第一章 人たるものの王国】冒険行4)狼の巣の中で

 さて、次なる我が輩の目覚めは、例によって強烈な頭痛と吐き気から始まった。

 その通り、二日酔いである。我が輩がベッドの上で目を覚ましてみると、時刻は深夜であった。木板で閉じられた窓の隙間から、月の光が細い筋となって入りこんでいる。

 酒に酔って倒れる前の記憶を確かめてみた我が輩は、どうやら領主が我が輩のことを次なる王と宣言したのは、夢ではなかったのだと結論した。

 うえっ。我が輩は喉元に上がってきたものを無理に飲みこんだ。

 王だって? 冗談じゃない。

 いったい何がどうなっているのだ?

 街についたらどうしようかと、旅の間に色々と考えてはいた。その中には荒唐無稽な夢想も混ざってはいたが、現実は我が輩の予想をさらに越えている。

 これはどういう運命の皮肉であろう。数日前には我が輩は農夫の息子であり、家というよりは掘っ立て小屋とでも言うべき、みじめなあばら家にいた。今はここで偉大なるウィリアム王の正当なる息子と目され、明日にも国を継ぐなどという話になっている。

 もしかしたら、我が輩はまだあの石作りのマリア像の前にいるのではないか。そうして幻覚とも夢ともつかぬ類のものを見せられているのではないか。

 試みに我が輩は自分の頬を強くつねって見たが、その頬よりも、二日酔いによる強烈な頭痛の方がもっと痛かった。

 痛いということは現実なのだ。

 しかしこれは何と言う現実なのか。こともあろうに、王国に対する貴族たちの反乱に巻こまれるとは。王国を治めるブランザック王の名はもちろん聞いたことがあったが、バルダーン公爵が反乱貴族の筆頭だとは知らなかった。知っていたら、そもそもこの街には近づかなかっただろう。

 こともあろうに我が輩は、ずいぶん昔に謎の失踪を遂げた高名なる守護王ウィリアムの鎧を着て、反乱を企んでいる貴族の街にわざわざ来てしまったのだ。

 訳がわからない。どうしてそんなに大事な鎧がアリョーシャ神父の畑に?

 いや、それよりも我が輩はこれからどうすればよいのか、ということのほうが重要だ。

 取合えずは、この下腹の圧力を解放する。その次は水だ。このひりつく喉の乾きを、浴びるほどの水を飲んで癒す。最後に眠りだ。とにかく頭の中一杯に満たされた痛みをどうにかしないと、考え事なんかできはしない。

 まったく、酒を飲む人間の気が知れない。飲んだ後には、これほどの苦痛が待ち構えているのだから。

 我が輩は危なかしい足取りのまま、ベッドから下り立った。農夫ならばこのまま土間で用を足すか、それ専用の桶の中にして翌朝に外に捨てるところだ。しかし、と我が輩は暗い部屋の中を見回して思った。この豪華な寝室でそんなことはできない。

 この館の中のどこかに用を足す場所があるはずである。我が輩は部屋の扉を開くと、廊下にさまよい出た。貴族でも寝室用便器を使うのだとは、我が輩も後で知ったことであり、そのときは貴族の習慣については何も知らなかった。

 さて、この見慣れぬ領主の館の中を、それらしき場所を求めて我が輩はさまよった。

 屋敷の中には、ちらちらと頼りなげで不安な光を投げかける蝋燭が、所々においてある。そのお陰で、館の中は無数の揺れうごめく陰影で彩られている。壁の複雑な装飾の上に落ちるそれらの影は、館全体の印象を限りなく異様なものに変えてしまっていた。

 元々この館の地理に不案内な我が輩は、たちまちにしてこの広大な館の中で迷ってしまった。

 そもそもこの蝋燭の光というものが我が輩は嫌いであった。松明の見せる暴力的な光のほうが我が輩の好みである。館の照明に蝋燭を使うこと自体が、この領主の豊かさを示していた。一方ではそれはまた、領主が情け容赦なく、税金を領民から絞り取っているという印であることを、我が輩は知っていた。

 夢見がちであることは認めるが、我が輩とて、馬鹿ではないのだ。これでも、村の悪童相手に培った狡猾さだけは十分に持ち合わせている。領民を苦しめて、己の贅沢の限りを尽くしているような領主が、どこの馬の骨ともわからぬ我が輩を、これほどまでに歓待するのだ。

 裏がある。それだけは間違いない。

 だがその裏というものがどういうものなのか、我が輩にはとんとわからなかったのである。

 我が輩をその失われた王の子供として王位につけるにしても、そうそう簡単にはその主張が認められるわけがない。

 確かに、鎧と盾、そして恐らくはあの剣もまた、失踪したウィリアム王の持ち物なのだろう。だがそれを着ていたからといって、我が輩がウィリアム王の息子ということにはならないはずである。

 そして、その肝心の我が輩に至っては、鎧の元の持ち主には会ったこともないのであるから、これは話にはならない。彼らの話に出てきた失踪した王とやらが、我が輩の飲んだくれでろくでなしの親父であるはずもない。それに、過去に我が輩のお袋が流れ者の騎士と浮気をしたとも聞いた覚えはない。もしそうであるならば、酒に酔ったときの親父が、お袋をなじるのにその話を持ち出さないわけがなかっただろう。

 そのような暗い想いをとりとめなく考えながら、館の中をうろついていた我が輩は、どうやらまだ人が起きていると見える部屋にたどりついた。扉の隙間から漏れる光が揺れるところを見ると、中では誰かが部屋の中を歩き回っているようである。

 早いところ、この下腹の圧力を解放しなくてはならない。この広い館の中を当てもなくうろうろ探すよりは、場所を聞いたほうが手っ取り早い。扉を叩こうと手を上げたところで、我が輩は細い光の筋が、廊下側の壁の一点から漏れていることに気がついた。

 何だろう?

 好奇心は猫をも殺すと人は言うが、それがどうだというのだ?

 我が輩はそっと光の流れ出ている壁の一点を探った。そこは廊下からやや奥まったところにある壁のくぼみだ。厚手のタペストリーの一部が引き上げられており、その背後の一点に穴があるのだと、我が輩は理解した。我が輩はその穴を覗きこんだ。我が輩の背後で、体に触れたタペストリーが静かな衣擦れの音を立てながら、元の位置に戻る。

 壁の穴の向こう、我が輩から見てちょうど正面の位置に、バルダーン公爵とその息子のニコラスがいるのが見えた。

 バルダーン公爵は机の前で、その巨体を椅子にすっかりと預けており、その息子の方は公爵の前をいらだたしげに歩き回っているところだった。

 壁に開いた穴が偶然のものではないことに、我が輩が気がついた。ここは覗き見をするには絶好の位置である。恐らくは最初からこういう形に作ってあるのだ。我が輩は背後を見た。いまやタペストリーはすっかりと床まで下りていて、廊下側からは我が輩の姿が見えなくなっている。

 もしタペストリーが開いておらず、しかも部屋の中から外の暗い廊下へと光が漏れていなければ、ここに覗き穴があることには我が輩も気づかなかっただろう。

 この豪勢な館の中にこういった仕掛けがあるとは。我が輩は舌を巻いた。バルダーン公爵は我が輩の予想を越えるとんでもない悪党にちがいない。

 我が輩はふたたび覗き穴に目をつけ、部屋の中の光景に注意を注いだ。かすかだが声も聞き取れる。

「どうしてあの野郎を殺してはいけないんだ?」

 怒りを含んだ声で詰問しているのは息子だ。あの野郎というのはもちろん我が輩のことであろう。

 殺すだって? 穏やかではないな。

 その問いかけにバルダーン公爵が答えるのが聞こえた。

「それはならんと言うたはずだぞ。いい加減聞き分けろ。ニコラスよ。あいつはブランザックに対する唯一の切り札だ。あいつとあの鎧があれば偽王を玉座から引きずり降ろせる」

 領主の声の端々に、自信の強さがこめられている。自分の命令が必ず守られることを知っており、またそのようにし続けて来た者に特有の声音だ。

 我が輩はこの館の地下をまだ探検はしていなかったが、きっとそこには拷問のための部屋があるに違いないと我が輩は確信した。

 その昔、アリョーシャ神父は、彼の小さな教会に遊びで忍びこんだ我が輩を、よく捕まえてはお説教をしたものだった。もちろん我が輩の目当ては、その後に振る舞われるお茶とお菓子であった。そうした食べ物の楽しみをはるかに上回るのは、神父の語るいくつもの楽しいお話であった。

 アリョーシャ神父は博識で、元々、我が輩の騎士道に関する知識はほとんどがその神父から仕入れたものである。言ってみれば、いまの我が輩を作り上げたのは、神父が語った物語の騎士たちの胸躍る冒険談であった。

 その話の中にときたま出てきたのが、性悪の悪い腹黒い領主のこと。彼の豪華な館の地下深くには、王城にあるものよりも凄い地下牢と拷問部屋があるとのことであった。

 それを聞いて、まだ少年であった我が輩は驚きに目を皿のように開け、じゃあ王様の城にもそんなに恐ろしいものがあるんだね、と尋ねたものだった。そのときのアリョーシャ神父の悲しそうな顔と来たら。

 腹黒い領主だって? なるほどバルダーン公爵はまさにそれだ。

 そして彼に狙われているのは、この我が輩そのものなのだ。これはおとぎ話じゃない。ここにあるのは現実の痛み、現実の死の危険、そして現実の恐るべき王国反逆の陰謀なのだ。

 我が輩がそんな回想に浸っている間、領主の息子、ニコラスは怒りを隠しもせずにバルダーン公爵の前を歩き回っていた。それに耐えかねたのか公爵が口を挟んだ。

「歩き回るのは止めろ。ニコラス。気が散るではないか。いったいどうしてそんなにやつを殺したがるのだ? 儂にはわからん」

「あの剣にいったい幾ら払ったと思う?」鋭くニコラスが聞き返した。

「刀匠ギルダーバンデンの作る剣は出来も最高だが、値段も高い。おれが払った代価はお気に入りの女奴隷を一人、やつに渡すことだった。その剣が、あっさり折れてしまったんだぞ。ギルダーに文句をつけてみたが、ちっともらちがあかない。このおれの剣の使い方が悪いとの一言だけだ。となれば悪いのはあいつだ。そうだろ? 親父」

「そんなにやつを殺したいのならば、よかろう、殺せばよい」

 バルダーン公爵は冷たく言い放った。

 それを聞いて我が輩はどきりとした。ここでやつと言っているのは、もちろん我が輩のことであり、殺すというのは我が輩のこの喉を、短剣で横一直線に切り裂くと言うことである。

 そうすると、あの豪勢な食事は最後の晩餐であったということになる。我が輩はここから逃げ出す道を真剣に考えることに決めた。

「だが、それはやつが自分の役目を果たしてからだ。それまではやつに指一本触れることもならん。やつを脅すことも許さない。やつには従順な操り人形を演じてもらわねばならぬのだ。こと、このことに関しては、いいな、ニコラス、お前と言えども、儂に背くことは許さん」

 そう言うと、領主は恐ろしい目でじろりと自分の息子をにらんだ。

 ああ、いや、そう。我が輩の覗き穴の位置からでは、視界の外に出たニコラスに向けた領主の視線は、捉えられなかった。しかしまあ、我が輩が言いたいのは、とにかくそう感じたということである。

 バルダーン公爵に対する我が輩の批評としては、強欲で冷血漢、その上、狡猾というところであり、ニコラスに関しては傲慢で軽薄というのがそれにつく。

 我が輩が唯一評価したのは、この館の食事で、これだけは申し分がなかった。

「息子や」バルダーン公爵は、一転して静かでものやわらげな声で言った。

「お前が誤解しているといけないので、ここで敢えて言って見せておいてやる。クリューガー!」

「わたしの名は、クリガです。公爵さま」

 いきなり、バルダーン公爵の横にあの東洋人が現れた。どうやら今まで、我が輩からは見えない所の壁にもたれかかっていたものらしい。気配一つ感じさせず、そこにずっといたのだ。

 短く刈りこんだ髪。奇麗にそりあげた髭。そして特徴のある、どこを見ているのかまったくわからない細い目。

 バルダーン公爵は一声うなると、先を続けた。

「呼び名など、どちらでもよい。クリューガー。もしニコラスが儂の言葉に反して、あのアンガスという田舎者にちょっかいを出したならば、構わん。殺せ」

 クリューガーと呼ばれた東洋人はお辞儀をしてみせた。

「わかりました。公爵さま。確かにお言葉の通りに」

 少しばかりあわてて、ニコラスが言った。

「待て。クリューガー。貴様は誰の味方なんだ」

 計算された一瞬の間をおいて、東洋人は答えた。

「わたしめは、バルダーン家に仕える者です。いまはバルダーン公爵さまに。そしていずれ、あなたさまがこの家を継いだ暁には、あなたさまにお仕えする所存です」

「では未来の主たるこのおれを、それでも殺すというのか?」とはニコラス。

「それが公爵さまの命令ならば、その通りです。どうかわたくしめにこの短剣を使わせないようにしてください。ニコラスさま」

 まるで魔法のように、東洋人の男の手に短剣が現れた。それは男の手の中でくるくると回転していた。

 ニコラスは父親の命令に逆らうための方法をしばらく探していたが、ついに折れて、降参の印に両手を上げて見せた。

「わかった。親父の用が済むまでは、あいつには手を出さないと約束する」

 その言葉を合図にしたかのように、東洋人の手の中から、短剣が消え去った。そう、それもまた魔法のようにだ。

「しかしあんな田舎者を使って何をしようって言うんだい? 親父。

 まさか本当に玉座に担ぎあげるんじゃないんだろうな?

 夕食をあいつが手づかみで食べるさまを見たかい?

 あいつがただの農夫のガキで、王の鎧と盾をどこかで盗んだかどうだかしたのは明らかじゃないか。たとえ王の息子のふりをさせたところで、ブランザック王の尋問に会えば、すぐに化けの皮がはがれるにちがいないさ」

「そんなことはわかっておるわ。息子や。いったい誰がブランザックめに尋問させると言った?

 あやつはブランザックの王位継承権に疑問を投げつけるための手段に過ぎぬわ。よいか。今より二十年も昔のこと。ウィリアム王が失踪したそのとき、空白になった王位にブランザックがついたことに、不満を持っている貴族は今でも数多いのだ。どの貴族も多かれ少なかれ王家との血のつながりは持っているものだからな。

 いいか。ブランザックが王位につくぐらいならば、己が王位につくべきであると考えている者に対して、ブランザックの王位継承権に問題があると教えてやれば、いったいどうなるか。結果は明らかだ」

「そんなに簡単な話ならば、どうしていままでにブランザック王が追い落とされていないんだ?」

 ニコラスは指摘した。自分の父親に対して、これほど不遜な言葉使いをする息子というのは珍しい。我が輩は変なところで感心した。もっとも息子に対して、言うことをきかないと殺すぞと、本気で脅しをかける父親も珍しいが。

 貴族とはすべからくこういうものなのだろうか?

 バルダーン公爵は、机の上から酒杯を取り上げると、一口すすってから言った。

「こうして聞くほど話は簡単ではないのだ。ブランザックには両翼騎士団がついている。ヘンリー卿とリチャード卿の率いる、王に絶対の忠誠を捧げる脳なしの騎士たちがだ。それに加えて、ザナッド家という協力者までいる。疑惑だけではこいつらを突破できない仕組みなのだ。

 だが今度は、ウィリアム王の武器防具というおまけがついている。ついでに言うならば、その中身もな。あの若者が、ウィリアム王の血を引くかどうかはどうでもいいのだ。それらしく見えるだけでいい。真実がわかるまでは、ヘンリー卿たちと言えども、一方的にブランザックの味方をするわけにはいかなくなるのだ。

 真実だと?」

 バルダーン公爵は満面に笑みを浮かべた。恐ろしい悪魔の笑みと、我が輩は見て取った。

「真実など誰にもわかるわけがなかろう。一度撒かれた疑いの種は、かってに増え続けるものだ。

 その間にも、宮廷は紛糾し、やがてブランザックはあの玉座から引きずり降ろされるだろう。そして彼の代わりに、この愚かな若者が王位につく。儂の後ろ盾を得てな。少なくとも一回は。その間に王位の力を使って、ブランザックの取り巻きを次々と失脚させるのは簡単だ。それから最後に儂の手でこの若者の正体を暴く。

 そうなれば、息子や、お前があいつをどうしようが自由だ。好きにするがよい。騒ぎに紛れて、今度は儂が王位につく。他の貴族たちも王位に手を伸ばそうとするだろうが、そのときには、儂の勢力がもっとも強くなっている。さあこれでもう、王位の行方は決まったようなものだ。このことを期待して、儂は二十年もの間、布石を打ち続けて来たのだから」

「でもそれならば、何もあの田舎者じゃなくて、こちらの配下から誰か適当なやつを選んで、ウィリアム王の息子に仕立てあげたほうがいいんじゃないか?」

 このニコラスの指摘に、バルダーン公爵はすばやく答えた。

「それは駄目だ。面が割れている怖れがある。それに万一、ブランザックめの追い落としが失敗したときに、こちらが責任を取らされる可能性がある。それぐらいならば、どこから来たとも知らぬ若者に、迂闊にもこのバルダーン公爵が騙されたという形にしておいた方が、うんとよいというものだ」

「親父。それは用心が過ぎるというものだぜ」

「黙れ。ニコラス。実の父親に向かってなんという口の聞き方だ。儂はこの用心深さで、今までの難局を乗り切ってきたのだ。第一、あの世間知らずの若者を泳がせておいたからって、なにほどのこともあるまい」

「もう一つ問題があるぜ。王位が一時の間、空白になったとして、やはりブランザックが次期王位継承者ということになる可能性だ」

「そうはならない。なぜならば、王位が空白になった瞬間に、ブランザックがウィリアム王を殺したという証拠が出ることになるからだ。そうだな、ウィリアム王の鎧の中の隠しポケットから手紙が出るというのはどうかな。裏切り者の手により死に瀕した王が、最後に己の鎧の中に隠した手紙というわけだ。むろん、よくよく調べられれば手紙が偽物だということはわかるが、それを調べている暇はないだろう。玉座に座った後の儂の最初の仕事はブランザックの処刑だからな」

「そしてその後は、ヘンリー卿、リチャード卿の順ってことか」

 ニコラスがやっと納得したとでもいう声で続けた。

「ザナッド家を忘れてはならぬぞ。息子よ。そなたがメガン令嬢に執着していることは知っておるがな」

「マリウスはおれが殺す。だけど、親父。メガンはおれがもらうぜ。ザナッド家は潰すにしても」

「残るはマラトン卿だが、ここは放っておいても構わぬであろう。それだけ潰せば、後は儂に逆らう者は、この王国にはおらん。それから最後に、あのアンガスとかいう名の田舎者の正体を暴いて、縛り首にでもすれば、万事めでたく片がつくというものだ」

 領主はまたもや小さく笑ってから続けた。

「さあ、夜もふけた。明日からは忙しくなるぞ。王城に向けて旅をするのだからな。各地の貴族に伝令を送り、宮廷評議会を開くのだ。なに、どれも欲深な輩だ。賄賂を贈り、少しばかりやつらの欲望をつついてやれば、それだけで儂の狙いはかなうだろう」

 そこまで言ってから、ふとバルダーン公爵は真面目な顔になった。

「そう言えば忘れておったぞ。クリューガー。『耳なし』から報告は入っているか?」

「まだです」東洋人は一言だけ答えた。

「わかった。まあ、たいしたことではない」

 バルダーン公爵は椅子から立ち上がった。

「とにかく今日はよい日であったぞ。玉座への道がいきなり開けたのであるからな」

 ニコラスが答えた。

「そううまくいけばいいのですがね」

「なんとお前らしくもないな。我が息子、ニコラスよ。お前の父親の策略を信じるのだぞ。明日にもお前は王の息子ということになるのだ」

 覗き窓から彼らの姿が消え、その代わりに扉が開くと、ニコラスを先頭にして、公爵たちが廊下に出てきた。

 我が輩は一瞬身を固くした。会話が終われば、彼らは部屋を出るのだ。そのことに気づかなかった自分の愚かさを、我が輩は憎んだ。

 もしここで、我が輩が彼らの陰謀を立ち聞きしていたと知れば、我が輩の命がないことは明らかだ。おだてて操れる愚かな若者だからこそ、すぐに殺そうとはしていないのだ。秘密を知ったならば、他人に喋られる前に殺す方が安全だ。そうして誰か別の人間に我が輩の役、いや、ウィリアム王の息子の役をやらせればいい。

 我が輩はタペストリーと壁の隙間から、廊下の暗がりを見つめた。蝋燭の灯を背景にして、バルダーン公爵、ニコラス、そしてあの東洋人の影が浮き上がっている。

 ざっと周囲の廊下を見回すと、東洋人が言った。

「変だ。壁掛けが閉まっている。来たときは裾を上に上げておいたはずなのだが」

 その言葉に我が輩はどきりとした。いきなり心臓が早鐘を打ち始め、胸が苦しくなった。初っ端から、我が輩のことが見抜かれてしまっている。

 短剣が東洋人の手に現れた。

「おおかた、見回りの者が閉めたのであろうよ」

 大きくアクビをしながら、バルダーン公爵は背伸びをした。

「クリューガー。そなた、ちと物事を気にし過ぎだぞ。最近はザナッド家との闘争は収まっているし、暗殺者が忍びこむ恐れはないはず」

「わたしの名はクリガです。公爵さま。しかし念のためということもありますので」

 東洋人はタペストリーに近づくと、それを払いのけようと手を伸ばした。

 絶対絶命。我が輩の額にどっと汗が吹き出した。こうなれば、東洋人がタペストリーを開けた瞬間に、彼に飛びかかって短剣を奪い取るしかない。それから一目散に逃げ出すのだ。我が輩は心の中で神に短い祈りを捧げた。この東洋人は人を殺すことに慣れている。今まで鍬以外の道具を扱ったことのない我が輩とでは、その腕前は天と地ほどの差がある。運が悪ければ、彼に飛びかかった瞬間に我が輩は死んでいるだろう。

「まったくお前の慎重さにはあきれるぜ」

 ニコラスはそう言うと、東洋人の伸ばした手を抑えた。

「大丈夫だって。それより親父を部屋にまで送り届けてくれ。おれはまだ街にちょいとした用事があるからな。いきなり明日から街を離れるなんて言ったら、アイダに何て言われると思う?」

「夜遊びもほどほどにしておけ。息子よ。明日から大事な仕事があるのだからな」

 そう言い終わると、また大きなアクビを一つして、バルダーン公爵は廊下の暗がりへと消えて行った。東洋人も短剣をしまうと、公爵の後について消え去る。

 最後に残ったのはニコラスだ。ちらりと背後のタペストリーを振り返ると、肩をすくめた。それからいきなり腰に吊るしたままの細身の剣を抜くと、タペストリーに突き刺した。

 我が輩の隠れている部分にだ。

 鋭い剣先はタペストリーを貫き、我が輩の顔のすぐ横に突き刺さる。壁のかけらを落としながら、それはすぐに引き抜かれた。

「考え過ぎだな。クリューガーの癖が伝染したらしい」

 ニコラスは自分にそう言い聞かせると立ち去った。

 ようやく一人になり、我が輩は廊下へと飛び出した。

 どこをどう通ったのか、ようやく自分の部屋を見つけると、部屋の隅に置いてあった何かの容器を使って、いまのいままで忘れていた下腹の圧力を開放し、我が輩はベッドへと倒れこんだ。とんでもないことに巻こまれた、これからどうしようかと考えたところで、我が輩はそのまま夢も見ない深い眠りへと、引きずりこまれてしまった。


 明日にも出立との話ではあったが、実際には準備に三日もかかった。領内のあらゆる所から軍勢が集められたらしく、街の中も外も人で一杯であった。我が輩はと言えば、領主の館の一室に監禁同様の状態であった。館の周囲には犬が放され、外から簡単に侵入できない代わりに、中からも出られなくなってしまった。

 我が輩が何も手を打たなかったとは考えないで欲しい。あらゆる手段を総動員して、我が輩は脱出の道を探った。家具から取り外した金具を使って、タペストリーを分解してロープを作ることまで考えた。

 我が輩が盗み聞きをしていたとは知るよしもなく、領主は我が輩を歓待し続けた。まるで親友であるかのように、我が輩の肩を抱いて、王の居城で我が輩を待っている名誉と栄光とについて、とうとうとまくしたてた。

 領主の息子、ニコラスは、始終苦い顔を崩さなかった。しかし、それでも我が輩に手を出そうとはしなかった。

 ここはおだてに乗っているようなふりをするしかない。我が輩に取っては命懸けの演技である。間違っても公爵たちの陰謀に気がついていることを、気取られてはいけないのである。

 いつ、どこに行っても、あの東洋人の細い目が我が輩を見つめていた。あの晩、タペストリーの背後に誰がいたのか、この東洋人は知っているのではないか。我が輩はそんな気がしてならなかった。

 領主の館自体は、大勢の騎士の立てる騒音に満ちあふれていた。いったいどこから集まって来たのかと疑問に思うほどの大勢の騎士が、館の大広間に集っていたのだ。その中には明らかに無頼の徒と思える者も大勢混じっていた。

 これは後からわかったことだが、この騎士と称する連中の大半は、領主が秘密の税を取り立てている山賊や強盗の類であった。

 今回の王位を巡る戦いで、ひょっとしたら騎士どうしの殴り合いが必要になるのではないかと、そう考えたバルダーン公爵の命令によって、急遽集められた輩であった。こうした無頼漢たちも、我が輩には手を出さないように厳しく命じられていたらしく、敢えてちょっかいをかけてくる者はいなかった。

 まあ、そのうちの幾分かは、大穴が開いた城壁に関しての街の噂を聞きこんでいたらしい。尾鰭がついて膨らんだ馬鹿話は信じないにしろ、我が輩の腕前を確認するまでは、余計な手を出すまいと考えていたのだろう。

 そういった輩を相手にしての、宴会漬けの三日間であった。

 だが我が輩とくれば、のんびりと酒に酔っている暇はなかった。このまま、バルダーン公爵の反乱軍が我が輩を連れて王都に上れば、王国に凄まじい内乱が起きてしまうのだ。

 ブランザック王側が勝てば、我が輩は反乱軍の首謀者として縛り首である。バルダーン公爵側が勝てば、我が輩は余計な邪魔者として縛り首である。どちらにしても、我が輩には死ぬしか道が残っていない。

 アリョーシャ神父にでも相談できるならば、きっと良い知恵の一つももらえたであろうが、彼はすでに亡き人だ。あの嵐の晩に、荒れ狂う川に飲まれて死んでしまったのだ。

 そのときの我が輩ときたら、聞きかじりの知識と王位に関る鎧の他には何も持っていなかった。さて、我が輩の経験はとくれば、これはまだ尻のそばに卵のかけらをつけたままの雛鳥同然である。

 頼りとなる人はおらず、自分自身もまた頼りにはできない。

 まさに狼の巣の中で、我が輩はただ自分が食い殺されるのを待っているのであった。




   床一面に油が撒かれていることも知らずに、松明を持って部屋に入る。

   こんな表現がそのときの我が輩を示すのには、ぴったりだ。さて、もし

  これで家が火事になったならば、悪いのは油を撒いた人間か、それとも松明を

  持って来た人間か?

   判断に苦しむところである。我が輩がウィリアム王の鎧を見つけなくても、

  いずれ王国はバルダーン公爵の反乱騒ぎに巻きこまれていたことは間違いない。

  しかしだからと言って、よりにもよって反乱を企むバルダーン公爵の前に、ウィ

  リアム王の鎧を持っていった我が輩に罪がないと主張するわけにはいかないだ

  ろう。

   状況に流されたと言い訳するのは簡単だ。しかし、物事の中心にある者は、

  それを見過ごさないという義務を負うものだと、我が輩は考える。

   もっとも、だからといって、我が輩にバルダーン公爵を止めることができた

  わけではないのだが。


   王国の未来を乗せたまま、運命の車輪はすべてを巻きこみながら、王都目指

  して驀進を続けることになる。

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