第一章 人たるものの王国】冒険行8)宮廷争議

 王都の中央街路を抜け、橋を渡ると、そこは王城である。処刑場へと引きずられる囚人の気持ちを尋ねたいのならば、我が輩に訊くとよい。我が輩はそれを骨の髄まで味わった。

 王都は平地に広がっているが、その端に位置する王城は、突き出た岩山の上に建設されたものだ。つづら折りになった道を何度も往復して、ようやくのことに王城の正門へと到着した。

 門が開き、バルダーン公爵の軍勢が雪崩こむ。

 我が輩は馬の上で息を飲んだ。王城の中は武装した兵士で一杯だったのだ。完全武装の騎士から始って、槍を持っただけの歩兵まで、ぎっしりだ。その中へ、盾を構えたバルダーン公爵側の兵士がくさび型隊形をとってねじこむのだ。

 いったい何をやっているのだと、我が輩は驚いていた。ここに来たのは会議のためか、それとも戦争のためか。

 バルダーン公爵が、守備側の部隊に混ざっていた騎士の一人に、大声で呼びかけるのが聞こえた。

「サマニー卿。これが王子の帰還を迎えるブランザックのやり方か!」

 他の騎士よりも頭二つ分は高い大男が、その声に顔を上げた。我が輩は最初、熊が人間の騎士の間に立っているのかと思った。やがてそれが、顔面すべて大量の髭に覆われている人間なのだと気がついた。彼はバルダーン公爵に劣らぬ大声で叫び返した。

「馬鹿なことを言い申すな。バルダーン公爵よ。これは単なる用心に過ぎぬ。今までそちらが送りこんだ暗殺部隊の数を考えれば、これぐらいは当たり前というもの」

 我が輩がもっとも驚いたことには、バルダーン公爵は指摘された暗殺部隊のことを否定しなかった。サマニー卿と呼ばれた騎士はすばやく命令を出すと、兵士たちを脇に寄せた。城の中庭一杯に詰めかけた人々の間に、道が開けた。

 海の中にできた道を渡ったという古の予言者というのは、こんな気持ちだったのだろうなと思いながら、我が輩は馬を進めた。我が輩の周囲はぴったりと張りついたバルダーン公爵軍に固められている。

 アーチをくぐり、もう一つの中庭を通り抜けると、そこは王城の中心部である。石作りの堂々たる建物が我が輩の前にそびえ立つ。風格が建物自体から染みだして来るかのような古く堂々とした建物だ。

 馬を降りる。たちまちにして我が輩の周囲を兵士が埋めて、外側を取り巻く王国側の兵士が近寄れないようにした。あの東洋人が我が輩の背後に立つのを知って、我が輩はぞっとした。東洋人は右手をこれみよがしに、自分の懐に突っこんで見せた。そこにあるのは暗殺に使う毒塗りの短剣。いつでも取り出せると脅しているのだ。

「ささ、王子さま。何をしております? 王座を取り返しに、いざ、参りましょう。すべてこのバルダーンめにお任せください」

 すべての問題の元凶であるバルダーン公爵が、我が輩の背後の暗殺者のことなどまるで知らないかのように、軽い口調で言った。

 建物を守る大扉が開く。見事なアーチを描く短い廊下が眼前に広がった。アーチの左右には緊張した面持ちの兵士がずらりと並んでいる。念の入ったことに、アーチの上の所にも、石弓を持った兵士が待機して身を乗り出している。

 廊下はすぐに尽き、ついに最後の扉が開いた。王の広間が目の前に広がる。

 我が輩は目をしばたいた。

 王の広間のテーブルは、領主の館で見たもののまさに数倍の大きさがあった。広間自体も大きく、その空間の大部分を完全武装した騎士たちが満たしていた。どれもいまテーブルについている貴族達の護衛らしく、いずれ劣らぬ猛々しい顔つきの者たちであった。鎧同士が触れ合い、にぎやかな音を立てている。

 このような大事なことを決める場所に、剣を持った者を入れることが許されていることに、我が輩は少なからず驚いた。これではお互いの意見が少しでも衝突しようものならば、たちまちにして殺し合いが始ってしまう。

 会議などではないのだ、これは。我が輩は理解した。バルダーン公爵があれだけの数の軍勢を集めたのも当然だ。これはもう会議に名を借りた総力戦以外の何物でもない。

 全身、これ以上にないというほど着飾ったバルダーン公爵に連れられて、我が輩が広間に足を踏みいれると、その場で待ち構えていた全員の視線が我が輩に集まった。

 殺意。好奇心。値踏み。好意。そして軽蔑。そんな感情や思考の数々。人間の持つあらゆる思いが、そこには渦巻いていた。

 この余りにも剥き出しな感情の奔流に触れて、我が輩は少なからず肝を冷やした。公爵配下の騎士たちが押しのけるようにして人々の中に道を作ると、ようやく我が輩たちはテーブルに用意された席に着くことができた。騎士のひとりが我が輩の盾を持つと、それを我が輩の頭上に高く掲げて、表面に描かれた紋章が見えるようにした。

 それを目にして広間全体が大きくざわめく。貴族たちが一斉に思い思いの意見を述べ始め、大広間は一転して騒然となった。

 それらの中心にあってただ一人、威厳そのものに包まれて静かに座っているのが、問題のブランザック王だ。ブランザック王は、鷹を思わせるするどい目つきをした、すでに老年にさしかかった男であった。顎と口の周りは奇麗に手入れされた髭で覆われていて、その表情はなかなかに読み難かった。

 もし彼がバルダーン公爵から話された通りの欲深で狡猾な人物ならば、彼にだけは弱みを見せるわけにはいかない。ブランザック王の左右に位置している貴族たちは、恐らくは王の側近であると、我が輩は見て取った。彼らの背後に控えているのは、王直属の護衛兵だ。この精鋭中の精鋭と言える騎士たちは、抜き身の剣を下向きに向けて体の前に掲げたまま、微動だにしていなかった。守護騎士と呼ばれる階級であるとは後で知った。その役割は、いざというときにその身を盾にして王とその重臣たちを守ること。

 いまがその『いざ』である。

 それにしても会議の席に抜き身の剣とは。

 しかし考えてみれば不思議はない。

 我が輩はバルダーン公爵を信じていない。だから隙があれば逃げるつもりである。それはバルダーン公爵も同じで、我が輩を信じてはいない。だから東洋人の暗殺者を我が輩の背中に張りつけている。

 悪魔と契約するようなものだ。信用などという言葉は最初から嘘である。裏切りを思考の中心におけば、我が輩とバルダーン公爵の関係はこういった形以外にはなりようがない。

 同じように、ブランザック王とバルダーン公爵はお互いを信じていないのだ。だから武器なしでの会議など最初から存在しない。武器を忘れたほうが先に墓地に眠ることになる。王位を巡る二人の闘争は、ウィリアム王失踪以来の二十年でそこまで悪化していたのだ。

 両者の戦いを防いでいたのはたった一つの事実だけ。つまり、戦いを開始するための大義の不在なのだ。

 その大義こそが、我が輩、もっと正確に言えば、我が輩の着ているこの鎧なのだ。

 ブランザック王とバルダーン公爵は、我が輩の頭の上を通して、にらみ合った。不倶戴天の宿敵とはまことに両者のような関係を言うのである。

 我が輩はできるかぎり頭を低く下げ、両者の視線の間に割りこむまいとした。これでは燃え盛る炎の中に手を突っこむほうがまだましだ。

 バルダーン公爵が我が輩の横の席につき、東洋人がこれ見よがしに我が輩の背後で軽く咳をした。その視線が我が輩の首の後ろに注がれるのを、痛いほどに感じた。

 我が輩がいるのは狼の群れの中。少しでも隙を見せれば、その場で食い殺されることとなる。

 ブランザック王がテーブルを二度、三度と叩くうちに、大広間の中のざわめきは静かになった。王は部屋の中をぐるりと見渡すと、もう一度その視線を我が輩に戻し、会議の開始を宣言した。よく通る、実に力強い声だ。

「失われた王の手がかりが見つかったと言う名目で、バルダーン公爵が王国会議を招集したのはこれで三度目である。しかしながら、今回は今までとは趣がちがうようであるな。その盾、それにその若者がつけている鎧は、確かに、かのウィリアムのものである」

 それからブランザック王は眉をひそめてから続けた。

「して、剣はどこに。我が友ウィリアムが数々の武勲を立てたあの名剣は?」

 我が輩の背後で動きが起き、盾の横に我が輩の剣が掲げられた。きらりと輝く見事な剣。しかし我が輩には、それがまるで死刑執行人の構える斧のように思われた。

「よろしい。いつものバルダーンの空騒ぎとは違うようだな」

 無遠慮にブランザック王は言った。それを聞いて、我が輩の横でバルダーン公爵の体が強ばるのがわかった。

「さて、諸君らがこの城に到着するまでの間、我々は十分な討論を行った。結論から先に言おう。そこにいる若者をウィリアム王の息子と認めるためには、ある試しを受けてもらおうということになった」

 試しだって?

 ああ、そのときの我が輩の体を突き抜けた衝撃ときたら。試しなど受けたら、我が輩の正体はすぐにばれ、激怒したブランザック王に死刑を言い渡されるのだ。いや、その前にバルダーン公爵に後ろから刺されるだろう。

「試しは、実に公正なものだ。その若者がウィリアムの息子ならば、どれも難なく突破できるはず」

「拒否する。すでに王子の身分は明らかだ。これは、ブランザック、貴様があくまでも王位に固執するがための策謀に過ぎぬ」

 我が輩の横でバルダーン公爵が怒鳴った。ふたたび広間が騒音に満ちあふれた。我が輩の周囲では、騎士たちが床を足で踏みつけると、抗議の意思を明らかにした。前にでようとした騎士が、それを阻止しようとした騎士と、真正面からぶつかりお互いににらみあった。人々の間に殺気が雲のように湧き上がるのが、我が輩には見えたような気がした。

 ブランザック王はふたたびテーブルを叩き、広間に静寂を取り戻した。

「つまらん煽動は止めてもらいたい。バルダーンよ。お互いここで何が行われるべきなのかは理解しているのだから。必要なのは真実だ。それ以外は何もいらん。

 確かにその若者は、若かりし頃のウィリアムに良く似てはおる。だがそれだけでは証拠とはならない。またウィリアムの鎧があったからと言って、それだけでは王位を要求するのには不足だ。鎧は主人を選べないのだから。

 ただし、そこにいるのが本当にウィリアムの息子ならば、余は喜んでこのウィリアムから預かった王冠を返そう。だが、もしそうでないのならば。バルダーン。貴様の罪は明らかとなる」

「何の話だ」バルダーン公爵は聞き返した。

「決まっておる。ウィリアムをこの城から誘拐し、そうして殺したのは貴様だということだ。ウィリアム王の着ていた鎧を、よもや偶然見つけたなどと言うつもりはないのだろうな?」

 バルダーン公爵が立ち上がった。怒りにその顔を真っ赤に染めて。

 我が輩はそれを見て、もしこれが公爵の演技ならば大したものだなと思った。

 いや、それは演技だったのだろう。公爵ほどの悪知恵の働く人物が、この事態を予想していない、などということはありえない。ここに来る直前、我が輩の鎧の内側についている隠しポケットの中に押しこまれた偽の手紙のことを我が輩は考えた。その手紙にはブランザックの放った刺客に追われ、ウィリアム王が城から逃げ出した経緯が、詳しく書きこまれている。もちろんその内容はまったくの嘘だが、一度生み出された疑惑は、真偽を確かめる間もなく、人々の心に食いこみ広がるであろう。ちょうど今、ここで行われた通りに。

 バルダーン公爵をにらみつけながらブランザック王は言った。

「もうここらで決着をつけてもよかろう。バルダーンよ。余が王位についてからのこの二十年間、そなたが行ってきた陰謀の数々に、余は飽き飽きした。隣国の愚かな野望により王国の存亡の危機が続いているというのに、そなたの考えることと言えば、ただ王冠のことのみとは、まことに呆れ果てたわ」

「親友を裏切り、その手にかけ、そうして手に入れた王の椅子に座ったままで、よくぞ言ったな。ブランザック、偽の王よ。

 この王国の玉座の中で正義が行われないで、どうして王国が一つになれよう?

 どうして国がまともになろう?

 ここでは盗賊が王冠を被っている。わしはただ、それを正そうとしているだけなのだ」

 今度は広間に騒ぎは起きなかった。今や王国を二分する勢力の代表である二人は、静かににらみ合った。殺気などという段階はすでに越え、この場に醸し出された純粋な殺意は、それだけで人を悪夢にも似た陶酔に引きこむ力があった。

 迂闊にも声を発することで、この二人の視線を浴びたいとは、その場にいた誰も思いはしなかった。二人の敵意をこめた視線はテーブルの上でしばらくの間、無言の火花を散らしていたが、やがてそれは我が輩のほうへと向いた。

 最悪だ。

「試しだ。それがすべての答えをつけてくれる」ブランザック王が静かに言った。

 それに対して、バルダーン公爵が答える。

「その試しはこの場で行われなくてはならない。今、この場で、みなが見ている前でだ。内容は公正でなくてはならない。わしはそれを最後まで見届けるぞ。欠席裁判などごめんこうむる。秘密の内に、王子を消し去ることもだ」

 その瞬間、我が輩の心臓は我が輩の胸の中にいることに見切りをつけ、外に逃げ出そうとした。そうして我が輩の周囲を剣を持った騎士が取り巻いていることにふたたび気づき、情けないことに逃亡を諦めた。

「もちろん、そのつもりだ。今、この場で、試しは行われる。後々に遺恨を残さぬためにもな。バルダーン公爵よ。ここで決着がつく。そなたを野放しにするつもりは、もはや余にはないぞ。さらに言うならば、試しの内容はすでに決まっておるし、その内容も公正だ」ブランザック王は宣言した。

「そなた。ウィリアム王の鎧を着る若者よ。そなたがウィリアム王の持っていた正当なる権利を取り戻そうと思うならば、余の決めた三つの試しを通り抜けねばならない。審議はただちに始める。よいな」

 我が輩は絶望の面持ちでバルダーン公爵を見た。事態は我が輩の意思に関りなく進み、しかもそれは地獄の縁へと容赦なく流れていくようであった。その縁から我が輩が地獄へと転げ落ちるのも、そう遠い話ではない。

 バルダーン公爵はそんな我が輩を見ると、周囲に聞こえるようにと、わざと大きな声で言った。

「さあ、しっかりしなさい。王子。あなたの正当な権利を取り戻すのです。恐れることはありません、偽王ブランザックをその裏切りの玉座から引きずり降ろすために、あなたは遣わされたのです」

 それから我が輩の肩を二度ほど軽く叩くと、バルダーン公爵は身を引いて、我が輩を一人、王の前に置いたままにした。

 他の誰かの手が我が輩の肩におかれ、それが誰かを確かめて我が輩はぞっとした。

 あの東洋人だ。もちろん、その手は我が輩を慰めるためのものではない。我が輩がブランザック王の試しに失敗すれば、すぐにでも、この男が我が輩を殺す手筈なのだ。

 だがそれではバルダーン公爵に嫌疑がかかるのでは?

 当然そうだろう。だがそのときは、彼は真実を告げればよいのだ。無知で愚かなどこぞの農夫の息子が、失われた王の鎧を厚かましくも着こんで、自分の館を訪れたのだと。そうして死んだ我が輩の体から鎧を剥ぎ取り、それをブランザック王に返そうとしながら、鎧の隠しポケットの中から例の偽手紙を見つけ出せばよいのだ。おう、これはなんだ、なんと手紙ではないか。そう言いながら、ブランザック王を陥れる。単純だが、頭に血が上った貴族たちならば簡単にひっかかるだろう。とくにその誰もがいけにえを要求しているときには。

 たったそれだけで、バルダーン公爵は反逆者と呼ばれることはなくなる。王位に対して戦争を仕掛ける口実には、偽手紙一通だけで十分なのである。

「心の準備ができたならば、試しを始めたいと思うがよいかな?」

 ブランザック王は我が輩の目を見つめながら言った。我が輩の示すあらゆる兆候を読み取ろうとでも言うかのような、隙のない厳しい目であった。

 ああ、今でも思い出す。

 その瞬間、自分の魂が神の天秤の上に載せられて量られていると感じた。たまらなく不安な瞬間。自分の一挙一動が見つめられ、量られる。そう遠くない未来において我が輩が実際に死ぬときにも、それをもう一度味わうにちがいない。

「最初の試しは、詩の試しだ」ブランザック王は宣言した。

「詩だと!?」バルダーン公爵が調子はずれの声で聞き返した。

「そうだとも、詩だ」ブランザック王は深く静かな声で答えた。

「ウィリアム王と余は親友であった。彼にはある癖があったことを余は覚えている。彼が寛いでいるときには、小さな声で彼のお気に入りの詩を歌うのだ」

「その親友を、お前は裏切ったのだぞ」バルダーン公爵が鋭く言い放った。

「そなたの偏見には付き合えぬ」さらりとブランザック王は受け流した。

「これより余は、その詩を歌う。ただし、すべてではなく、最後の一章を抜かしてだ。その詩を完成させて貰いたい。もしそなたが真にウィリアムの息子ならば、詩の断片なりと覚えているはず」

「異議がある! 彼の父親は彼がまだ幼いときに死んだのだ。つい最近まで、王子は自分が王位を継ぐべき血であることも知らなかったのだ」

 バルダーン公爵が猛烈な勢いで抗議した。もちろん、その内容はこの場で勝手に作ったものだ。

「例えそうであったとしても、子守り歌代わりには聞いているはずだ。すべてを歌えとは申さぬ。歌の断片だけでも答えられればよい」

「そうだとしても、それが正しいとどうして我等にわかる? それを判定できるのはお前だけだ。正しい詩を歌っても、お前がちがうと言えば、それまでだ」バルダーン公爵は鋭く指摘した。

「余はその歌をつい先刻、この二人にも教えた」ブランザック王は側近の二人の貴族を示した。

「ヘンリーにリチャード! どちらの男もお前の味方ではないか。一体全体、何が彼らの判定を保証できる?」バルダーン公爵が吠えた。

「余と彼らの、この王国を支える騎士としての誇りそのものが、それを保証するであろう」

 ブランザック王は断言した。そして彼は歌った。ウィリアム王の詩を。

 ウィリアム王は騎士の生活というものに、深い疑問を抱いていたらしい。その詩の一番目は、酒を飲むことを止められない騎士の行いについての皮肉で滑稽な詩であった。戦場に出ても酒は止められず、敵の剣につけられた傷から酒の泉が湧くところで、詩は終わる。

 その場にいた皆が呆気に取られる中で、ブランザック王は詩の二番目を歌った。自分の領地を賭けて賭博をした騎士の詩で、彼はとうとう最後に自分の称号を賭けて負けてしまう。こうして名を失った騎士は、平民と見分けがつかなくなるという詩であった。

 ブランザック王の歌が続くうちに、我が輩の記憶の中の奥深い場所が開いた。驚きとともに懐かしさが蘇り、そして我が輩は理解した。もっとも重要な一点を。どうしてもっと早くそのことに思い当たらなかったのかが、我ながら不思議であった。

 周囲でおとなしく歌を聞いていた騎士たちの顔が、詩の内容を知るとともに、自嘲でわずかに歪む。ブランザック王は歌を終えると、我が輩を見つめた。バルダーン公爵が身じろぎする。東洋人の手がそっと後ろに引かれる。冷たい予感が我が輩の首筋を走った。

 歌うのだ。アンガス。何かが我が輩の心の中でささやいた。毒塗りの短剣が刺さる前に。

 そして我が輩は歌い始めた。

 三番目にして最後の詩は、街の女に惚れこんだ騎士がすべてを捨てて、その女の後を追いかけると言うものなのだ。我が輩は高らかにその詩を歌った。

 東洋人がためらい、何かをバルダーン公爵と目配せするのが感じ取れた。だが我が輩は過去の思い出の中に浸っていて、それに注意を向けるだけの余裕はなかった。

 子供のときの思い出、追憶の瞬間、我が輩は過去に戻り、木の下でアリョーシャ神父の畑仕事を見守っていた。少しばかり手伝い、後は木陰でのんびりと過ごす。自分の家にいるよりも、そこにいたほうが落ち着いた。汗を流して地面を掘り起こしながらも、神父は幸せそうに奇妙な詩を何度も何度も口ずさんでいた。そう、それこそが我が輩がいま歌っているものだ。

 アリョーシャ神父。王国の玉座を捨てて、一介の貧乏神父の人生を送らせるような何が、彼の身の上に起こったのだろう?

 我が輩は歌い終わった。歌を聞いていた全員の目が、今度はブランザック王に向いた。

「正解だ」一言だけ答えると、ブランザック王は椅子に腰を降ろした。

「なんと! 王子、見事にやり遂げましたな」バルダーン公爵が満面に笑みを浮かべて叫んだ。「わしは信じておりましたぞ。高貴な血筋のものは顔つきでわかるというもの」

 我が輩はバルダーン公爵を見つめた。彼は小さく片手を振ると、我が輩の背後にいた東洋人に合図する。東洋人は一歩下がると観客の中に身を埋めるようにした。その手が懐から抜き出しかけていた何かを、元の所に押し戻すのが見えた。

 バルダーン公爵のような人物を何と呼べばよい?

 偽善者。いいや、ちがう。彼は善人を標榜してはいない。

 王位纂奪者。これもちがう。彼の欲望はもっと大きい。王位を手にいれるだけでは収まるまい。

 大悪党、それとも人の皮を被った悪魔。悪漢。うん、ここら辺りがぴったりだ。

 最初の試しを我が輩は突破した。しかし、それで状況が楽になったわけではない。

 ブランザック王はテーブルに両肘をついて、我が輩を見つめていた。その瞳がきらめいているように見えるのは、我が輩の気のせいか?

「見事だ。若者よ。だが、これだけでは王位を要求するには足りぬ。二番目の試しを受けてもらおう。かのウィリアム王は豪勇にして怪力無双。奇跡の力と皆は呼んでおった。自分の身長を越える大岩を持ち上げ、重い鋼鉄の剣をあたかも木の棒であるかのように振る。なかでも戦場のただなかで、無謀にも単身挑んできた敵を震え上がらせていたその技は、敵の武器をつかみ取って、それをねじ曲げてみせることであった。もし、汝が真にウィリアム王の息子であるならば、同じことができるはずである」

 なんだって! 我が輩は座った椅子から跳び上がりかけた。冗談じゃない。奇跡の力の実演が試しだなんて。我が輩にそれができるはずもない。バルダーン都市の城壁も、ニコラスの折れた剣も、すべて偶然の結果だったのだから。

 ブランザック王が手を振ると、その背後から戦槌を持った騎士が進み出た。柄まですべて鋼で出来た大振りの戦槌である。鋼鉄の握りに、鋼鉄の柄、先端には恐ろしく重量のある先の尖ったこれも鋼鉄の塊。

 曲げるだって?

 これを?

 冗談じゃない。そんなことができる人間がこの世にいるものか。我が輩は運ばれてくる戦槌を暗い目で見つめた。いや、待てよ。もしかしたらこの武器も、長い間、地下室に放置されていて錆ついているのかもしれない。

 そんな我が輩の思いなど知るよしもなく、どんな試しが行われるのかと緊張して見守っていたバルダーン公爵は豪快に笑い声を上げた。彼は我が輩の鎧の肩をばんばんと叩いて言った。

「さあ、おやりなさい。王子さま。お父上ゆずりのあなた様の力を見せるべきときです。こんな細い棒など、勢い余って引き千切ってしまわないようにすることのほうが大変でしょうな。そうだ。最初から戦槌が壊れていたと言われないためにも、確かめておいたほうがよいでしょうな」

 バルダーン公爵の言葉に従って、ブランザック王の側の騎士と、バルダーン公爵の側の騎士が、この戦槌を力の限り引っ張り合い、何の仕掛けもないことを証明してみせた。

 頑丈そのものの戦槌だ。さすがに王国騎士団の武器には、錆などどこにもついていない。

 今までのように武器が最初から壊れているなどという幸運は、これで尽きた。我が輩は目の前の太い金属の棒を見つめた。例え大熊を素手の一撃で殴り殺せるほどの怪力があったとしても、この頑丈な鉄の棒を曲げることなどできはしない。

「さあ、さあ、何をためらっているのです。今こそブランザックめの鼻を明かしてやるべきときなのですよ」

 バルダーン公爵に促されて、我が輩はしぶしぶと戦槌を取り上げた。それは持ち上げるのも困難なほどの重さだ。その柄はようやく我が輩の小手をつけた手が回るほどの太さであり、先のほうには鈍い輝きを放っている大きな金属の四角錘の重りがついていた。

 周囲に気取らせないように我が輩は両腕に力をこめ、その柄を握りこんでみた。頑丈な鋼の柄はびくともせずに、我が輩の手の中に納まっていた。何と言う堅さ。曲がるどころか、しなることさえしない。当たり前だ。これは鎧を着た人間ごと、その重みで叩き潰すための武器なのだから。頑丈さと無骨さだけが取り柄の武器なのだ。

「さあ、王子。それをさっさと曲げて見せ、皆にあなたが王子であることを示すのです」

 バルダーン公爵があおり立てた。鼻を明かすも何も、我が輩はさっきから鎧に隠した腕に力をこめて、この鋼鉄の棒を曲げようとしているのだ。背後の男が持つ毒塗り短剣と、手の中の戦槌を思い、これを後ろに投げつけてやろうかとも考えた。駄目だ。我が輩が行動を起こすよりも、暗殺者が毒塗り短剣を引き抜いて、我が輩の無防備な首筋に刺すほうが、うんと速い。

 我が輩はからからに干上がった喉を指差すと、水を一杯要求した。ブランザック王のそばに座っていた貴族の一人が、立ち上がると声を発した。

「つまらぬ時間稼ぎをしているな。これでやつが王の息子でないことははっきりした」

 それを押しとどめたのはブランザック王その人であった。

「まあ、待て。確かにウィリアム王も良く喉が乾く人であった。思い出すぞ。戦場では彼はいつも、水をたっぷりと入れた皮袋を二つ、馬の脇に吊るしていたものであった」

 ブランザック王が合図をすると、どこからか大きな水差しが運ばれて来た。

「待て。毒見を要求する。王子を暗殺するつもりだろう」バルダーン公爵が喚いた。

 この声に応えて、水差しを運んで来た男がまずそれを飲んで見せると、我が輩に水差しを手渡した。

「さあ、ぐっとお飲みなさい。それからやつらに目にもの見せてやるのです」

 バルダーン公爵は我が輩の顔を覗きこむようにしながら言った。そうして一言だけ冷たく小さく付け加えた。「アンガス殿」

 王子さま、と言ったのではない。これは脅しに聞こえない脅しだ。

 我が輩は咳きこみ、その拍子に水差しの水を派手に体の上にこぼしてしまった。この水はこの世で我が輩の飲む最後の水だ。我が輩は観念して水差しを置いた。もう時間稼ぎはできない。

 恐怖のせいか、頭が少しぼうっとした。全身がむずむずする。奇妙な戦慄が、皮膚を駆け抜ける。

 そして我が輩はテーブルの上の戦槌をつかむと、奇跡が起こることを願って全身の力を両手にこめた。

 頑丈なはずであった金属の棒が、いきなり柔らかくなった。

 我が輩の手の中で、さして抵抗することもなく戦槌の柄は曲がり、ぐるりと輪を描いた。焼けた豆が弾けるような破裂音とともに、力に耐えきれなくなった戦槌の柄が、そのままぽっきりと途中から折れてしまう。叫びと、どよめきが、広間を埋め尽くした。誰が驚くよりも、まず我が輩が最初に驚いた。我が輩は二つに千切れた戦槌を取り落とした。戦槌の鋼鉄の柄の上に、我が輩の小手の痕がくっきりと残っている。

 奇跡の力だって?

 自分にこんな力があるなんて、初めて知った。

「なんとこれはまさにウィリアム王の御技そのものだ」誰かが叫んだ。

 ブランザック王が立ち上がった。我が輩はまだ驚きから覚めやらぬままに、かの王の顔を見て、そうしてそこに何か強烈なものを見て取った。王の顔にあったのは、我が輩が予想していたような悪意ではなく、まったくそれとは別のものであった。

 我が輩は立ち上がると後ろを向き、手の中の戦槌の残骸を差し出した。騎士たちが手を伸ばして来る中、わざとそれを東洋人の胸へと押しつける。

 元から細い東洋人の目がますます細くなる。東洋人の感情はきわめて読みにくい。だが目の前の奇跡の証拠にも関らず、彼が我が輩を恐れてはいないことだけはわかった。それでもその目の奥で、我が輩の姿がただの愚かな若者から、侮り難い敵へと昇格したのだと、そう我が輩は感じ取った。

 折れた戦槌が騎士たちの手から手へと巡る。広間の中のざわめきがなかなか収まらない。

 バルダーン公爵は会心の笑みを浮かべ続けている。ますます自分の下に近づいて来る王座を、その場で夢見ていることは明らかだ。いつの間にか帽子を脱ぎ、毛が一本も生えいない頭を周囲にさらしている。無意識の内に、その上に王冠を載せる準備をしているのだ。

 彼を改めて見て、毛がないのはバルダーン公爵の頭だけではなく、その全身であることに気がついた。手の甲にも一本の毛も生えてはいない。

 ブランザック王はもう一度、苦労して広間に静けさを取り戻すと、次の試しを始めることを宣告した。

「そなたは試しを二つ、通り抜けた。余には、そなたがウィリアムの息子であることは確実であると思える。余は喜んでこの王冠を正当なる人物の元へと返そう。だからここで、最後の試しを受けて貰いたい」

 ブランザック王は合図を出した。

 騎士の間をかき分けて出て来たのは、司祭の衣装に身を固めた、歳は初老ぐらいの、これも厳しい顔つきの男であった。

 我が輩の背後で、誰かがひそひそと話すのが聞こえた。

「まずいぞ、あれはエドワード神父だ。神の与え給うた奇跡により、人の嘘が見抜けるともっぱらの評判の神父だ」

 嘘を見抜くだって?

 いったい誰の嘘を?

 もちろん、我が輩の嘘を。我が輩の手の平はじっとりと汗ばんだ。いよいよ万事休すだ。

 自分の横に立ったエドワード神父を示しながら、ブランザック王は言った。

「彼のことを知っているな? 我が王国の司祭長たるエドワード神父だ。今度の試しは彼に立ち会ってもらう」

「これ以上、何の証拠がいるというのか?」バルダーン公爵が立ち上がると言った。

「見苦しいぞ。ブランザック。お前の王位は失われたのだ」

 ブランザック王は少しもたじろがなかった。

「彼が王子であることに異存はないと言ったろう。バルダーン。これは、あくまでも念のためだ。彼はたまたま生まれつき怪力なのかもしれない。そしてまたウィリアムは貴様の館の地下牢の中で、さきほどの詩を口ずさんだのかもしれない。だからこそ、この最後の試しがいるのだ。余は三つの試しをすると言い、貴様はそれを承知した。さあ、余の最後の仕事を行わせてくれ」ブランザック王が促した。

 王の提案に対して、バルダーン公爵は態度を決めかねていたが、それよりも早くブランザック王は椅子から立ち上がると言葉を発した。

「さあ、尋ねるぞ。若者よ。君は守護王ウィリアムを知っているのか? 失踪後の彼を間近に見ていたのか?」

 見ていましたとも。我が輩は心の中で答えた。アリョーシャ神父。我が輩に世界というものを教えてくれた人。畑の中に自分の鎧を隠していた人。王国の主人でありながら、神父に身をやつして、村の人々のために粉骨砕身の努力をしていた人。

 答えは自然と口をついて出た。

「知っていましたとも。見ていましたとも。素晴らしい人でした」

 素早くブランザック王は次の質問に移った。

「守護王ウィリアムは今もご存命か?」

 思い出が蘇った。白と黒に彩られた恐怖の光景が。

 雷鳴の轟く夜。豪雨と川の氾濫。風に吹き消されかけた松明の光の中で、助けた子供を岸に投げて、そのまま川に呑みこまれてゆく神父の姿。砕け散る水のしぶきが、まるで神父につかみかかる人の手のように思えた、あの瞬間。

「いいえ。死にました。この目で見ました」

 その答えを聞き、ブランザック王の体が椅子に沈んだ。我が輩の答えが与えた衝撃が、その顔に浮かんでいる。まるで一気に十も歳を取ったかのようだ。

「彼は本当のことを告げています」エドワード神父の声が静かに響いた。

「茶番もこれまでにしろ!」バルダーン公爵が吠えた。「王冠を寄越すのだ」

 バルダーン公爵の言葉に、消え去っていたブランザック王の精気が戻った。宿敵の叫びほど、戦士を揮い立たせるものはないのだとは、後で知った。

「まだもっとも大事な質問が二つ残っている。王冠を渡すのはそれからだ」

 椅子から素早く立ち上がると、身を乗り出すようにして、ブランザック王は言い放った。

「さあ、聞くぞ。若者よ。君はウィリアム王を知っていると言ったな。そしていまはもう死んでいると。では守護王ウィリアムは誰に殺されたのか?」

 その質問が発せられると、ざわめいていた広間が一瞬で静かになった。緊張した面持ちの騎士たちが耳をそばだてている。恐るべき質問だ。その答えによっては、この場で戦争が始る。

「クリューガー!」バルダーン公爵が叫んだ。

 それを合図に、東洋人が我が輩の背後に立つ。下手な答えをすれば、我が輩の命はない。

「事故です」ごくりと唾を飲んでから、我が輩は答えた。「ウィリアム王は嵐の夜に川に呑みこまれたのです」

「彼は本当のことを告げています」ふたたびエドワード神父の声が静かに響いた。

 バルダーン公爵が高笑いをした。

「それ見たことか。ブランザックよ。お前はわしがウィリアム王を殺したと言い続けてきたが、それがまったくの嘘であったことが明らかになったわけだ」

「言葉を放つときは、まず己の顔を鏡に映してからにするがよい。バルダーン。余がウィリアムを殺して王座についたと告発しておったのは、そなたであろう」

 ブランザック王は指摘すると、声を一段と大きくして言った。

「さあ、これが最後の質問。最後の試しだ。答えてみよ。若者よ。君はウィリアム王のご子息か?」

 その場にいた全員がはっと息を飲んだ。

 剣で人を殺す人間は数多いが、言葉で人を殺す人間は珍しい。だがブランザック王はそれをやってのけた。致命的な質問だ。アリョーシャ神父のことを、我が輩は本物の父親より父親らしい人だと思っていた。だが、それでも、父親ではないのだ。

 ここで、はい、と言えば、エドワード神父に嘘を見抜かれる。いいえ、と言えば、背後の東洋人にその場で殺されるだろう。どちらにしても我が輩は殺され、そしてバルダーン公爵の策略は、偽手紙を使った告発の段階へと進む。我が輩の屍を乗り越えて、である。

 一瞬の躊躇。返答に許される時間は余りにも少ない。沈黙が長引けば、それだけで否定の答えをしたものと受け取られる。

 背後で冷たい殺気が高まる。我が輩は心を決めた。勝負だ。

「はい。そうです。ウィリアム王の息子です」

 少し間があって、エドワード神父の乾いた声が広間中の耳に届いた。

「彼は本当のことを告げています」

 その言葉の意味が浸透するまでわずかな間があり、それから大広間中が、どっと歓声に包まれた。

 周囲から何本もの手が伸び、我が輩がもみくちゃにされるなか、エドワード神父が素早く部屋を出るのが見えた。

 大騒ぎの中で、バルダーン公爵がテーブルを叩いた。

「これで決まりだ。王子はそちらの要求した三つの試しを、これ以上はないほど見事にくぐり抜けたぞ。ブランザック。さあ、王冠を寄越せ」

 できることならばテーブルの横を回って、じきじきにブランザック王の頭から王冠を奪い取ろうとしただろう。しかしテーブルの周囲は無数の貴族とその護衛で埋まり、とても動ける状態ではなかった。バルダーン公爵はテーブルの上で、手をブランザックのほうへと伸ばした。数十人がかけられる大きなテーブルだ。届くわけがない。あくまでもこれは象徴としての行為だ。

「わかった。だが王冠を渡す前に一つだけ、余の望みを聞いて貰えるかな?」

 ブランザック王は静かに言った。その声は、この騒ぎの中でも、不思議とよく通った。

「いい加減にしろ。ブランザック。これ以上何を言うことがある?」

 バルダーン公爵は指を鳴らした。公爵の背後で騎士たちがそれぞれに武器を引き抜いた。それに反応して、待機していたブランザック王側の護衛の騎士たちも、武器を引き抜いて守りの姿勢に入ろうとする。その混乱を通して、ブランザック王の言葉が聞こえて来た。

「王位を手放す前の、余の最後の願いだ。何、難しいことではない。王子よ、その勇姿をこの場にいる方々によく見せては下さらんか。待ち望んでいた王子の帰還だ。これほどめでたいことがろうか。この際、行儀のことなどは言っておれん。このテーブルの上が良かろう。ここにいる王国すべての騎士たちに、新しき王の姿を見せてやってくれんか」

「なりませぬぞ。王子。そこはやつの騎士の剣の届くところ」

 バルダーン公爵が吠えた。

「そのようなことはしないと約束しよう。それではまるで自分の罪を大勢の前で認めるようなものではないか」ブランザック王は言った。「さあ、王子。余の願いをどうか」

 我が輩は右を見て、そして左を見て、みなが期待の目で我が輩を見ていることを知った。

 バルダーン公爵も、もはや我が輩を止めようとはしなかった。後で良く良く考えてみれば、ブランザック王を王位から引きずりおろした以上、我が輩の命などバルダーン公爵に取ってはどうでも良かったのである。いや、後で我が輩が問題を起こすようになるよりも、今ここで不幸な事故でも起きて死んでしまったほうが、彼に取っては好都合とも言える。必要なのは、我が輩の死体から見つかるはずの、ブランザック王を告発する偽手紙だけなのだ。前王を殺したとまではいかないが、失踪するところまで追い詰めたとなれば、縛り首にするには十分な理由となる。

 我が輩は椅子を後ろに引くと、少しばかり気恥ずかしく思いながらも、テーブルの上に立った。背後から差し出された自分の剣を受け取ると、我が輩はそれを構えて見せた。周囲でさらなる歓声が湧き起こり、それは怒濤となって広間を埋めた。

「新しい王よ。万歳!」

 誰かが怒鳴ると、他も一斉にそれに唱和した。ブランザック王側と言わず、バルダーン公爵側と言わず、すべての騎士たちが叫んでいる。

「王子、さあ、王子、もっと前へ、テーブルの中央へ」

 ブランザック王が叫んだ。我が輩は一歩前に足を進めた。そこでぐるりと体を回すと、周囲の歓声に答えた。

 間違っている。そんな感じがした。我が輩は彼らを騙しているのだ。

「なんと見事な王子だ。これぞ王国が待ち望んでいた王子だ」

 バルダーン公爵が叫んだ。全員が一斉に唱和する。

「王子、王子。さあ、もう一歩。もっとみなに良く見えるように」

 続けて、ブランザック王が叫んだ。それに答えて我が輩はもう一歩足を進めた。

 バルダーン公爵は両手を広げると、大声で叫んだ。

「今より王国は新しい時代を迎える。若き守護王と、それを補佐するこのバルダーン公爵の時代だ」

 我が輩はこの怪物に、王国の実権を渡す手助けをしてしまったのだ。罪悪感が心を満たした。これから始る王国の悲惨な歴史は、すべて我が輩の責任なのだ。

「王子。さあ、さあ、もう一歩。そうです、そこです」

 ブランザック王が叫ぶ。それから一段と迫力のある声で付け加えた。

「そこならやつの剣は届きません。さあ、跳んで!」

 一瞬の空白の時間。心の中で歓声が遠のき、何が進行しているのかを理解しようと、必死の思考が頭蓋骨の中で暴れる。目の前にいきなり脱出口が開けたのだ。これが新しい罠ではないと、誰が言えるだろう?

 しかし、ブランザック王の声の中にある何かが、我が輩を突き動かした。我が輩はテーブルを蹴ると、宙を飛び、ブランザック王の前に開いた空間に着地した。

 計略にようやく気がついたバルダーン公爵が、何かを叫んだ。

 着地の衝撃から立ち直った我が輩の頭を目掛けて、冷たい殺気が飛んだ。振り返った我が輩は見た。テーブルの向こうで東洋人の瞳が我が輩をにらみつけているのを。そして我が輩と東洋人の中間を、まるで優雅に空を滑る鳥のように、死の短剣が近づいてくるのを。

 危ない。そうは思った。だが体は動かず、短剣は驚くべき速さで我が輩との距離を詰めた。

 命中する。避けられない。我が輩の心が悲鳴を上げた。

 黒いものが我が輩の視界を覆い、そして短剣はその盾の表面に刺さった。衝撃で短剣が震える強烈な振動音が聞こえた。

「毒だ! この短剣には毒が塗ってあるぞ!」

 我が輩を盾で庇った男が叫んだ。

「よくやったぞ! ブーン」貴族の一人が叫んだ。

 別の何かが宙を飛び、男が構えたままの盾の上にぶつかる。水がその縁から溢れ、我が輩をびしょ濡れにした。続いて派手な音を立てながら、金属の水指しが床に落ちる。

 他の騎士が持つ盾が差し出され、さらにまた他の盾がその上に被さる。王の近衛兵たちが差しかける盾によって、我が輩とブランザック王は隙間なく囲まれた。

「全員、突撃!」

 ブランザック王は叫ぶと、我が輩をその両手で抱きしめたので、我が輩はあわてて、手にしていた剣の先を、王の体から逸らさなければならなかった。

「ウィリアムの息子よ。どれだけ会いたかったことか。ウィリアムが生きていれば、もっとよかったのに」

 我が輩の顔を覗きこむようにして尋ねるブランザック王の顔には、本物の友情があった。それが我が輩に対してではなく、ウィリアム王に対してのものであることに気づいて、我が輩は少しだけだが寂しい気分になった。

 周囲の騎士たちにとっては、すでに我が輩たちのことはどうでもよくなっていた。怒号と金属のぶつかる音が響き、騎士たちと貴族たちが大混乱の中でつかみ合っている。ここまで兵士同士が密集していては、剣を振るうだけの余裕はない。自ずからつかみ合い、殴り合いの喧嘩となる。鎧をつけたままでの、体のぶつけあいだ。耳が潰れそうなほどの騒音の渦である。

 逃げ出そうとした者もいたが、騒ぎを聞いて中になだれこもうとする連中とぶつかり、ますます混乱の輪を広げるだけとなっている。テーブルの向こう側で、バルダーン公爵がこの混乱から脱出しようとあがいているのが見えたが、彼の巨体がその努力を裏切っていた。

 バルダーン公爵を見つめている内に、かあっと怒りが我が輩の全身に満ちた。

 我が輩は騎士たちが作る盾の壁から出ると、テーブルの前に立った。そうして、テーブルの反対側にいるバルダーン公爵をにらみつけた。

 世の中には、他人の子供のために命を賭ける神父もいれば、自分の欲望のために王国全体を混乱と戦乱に落としこもうとする公爵もいる。我が輩は怒りをこめて、その場に立っていた。

 それが良くなかった。

 テーブルの上に男が一人、飛び乗った。その両手には、波形をした奇妙な短剣を持っている。あの東洋人ではない。彼はいつの間にか姿を消している。これはまた別の男で、バルダーン公爵の周りを取り巻いている暗殺者たちの一人だ。そいつは我が輩を目掛けて、テーブルの上を突進して来た。我が輩は手にした剣を、全力をこめて投げつけた。

 失敗。男は見事な身のこなしで、飛んで来た剣をかわすと、そのお返しに我が輩に短剣を叩きつけた。我が輩は無意識の内に、大テーブルの端を持つと、それを高く持ち上げた。

 予想もしない状況が、熟練の暗殺者の動きを惑わせた。我が輩が決して出せるはずのない力で、大の男二十人がかりでも持ち上がらないはずのテーブルが浮き上がったのだから。

 奇跡の力。神秘の怪力。ウィリアム王の技だ。

 暗殺者のバランスが崩れ、短剣は二本とも宙をさまよった。

 騎士の一人が戦槌を振ると、倒れた暗殺者の頭を殴りつける。我が輩はそのままテーブルの片側を頭より高く引き上げると、一気にそれを前へと押しこんだ。鎧の足底が石床に当たって、ぎしぎしときしり音を上げる。大テーブルは勢い良く前進すると、その前方にあったものすべてを巻きこんだ。

 バルダーン公爵とその配下の騎士たちが、大テーブルに衝突した。そのまま広間の壁に悲鳴とともに激突する。重くて丈夫な樫の大テーブルも、この衝撃には耐えられない。大音響と共にばらばらに砕けると、人と木材の混じった吐き気のするような残骸の山へと姿を変じた。

 その背後にあった頑丈な石の壁も、一部がくぼんだと聞けば、その衝突の凄まじさもわかってもらえるだろう。我が輩の身に宿ったこの奇跡の力の正体も知らないまま、我が輩はその使い方を学びつつあった。その出現の仕方は不安定ではあるが、それでも役に立つこと、この上もない。

 人は余りにも大きな破壊を目の当たりにすると、自分の怒りを忘れるものである。我が輩が引き起こした惨劇により、一瞬にして広間の混乱は収まった。

 バルダーン公爵をはじめ、その配下の騎士がすべて骨折か気絶してしまった状態では、騒ぎの起きようがない。外から新たに飛びこんで来た者たちも、この場の有り様には度肝を抜かれたようで、何も抵抗せずに取り押さえられてしまう。

 畏怖が大広間を支配していた。力を信奉する騎士たちは、より大きな力を持つ者にその崇拝を捧げる。それらの瞳が我が輩のほうに向けられていることの意味を、我が輩はまったく気づいていなかった。

 王の側の騎士が幾人か、倒れた人々の間をかき分けた。バルダーン公爵の巨体を見つけだすと、それを引き起こした。その姿を見た瞬間、その場にいたすべての人々は、見えざる神の正義の裁きが、ここで行われたことを知った。

 バルダーン公爵の胸には、我が輩の投げた剣が、深々と突きささっていたのである。




   希代の大悪党バルダーン公爵。王の宮廷にて死す。

   ほぼその手中に納まりかけた玉座を前にしての、無念の死というところであ

  ろう。我が輩はこの悪漢との別れを少しも残念だとは思わなかったが、彼の方

  はそうではなかったらしい。

   猫でも九つの命を持つというではないか。ましてや大悪党とくれば、それぐ

  らいでは納まらない。

   バルダーン公爵は死なず。それは悪夢と共に蘇るものなのである。

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