第一章 人たるものの王国】冒険行5)脱走

 我が輩には永遠に思われた三日という日にちが経つと、ついに領主の軍勢は王城を目掛けて出発した。

 我が輩が今まで見たこともないような大軍勢である。

 馬と人との巨大な混合物である軍隊が、街道一杯にひしめきあっていた。その上に翻るのは、無数の色とりどりの幟である。さまざまな意匠を凝らした旗が、それを掲げる騎士の出自を示している。その間を埋めるのは、ならず者たちで構成される歩兵たちである。さらに外周を取り巻いているのは、バルダーン公爵が急遽雇った流れ者の傭兵たちだ。彼らは、各国の間をいつも流れ歩いていて、金を払う者になら誰にでも雇われる。

 もし事情を知らなければ、我が輩はきっとこの兵士の集団を、国境へ決戦に向かう王の軍隊だと勘違いしたであろう。だがその実体は、腹黒いバルダーン公爵に統率される、王国への反乱軍なのである。

 明らかにここまで来れば、我が輩の目で見ても、バルダーン公爵が戦いを想定していることは確実であった。ブランザック王の王位を返還するように要求し、それが拒絶された場合には、この戦力に物を言わせるつもりなのである。バルダーン公爵があの宴会の席で叫んだ、二十年の間ずっと準備をしていたというのは、あながち嘘ではない。いま我が輩の目の前を行進している、このならず者たちこそ、その成果である。彼らはいまや、この国そのものを踏み潰さんとするばかりの勢いで、王の城へと進軍しているのであった。

 その先頭に立っているのは誰か?

 バルダーン公爵、その息子ニコラス、そしてこの我が輩である。

 何たること。我が輩はこのならず者の騎士たちの間に挟まれて、逃げることも叶わず、己の死刑執行の場へと引きずられているのであった。その上、どこに行っても、あのクリューガーという名の東洋人の視線が感じられた。

 そのときに我が輩が乗っていたのは、領主の持ち馬の中でも一際立派な馬であった。これは領主の好意ではなく、計算であった。いくらなんでも、王位を要求する正当な身分の王子が、みすぼらしい馬に乗って人々の前に現れるわけにはいかない。

 さて、その我が輩自身の馬はと言えば、紐を括りつけられて、我が輩のすぐ後ろについて来ていた。

 彼は相変わらず痩せていたが、それでも、我が輩の村のパン屋にいた時分よりは、良いものを食わせてもらっているせいか、最初に見たときほどには、みすぼらしくはなくなっていた。

 バルダーン公爵はこのような馬は置いてゆくように主張したが、我が輩はこれだけはどうしても連れて行くと主張した。

 血統も定かでないこのようにみじめな馬を、領主の館に預けるのがためらわれたせいである。有り体に言えば、我が輩はバルダーン公爵の周囲の人間を、誰一人信用はしていなかったからだ。

 類は友を呼ぶという。馬の世話係りにしてみれば、乗ればかならず恥をかくようなみすぼらしい馬に、十分に餌を食わせて世話をするよりも、これを肉屋に売り飛ばすほうが、簡単なのは間違いない。もう少し運が良かったとしても、またあのパン屋のフロイドのような男に売り飛ばされるのが落ちである。重労働と乏しい餌の苦しくて長い生活が待っているぐらいならば、いっそこの我が輩と共にいたほうが良いのではないかと、そう考えたわけである。

 もっとも、我が輩がいつまでこうして生きていられるのかは定かではないのだが。

 この馬と我が輩は、運命共同体なのである。我が輩が死ねば、彼も死ぬ。彼が死ぬような事態に陥れば、そのときは我が輩の命もそう長くはないのであろう。そのことに友情に近いものを感じていたと言えば、わかってもらえるだろうか?

 我が輩は、事ここに至って、まだ自分の馬に名前をつけていなかったことを思い出した。

 しばらく考えた末に、彼に「食いしん坊」と名付けることにした。我が輩がちょっと目を離すと、かならず道端の草を食っているのが、その名付けの理由である。

 こうして馬の背に乗って揺られている間にも、我が輩は気が気ではなかった。

 予定では、王城に着くのは四週間後だ。その後は、バルダーン公爵とブランザック王による大戦争の始まりである。

 手順はこうだ。

 まず王城で待ち構える宮廷貴族の面々に、バルダーン公爵が我が輩をお披露目する。失われた前王ウィリアムの遺児としてだ。そうして現在の王位についているブランザック王の王位継承権に、異議を申し立てるのである。複雑な宮廷政治のただなかに、これは恐るべき波紋を広げるだろう。一度、宮廷が紛糾すればしめたもの。バルダーン公爵は、自分が権棒術数のかぎりを尽くして取りこんだ貴族たちと計って、王国を二つに割る大戦争を始めるのだ。

 この王国に対する未曾有の危機に対して、我が輩はどうするべきかをずっと考えていた。

 バルダーン公爵が『悪い』領主であることは明白であった。彼の館の壮麗さを見れば、彼の領民がどれほどの苦しみを味わっているのかは、だいたいの想像がつく。それに加えて、さらに大勢のならず者を雇うのだ。その経費はすべて領民が払う。弱い者ならばたちまちに餓死するほどの重税を、現在も取り立てているにちがいない。

 そんな人物が王となれば、王国中の領民が塗炭の苦しみを受けることになる。

 いや、それ以前に内乱で王国は荒れ果ててしまう。いま我が輩が目にしているようなならず者の群れが、国中を駆け巡るのだ。これがただで済むはずがない。

 来るべき悲惨さは、目を覆いたくなるような、凄まじいものとなるだろう。いや、目を覆っても無駄だ。民の悲鳴があらゆる方向から聞こえて来るだろうから。

 その戦乱の原因が、こともあろうに我が輩なのだ。

 責任の一端は我が輩にある。これは逃れようのない事実だ。我が輩の騎士としての初仕事が王国転覆とは、冗談じゃない。

 では我が輩はどうするべきなのか?

 我が輩は腕を組んで考えた。

 まず最初に頭に浮かんだのは、バルダーン公爵を殺すことだ。そうすれば、反乱貴族の連合軍は頭首を失って敢えなく崩壊し、王国には安泰が訪れるだろう。

 だが、と我が輩は考えた。それはバルダーン公爵もよくわかっている。ブランザック王の攻撃を恐れて、公爵の周りは無数の護衛で厳重に固められているのだから。あの目の細い無気味な東洋人もそういった護衛の一人だ。

 我が輩は比較的容易にバルダーン公爵に近づける立場にある。しかし、我が輩は別に剣の腕があるわけでもなければ、馬の扱いがうまいわけでもない。農具ならば多少は取り扱いの経験もあるが、それ以外とくれば、からっきしときている。

 そんな我が輩が、厳しい警護の目を盗んで、バルダーン公爵を殺すことができるものだろうか?

 無理だ、と我が輩は結論した。

 アリョーシャ神父に聞かされた騎士物語の中では、悪の大物を倒すのは、精鋭部隊の中から選ばれた、騎士の鏡とでも言うべき英雄の行いである。

 我が輩は英雄なのか?

 ちがう。英雄どころか、我が輩は成り立ての騎士なのである。いわば、ひよっこ騎士である。そうだとすればこれは我が輩の仕事ではない。バルダーン公爵を倒すべきなのは、ブランザック王配下の有徳の騎士の誰か、であり、我が輩ではない。

 では、悪の親玉を殺すのは無理だとして、善の陣営に報告に行くことはできるだろうか?

 こっそりとこの大軍勢の中から抜け出し、ブランザック王の陣営まで夜駆け朝駆けして、バルダーン公爵の陰謀を報せるというのはどうだろう?

 いや、きっと王さまの城で門前払いを食らわされるだけであろう。場合によっては、この騒ぎの首謀者の一人として、牢につながれてそれで人生の終わりとなってしまうだろう。アリョーシャ神父の話によると、地下牢というものは決して気持ちの良さそうな場所ではない。

 では我が輩が取るべき手段はただ一つ。

 全力でここから逃げること。

 どこへ行く当てもないのだから、逆に言えば行き先はどこでも良いのだ。なんとかここから逃げ出して、我が輩の最初の目論見通りに、冒険の旅を続けるのだ。

 そうとも、我が輩は冒険を求めて旅に出たのであり、王の後継者争いに参加するのが目的ではなかったのである。

 逃げてしまえばいい。そうすればさしものバルダーン公爵も、王位要求の理由がなくなる。それでも敢えて戦うというのならば、それはもう我が輩の関与するところではない。

 そう決意すると、ずいぶんと気持ちが楽になった。

 残る問題はただ一つ。どうやってこの大軍勢の中から、誰にも知られぬように逃げ出すかだ。いや、正確に言おう。どうすれば我が輩を監視するこの人々の中から、見つかって殺されないように逃げ出すのかだ。

 ううむ。難問である。

 バルダーン公爵お付きの護衛である東洋人は、旅が始ってからは、それほど我が輩の前に姿を見せなくなっている。常時、我が輩に張りついているのは、二人の護衛役の男たちであり、いずれも酷薄な顔をした荒くれ者たちだった。彼らはニコラスの手下であり、いつも嫌な目つきで我が輩をにらんでいた。腰に吊るした長剣の他に、胸には短剣をいつも抱えていた。その刃には毒が塗られているものと、我が輩は考えていた。

 何か問題があるようなら、我が輩をこっそりと殺して、バルダーン公爵はこう言い訳するつもりなのだ。王子は旅の途中で毒殺された、ブランザック、貴様の手の者のためにな、と。

 むう。我が輩はうなった。

 ここでは、我が輩の命など、わらしべ一本ほどの値打ちもない。

 取合えずやるべきことは、監視の目を緩めるために、彼らを油断させることだ。

 我が輩は彼らの挙動を、関心を持って見つめるようになった。やがてわかって来たのは、我が輩が彼らを恐れるように、彼らも我が輩を恐れているということであった。

 我が輩が振るったあの神秘の力を、彼らは見たのだ。剣の技はなくても、石の城壁に大穴を開ける馬鹿力は、それだけで十分に警戒すべきものなのである。

 あれがまったくの偶然であったことを、我が輩は黙っていた。たまたま、石壁の弱っていた部分に、我が輩の剣が刺さったのである。だがそれが、我が輩の有利になるのならば、わざわざ自分から暴露することはない。

 神秘の力だって?

 このことは、我が輩の脱走計画の役に立つのだろうか?

 こうして、我が輩が馬の上で計画を練っているうちに、一日また一日と、貴重な時間が過ぎて行った。


 バルダーン公爵の軍隊は、街道をまっすぐに北上して行った。その先に王都があるのだ。

 バルダーン領は王国の南にあり、ブランザック王領は王国の北に位置する。二つの領土をつなぐ線は、ちょうど王国を東と西に二分することになる。東の端にはマラトン領が、西の端にはザナッド領がある。この行軍は、王国を北に縦断する形となっている。

 これだけの規模の軍勢が移動するとなると、そうそう道ははかどるものではない。当然ながら、我が輩たちが着くより遥かに前に、王城に報告が着くことになる。我が輩たちがこうして行進している間に、ブランザック王側も勢力を集めているのだ。

 日が昇ると軍勢は進み、日が沈むと手近な場所で野営する。基本的には、これのくり返しだ。

 そうして野営していると、近隣の村長たちが貢ぎ物を持って訪れることもあった。これは一種の税であり、先に貢ぎ物を届けることで、公爵の軍勢に村を荒らされることを防ごうというものであった。むろん、何も差し出さなければ、いきりたった荒くれ者どもに、何もかも奪われるのである。ときには命さえも。

 我が輩はそれを歯ぎしりしながら、馬の背の上から見つめていた。かっては我が輩も農夫だったのだ。彼らの苦しみはよくわかる。我が輩がこの鎧を見つけてさえいなければ、こういった光景はもっと先のことであったのだ。

 我が輩は良心の呵責にあえぎ、そうしてより一層の努力をこめて脱走計画を練った。

 大事なのは、バルダーン公爵に疑念を抱かせないことである。彼の企みに、完全に我が輩が同調していると思わせねばならない。

 途中で他の反乱貴族たちが加わることがあり、そんなときは軍勢は夜通しの宴会となった。護衛の警戒心を緩めるのには絶好の機会である。我が輩はわざと羽目をはずし、大酒を飲んで酔いつぶれて見せた。そのついでに、我が輩の見張り役たちにも酒を振る舞い、無防備にも彼らに近づいて見せる。

 そうこうしているうちに、ついに我が輩の待ち望んでいた機会が訪れた。

 バルダーン公爵に続く、第二位の反乱貴族であるブライト伯爵が到着したのだ。この二人は無二の親友とも言えるもので、いずれ劣らぬ卑劣漢であった。

 もちろん親友と言っても、悪党の基準で言う親友である。相手に下手に背中を見せれば、毒塗りの短剣で刺されることは明白であった。もっともこのときは、ブランザック王という共通の敵を前にして、両者とも裏切りの気配なぞ、毛一筋ほども見せはしなかったが。

 伯爵の到着を祝って、大規模な屋外宴会の用意がなされた。近くの村々から大量の食料が挑発され、略奪品を満載した荷車が続々と野営地へ到着する。

 これらはみな、バルダーン公爵の手下によって強制徴収されたものである。下手に村人が出し渋れば、暴力と酒に酔った騎士たちに、村ごと焼き払われかねない。彼らに取っては、そういった行為が遊びでしかないことに、我が輩は気がついていた。騎士と呼ばれる連中が平民をどう思っているのか、我が輩はようやく理解してきていた。自分たちと同じ人間だとみなしているのかさえ、疑問に思われる節がある。

 やれやれ。アリョーシャ神父が我が輩に話してくれた騎士物語というものは、ずいぶんと脚色されていたようである。これが本物の騎士の姿だとすれば、我が輩が成りたいのは本物の騎士ではない。

 我が輩が成りたいのは、騎士物語の中に出てくるような騎士なのである。

 我が輩が手配したことではなかったが、ブライト伯爵への我が輩の紹介も含めて、宴会は最高に盛り上がるものとなった。バルダーン公爵はブランザック王を追い落とした後に、王国をどのように分割するかを語り、ブライト伯爵はそれを狡猾そうなまなざしで見守るという具合であった。他の上級貴族たちもそれぞれの野望を語ると、全員で笑いあった。

 彼らの欲望をすべて満たすためには、今の十倍の広さの王国があっても足りないだろうなと、我が輩は心密かにそう思った。もちろん、顔には出さなかったが。

 我が輩の監視役兼護衛たちも、次から次へと勧められる酒杯を受けて、最後には足腰も立たないほどに酔い潰れてしまった。いや、そうなるように我が輩がひそかに誘導したことも事実だが、そもそも彼らの本性として酒には意地汚いのである。

 そうしてとうとう、宴会が終わる頃には、逆に我が輩が彼らを背負って天幕に戻る始末となった。

 我が輩はそっと彼らを天幕の中に横たえると、外をうかがった。

 計画通りである。我が輩は心の中でにんまりと笑った。あの殺し屋の東洋人も、我が輩ではなくバルダーン公爵に張りついている。ブライト伯爵という人物は、それほどまでに信用がおけないらしい。公爵の息子のニコラスの姿もない。きっと配下のならず者たちを監視するので忙しいのであろう。

 誰も我が輩を見張っていない。これこそ我が輩の待ち望んだ瞬間である。

 もとより、夜の闇に紛れてこっそりと野営地を抜けることなど、我が輩は考えてはいなかった。

 夜もだいぶ更けてはいたが、それでもまだ、酔っ払って大声で叫んでいる者たちも多かった。この大宴会に参加できないという、不運な巡りあわせにある見張りの者たちも、まだ松明のそばに立っている。ここで下手に動けば、必ず誰かが我が輩を見つけてしまうだろう。

 我が輩は天幕の中の灯りを消すと、緊張した面持ちで朝を待った。

 例の鎧は、できる限り小さくなるように畳んで、ボロ布に包んで傍らにおいてある。鎧の部品の間にも布を詰めておいたので、持ち運んでも音はしない。

 我が輩もまた酒を大量に飲んではいたが、緊張のために眠くはならなかったのは、ありがたかった。ぎらぎらした目で、天幕の暗がりの中を見つめる。

 脱走に失敗すれば、我が輩はどうなるのだろう?

 暗い妄念が我が輩の頭の中に浮かんだ。

 首を切り落とされる?

 その場合でも、たった一つだけ良いことがある。頭がなければ、少なくとも二日酔いに悩まされることはないだろうということだった。

 自嘲の笑みが顔に浮かぶのを抑えることはできなかった。

 夜が明けるまでのなんと長いことか。

 朝日の最初の光が野営地を照らすと、昨夜の宴会の後で自分の天幕まで行き着けなかった酔っぱらいたちが、地面の上にごろごろと寝転がっているのが見えた。

 我が輩の護衛たちも、天幕の中で大きないびきを立てて眠っており、この様子では昼頃までは目が覚めないものと思えた。ふと思いついて、我が輩は彼らの体を探り、金袋を見つけだした。

 ふむ、どうやら彼らはけっこうな額の給金を、ニコラスからもらっているらしい。これだけもらえるのならば、我が輩自身がその見張り役をやらせて欲しいほどだ。自分で自分を監視するのだから、これほど確かなものはない。

 野営地のあちらこちらに立っている見張りの兵が交代を開始したのを確かめて、我が輩は隠し持っていた古着に着替えた。髪をくしゃくしゃにし、泥を顔に塗りこんで汚せば、たちまちにして我が輩はただの農夫へと戻る。少し前までの、我が輩の本当の姿だ。

 鎧を着れば騎士となり、ボロ着を着れば平民となる。こうなると、人が服を着るものなのか、服が人を着るものなのか、我が輩にはわからなくなってきた。

 がやがやと人の話し声が聞こえ、それに続いて荷車の車輪が地面を転がるにぎやかな音が、遠くから聞こえて来た。近くの農家が食料を売りに来たのだ。

 これほどの規模の軍勢ともなると、食料の確保には一苦労だ。穀物の類を税に見立てての徴収も行うが、こうして売りに来る分も馬鹿にはできない。結果として毎朝、軍隊の行く先々に市場が立つことになる。

 我が輩が待っていたのはこれだ。天幕からすべり出ると、見張りたちの交代の隙をついて、野営地の縁に作られた市場への道をたどる。そしてその道に面した天幕の陰に身をひそめた。

 天幕の前を荷車が通り過ぎるのを見計らって、我が輩はするりと天幕の陰から滑り出ると、何食わぬ顔で商人や農夫たちの群れに混じった。彼らから見ても、我が輩は一足先に売り物を届けに来ていた平民にしか見えないはずであった。

 それでも、いつ誰かが我が輩の正体に疑問を抱くかもしれないので、我が輩の心中は穏やかではない。小走りになりそうな足の動きをなんとか抑えこんで、ややうつむき加減で我が輩は歩き続けた。背中に担いでいるのは鎧一式の入ったボロ布。見るべき人間が見れば、剣と盾が包まれていることに、一目で気づかれてしまうだろう。

 即席の市場にようやくついたときには、それほど暑い時期でもないのに、我が輩の体は汗でびっしょりであった。

 これで第一の関門は突破である。しかしこれはまだ、我が輩の計画の最初の段階でしかない。怖いのは市場から出るときだ。そのときまでに我が輩の監視役たちが目を覚まして騒ぎたてていれば、脱出計画はそこで終わりとなる。

 我が輩が隠れ蓑に使った商人の一行は、たちまちに市場の中に散ってしまったので、我が輩も市場の人ごみの中に紛れこんだ。市場の売り手たちは近隣の農夫や商人たちだが、買い手はどれもバルダーン公爵や他の反乱貴族たちの召し使いたちだ。その中に、ひょっとしたら、我が輩の顔を覚えている輩がいるかもしれないので、我が輩はできる限り目立たないように歩いた。

 後は、市場から帰る人の波に紛れこみ、この野営地を出ることだ。我が輩はうまく潜りこめそうな、帰り支度をしている連中を探した。

 背後から馬のいななく声が聞こえ、我が輩は振り返った。

 そこにいたのは我が輩の愛馬の食いしん坊だ。他のやせ衰えた馬と一緒に杭につながれている。なんとそれは廃馬の競売所だったのだ。病気や老齢で使えなくなった馬や、足を折ってしまった馬がつながれている。

 バルダーン公爵め、我が輩の大事な馬まで売り飛ばすつもりだったのだ。我が輩は、バルダーンの黒い魂が地獄に落ちるようにと、神に祈った。

 このまま行けば、食いしん坊は、以前にいた粉屋のようなところでこき使われてその短い一生を送るか、どこかの鍋の中でもっと短い一生を送ることになるだろう。

 どうする? 見捨てるのか?

 一瞬の逡巡の後、我が輩は競売所へと近づいた。

 まずいことに馬を売っているのは、バルダーン公爵のところの馬追い頭だ。我が輩は彼の顔を以前に一度だけ見たことがあった。彼が我が輩の顔を見分けませんようにと祈り、それから食いしん坊の値段の交渉に入った。

 祈りが効いたのか、それとも我が輩がよっぽど農夫らしい顔をしていたのか、彼は我が輩には気づかなかった。短い交渉のあとに、彼はあっさりと食いしん坊を我が輩に売りつけた。

 その金額は安いとは決して言えないものであったが、それほど高いものでもなかった。我が輩にもこの取り引きを早く終わらせたいという弱みがあったし、彼にもこの厄介な馬をできるかぎり早く片付けたいという弱みがあった。弱みのある者同士の取り引きは、実にすばやく話がつく。

 何が悪い? どうせ他人の金だ。

 護衛たちの懐から探り出しておいた金袋から、彼の言うままの金額を払い、我が輩は食いしん坊を買い取った。なんともはや、呆れたものである。本来は自分のものである馬に金を払うとは。

 食いしん坊は、我が輩の顔にその長い鼻面を押しつけると、親愛の情を示した。それから、何かないかと我が輩の服に顔を埋めると、ボロ服の袖を少しばかり食いちぎった。

「はは、どうやらあんたに懐いたようだな」馬追い頭が言った。

「こうして売買が終わったから言うが、そいつはよく食うぞ」

 我が輩は片方の眉を上げて、彼の言葉に反応して見せた。

「なにせ、そいつは隣の囲いの馬の分まで食っちまうんだからな。食うことにかけちゃ実に意地汚い。ちょっとこちらが目を離すと、何でも食っちまう」

 それを教えてくれてありがとうと、我が輩は馬追い頭に対して皮肉混じりの礼を言い、食いしん坊を連れてその場を離れた。

 少しだけだが、我が輩は怒りを覚えていた。

 この馬が食い物に関して意地汚いのは当然なのだ。

 長い間、冷酷な粉屋の下でこきつかわれてきたのだ。食えるときに食っておかねば、次の食事の機会はずいぶんと先になるかもしれない状況で、なんとか生きてきたのだ。餓死という名の死に神が、その背中にいつも触れていたのだから、食えそうなものはすべて食う。

 この馬には罪はない。あるとすればそれは、共に生きるものの苦痛に気づかぬ、冷たい人間の心の中にある。

 これから先も、我が輩だけはこいつに優しくしてやろう。そう決心した。

 市場を出てゆく他の商人の流れに入ると、食いしん坊の手綱を引いて、我が輩は野営地を抜けた。

 野営地の出口で、見張りたちはじろりと我が輩たちをにらみ、それからいきなり槍を突き出してきた。

 左右から出された槍が、十字に交差して我が輩の行く手を塞ぐ。

 ばれた。我が輩の体を衝撃が突き抜けた。緊張のあまりに耳鳴りがする。

 見張りたちが箱を突き出すと、商人たちがコインをその中に投げこむのが見えた。ぼんやりしている我が輩に向けて、見張りの叱責が飛んだ。

「税だよ。通行税。何をとぼけているんだ!」

 夢見心地のまま、我が輩は金袋を取り出すと、コインを一つかみ、箱の中に投げこんだ。槍が後ろに引かれ、我が輩の前に道が開ける。

 野営地が見えなくなったところで、商人たちから離れ、食いしん坊の背中にまたがる。自分の幸運が信じられない。しかし、我が輩はやり遂げたのだ。

 目の前に広がるのは、新たなる道。誰も邪魔をしない道。遥かなる冒険へと至る道。

 喜びが心の中に湧きあがってきた。我が輩は叫び声を上げると、食いしん坊を駆けさせた。

 ついにやった。我が輩は自由だ!




   罠というものは常に致命的なものである。それに迂闊にも飛びこんでしまっ

  たならば、罠の口が閉まる前に、全力で抜け出さねばならない。

   しかし、もっと致命的なものがあるとすれば、罠を抜けた直後にかかるもう

  一つの罠であろう。最初の罠を抜けて油断しているだけに、次の罠にはより深

  くはまってしまう。

   我が輩は自分を食い尽くそうとする狼の群れから逃れることができた。しか

  しそれでも、我が輩を狙っている狼の群れが一つではないことには、まだ気づ

  いていなかったのだ。

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