第一章 人たるものの王国】冒険行6)緑の騎士現る

 全速力で馬を駆けさせた。食いしん坊の息があがるまでだ。行き先はどこでもよい。反乱軍の野営地から離れることができさえすれば。

 森をいくつか抜けた。平地は終わり、丘が連なる土地へと変わる。木々が密集し始め、やがて道は細くなる。見かける人家は徐々に減り始め、やがて完全に消え果てた。

 世界は去り、後に残されたものは、我が輩とこの馬だけだ。そんな奇妙な感覚がした。

 ここまで来れば、よもや追っ手につかまる心配はあるまい。

 食いしん坊もこの長駆には疲れ切った様子であり、我が輩はやや長めにロープをつなぐと、彼を自由にさせた。彼がさっそく草を食みはじめたのを確認してから、荷物の包みを開く。

 我が輩の持ち物は、例の鎧と食料が少し。後は食いしん坊を買ったときのお金の残りだ。我が輩はコインを数えた。あと数回は食料を買えるはず。その先を考えるのは止そうと、我が輩は思った。次に出会う城では、もっと普通の冒険、たとえば髭ぼうぼうの面をした凶悪な山賊団の退治とか、平和な田舎の村を襲う見るも恐ろしい怪物を倒すとか、とにかくそんなことがしたかった。王位継承問題をめぐっての陰謀に巻きこまれるなんて、真っ平御免こうむる。

 持ってきたわずかばかりの食料をたいらげてしまうと、たちまちにして眠気が我が輩を襲ってきた。怪物が襲ってきたのならば剣を抜いて戦う手もあるが、眠気が相手ではいたしかたない。よくよく考えてみると、昨夜は眠っていないわけだし、宴会のときに飲んだ酒の酔いもまだ少し残っている。これから先どうなるかわからないので、我が輩はとりあえずここで睡眠をとることに決めた。

 念のために荷物の中から鎧を取り出しておくと、我が輩はそれを着て寝ることにした。寝ているあいだに、万が一にでもバルダーン公爵の手の者に発見されたときには、鎧を着ていたほうが安心だ。剣を抱いて寝れば、もっと安心できるだろうけど、さすがにそこまではしなかった。

 しかしまあ、戦に出た者ならば誰でもが知っているように、鎧というものはおそろしく寝心地が悪い。いや、実を言えば横になるだけでも相当な苦痛だ。首筋にごつごつした金属板が当たるし、足のあちらこちらにも何かが当たる。しかたがないので、小手と足はあきらめて、鎧の胸の部分だけを着ておくことにした。

 どうやら自分で思っていたよりも疲れていたらしい。我が輩はたちまちにして深い眠りへと引きずりこまれてしまった。

 そのときに見た夢は、もちろん悪夢である。

 その夢の中では、我が輩はいつのまにか故郷の村に戻って、畑をたがやしていた。夢ならではの唐突な状況変化である。自分のおかれた状況をおかしいとも思わずに、我が輩は農作業を続けていた。そうこうしているうちに、我が輩の振り下ろしたクワの先が堅い音とともに地面に弾きかえされ、やがて我が輩は畑の中から一個のつぼを掘り出していた。そのつぼの外側には綺麗な装飾がされていて、我が輩はなにかすばらしい宝物がはいっているのではないかと思い、そのつぼの蓋を引っ張った。どうしても取れない。どういうわけか、我が輩はそのつぼを持ったまま川のなかに入ると、もう一度そのつぼの蓋を引っ張った。蓋が開くと、その中から緑色の縞模様のついた蛇の大群が、我が輩めがけて跳びだしてきた。蛇どもは我が輩の首といわず手足といわず、あらゆるところにからみつき、恐るべき力でぐいぐいと絞めあげた。

 我が輩は夢の中で情けなくも悲鳴をあげ、そして目を覚ました。それから自分がまだ悪夢の続きを見ていることを知った。

 我が輩の全身には、緑色の蔦がびっしりとからみついていたのだ。その蔦は我が輩の周囲の地面から生えていて、我が輩のむき出しの腕と足をきつくからめとっているのだ。

 我が輩は体を起こそうとしたがそれが無理であることに気がついた。おそろしく丈夫な蔦だ。

 しかしこれはいったい? 我が輩は困惑した。

 次に起きたことは、ただ驚きとしか言いようがなかった。

 蔦は我が輩の動きに抵抗し、あろうことかその先端を動かして、我が輩の体をさらにきつく縛りつけたのだ。伸びてきた緑の巻きひげが我が輩の鼻をくすぐり、我が輩は大きなくしゃみをした。

 蔦が動くだって? 植物が?

 このようなことが現実にあるわけがない。我が輩は夢の続きを見ているのだ。そう思うと、体から力が抜けた。しかしまあ、夢を見ているにしては、縛りつけられた手足はひどく痛かった。強く縛りつけられているために、手足の先に血がかよっていないのだ。

 最初は蛇にからまれる夢、その次は蔦にからまれる夢。

 我が輩はどこかおかしくなってしまったのだろうか?

 バルダーン公爵がよくないのだ。王国への反逆に関るあんな経験をした後では、見る夢がことごとく悪夢に変わったとしても、ちっとも不思議ではない。

「ようやくのお目覚めか」

 声がして、我が輩は自分の足元のほうを見た。いや、我が輩は横になったまま縛りつけられているのだから、地面に平行に自分の足を見たことになる。

 声をかけたのは、これも全身緑色をした騎士だ。鎧も緑色ならば、兜もそうだ。ご丁寧に、乗っている馬まで緑色ときている。馬上槍を手に持って、我が輩のほうを見つめている。

 最初はその騎士が遠くにいるのかと思った。だが、かろうじて固定されていない頭を左右に振って、真相がわかった。その緑の騎士は、我が輩の鎧の胸の上に載っているのだ。

 おそろしく小さな騎士だ。乗っている馬も含めて、我が輩の拳二つ分ほどもない。

 蛇の夢の次は、妖精の夢か。我が輩はこの悪夢の連続にいい加減うんざりとしてきた。緑色を見るのも飽きがきた。早く目が覚めないものかと、我が輩は思案をめぐらせた。そうか、自分の頬をつねれば、痛みに目が覚めるかもしれない。それとも夢のなかの痛みは、目が覚めないたぐいの痛みなのだろうか?

 ぽつりと、雨が一滴、我が輩の顔に落ちた。空はいつのまにか曇り空となっている。どうやら川に入る夢を見たのはこのためだ。いや、ちょっとまて、これも夢なのだから、それはおかしい、と我が輩はどこか奇妙に冷静な頭で考えた。

 我が輩は雨に降られる夢を見て、その中で眠ってしまったために、川に入る夢を見た。ううむ。変だ。奇妙だ。不思議だ。何かが狂っている。どこが間違っているのだろう?

 その緑色の小人騎士は、我が輩の鎧の上を、馬の足音を響かせながら、我が輩の顔めがけて進んできた。それからこれも小さな槍の穂先を、我が輩の頬に押し当てた。

 鋭い痛みが頬を走り、熱いものが我が輩の顔の横を流れ落ちる。空中に鉄の匂いが漂った。

 血だ。我が輩の傷口からあふれた血が、頬の上を流れくだっているのだ。これが夢であるとは、どうも我が輩には信じられなくなってきた。

「夢ではない」まるで我が輩の考えを読んだかのように、緑の小人騎士は言った。

「わたしを見た人間は、みな、そう言うがな。自己紹介しておこう。わたしは緑の騎士。精霊騎士の最初の者にして、もっとも高貴なる者でもある」

 その言葉に対する返礼として、我が輩は片方のまゆを上げてみせた。相手が寝ているあいだに縛りあげるのが高貴な者のやり方だとすれば、その高貴さというものもたかがしれる。そんな意味をこめてあった。

「アンガスよ。告発に従い、貴君に決闘を申しこむ」緑の騎士が言った。

「告発?」

 我が輩は尋ねかえした。夢にしても奇妙な夢だ。頭の片隅でそんなことを考えた。

「精霊法廷に提訴された、貴君のウィリアム王殺しに対する告発のことだ。訴訟人は水精霊のアルネディーラ姫。水精霊のバランタイ一族の長であるフィールド卿の第三公女であるお方だ。訴状は受理され、審議は終了した。判決は死刑であり、執行は即時、つまり、ここで、いま、行われる。執行人は伝統法に従い精霊騎士たる我らが行うこととなる。なにか異議はあるかね?」

 我が輩が答えるよりも早く、緑の騎士は宣言を打ち切った。

「では異議なきものと認める。決闘の用意はいいか?」

 小さな馬の蹄が、我が輩の胸の上を後退した。それからくるりと馬を回すと、緑の騎士は小さな槍を小脇に構えた。さきほど我が輩の頬に傷をつけた武器だ。

 その騎士の姿勢には見覚えがあった。アリョーシャ神父が描いて見せた騎士の絵にあったものだ。

 突撃の姿勢。必殺の攻撃を行う騎士のスタイルだ。

 まずい。我が輩はあわてた。

 この大きさの騎士は普通ならば脅威にはならない。幼児でさえも突進してくる緑の小人騎士を蹴っ飛ばすことができる。しかし、全身を植物にからまれて身動きできないとすれば話は別だ。緑の騎士の槍が我が輩の目を貫き、その背後にある脳髄に刺さる瞬間を想像して、我が輩は気分が悪くなった。たったそれだけの傷でも人を殺すのには十分であることを、我が輩は知っていた。

 我が輩は緑の縛めから体を振りほどこうとあがいたが、その結果はますますきつく植物にからまれただけだ。

 こんなに現実感のある夢はありえない。ついに我が輩は納得した。ひどく馬鹿げてはいるが、これは現実なのだ。

「往生際が悪いな。アンガス。これから起ることは正義の表われなのだと知りたまえ」緑の騎士は言った。

「どこに正義がある。我が輩はウィリアム王なんて殺していない」我が輩は大声でわめいた。

「やれやれ、ほとほと呆れさせてくれるものだ。殺した相手からはぎとった鎧を着ておきながら、よくもそんな口がきけたものだな。貴君の罪は明らかだ。罰を受けるがよい」

 そう言うなり、緑の騎士は馬を走らせた。その小さな蹄が触れて、我が輩の鎧が少しだけ振動した。これが死神の足音だとすれば、あまりにも情けない。

 騎士が抱えている槍のきらきらと光る穂先が、我が輩の顔めがけてぐんぐんと、避けようもなく近づいて来る。

 そのときになって、ようやく我が輩は理解した。これがこの騎士の戦いのスタイルなのだと。相手を植物でからめとってから、その槍を働かせる。大きさは脅威ではない。緑の騎士が作りだすこの状況こそが脅威なのだ。

 我が輩は喚いた。それから体を振って、脱出のための最後のあがきをした。駄目だ。諦めが冷たい思いとともに訪れた。蔦は切れるどころか、延びる素振りさえしない。

 鋭い槍の先端が目前に迫る。

 こうなれば取るべき手段は一つしかない。我が輩は覚悟を決めると、口を大きくあけて、襲いかかる騎士の槍の穂先を飲みこんだ。激痛が舌に走り、それと同時に勢いよく噛みこんだ歯が堅い金属の棒にぶつかった。

 激痛。

 我が輩の名誉のために言っておこう。我が輩は泣きはしなかった。ただ、あまりの歯の痛みに涙がこぼれただけである。

 口の中に鉄と塩の味がした。小さな槍の穂先が破った舌の傷から、派手に血が流れだしているのだ。小さな槍は半ばから曲がってしまっている。

 緑の騎士はこの衝撃で小さな馬から振り落とされた。彼は我が輩の胸の上ですばやく回転すると、体を起こした。なんという小ささ。だがそれが携える死は本物なのだ。

「おいおい。まったく。とんでもないことをする男だ。貴君には従容として裁きの結果を受けいれるという潔さはないのか?」

 緑の騎士は責めるような口調で言った。我が輩は口の中に残った金属のかけらを吐き出すと、怒鳴った。

「ふざけるな。我が輩は王殺しには関係していない。これは冤罪だ」

 幸いなことに、槍の勢いのほとんどは我が輩の歯に伝わったらしい。そうでなければ我が輩はこの小さな槍に、首の後ろまで刺し貫かれていたことだろう。

「貴君の罪は明白だ。それにすでに審議は終わっている。槍が駄目となれば、こちらでいこう」

 緑の騎士は自分の妖精馬を呼ぶと、その脇腹に吊るしてあった剣を抜き放った。緑の騎士の半分の長さの剣だ。だがそれでも我が輩の人差し指の先ぐらいの長さがある。

 その長さではどこを刺せば、人が死ぬ?

 我が輩はふたたび顔を上げて歯をむきだしにした。こうなれば徹底抗戦だ。歯の痛みになど構ってはいられない。

 するすると蔦が何本も地面から伸び上がると、我が輩の顔の横に出現した。抵抗する間もなく、我が輩の頭が固定されてしまう。蔦の先は我が輩の口の中にまで入りこむと、ご丁寧に舌まで縛りつけてしまった。

 なんて馬鹿なことをしたんだ、我が輩は! どのように抵抗しようとしているのか、敵に見せるべきではなかったのに。

「無駄なあがきをするではない。アンガスよ。より苦しい死に方を選んだのは、貴君なのだから、悪く思うな」

 緑の騎士はそう言うと、今度こそ本当に身動きのできなくなった我が輩の首筋に剣の切っ先を当てた。その皮膚の下は熱い血が流れる頸動脈だ。我が輩はぞっとした。

 まるで我が輩を焦らすかのように、緑の騎士は剣を我が輩の首の表面に沿って、そっと静かに滑らせた。かすかで細い切り傷が我が輩の肌に刻まれる。致命傷じゃない。皮膚を軽く切っただけだ。それから緑の騎士は我が輩の腕のほうへと移動した。蔦に縛られたままの手首のすぐ下に剣の先を当てると、彼は言った。

「それとも、ここを切ったほうがいいかな。そうすればアルネディーラ姫も、貴君が長く苦しむ姿をみて、溜飲を下げることができるだろう」

 緑の騎士はそこで一旦、剣を引いた。

「実を申せば、貴君には礼を言わねばならんところだ。ここのところ精霊法廷からの声がかからず、人間界に駐留しておる我ら精霊騎士の部隊は、ひどく退屈していたところであったからな。早く任期が終わって精霊界に帰りたいものだとは、誰もが一致した意見なのだ」

「ではこのまま我が輩を放っておいて、自分の国に帰ればいいではないか」

 舌まで蔦に縛られて、苦労しながらも我が輩はそれだけを言ってのけた。

 緑の騎士は我が輩の腕の上を器用に歩いて来ると、その剣を我が輩の目の前で振って見せた。

「おやおや。アンガス殿。そんなことを言うとは、貴君を見損なったぞ。騎士たるもの、故郷帰りたさに任務を途中で投げ出すことなど、在りえないことはよくわかっておろうに」

 それだけ言うと、緑の騎士は剣の先を我が輩の目の前に突きつけた。

「よし、ここを一突きといこう。貴君の罪に対する罰が、それはそれは良く見えるであろうから」

 奇妙なことに、そのとき我が輩の喉から漏れでたのは、悲鳴でも命請いでもなかった。死の恐怖におびえていたはずなのに、そこからでたのは、爆笑、そのものだった。

 いや、別になにかがおかしかったわけではない。ただ、笑いという姿そのものが、あとからあとから我が輩のなかに湧きでてきて、止まらなくなったのだ。

 せっかくバルダーン公爵という怪物の手から逃れて自由になれたというのに、今度は精霊騎士と名乗る小さな小さな怪物に捕まるとは。神さまとはなんと皮肉な御方なのだろうという思いが浮かんできた。

 いきなり、大きな黒い影が我が輩の上に覆いかぶさった。馬特有の長い鼻面が我が輩の目の前にあり、その口が閉じると、緑の精霊騎士がその歯のあいだに咥えあげられていた。食いしん坊が首を大きく振ると、緑の精霊騎士が宙を飛んだ。

 食いしん坊の歯が、我が輩を捉えている蔦へと食いこむ。仲間の危機を感じたのか、新しい緑の壁が食いしん坊の背後で伸びあがった。

 木だ。森の木という木が、その枝を伸ばして、襲いかかろうとしているのだ。

 我が輩は警告の叫びをあげた。敏感にも背後に迫った危機を感じとった食いしん坊は、あっさりと我が輩を見捨てると、たちまちにして視界の中から駆け去ってしまった。

 緑の精霊騎士が、密生したやぶのなかから現れでる。

「ええい。どうしてこう邪魔がはいるんだ? 本当なら当の昔に、貴君は死んでいなくてはならないはずだぞ」

 彼はぶつぶつと言った。それからずいぶんと苦労して地面に転がった剣を見つけると、それを拾い上げた。手慣れた仕草で剣の汚れを落とすと、我が輩のほうへ歩み寄る。我が輩の首筋にちくりとした痛みが走った。その痛みがますます強くなると、やがてひどい激痛へと成長する。

 そのちっぽけな剣を使って、彼は我が輩の首を切り落とそうとしているのだ。なんとひどい。我が輩はろくな抵抗もできないまま、こうしてじわじわとなぶり殺しにされるのだ。

 ぽつりと雨滴が我が輩のひたいに当たった。とうとう我慢しきれなくなった曇り空から雨が振り始めたのだ。頭上に広がる灰色の壁の向こうから、無数の水の玉が我が輩の周囲に落下してきた。

「しまった!」緑の騎士が叫ぶと努力を倍加した。「くそっ。血管はどこだ」

 剣で我が輩の首筋をえぐりながら、緑の精霊騎士が悪態をつく。血が流れ落ち、雨のなかへと混じりこむ。我が輩は悲鳴をあげたかったが、この状態で身動きをすれば、その分、死を招くのが早くなることに思い当たり、歯を食いしばって自分の動きを抑えた。

 奇跡を。なんでもよい。なにか救いの手を。我が輩は神へ祈った。

 じきに緑の騎士の剣は、我が輩の頸動脈を探しあてるだろう。我が輩はここで死ぬのだ。死を実感した途端、恐怖で全身の血が燃え上がった。体がかあっと熱くなる。

 そのときだ。我が輩を縛りつけていた蔓が急にゆるんだように感じたので、我が輩は腕を一振りした。鈍い音をたてて植物が裂け、蔦の根が土を抱えこんだまま、亀裂の走った地面から持ちあがった。

 我が輩が立ち上がった勢いのあおりを受けて、またもや緑の騎士が宙に飛ばされる。我が輩はかろうじてのところで、首の血管を切断されずに済んだ。小さな剣が我が輩の首筋から抜けて、滑り落ちる。

 なんという幸運。雨で地面のどこかが緩んだのだ。そうなれば、そこに張りついていた蔦も剥がれる理屈。もう一瞬でも雨が降るのが遅ければ死んでいた。

 我が輩は残りの蔓を体から引き千切った。

「なんて運のよい奴だ!」

 木の枝にぶら下がった形のまま、緑の精霊騎士は甲高い声で叫んだ。

 いや、木の枝にぶら下がったのではない。木の枝が彼をつかんでぶら下げているのだ。我が輩が見ている前で、その木の枝はまるで人間の腕かなにかのように動き、彼をそっと地面へと降ろした。

 今まで、魔法なんてものが本当に存在するとは、思ってもいなかった。だがこれは幻でも夢でもない。緑の騎士もそうだし、動く森の木もそうだ。すべてが現実で、しかも我が輩の目の前にある。

 いや待てよ、と我が輩は考え直した。

 この妖精が緑の騎士の本体なのか?

 それとも森そのものが本体なのか?

 周囲に広がる森そのものが、緑の騎士なのか?

 我が輩は自分がとんでもないものを相手にしているのだとはじめて実感した。緑の騎士の背後に広がる森そのものが敵なのだ。丘を、山を、平地を、そしてそれらを覆っている森のすべてが敵なのだ。

 勝てるわけがない。

 それでも我が輩は虚勢をはって叫んだ。

「さあ、正々堂々と戦ってやるぞ!」

 我が輩の剣はどこだ? 荷物のなかだ。その荷物はどこだ? 逃げた食いしん坊の背中の上だ。仕方がない。素手で戦おう。

 そして我が輩は緑の騎士のほうに一歩を踏みだした。精霊騎士の背後で、森全体が揺れ動いたように思えた。

 どこか遠くで大勢の人間の話す声が聞こえ、どことなく怯えの混じった犬の吠え声がそれに続いた。

「くそっ。どこまでも運のよい奴だ」

 緑の騎士が小さな、しかしはっきりと聞こえるように舌打ちをした。ざわめいていた森の木々が動きを止め、いつもの見慣れた姿に戻る。

「逃げるのか」

 我が輩の問いに、緑の騎士は宣言で答えた。

「時が尽きたなればしかたがない。次の裁きの時を、怖れとともに待つがよい」

 我が輩が彼のもとにたどりつくよりも早く、緑の騎士の周囲で草が盛りあがると、彼の姿を隠してしまった。

「わたしの裁きの時はこれにて終わりだ」どこからともなく緑の騎士の声が聞こえてきた。

「だが覚えておけ。次は赤の騎士が貴君を訪れるだろう。やつはわたしの倍は強いぞ」

 それっきり、緑の騎士は消え去った。

 わずかばかりの雨を降らして、そのまま沈黙した曇り空を背景にして、道の向こうから騎兵たちが出現した。彼らは我が輩を認めると、すばやく馬を走らせ、我が輩の周囲を取り囲んだ。追っ手の中の一人の顔を見て、我が輩はしまったと思った。酔い潰して置き去りにしてきた我が輩の護衛の一人だ。

 脅すように突き出された騎兵の槍をみて、我が輩は抵抗をあきらめた。鎧こそ着こんではいたものの、我が輩の剣も盾も荷物のなかだ。これでは到底、武器を持った多人数を相手に勝ち目はない。

「探したぜ。アンガス殿」揶揄するような調子で護衛が言った。「お前さんのお蔭で、おれはこっぴどくとっちめられたんだ」

 彼は服の襟をめくって見せると、そこにあるできたばかりの鞭の跡を示した。

 尻尾を股の間に挟みこんだ犬たちがようやく追いついてきた。他の連中もだ。彼らは手早く我が輩を縛り上げると、近くで草を食んでいた食いしん坊も見つけて捕まえた。

「どうもこの辺りは気にいらねえ」汗を拭きながら男たちの一人が言った。「なにか変なものがいるんだ。犬どもも怯えてやがる」

「そういやあ、魔の森について聞いたことはないか?」別の男が言い始めた。

 槍にもたれかけて休んでいた男が答える。

「魔物が棲んでいるって噂の森かい。よせやい。ありゃあ、子供を怖がらせるためのおとぎ話だい」

「いや、そうでもないぞ」真剣な顔で最初の男が言い返した。「おれの知り合いのかかあが、森の中に入ったときにとんでもないものを見たことがあるんだ。何でもその森の中では、死人が畑を耕していたそうなんだよ」

 議論に止めを刺したのは、馬に乗ったままで周囲をにらんでいた男だ。どうやら彼がこの部隊のリーダーらしい。

「馬鹿話もそのぐらいにしておけ。ここで無駄に過ごしている時間はないんだぞ」

「だけど、ほら見てみな。犬たちも怯えている」魔の森について話していた男が指摘した。

「おおかたこの近くに熊でもいるんだろうよ。さあ、早く帰って公爵から褒美をもらおうじゃねえか」別の男が、自分を納得させるかのように答えた。

「そう言えば、あの子供はどこに行ったんだ。ほら、おれたちをここへ呼んだ奴」

 気持ち悪そうに周囲を見回していた男が言った。

「消えちまった。まるで幽霊のように」

 自分で言った言葉に怖れをなしたのか、そいつは体をぶるっと震わせた。

「知るものか。雨に濡れるのが嫌さに自分の家にでも帰ったんだろうよ」

 そう言ったのは我が輩の護衛を務めていた男だ。彼は馬から降りると、縛られたままの我が輩のほうへと歩いてきた。丈夫で堅そうな拳骨をしている。これから起きることを予想して、我が輩は身を強ばらせた。やれやれ、どうして今日は、こうも縛られて痛めつけられるようなことばかりなのだろう?

 我が輩を殴ろうと拳を振り上げた男の前に、横から槍が突き出されて、その動きを止めた。

「殴るなら腹にしろ。顔は駄目だ」

 馬の上から槍を突き出したのはリーダー役の男だ。髭面の、みるからに強そうな男だ。意思の強さが顎の線にはっきりと表われている。

「腹だと? どうしてだ?」

 自分に向けられた槍にやや気おくれしながら、護衛の男が文句を言った。

「忘れたのか。この男は王の御前会議に出席するのだぞ。顔にあざを作って、そんなところに出せというのか?」

 馬上の男はじろじろと我が輩の顔を見た。

「どこでやられたかは知らないが、その首はひどい怪我だな。向こうに戻ったら手当をしなくてはならん。公爵が欲しがっているのは、生きたこの男であって、死人じゃない」

「くそっ! 腹を殴るにしても、こいつは鎧を着ているんだぞ。じゃあ、鎧を脱がしていいんだな?」護衛の男は叫んだ。

「縄を解いてか? もしそれでその男が逃げ出したら、公爵になんと言い訳するつもりだ? それにもう時間がない。遅れれば遅れるほど、公爵の怒りは増す」

 冷たく厳しい声で、馬上の男は言った。

「そのままで腹を殴るか、それとも止めるかだ。早くしろ。長くは待たないぞ」

 護衛の男はしばらく迷っていたが、自分の拳のことを考えてやめることにしたようだ。我が輩の顔を平手で張り飛ばす素振りもみせたが、これも馬上の男ににらまれて果たせなかった。

 バルダーン公爵の待つ野営地に戻るまでの短い旅のあいだ、護衛の男の炎のような視線は、我が輩の背中へ注がれたままだった。


 さて、王の城につくまでの間、これ以上、特に話しておくべきことはない。

 我が輩に対する見張りは強化され、もはや蟻でさえも這い出る隙間は残されていなかった。

 途中で別の貴族の騎士たちと合流し、バルダーン公爵の軍勢はさらに膨れあがっていった。いくつもの対立する貴族たちも加わったようで、その後の道中には絶え間ない喧嘩騒ぎも起きていたが、とうとう最後まで我が輩が逃げ出す隙は生じなかった。

 一つ目立っていたのは、この貴族たちの間をバルダーン公爵が蝶のようにひらひらと飛び回っていたことである。公爵はその巨体にも似合わぬフットワークの良さで、対立する貴族たちの間を動き回り、そのたびに現在の王位継承者であるブランザック王に対する反感を、各貴族の間に広めていたのである。




   庭の中を逃げ回るガチョウの話を聞いたことがあるだろうか?

   料理人の手から逃げ回り、ようやく逃げきったと思って休んだ所が、実は元

  の自分の寝床だったという話だ。

   そのときの我が輩も、ちょうどそんな具合であった。結局、脱走は失敗し、

  我が輩はふたたび王国の反乱騒動の渦中へと引き戻されてしまった。

   しかし、そのときの我が輩の心を占めていたのはそんなことではなかった。

   緑の騎士のことで頭が一杯だったのだ。

   あのような奇妙な生物が本当に存在するとは。いや、それ以前に魔法とい

  うものが存在するとは。我が輩にとって、それはバルダーン公爵以上に恐る

  べき衝撃だった。そのとき以来、我が輩の人生観は根底から覆ってしまったの

  だから。


   もっとも、我が輩の人生観がひっくり返るのは、これが最初ではあったが、

  決して最後ではなかったのである。

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