼にも判断がついていないのでしょう」
エドワード神父は改めて我が輩の顔を覗きこむと言った。
「君が聞いた通りに、わたしは人の嘘を見抜くことができる。これだけ近いと、わたしの目を逃れるようなものは何もないのだ。さあ、答えてくれ。君はウィリアム王の息子なのか?」
果たして、我が輩はウィリアム王、ことアリョーシャ神父の息子なのか?
まさか。我が輩はあの飲んだくれ親父の息子だ。間違ってもそんなことはない。
それともまさか、我が輩の母はそのようなことをしたのだろうか? こっそりと親父に隠れて。
いやいや、それはまず、ない。母が死んだ今となってはそれを確かめる術はないが、アリョーシャ神父は間違ってもそんなことをする人ではなかった。
だが、ウィリアム王が失踪してから、我が輩の村にたどりつくまでに、どこかで家庭を持ち、そしてできた子供を我が輩の母親に預けたという可能性は?
馬鹿な。考えすぎだ。子連れの神父が村に居座れば、狭い村の中だ、どうやっても隠しようがない。もしそうなら、我が輩がそれを聞いていないわけがない。
結論は明らかだ。残念なことに。
「いいえ、ちがいます。我が輩は農夫の息子です」我が輩は答えた。
エドワード神父の目が、我が輩の一挙一動をも見逃さないように、微動だにすることなく、正面から見つめている。これに耐えられなくなったのは、やっぱり我が輩のほうであった。思わず目を逸らしてしまう。
エドワード神父はブランザック王のほうを向くと、言った。
「彼は真実を述べています。だけど何かが奇妙なのです。今まで見た人々とは異なる何か。彼の瞳の中には、わたしが理解できない何かがある」
「だが、それが何かはわからない」ブランザック王は指摘した。
「結局、真相は不透明なままか。よし、いいだろう。もし仮に、彼がウィリアム王とは関係のない若者だとしよう。だがそうだとしたら、あの奇跡の力の理由がつかない。彼はサマニー卿の特別製の戦槌を曲げて見せたのだぞ。あの太い鋼鉄の棒を」
リチャード卿がはたと手を打った。
「なるほど、あれはサマニーの持ち物か。どこであんなごつい代物を見つけてきたのか、不思議に思っていたんだ」
ヘンリー卿が微笑んだ。
「サマニーなら泣いていたよ。ずいぶんと高価についたものだったらしい。やれやれ、これは騎士団の金庫から補償してやらねばなるまいな」
「それは国庫から出すのが筋であろうな」ブランザック王は言った。
「さて、話がそれてしまったが、本題に戻ろう。余は彼を騎士に任命すべきであると思う。それが無理ならば騎士見習いにだ。彼はこの二十年間、誰にも手が出せなかったバルダーン公爵を倒すという手柄を立てているし、王家の血筋を引いている可能性も無視できない。もし彼がウィリアム王の息子ならば、本当は王冠をその頭の上に載せねばならないはずなのだから。両頭騎士団長の二人は、余のこの提案を考えてみて欲しい」
ヘンリー卿とリチャード卿は顔を見合わせて、素早く目配せをした。
「問題はないと思います。陛下」ヘンリー卿が答えた。
我が輩は口を開こうとした。冗談じゃない。もう少しで王国を二つに割る大騒ぎを引き起こした我が輩を、王じきじきに騎士に任命するなんて、どこか間違っている。
それよりも早くリチャード卿が言った。
「彼にも異存はないものと思われます。さっそくに手続きをしましょう。まずは騎士見習いを一年ばかりやってもらうことになりますが、何、それもすぐのことでしょう」
「しかし、陛下」我が輩はようやくのことに、それだけを言えた。
「黙れ。アンガスよ。ここは黙っておるのが正しいのだ」
ブランザック王は厳しい声でそう言い、それから一気に破顔した。
「余はうれしいのだ。そなたのような若者を、余の配下に迎えることができて。これからたっぷりと話してもらうぞ。ウィリアムのことを。どのように暮らしていたか。どのような話をしていたのかを」
そのときだ。執務室の扉がノックされ、ブランザック王がそれに答えると、鎧をつけたままの騎士が一人、部屋の中に入って来た。入れ代わりに、エドワード神父が部屋から出て行く。
「御報告申し上げます。公爵側の騎士たちの最後の抵抗が潰えました。残った連中はそれぞれが勝手に遁走を開始しました」
間髪を入れずにブランザック王は厳しい声で命令を下した。
「街道ぞいに警告を発しろ。騎士団を出して追い立てるのだ。あまり追い詰めてはならないが、それでも彼らが途中の街に居座ることがないようにしろ。騎士とは思うな。山賊の類と同じ種類の人間だと思え。バルダーンの領地へ。できることならば、やつの館のある街へと追いこみ、そこに封じこめよ」
「王の御心のままに」一つ敬礼をすると騎士は立ち去ろうとしたが、王に呼び止められた。
「ああ、待て。こちらの損害はどの程度だ?」
それを聞いてニヤリとその騎士は笑った。
「実に微々たるものです。公爵の集めた強盗どもは、我が騎士団の足元にも及びません」
「余はそなたたちを誇りに思うぞ」
「身に余りある御言葉です」
報告に来た騎士が去ると、ヘンリー卿が口を開いた。
「蛇も最初に頭を潰されれば、動くこともできないものですな。さて、問題となるのはもう一つの蛇の頭、つまりバルダーン公爵の息子、ニコラスの処置です。アンガス殿の言葉によると、彼も今回の陰謀に荷担している。見逃すわけにはいきませんな」
ブランザック王はしばらくの間、顎鬚を撫でていた。やがて誰に意見を求めるでもなく、小さくつぶやいた。これはブランザック王が、自らの強い願望を口にするときの癖であるとは後で知った。
「余はニコラスを殺したくはない。今日はもう十分に血が流れた。それに彼を殺せば、逃亡している無頼の徒が我が王国内に広く散らばることになる。そなたの例えを使うならば、蛇の頭は潰れたがその体はまだ死んではおらぬ。ばらばらになった蛇の体に王国中を這いまわられるよりは、小さな頭をつけてでも一ヶ所にまとめておく方がうんと良いと、そう余には思われるのだ」
今度はリチャード卿が言葉をつないだ。
「今回の事件で、バルダーン側についた貴族はそう多くはおりません。陛下の二十年に渡る治世は、どの貴族に取ってもまず公正なものでした。バルダーンに買収されていたはずの貴族の多くも、今日の会議の結果を見てから、どちらにつくのかを決めようとしていたようです」
「あそこでアンガス殿がバルダーンを仕留めていなければ、もっとまずいことになったでしょうな」とヘンリー卿。
「その点では、余はアンガスに大きな借りがあるとも言えるな」ブランザック王は頷いた。
ヘンリー卿はさきほどから大きな羊皮紙を睨んでいたのだが、それを王の前に広げなおした。我が輩はそれが地図であることに気がついた。アリョーシャ神父は我が輩に地図の読み方を教えてくれていたのだ。それが役に立ったことは、今の今まで、ありはしなかったが。
「どうでしょう。ニコラスには父親の爵位をこのまま継がせ、その替わりに領地を三分の一に削る。そうして、ここと、ここに監視所を作れば、彼の動きをほぼ完全に封じることができます」
ヘンリー卿に続いてリチャード卿が意見を述べた。彼は地図には関心がないようである。
「バルダーン公爵と親族関係にある貴族は大勢いますから、彼らの機嫌を損ねないためにも、それは良い案だと思います。もっともその大部分は、ニコラスに協力を約束して金だけを要求するような手合いですがね。彼らもニコラスに対する足かせとなるでしょう」
ふむ、とブランザック王はため息をついた。
「そうすれば、バルダーン家はこれ以上、我々を煩わせることもなくなるわけだ。よろしい。ただちにそのように手配をしてくれ」
我が輩は今、目の前に見ているものが、政治と呼ばれるものであることに気がついた。反逆者を殺さずにおくことが最良の手段となるとは、まったくもって政治の世界とは珍妙不可思議なものであると我が輩には思えた。
「ところでその肝心のニコラスは見つかったのだろうか?」
このブランザック王の問いに、リチャード卿が答えた。
「まだのようです。まあ、小さくなったとは言え、領地と称号の継承が許されたとなれば、じきに姿を現すでしょう」
我が輩はこの宙ぶらりんの状態に耐えられなくなって、ついに声をかける決心をした。
「ああ、何だね。アンガス殿」ヘンリー卿は地図から顔を上げた。
「一つだけ教えていただけないでしょうか」我が輩は緊張した面持ちで聞いて見た。
「いいとも。何を聞きたいのだ」ブランザック王は鷹揚に言った。
「どうして我が輩がバルダーン公爵に脅されていると考えたのですか? もしかしたら、我が輩はバルダーン公爵に進んで協力していたのかもしれないのですよ」
「ああ、それは実に簡単なことだ。バルダーン公爵がやっているのと同様に、こちらもそれなりの人間を悪党に扮装させて、バルダーン公爵の下に送りこんであったのだ。そなたが彼の下から脱走したときに、君に追っ手がかかっただろう。あの追っ手を率いていた男は、リチャード卿の秘密の配下だったのだ」
我が輩は思い出した。怒り狂った我が輩の護衛が我が輩を痛めつけようとすることから庇ってくれた人物だ。鷹の目を連想させる鋭い目をした男であった。
「なんと! では、どうして彼は我が輩を捕まえる手助けをしたのです?」
「あのまま行けば、他の追っ手に見つかって、そなたは殺されていただろう。それにこちらとしても、ここらでバルダーン公爵との決着をつける必要があったのだ。そう遠くない将来に、隣国との戦争が復活する兆しがある。来年か、あるいはその次の年か。外と内に同時に敵を抱える余裕は今の我が国にはないのだ。そなたには悪いと思ったが、バルダーン公爵という名の最大の障害を取り除くには、すべてを計画通りに進める必要があった」
ここでヘンリー卿が口を挟んだ。
「こちらとしても、きみを何とか助けたいと考えた。それで一計を案じて、試しの内容に関らず、きみを王子と認められるように仕組んだのだ。そうすれば少なくとも、バルダーン公爵がきみを殺して何もかもうやむやにすることだけは避けられるからな。もっとも、すべての試しを本当に通り抜けてしまうなんて、こちらの予想外ではあったがね」
我が輩は押し黙った。考えていたのだ。
最初の試しは詩の試し。その結果を判定するのはブランザック王である。我が輩が何を答えようと、彼が正解だと認めればいいのだ。三番目の試しもそうだ。エドワード神父が、我が輩の嘘を肯定すれば、それですべては片がつくし、実際にそうもした。
問題は二番目の試し、奇跡の怪力の試しだ。あれだけは、仕組むのは無理だ。
我が輩がその疑問を口にすると、ヘンリー卿は会心の笑みを浮かべた。
「そればかりは我らが旧知の友、バルダーン公爵に期待するしかなかった。彼のことだから、きっと君を弁護するうまい言葉を思いつくと、そうこちらは考えたのだ。例えば、奇跡の力は神の恩寵によって与えられたものだから、息子には伝わらないのだとか。今日は体調が悪いと言い訳してもよい。守護王ウィリアムでさえも、いつも奇跡の力を揮っておられたわけではないのだから。こちら側が少し譲歩すれば、それですべては計画通りというわけだ」
これまで静かに話を聞いていたリチャード卿が後を引き継いだ。
「まあ、すべてがこちらの計画通りというわけでもない。あのクリガという名の東洋人が、君の後ろに立ったときは、こっちは肝を冷やしたな。あれはバルダーン家に仕える男で、こと暗殺にかけては、バルダーン公爵がもっとも信頼していた男だから。
やつがこうした公の場に姿を現すことなど、今までには決してなかった。実を言えば、やつがこの広間に来ると聞いて、王の護衛兵を増やしたほどなんだ。ところが蓋を開けて見れば、やつはどういうわけかアンガス殿にべったりとくれば、その目的はおおよその察しがつく。そう言えば、ヘンリー。彼は見つかったのかね?」
「まだだな。全力で捜索しているが、たぶん見つかるまい」
ヘンリー卿は残念そうに答えた。
不思議な貴族たちだ。ヘンリー卿とリチャード卿。まるで双子のように、仕草が似ている。二人とも大領主であり、しかも、二つある王国騎士団の頭首であると言えば、驚くだろうか?
ブランザック王は手にしたカップをテーブルの上に置いた。
「まあ、そのようなわけで、余はアンガスがバルダーン公爵に脅されていると考えたわけだ。それならば、この余の名誉にかけても、ウィリアムの息子だけは、助けださなくてはいけないと思ったのだ」
「御期待に沿えず、すみません」我が輩は心底残念に思いながら言った。
「とんでもない。そなたは実に良くやってくれた。誰かが話したかな? バルダーン公爵の死体の前に壊れた盾が転がっていたという話を。バルダーンはその部下の手で、高価な宝石並みに厳重に守られていたが、君の投げた剣は護衛の盾を真っ二つに引き裂いて、バルダーンを打ち殺したのだ。並みの腕力で出来る技ではない。これは奇跡の力に関係しているのだろう。これでもそなたがウィリアムの血を引いていないと主張するつもりかな?」
「そのはずです。それにこの力はつい最近になってついたものです」
我が輩はそう言いながら、そばにおいてあった金属の杯を取り上げて、力一杯握って見せた。それはとても頑丈で、我が輩の力ではびくともしなかった。
「今はその力も去ってしまったようです」
「実に不思議だ。そう言えばウィリアムも、若い頃はごく普通の男に見えたものだ。彼の親友たるこの余でさえも、戦場に出るまでは彼の力を知らなかったほどだ」
しみじみとブランザック王は言った。我が輩はふと思いついて、バルダーン公爵が我が輩の鎧の中に押しこんだ手紙を取り出した。ブランザック王と二人の貴族は、しばらくの間その文面を覗きこんでいたが、やがて一斉にため息をつくと、顔を上げた。
「明らかに偽物だ。ウィリアムの癖のある字に似せてはあるが」ブランザック王は言った。
「しかし、効果的だ。もし、これがあの会議の場で公表されていたら、騒動の結果は予測がつかないものになっていたな」ヘンリー卿がしみじみと言った。
「これはこの場で焼いてしまおう」
リチャード卿はそう言うと、ブランザック王の手から手紙を受け取り、暖炉の中に投げこんだ。炎が上がり、手紙が灰に変わって行く。これでバルダーン公爵の計略の最後の部分が燃えつきたことになる。
「それでその隠しポケットの中には、他には何も入っていなかったのかな?」
王は我が輩に尋ねた。我が輩は、バルダーン公爵が我が輩の目の前で鎧を探っていた様子を思い出しながら言った。
「コインが一枚」
「コイン?」
「古い金貨です。王さま」
バルダーン公爵がその金貨を自分の金袋に押しこんだのを、我が輩は思い出した。彼に取っては金貨の一枚など、いまさら大したものでもないだろうに、実に欲深な行いだった。もしかしたら公爵は、この世のすべてを、自分の金袋に押しこもうとしていたのだろうか?
そのまま王は押し黙り、我が輩は何かまずいことでも言ってしまったのかと、気をもみながら王の次の言葉を待った。ようやくブランザック王は口を開いた。
「失踪する前のウィリアムは、余によく言っていたものだ。もし自分の大切なものを本当に泥棒から守りたければ、その宝の前にもう一つ何か小さな宝物を置けばよい、とな。そうすれば泥棒はそいつに心を奪われて、本物の宝には気づかないだろうと。
悪いが、アンガスよ。その鎧を脱いでもらえるかな?」
それで我が輩はそうした。実を言えば、我が輩は王様に鎧を返すタイミングを計っていたのだ。我が輩がこの鎧の正当な持ち主でないことは明らかだ。
「美しい鎧だ。かって見た通りの。不思議なことに錆の曇り一つ出ていない」
ブランザック王はしばらくの間、その鎧の隠しポケットの周囲を撫でまわしていたが、やがて顔を上げると、リチャード卿に何かを言った。リチャード卿も鎧に触れ、そして答えた。
「確かに変ですね。やはり、陛下のお考えは正しいようです」
「余はこれこそ答えではないかと思う。すべてを公正に行おう」
ブランザック王はそう言うと、宮廷付きの仕立て屋と、数人の貴族を呼びつけた。
皆が注目する中で、仕立て屋は隠しポケットの裏地を探っていたが、やがて言った。
「確かにこのポケットには、もう一つ底があるようです」
仕立屋はうやうやしい口調でそう言うと、片方の眉を上げて、王の言葉を待った。王は我が輩のほうを向くと目で問いかけて来たので、我が輩は椅子に座ったままで頷いた。果たしてこれが宮廷内での正しい作法に当たるのかどうかには自信がなかったが、王はそれ以上何も言わずに、そっと仕立屋に合図をした。
小さな刃物を持った仕立屋の指がすばやく動き、隠しポケットの底を切り裂いた。中から出て来たのは一枚の古びた羊皮紙であった。立会人となった貴族が鎧の内側を調べ、その隠しポケットの二重底が最近作られたものでないことを確かめた。
「これは確かにウィリアムの筆跡だ」
羊皮紙を手にしたブランザック王は断言した。声がわずかに震えている。
「読むぞ」
そう宣言すると、ブランザック王は手紙を読み上げた。その内容は大体、次の通りである。
・・我、ウィリアム・ブラー・バーグ、ウィリアム三世にして王国の守護者はここに遺言、もしくはそれに類するものを残す。我はこの世にただ失望のみを抱く。正義も理想も狂える者の戯言に過ぎず、希望も真実も全て幻影に過ぎない。王家と騎士の名の下に、人の道に背く行いしかできないのならば、我はこれを捨て、神の道に生きようと思う。これより後、我はこの名を捨てて誰知ることもなき一人の平民として生きることとする。
我、ウィリアム・ブラー・バーグの最後の言葉として、我が王位を継いだ者に次のことを命ずる。
我が鎧と剣、それに盾をここに残す。これを見つけ出した者に、我が名の象徴たるこれらの武器一式を贈る。武器と共に騎士としての位もまた贈られるべし。されど我が名ウィリアムは継ぐことならず。
心せよ、我が鎧アンモリカルを着る者よ、決して水に溺れることなかれ・・
ここまで読み、ブランザック王の言葉は詰まった。王の周囲で聞いていた貴族たちが、何を読みあぐねているのかを知ろうと、王の脇から手紙を覗きこむ。王は後を続けた。
・・我が生涯の友、ブランザックよ。できることならば君が王と成りたまえ。私は喜んで君を祝福しよう。大丈夫だとも。君ならば王国をうまく治めることができる。君は否定するが、私はそう確信している。言うまでもないことだが、バルダーンには気をつけろ。やつは危険だ。さらばだ。友よ。生きている内には君にはもう会えまい・・
手紙はそこで終わっていた。
誰もが沈黙のただなかにあった。考えるべき事柄が多すぎる。
我が輩はアリョーシャ神父のことを思った。彼はなぜ、教会の畑の跡地に彼の鎧を隠したのであろう。
彼ともっとも近しかった我が輩に、その鎧を渡したかったのであろうか?
騎士であること、貴族であること、王であることを嫌悪し、一人の人間として自分の理想を追うことにした人物。その一方で、騎士物語を我が輩に語り、騎士へのあこがれを植えつけた人物。我が輩に騎士となる道を用意しておきながら、それが実際に我が輩の手に入るかどうかは神の意思に任せた人物。
我が輩はその時初めて、アリョーシャ神父なる人物を理解できたように思った。まだ幼かった我が輩の目には、彼は神にも匹敵する知識と知恵と経験にあふれた人物のように見えてはいた。しかし彼もまた、生涯を迷い続けて生きた一人の人間だったのだ。
アリョーシャ神父。もし我が輩が、本当に彼の息子だったならば、どんなに素晴らしいことであっただろう。
貴族たちを下がらせ、涙を拭うと、ブランザック王は我が輩の肩を抱いて言った。
「礼を言うぞ。アンガス。余は汝を騎士に叙すことにする。断るではないぞ。これはウィリアムの遺言でもあるのだから。さあ、汝の騎士としての名を決めるがよい。そのまま同じ名としてもよいが、そなたに取って、それは少しばかりまずかろう」
我が輩は考えてしまった。騎士アンガス、確かにこれも悪くはないが、これは平民であったときの名である。新しく騎士として運命の道を歩みなおすのならば、新しい名を選ぶべきである。そんな気がした。
では、いったいどんな名前にしよう?
そのときだ。心の中に一つの名前が浮かんできたのは。それは輝ける文字として我が輩の脳裏に宿り、その存在を主張した。これ以外に、お前の名前は有りえないのだと。
この旅の始めから、常に雨は我が輩の前にあった。雨、嵐、そしてまた雨。雨が我が輩の運命にからんでいるのならば、よかろう、雨男に相応しい名前を選ぼう。
我が輩は心を決めると、王に自分の意思を告げた。
「これよりは、我が輩はずぶ濡れの騎士ウェトニクスと名乗りたいと思います」
「それはいったい? そうか、ウィリアムの手紙の中にあったな。水に溺れるなとは、いったいどういうことなのか、そなたにはわかるのか?」
我が輩は正直にわからないと答え、そして退去を願い出た。今日、一日としては余りにも多くのことがあり過ぎたために、我が輩はすっかりと混乱し、疲れていたのである。
王国に対する反乱を未然に防ぎ、公爵を殺し、失われた王の行方を明らかにし、そして騎士となった。
十分だ。これ以上の謎はいらない。もう眠りたい。
我が輩は案内人に連れられて、王城の中の長い廊下をたどった。これは恐ろしく大きな建物である。王城の敷地内には、騎士たちが泊まる宿泊所の他に、礼拝堂や修道院、それに兵士の訓練所まで含まれているのだ。この王城自体が一つの街と呼んで良い代物だ。
案内人が示した部屋にようやくついたとき、その部屋の扉が内側から開くと、茶色の髪のソバカスだらけの少年が出てきた。城の使用人の子供が、部屋の掃除でもしていたのだろうか?
部屋の中に案内され、扉が閉まる前に、我が輩はちらりと外を見てみた。がらんとした廊下、案内人の背中、その周囲に広がる暗闇。それだけだ。廊下には他に誰もいない。少年はどこに消えた?
まあ、いいさ。我が輩は大きなあくびをした。今日一日の騒動で、使用人たちも目の回るような忙しさなのだろう。城の中の廊下を走るのは禁じられているにちがいないが、それならなおさら走るのが少年というものの特権だ。
我が輩はひさびさに緊張が解けて、どっと疲れがあふれ出てきた。あてがわれたベッドに倒れこむと、そのまま死んだように眠りこんだ。
すべての片がつくまでに、それからさらに一ヶ月の時が流れた。
我が輩が語ったウィリアム王の消息を確かめるために、故郷の村に騎士の一部隊が送られ、またバルダーン公爵の領地の分割と接収が行われた。
バルダーン公爵の息子のニコラスはと言えば、あの事件から一週間ほど後に、王の城に出頭して来た。彼はふたたびブランザック王に忠誠を誓ったが、我が輩を含めて誰もその言葉を信じてはいなかった。簡単に誓いを立てるものは、また簡単に誓いを破る。だが複雑な政治の力関係の下で、ニコラスは生き延びる術を見つけ始めていた。
各地に逃げ延びたバルダーン公爵の敗残兵は、ある者は降伏し、またある者は逃げ延びた先で騒ぎを起こした末に、その短い人生を閉じることになった。もっともその大部分は、今やニコラスが継ぐことになった元の領地へと入りこみ、そこの人々にひどい迷惑をかけているようであった。これでしばらくの間は、ニコラスは自分の領地を治めるのに大忙しとなるわけで、結果として王国は安泰であった。
さて、我が輩はと言えば、ブランザック王のたっての勧めで、騎士の身分に叙せられることとなった。一部の貴族の中には、平民から騎士に格上げされた我が輩に、露骨な反感を見せる者もあった。しかしまあ、バルダーン公爵反乱事件での我が輩の活躍は、誰もが目にしていたために、実際にはそれほどの反対は生じなかった。ブランザック王は没収したバルダーン公爵の領地の一部を我が輩に与えることを考えていたらしく、我が輩が領地経営を習うべきだと周囲に宣言した。
そういうわけで、我が輩は王国の北方にあるリチャード卿の城にしばらくの間滞在し、領主としての教育を受ける予定となった。
驚くべき出世である。我が輩は自分の運命に心底驚愕していた。一ヶ月前の我が輩は、処刑場に引かれる死刑囚同然であった。今日の我が輩は騎士であり、そして来るべき日の我が輩は、小さいとは言え、自分の領土を持つ領主なのである。
人生とは何と不思議なものなのか。
ある良く晴れた日に、我が輩は自分の馬の背に乗って、リチャード卿の城へと出発した。今は亡きバルダーン公爵の配下が、各地にまだ潜んでいるかもしれない。その恐れがあったので、ブランザック王は二人の騎士を我が輩の護衛につけて送り出してくれた。
我が輩の馬である食いしん坊は、王城の厩の中で、その名前の通りに大食いを続けていたらしく、どっぷりと太っていた。いや、それは以前のあばら骨が見えていたときに比べての話であり、馬の相棒の名誉にかけて言うならば、彼は実に均整の取れた姿を持った見事な馬であると言えた。ほどよい運動と良質な餌のお陰で、彼はその特質を開花させ始めていたのである。事の成り行きから、彼がこれほどの幸運をつかんだのを見て喜んだのは、何を隠そうこの我が輩である。我が輩はこの馬が気に入っていた。
三日ほど騎士たちと旅を続けたところで、我が輩はとある川のほとりに差しかかった。
前日降った雨のために川の水は茶色く濁り、水嵩を増して流れていた。それでもすでに雨が上がった後の街道はからからに乾いており、おりからの強い日差しにより、地面の上に陽炎が立つほどの暑さへとなっていた。騎士の一人がここら辺りで休憩しようと提案し、我が輩はそれを了承した。
都合の良いことに、道の先にほどよい木陰を提供している林が見えた。我が輩と二人の騎士は、そこで馬に草を食べさせる間、涼むこととした。さきほどとは別の騎士が、馬の背から酒の入った皮袋を降ろすと、木彫りの杯の中に酒を注ぎ、我が輩へと渡してきた。強い香りのする真っ赤なブドウ酒である。我が輩の口には少しばかり合わなかったが、文句を言うべき筋合いでもなく、我が輩は礼を言うと乾いた喉に流しこんだ。
騎士たちは皮袋から直接酒を飲み合っていたが、やがて我が輩は飲みすぎたせいか、ひどく目眩を覚えてきた。
奇妙である。我が輩はこんなに酒に弱かったのだろうか?
我が輩が少し休ませてくれと言うと、彼らは大声で笑い、そうして口笛を一つ鋭く吹いた。それに答えて、林の奥から見覚えのある人物が二人現れた。
ニコラスだ! それとあの東洋人。
我が輩は驚愕とともに立ち上がろうとして、足がもつれて頭から地面に倒れこんだ。そばで草を食べていた我が輩の馬が、我が輩が倒れたのに驚いていなないた。
「さしもの勇者も、毒入りワインを飲めばこのざまか」
にやにやと笑いながらニコラスが言った。それに答えて、彼の横に立つ東洋人は肩をすくめると答えた。
「あの杯に入れておいた分で、大の大人が五十人は殺せる量です。いかに奇跡の力の持ち主と言えども、耐えられるわけがありません」
その通りであった。我が輩の呼吸はますます苦しくなり、ぐるぐると空が回り始めた。せめてニコラスの足でもつかんでやろうとした我が輩の手は、弱々しく大地の表面を引っ掻くだけであった。
何と言うことだ。我が輩はこんなにあっさりと罠にかかってしまったのだ。ブランザック王が護衛につけた騎士たちが、こともあろうにニコラスの息がかかった者とは。
いけない、これでは。薄れてゆく意識の片隅で、誰かが叫んだ。この様子では、王の側近の中にも、ニコラスの手先が潜んでいるのかもしれない。警告せねば、ブランザック王の命が危ない。
東洋人は腰から短剣を抜くと、我が輩の喉に当てた。東洋人の黒の瞳が、限りない死を満たして、我が輩をみつめる。
ニコラスは暗殺者の動きを声で鋭く制止した。
「やめろ。そいつの体に傷をつけるな。死体が見つかったほうが都合が良いし、そのときにはあくまでも事故に見えなくてはいけない。まだ今のおれは、あのブランザックに不要な嫌疑をかけられるわけにはいかないのだ。今は。まだ、な」
そうして彼は我が輩の目を覗きこむと静かに言った。
「信じてもらえるかな? アンガスよ。お前がおれの親父を殺したことについては、別に怨んではいないってことを。むしろ礼を言いたいぐらいだ。だからこいつは、おれが折られた剣の分だと思ってくれ」
ニコラスは殺意をこめて我が輩の腹を力任せに蹴りつけた。
「痣ができるぐらいなら、問題はないさ」
そう言い放つと、ニコラスは背後の騎士たちに合図をした。我が輩は腹部の激痛にのたうちまわりながら、果たしてこの痛みはニコラスに蹴られたためなのか、それとも毒のせいなのかと考えた。
騎士たちは動きの取れない我が輩の服を脱がせると、その代わりに我が輩の馬から降ろした鎧を着せ始めた。すでに我が輩の目は見えなくなりつつあり、どこかで教会の鐘が鳴るのが聞こえてくるような気がしてきた。苦痛の炎は今や我が輩の全身を駆け巡っており、指一本動かすこともできなかった。
ニコラスは我が輩の耳に口を近づけると大声で怒鳴った。
「おい、聞こえているのか、アンガス。この騎士たちはな、親父がまだ生きていたころに、ブランザックの近衛兵の中に紛れこませた男たちよ。たまたま今回、お前の護衛にこの二人がつくことになったとは、神か悪魔かは知らんが、おれにはまだ味方がいるようだな。いいか、よく聞け。おれはお前をこれから川の中に放りこむ。ウィリアム王の手紙のことはおれも聞いた。この鎧を着る者は水に溺れるべし、か。ブランザックはお前の死を、この鎧にまつわる呪いのせいだと思うだろうな」
それから最後にニコラスは一言だけ付け加えた。
「心配するな。お前の馬も一緒に地獄に送ってやるから」
我が輩は体が持ち上げられるのを感じた。すでに耳もよくは聞こえなくなっており、頭の中では鐘の音ががんがんと鳴っていた。何かが我が輩の心臓をつかみ、胸の中から引きずりだそうとしている。
股の間に、鞍が当たる感触。興奮した食いしん坊の激しい息遣い。我が輩は無理やり、馬に乗せられているのだ。
「あの世で親父によろしくと伝えてくれ」
どこか遠くでニコラスが叫んだ。それと同時に我が輩の馬の叫び声が小さく聞こえ、その体が走り出すのが感じ取れた。目の前を覆う暗闇が、決して変わらぬ黒を保証しながらも、それでも後ろへと流れ始める。落下感。そして衝撃。周囲で何か冷たいものが暴れ、鎧の中といわず、我が輩の口と言わず、遠慮なく流れこむ。
川だ。我が輩は毒を飲まされ、馬ごと川に落とされて、濁流の中を流されている。
アリョーシャ神父の死の瞬間が思い出された。水。水。水。そして、我が輩は溺れ、静寂の中へと深く深く沈みこんで行った。
バルダーン公爵は危険だ。そうウィリアム王の手紙には書いてあった。
どうせなら、もう一言、付け加えておいてくれればいいのに。ニコラスはもっ
と危険な男だと。
蛇の体につける小さな頭だって?
とんでもない。その小さな頭には、触れる者すべてを殺さずにはいられない
猛毒があるのだ。
まあ、ウィリアム王が失踪した時には、ニコラスはまだ小さな赤ん坊だった
のだから、その悪の素質を見抜くことは、さしものウィリアム王にもできはし
なかったのであろう。
象徴的には、我が輩はこのときに死んだ。現実では、我が輩はこの危機を何
とか生き延びることができた。
そしてさ迷ったのだ。幻と魔法が支配する、あの王国の中を。
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