第一章 人たるものの王国】冒険行3)バルダーン公爵
さて、草むらの中の道をたどってみると、今度は何の障害に遭うこともなく、どうやら大きな街へと続いているように思われる街道に出ることができた。
荷車一杯に積み上げた野菜を運ぶ村の者たちを見かけたときには、我が輩は心底ほっとした。
我が輩の旅立ちの試練は終わったようである。
そういった荷車を何台も見るにつれて、我が輩がこれから訪れようとしている街の大きさが理解できた。
以前にも他の村へと出かけたことは当然あるが、周囲を城壁で囲まれた、街と言えるほどの大きさの場所を訪れたことは滅多にない。ましてや、これほどの大きさの街を訪れるのは、我が輩には初めてだ。
少しばかり我が輩は緊張していた。これから始る名誉と栄光に満ちた騎士の人生のためには、のっけから田舎者と思われるわけにはいかないのである。
前回、街を訪れたときはひどいものだった。我が輩は農夫であり、いま我が輩の周りで汗だくになりながら荷車を押している連中と同じような姿であった。おまけに手に入った金のほとんどを、親父が酒に換えてしまったので、そのときの懐の寒さときたら。
まあ、正直に言えば、ろくな経験ではなかったのである。
だが、いまの我が輩の姿を見ていただきたい。高貴な鎧は美しく輝き、馬の脇に吊るした紋章の盾は、見紛えようもない素晴らしき威厳を惜し気もなく見せて、我が輩の高貴なる生まれを誇っているかのようである。
きっと街の人々は、我が輩を一目見るなり、歓喜の声で迎えてくれて、下にもおかぬもてなしをしてくれるのではないか。我が輩の到着の噂を聞くと、街を治める領主が裸足で飛んで来ると、彼の館に招待してくれるのだ。そして、我が輩の高貴な生まれについて、あらためて教えてくれるにちがいない。
笑わないで欲しい。我が輩は半ば本気で、こういったことを夢想していたのだ。
その一方で、我が輩はまた別のことを考えてもいた。
街についたら、まず今日の宿を探すのだ。幸い、鎧と一緒に見つけた金貨はまだ残っている。街に入るための滞在税と宿代には十分に間に合うだろう。この金貨が尽きる前に、兵士の募集所を探し当てるのだ。我が輩が騎士として認められるかどうかはわからないが、剣と鎧と馬を持参しているのだから、最下級の雇われ歩兵ということにはならないはずである。それなりに戦で手柄を立てれば、ひょっとすれば領地を貰えるぐらいには出世するかもしれない。
人の思考とは、なんと奇妙なものだろう。我が輩の頭のなかでは、こうした相反する二つの考えが、お互いに混ざることもなく、それぞれの主張を唱えていたのである。
夢と現実。夢想と予想。その狭間で我が輩は馬を進めていた。
馬も我が輩も旅の疲れが出てきた頃に、ようやくのことに道は尽き、その先に威風堂々とした街の城壁と城門が見えてきた。確かにその街は、我が輩が今までに見たこともない大きさであった。
城門を中心として、石の城壁が左右に延びている。その城壁に添うようにして、これも左右から延びて来た街道が、いま我が輩のたどっている街道と、城門の前で交わって、三叉路となっている。城壁の向こうにはいくつかの建物の尖塔が見え、そのずっと奥には小高い丘があり、さらにその上には見事な館がそびえ建っていた。
あれが領主の館だと、我が輩は理解した。城壁に囲まれた街の、もっとも深い所に位置している。こうして遠目に見ても、その豪華さがはっきりとわかる。これはつまりこの街にいるのは、普通の村や街を治めている小領主ではなく、この付近一帯を治めている大領主だということになる。
ある意味では、これは我が輩には好都合であった。このような街では常に兵士を募集しているものなのだ。
大勢の人間と荷車が、城門を通じて出入りしているのが見えた。その中には兵士らしき姿もちらほらと見える。
我が輩は馬を止め、荷物の中から鎧を引き出した。街に入る前に、騎士として正装しておくべきであろう。どこに兵士募集係りの目が光っているかわからないのである。
我が輩もこの鎧に少しは慣れたのか、以前よりも多少は手早く着こむことができた。
惜しいな、兜があれば完璧なのに。そうも感じた。
立ち上がり、どこか変な所はないかと、鎧の具合を確かめる。その拍子に、茶色の髪をしたソバカスだらけの少年が、木の陰から我が輩を見つめているのに気がついた。
やはり我が輩の勇姿は目立つらしい。内心、気をよくしながら、我が輩は残りの点検を終えた。よし、これで我が輩はどこから見ても立派な騎士である。美しく輝く鎧に身を固めて街の城門を越えれば、人々に感銘を与えるのには十分であろう。
我が輩は苦労して馬によじ登ると、手綱を取った。アリョーシャ神父が、なぜ我が輩に馬の扱い方を教えてくれたのかはわからない。しかしそれは十分に役に立っていた。
周囲を見回してみる。さきほどの少年は消えていた。我が輩は彼を怖がらせてしまったのだろうか?
まあ、いいさ。我が輩は馬を歩かせた。
太陽は静かに地平線の彼方に消え去る寸前であり、城門の向こうで何かの鐘が鳴らされるのが聞こえて来た。
黄昏時である。人々が家に帰るべき時刻。世界がゆっくりと薄闇の中に落ちて行く時間。
我が輩は軽く乗馬の背を叩くと、彼の旅の苦労をねぎらった。故郷の強欲なパン屋から我が輩が買い取るまで、この馬はろくな食事も与えられていなかったらしい。あばらの骨が浮き出るところまで痩せているのであるから、その残酷さの程度が知れようというもの。
城の中で我が輩を待っているにちがいない領主は、我が輩にもっとましな馬を探してくれるだろう。そのときは、この馬がひどい扱いを受けないように一言頼んでおこうと、我が輩は心に決めた。
周囲がいきなり騒がしくなり、商人の引く荷車が、いまにも車輪が外れそうな勢いで、がらがらと音を立てて城門の中へと駆けこんで行った。どうやら、もうすぐ城門を閉める刻限らしい。先程の鐘の音はその合図だったのだと、我が輩は気がついた。
街の城壁の外に取り残されまいと、人々は必死で駆けているのだ。
このままでは我が輩が城壁に行き着く前に、その城門が閉まってしまうかもしれない。
どうする? 馬を急かすか?
いや、と我が輩は考え直した。立派な騎士たるものが、平民と同じようにあわてた格好で城門へ飛びこむのも、少しばかり威厳がないと言うもの。我が輩は敢えてゆっくりと馬の歩みを進めた。偉大なる伝説の騎士が初めて街に登場するのだ。それなりのやり方というものがある。
城門は木で作られた大きなもので、石作りの城壁の中に設けられたアーチ型の入り口にはめ込まれている。引き上げ式の城門であり、城門の横に作られた塔の中のからくりを使って、動かすようになっている。
その城門が勢いよく動き始めると、重々しい音とともに、左右の木枠で作られた溝に沿って滑り落ちると、我が輩の鼻先で閉まってしまった。
自分が街から閉め出されたということに気づくのに、長くはかからなかった。なんということ。これは我が輩が心に描いていた図とはちがう。こんなことは許されてよいはずがない。高貴な騎士が城門の外に置いてけぼりにされるということは。
我が輩は大きく一つ咳払いをすると、城門の前でそれが開くのを待った。
しばらく経っても何の変化も起きないので、我が輩は意を決して、大声で開門せよと叫んでみた。
我が輩の声に答えて、門番らしき男たちが数人、城門の両脇に作られている塔の上から顔を出すと、我が輩の姿をしげしげと眺めてから、声をかけて寄越した。
「ほうい、どこの騎士さまかは知らぬが、もうこの門の刻限は過ぎてしまいましただ。また明日の朝、おいでなされ」
それだけ言うと男たちはまた塔の中へと引っこんだ。城門が閉まれば彼らの今日の仕事は終わりである。その後は、酒でも飲んで過ごすつもりなのだ。
我が輩をここに放っておいたまま、酒を飲むだって?
我が輩はもう一度大声を上げると、再び塔の中から顔を出した男たちに向かって、門を開けるように命じた。馬の向きを変えると、その脇に吊るした盾の紋章が塔の上の男たちによく見えるようにしてから、我が輩は待った。
実を言えば、この盾の紋章が何を意味しているのか、我が輩にはわからない。本来こういうものは紋章師が判定するものである。信じられない話ではあるが、使っている騎士本人が、自分の紋章の由来を理解していないことも多々あるのだ。
我が輩の盾の紋章を見た城門の番人たちは、しばらくの間、その紋章について大声で意見を交わしあっていた。城門の両側の塔の間で大声で会話するのだ。その会話の中身は、我が輩にも筒抜けである。
最初は、我が輩の紋章には見覚えがないこと。次には、城壁の向こうに見える丘の上の屋敷に住む領主から、今週訪れる客については何も聞かされていないこと。そうして最後には、近頃はこういった放浪の騎士の手合いが、領主の振る舞う食事目当てに、街に乗りこんで来ることが多いことを大声で話しあった。
もちろん、最後の部分はわざと我が輩に聞かせているのである。
我が輩は自分の怒りをぐっと抑えて、微動だにしなかった。彼らが己の非に気づき、城門を開けるのを待っていたのだ。
門番たちはいったん沈黙してから、我が輩が立ち去る気配を見せないことを知り、もう一度、大声で会話を始めた。その会話の内容は、このような頑固な騎士には、それなりの扱いをしなくてはならないという結論に落ち着いた。
頭上でひときわ、門番たちの喚き声が大きくなったと思ったら、何かがざぶりと我が輩の頭の上からかけられた。
鼻をつく悪臭。
門番たちが、何か得体の知れない汚水を、我が輩に浴びせたのだと知って、我が輩は激怒した。
かあっと我が輩の全身が熱くなった。我慢の限界である。この我が輩という高貴な騎士に対する彼らの無礼な態度にも腹を立てていたが、これはさすがにやり過ぎだ。見過ごすことはできない。
我が輩は馬の踵を返すと、城門から十分に離れた。ずぶ濡れになった鎧から発する悪臭を嗅ぐたびに、また新たな怒りが体の奥から湧きあがってきた。
我が輩は、馬の腹帯に吊るした剣を引き抜くと、目の前にかざした。我が輩のみじめな姿を指差しながら、城壁の上で腹を抱えて笑っている門番たちのいる塔を目掛けて、馬に拍車を入れた。
どうする気だったのかって?
我が輩だってそこまで馬鹿じゃない。馬を突撃させて見せてから、そこで降り、城門に剣を叩きつけるつもりだったのだ。門番たちがそれで外へ出て来るなら、まあ、それなりに我が輩の怒りを思い知らせてやるつもりだった。また、彼らが外へ出てこないなら、よろしい、明日の朝が来るまで、木で作られた城門にたっぷりと傷を作ってやるつもりだった。そうなれば、街の領主から門番たちは散々に絞られるだろう。近頃では、木の値段だって安くはないのである。
街の警備兵たちが飛び出てきて、我が輩を殺すかもしれないということは、思いつかなかった。
だが事態はまったく別の様相を見せた。
我が輩の馬には、拍車が少々痛かったらしい。彼は一瞬体を固くした後、ほとんど半狂乱の状態で城壁を目掛けて突っこんだのだ。
振り落とされまいと馬に必死でつかまっている間に、ぐんぐんと近づいて来る城壁を見て、我が輩は気づいたのだ。このままでは堅い石の壁に激突して、我が輩の輝かしく、かつ少しばかり臭う騎士人生も終わってしまうと。
だが我が輩よりも一瞬早く、馬自体がそれに気づいた。彼は城壁の直前で、急激な方向転換をやって見せたのだ。
馬の背中から放り出された我が輩の体は、頭から城壁の中心へと飛びこんでしまった。
まずい。このままでは頭が潰れて死ぬぞ。そう考えたことを覚えている。
頭をかばおうとして伸ばした手に握り締めたままでいた剣が、城壁の石に刺さる。その拍子に我が輩の動きが止まり、足が地面についた。
「おおい、そこの騎士どの。いったい何をやっているのだね」
頭上から門番たちの声が届いた。腹を抱えての大きな笑い声も一緒にだ。
「石壁相手にその石頭をぶつけても、何にもならんと思うがね」声は追い打ちをかけてきた。
我が輩は全身恥ずかしさに真っ赤になりながらも、城壁を構成する大石に刺さったままの剣を、力まかせに引き抜いた。
剣が抜け、大石が真っ二つに割れると、城壁から転がりでてきた。それに続いて、大石の周囲の石までが飛び出してきた。信じられないほどの騒音を立てながら、我が輩の目の前で、支えを失った城壁の一部が次々と崩れ落ちる。
石。砂。得体の知れない黒い塊。割れた大岩。
建物には、こういった弱い部分があるのだと、ずいぶん昔にアリョーシャ神父に教えてもらったことがある。建物全体を支える要というものがあり、そこを壊すと全体が壊れるものなのだと。
自分がきっかけとなったこの破壊に、唖然としていたのは、他でもない我が輩である。
ようやく城壁の崩壊が納まると、そこに開いた大穴の向こうで、何が起きたのか理解できていない街の人々が、驚きの表情とともに我が輩を見つめていた。
どうやらこの城壁は随分と昔に作られたものらしく、古くなった城壁のその部分が、我が輩が剣を引き抜いた衝撃で砕けたものらしい。
街の人々が恐怖の叫び声を上げるのが聞こえ、それから一瞬おくれて、城壁の上から門番たちの騒ぎ立てる声が聞こえてきた。
我が輩は、瓦礫と化した石壁の上を注意しながら歩くと、大穴を抜けて街の中に足を踏みいれた。わっと声を上げて、街の人々が我が輩から逃げ出す。彼らにしてみれば、いきなり城壁が崩れて、その中から緑に淡く輝く目の紋章がついた奇妙な鎧を着た騎士が現れたのだ。王国に潜りこんだ敵の騎士がどうにかして城壁を破り、街に侵入してきたのだと思うのも無理はない。
彼らの勘違いを利用しない手はないと、我が輩は思いついた。そうして大声で、領主を呼べ、すぐに連れてこないと、この街ごと叩きつぶしてやると叫んだ。
我が輩の叫びに応えて、門番の一人が塔の内側についている木の扉から顔を出した。彼は我が輩の方をちらりと見てから、あわてて目を逸らすと、領主の館のある方角へと全力で駆け出した。
我が輩はといえば、鎧に染みついた悪臭を落とすために、どこかに水はないかと探しているところであった。そうして、すぐ手前の家の横に、一杯に水を満たした樽を見つけた。
この家は酒場か。川から汲んで来る手間を省くために、樽の中に雨水を溜めたものだろう。奇麗な水が入っている。何たる幸運。
樽の中に小手をはめたままの手を突っこむと、水を掻い出して鎧にかけた。鎧についた汚水が乾くにつれて、ますます臭気がひどくなっていたのだ。鎧を脱いでしまえば楽に洗えるが、この騒ぎの中心ともいえる場所で、裸になる気は我が輩にはなかった。
これからやって来るであろう館の領主とやらが、さきほどの無礼な門番たちよりも、放浪の騎士に対する礼儀を心得ているとは、我が輩には到底思えなかった。
臭いが取れない。手で掻い出す水だけではどうしようもない。我が輩は思い切って、樽の中に鎧ごと飛びこむことにした。興奮しているせいか、奇妙に体が軽く、我が輩はやすやすと樽の縁を越えて、その中に足からざぶりと跳びこんだ。
派手な水音を立てて、しぶきが上がる。樽の縁から水が溢れ、我が輩はようやく自分が清められたと感じた。
やれやれ、こんなところで鎧を着たまま、風呂に入る羽目になるとは。我が輩は嘆息した。まだ体が熱い。心臓もドキドキする。当たり前だ。こんな騒ぎになるなんて予想もしなかった。
それから我が輩はこの即席の水風呂を出ようとして、出られないことに気がついた。両手を体の横にぴったりとつけたまま、樽の中に閉じこめられてしまっている。遠巻きに我が輩を見つめている街の人々の間から、笑い声が上がるのが聞き取れた。彼らも樽に閉じこめられた騎士を見るのは、初めてなのである。
顔から火が出るほど、恥ずかしかった。我が輩はなんと考えなしなのだろう?
そのときだ。遠くから何頭もの馬が駆けて来る音が聞こえたのは。それには甲胄同士がぶつかるときの独特の金属音が混ざっている。
この辺り一帯を支配している領主とその郎党たちがやって来たにちがいないと、我が輩は判断した。
彼らに、こんな姿を見せられるものか。
何とかして両手を樽から引き抜こうとした拍子に、我が輩の足は樽の底を踏み抜き、ついでにバランスを失って、我が輩は路地から大通りへと転がり出てしまった。
転がり出た先は、馬に乗ってちょうど到着したばかりの領主の目の前であった。その背後に大勢控えているのは、領主の取り巻き連中であり、そのうちの数人は鎧を着こんでいたが、残りは急いで飛び出して来たものと見えて、剣を手にしているだけであった。
それにしても何と言う領主であったのか。特別に体の大きな馬の背にあるのは、これまた特別に大きな男であった。巨漢の上にひどく太っているので、その上についている頭が逆に小さく見えるほどであった。派手な色の羽飾りのついた帽子がその頭の上に載っていて、その下の狡猾そうな小さな目から、注意を逸らす役目をしていた。身につけているのはこれも豪華で高そうな服であり、全身から贅沢の雰囲気が発散していた。
領主とその取り巻きは、一瞬驚きの目で我が輩を見ていた。それからようやく、自分たちの見ているものが、樽を着こんだ騎士であることを理解すると、大声で我が輩のことを笑い始めた。
樽の騎士、参上せり! 誰かが囃し声を立てた。
その馬鹿笑いは、周囲でこの騒ぎを見物していた街の人々にも伝わり、やがて全員が腹を抱えて笑い転げ始めた。
頭に血が昇るとは、まさにそのときの我が輩を表現する言葉である。
我が輩の全身が信じられないほどに熱くなった。この状況をじっくりと考えてみもせずに、我が輩は両手に力をこめて、体を自由にしようとした。樽の周りを締めつけている留め金が引き千切れると、木の板がもろくも砕けた。樽の残骸を体の周りから振り払うと、壁に立てかけてあった剣と盾を取り上げ、我が輩は彼らに対して戦いの雄叫びを上げた。
全身から残った水がしたたり落ちる。だがそんなことに、注意を払ってなどいられない。
壁も、樽も、この街の物はどれも古くて腐っている。ちょっとばかり押してやれば、簡単に壊れてしまう。目の前にいるこの巨漢の領主とその取り巻きも、壁と同様に腐っているのならば、よかろう、ちょっとばかり押しこんで、我が輩を笑ったことを後悔させてやる。
城にご注進に及んだ門番から、崩れた城壁のことも聞いていたらしく、我が輩を見つめていた巨漢の領主の顔に初めて驚きの表情が浮かんだ。とかく噂というのは大きく伝わるものだが、城壁に開いた穴はその噂を肯定するのに十分なほど大きい。実は壁がもろくなっていただけということを、彼らに気づかれるより早く、我が輩は大きくはったりをかますことにした。
領主の背後に控えていた鎧を着こんだ騎士のうちの一人が、馬を操って前に出てくると、我が輩の前に立ちはだかった。
そいつは卑怯にも馬を降りようとはしなかった。我が輩が次の一手を決めかねているうちに、そいつはさらに馬を前に進めると、いきなり剣を振りかぶった。それからためらい一つ見せずに、我が輩の頭上にその剣を振り下ろしてきた。
純粋な殺意。人を殺すことに毛ほどの罪悪感も抱かない者が見せる、すばやい行為である。
考えるよりも速く我が輩の腕が動き、盾を頭の上にかざした。相手の剣は盾の表面にあたると、鈍い音を立てた。盾を構えた腕に衝撃を感じなかったので、我が輩はすばやく一歩、背後に下がった。敵の剣は盾の上を斜めにかすったにちがいない。とすれば次の攻撃が盾を避ける形で来る。
いや、確かに我が輩は農夫ではあったが、幼い頃から、騎士というものにあこがれていた。我が輩の故郷の村に、一年に一度巡回してきていた旅芝居の中で、役者たちが見せた剣の動きを、人知れず何度も何度も練習してきたのだ。
そんなものが実戦でどれだけの役に立つのか、まったく理解しないままに我が輩は動いていた。背後に下がって、盾を体に引き寄せると、剣をやや下手に構える。
それから視線を上げて、馬の上から我が輩をにらんでいる相手の騎士の視線を捉えた。
鎧の面頬の間から、男の瞳が我が輩をにらんでいる。それが強烈な憎悪を表すものであると、我が輩は直感した。これほどすばやく、純粋に、人を憎むことのできる男がいるとは、我が輩には信じられなかった。
「剣が折れた」
その騎士は言った。我が輩は視線を下ろし、騎士の手に握られた剣が、その全長の半ばから折れてなくなっていることを知った。
やれやれ、どうやらこの街では、騎士の持ち物まで錆ついているらしい。
我が輩はこの事態の推移に内心あきれながら、はたして自分の剣でこの騎士を攻撃していいものかどうか考えて見た。素手の騎士を剣で攻撃すれば、それは騎士道精神にもとる。
しかし自分で剣を折ってしまった場合には?
我が輩は意を決して、いまだ馬上で我が輩をにらみつけているその騎士に話しかけた。
「もしまだ我が輩と戦いたいと言うのならば、まず馬を降り、折れた武器を変えたまえ。正々堂々なる一騎打ちならば喜んで受けよう」
もちろん、我が輩とて勝算があって言った言葉ではない。ただ騎士ならばこういうであろうという言葉を言ってみただけである。
それに対する騎士の返答は、驚くべきものであった。その手が動き、面頬を跳ね上げると目つきの悪い人相が明らかになった。
「我が輩だと? いったい何という古臭い言葉を使っているのだ。この田舎騎士が。騎士物語の主人公にでもなったつもりなのか。この剣がいくらすると思っているのだ。貴様が払える金額じゃないんだぞ。おい、野郎ども。構わないからやってしまえ!」
騎士が背後の仲間たちに合図すると、たちまちにして我が輩は無数の剣に囲まれた。
「卑怯だぞ!」我が輩は叫んだ。
旅芝居の役者はこんなときどうしていた?
いや、芝居の中にはこういった光景はなかった。四方八方から剣に囲まれるなんてことは。我が輩は剣を構えたまま、周囲を横目で見ながら考えた。当然と言えば、当然だ。旅芝居がこれだけの人数を揃えるなんてことは元から不可能だからだ。
いま、この場で、我が輩の方を向いた剣は何本ある? 数え切れないほどだ。
これが十字路で見た夢と同じものだったらどれほどよいことか。しかし、いま我が輩が陥っている状況が現実そのものであることを、我が輩は痛いほど感じていた。これは夢ではない。ここでの死は、本物の死だ。
「殺してしまえ!」最初の騎士が叫んだ。「おれの剣のかたきだ」
冗談じゃない。たかが剣一本の責任を取らされて殺されたのでは、たまったものではない。神よ、お助けください。我が輩は心の中で祈りを捧げた。
それから剣を握りしめると、我が輩は一歩前にでた。それに応じて、周りを取り囲んだ剣の壁に動きが生じる。戦闘開始だ。
「皆の者、剣を引け、そのお方に無礼があってはならぬ」
大声がした。全員の目が、声の主を見つめた。
巨漢の領主が前に出てきていた。
「聞こえないのか? 剣を引けと言っている」
「親父! どうして」最初の騎士が言った。
それに対する領主の返事は冷たいものであった。
「黙れ、ニコラス。これはバルダーン領の領主たる、わしの命令だ」
領主の背後で動きがあった。目の細い、痩せぎすの男である。東洋人と、我が輩は見てとった。表情というものを持たないその顔を見て、我が輩の背中を何か冷たいものが通り抜けるのを感じた。ニコラスと呼ばれた最初の騎士も、その東洋人の姿を見ると、押し黙ってしまった。
「さあさあ、騎士どの。どうか我が館への招待を受けていただきたい」
一転して快活な声に変わった領主の合図とともに、我が輩は殺意に満ちた剣の林の中から開放された。
領主は馬を降りると、我が輩の手を取った。そして呆気に取られたままの騎士たちと街の人々を残して、丘の上に見える館へと我が輩を招待したのであった。
こうして我が輩は領主の館の客としてもてなされることになった。我が輩は今まで見たこともないような豪華な調度の揃った部屋に通されると、領主との晩餐に備えて着ているものを替えるようにと言われた。
さて、その時の我が輩の心中と言えば、これはもうキツネにつままれたような心地であった。
確かにこれは、我が輩が最初に夢想していたような展開ではあった。高貴な鎧を着たやんごとなき生まれの騎士として領主に見出され、それなりの歓待を受ける。
しかし、我が輩とて丸っきりの馬鹿ではない。現に領主の部下の騎士たちは、一目で我が輩を田舎騎士と見抜いた。門番でさえ、我が輩を食い詰め者の流れの騎士と見なしたのだ。
それなのにこの領主ときたら、我が輩をこの豪華な館へ丁重に招いて、夕食の席にご招待申し上げると言うのだ。これは疑わない方がおかしい。
我が輩は自分には不釣り合いなこの部屋の豪華さを見ながら考えた。
領主の館は石と木による見事な混合建築である。その大きさもさることながら、家具の類が凄い。いま我が輩が見ているこのタペストリーに至っては、それだけで村が一つ丸ごと買えるほどの値段であろう。床には見事な毛足の織物が敷かれているし、天蓋つきのベッドまで置いてあるほどだ。その他にも様々な道具が部屋の中に用意されている。部屋の片隅では、高価な蝋燭が惜し気もなく燃やされ、屋内では不足しがちな光を補っている。
一介の貧乏騎士に提供するには、あまりにも贅沢な部屋である。
領主の目論見はいったい何だろう?
領主に取っては、我が輩は見慣れぬ余所者である。その上に彼の街でいらぬ騒ぎを起こしているのだ。城壁に開いた大穴一つ取ってみても、補修には大変な費用がかかるだろう。言ってみれば、我が輩は領主にとっての敵である。あの街の広場で、配下の騎士たちに命じて、我が輩を打ち殺させていても、少しも不思議ではない。
まさか、我が輩が着ているこの鎧が目当てなのか。戦って殺したのでは、鎧に傷がつかないとも限らない。それを避けるために、こうして館に招待して、服を替えさせて、それから毒でも盛って殺すつもりなのだろうか。
しばらく悩んだ末に、我が輩は思い切って、服を着替えることに決めた。
いくら高価とはいえ、たかが鎧である。それを無傷で手に入れるためだけに、自分の面子を潰すような領主がいるはずがない。何か別の目的があるのだ。このバルダーンという領主には。
それに領主が我が輩を殺すつもりならば、とうの昔にやっているはずである。この領主には我が輩を生かしておきたい何らかの理由がある。それならば、そう簡単に命を奪われることもないはずである。
我が輩はそんな乱暴な結論を出すと、鎧を脱ぎ、与えられた服に着替えようとした。
扉が開き、無言のまま女性たちが入って来ると、慣れた手つきでいきなり我が輩の鎧を脱がし始めた。この予想外の襲撃に、我が輩はあわてたが、女性たちはいつものことのように平然と手順を進め、手早く我が輩の着替えを済ませた。
ようやくのことに女性たちが引き上げて我が輩一人になると、今度は館の執事と名乗る男が部屋に入って来て、夕食の支度が出来たので広間の方に来て欲しいと、慇懃な口調で告げた。
正直に言うと、この敵地とでもいうべき場所で丸腰になるのはためらわれたが、かと言って長剣を背中に担いで領主の前に出るわけにはいかない。
えい、なるようになれ。そう心を決めた我が輩は執事の案内で広間へ行った。
広間にあったのは巨大な木のテーブルだ。数十人がそのまま同時に食事を取れるほどの大きさである。だがその大きさよりも目を惹いたのは、テーブルの上に並べられた大量のご馳走である。
湯気を上げるスープ。焼かれたばかりの豚、それに鳥らしき肉料理。さまざまな果物。パン。我が輩が夢に見たような料理の数々が、巨大なテーブルの上に所狭しと並んでいたと言えば、理解してもらえるだろうか。
それに数え切れないほどの数の酒杯がつく。もちろん、その酒杯には持ち主の腕がつき、その腕の先には持ち主本人がついている。テーブルの周りは大勢の人で埋まっていたのだ。どれも荒くれ者の顔をしているのを、我が輩は見て取った。これほどの数の人相の悪い人々を、いったいどこから集めてきたのかと、我が輩はやや呆れた。
巨大なテーブルの一番奥に領主は座っていた。羽飾りのついた帽子はいまは脱いでおり、奇麗に禿げ上がった頭があらわになっていた。専用の椅子にその巨体を埋めて、領主は不機嫌そうな顔で隣に座った青年と会話の最中であった。
不思議なことに常に我が輩の注意を引くのは領主の目で、それは小さくてよく動く、奇妙な欲望に満ちた目であった。少しばかり考えてみて、我が輩はその目をどこで見かけたのかを思い出した。
数年前のことだ。我が輩の故郷の村に、何にでも聞く魔法の万能薬というものを売りに来た商人がいた。村の薬草使いの婆さまの忠告にも関らず、村人は競ってその商人の売る万能薬を買い求めた。ところが最初の病人が出たその晩に、商人は村から姿を消してしまったのである。だまされたと認めたくない村の人々は、その後も家のどこかの棚の奥に万能薬を置いたままにしておいたが、それが役に立ったとはついぞ我が輩は聞くことはなかった。
その商人がこういう目をしていたのだ。
いや、馬鹿な。一方は無垢な村人をだまして偽薬を売りつける商人、もう一方は大領地を治める領主様である。それらが同じ目をしているなんて、我が輩の思い過ごしにちがいない。
領主の横の席に座って、領主と喧嘩腰で話している青年は、いったい誰だろう。青年の物腰には、その年齢には合わぬ隠しがたい不遜さが、にじみ出ていた。
そう、ニコラスと呼ばれたあの若い騎士だ。我が輩の頭の上にためらわずに剣を振り下ろした男である。領主を親父と呼んだのだから、彼は領主の息子にちがいない。それならば我が輩の見たすべての理由がつく。
広間に入ってきた我が輩の方にニコラスの注意が向き、その動きに領主が気づいた。
巨体を震わせて席から立つと、大袈裟な身振りで両手を開き、領主は叫んだ。
「よくぞ来られましたな。お客人。アンガスと言いましたかな? さあさあ遠慮なくこちらへ、こちらへ」
そう言いながら領主が勧めた席は、なんと領主の真横の席だ。
「親父。気は確かか」
すばやく、小声で、ニコラスが言うと、これもすばやく、小声で、領主は答えた。
「黙れ。息子よ。何度も言ったはずだぞ。このお客人に無礼を働くことは許さん」
自慢ではないが、我が輩の耳はとてもよい。
しかし、よりにもよって我が輩への恨みに瞳を燃やしている息子と真向かいの席とは。
我が輩に取ってそこは恐ろしく居心地が悪かったが、まさか領主の館の中で、その主の誘いを断るわけにもいかない。
しかたなく我が輩はその席に座った。何かが我が輩の足元で身じろぎをし、テーブルの下を覗いた我が輩は、そこに大きな犬が一匹、値踏みをするかのように我が輩をにらんでいるのを見出した。領主は食べかけの骨つき肉をその犬に投げてやると、我が輩の手に酒のなみなみと入った杯を押しつけた。
その行為に隠された深い意味を我が輩が考えているうちに、領主は自分の酒杯を持ったまま立ち上がった。テーブルについている者も、立ったままの者も、その場にいた全員の視線が領主に注がれた。
こうして横から見ても、領主はかなり肥満した大男である。しかしそれはパン屋のフロイドのように、体の中に油が詰まっているのではないのだと、我が輩は直感した。この領主の体に詰まっているのは、欲望と権力そのものなのだ。我が輩の目の前にいるこの領主、バルダーン公爵は、決してお人好しの大男などではないのだ。
皆が静まるのを待ち、領主は大声で宣言を行った。
「見るがよい。者どもよ。ここに我らが王の帰還を宣言する。失われていたウィリアム王の血筋が見つかったのだ。これで我らは正式な王を抱くことができる。あの成り上がりのブランザックなどではなく」
一瞬だが、テーブルの上をざわめきが支配し、そして消えた。
我が輩はこのテーブルに王族がいると聞いて、少なからず驚いた。というのもこの場には王冠を被った者はおらず、王というのはすべからく王冠を被っているものだと、我が輩は思っていたからだ。皆の視線を見返してから、我が輩はようやく、その場にいる全員が我が輩の顔をじっと見つめているのに気づいた。
我が輩の肩の上にバルダーン公爵の大きな手が置かれた。
「見よ。この顔立ちを、この気品を。かの王の鎧と紋章を身にまとい、伝説に語り継がれるかの王の力を持つこの若者を。かの王はその拳の一振りで敵の城壁を砕いて見せた。そして今日、この若者は同じことをわしの街の城壁に行って見せた。皆も見たであろう。城壁に開いた大穴を。ヨルグ砦の投石機でさえ、ああは見事に穴を開けることはできぬ。
その通り、この者こそ、あの憎き偽王ブランザックに暗殺された守護王、ウィリアム・ブラー・バーグの跡継ぎなり」
いやはや、そのときの我が輩の驚愕に間の抜けた顔ときたら。恐らくは、テーブルについていた騎士たちにも、これが王の世継ぎとは信じられぬほどの、みじめな顔であっただろう。
ここではいったい何が起きているのだ?
我が輩が王の世継ぎだって!
冗談じゃない。いくらなんでもそんなはずはない。よりにもよって王の世継ぎを名乗ったとあれば、それだけで王国に対する反逆罪を犯したということになる。すべての真実が明るみに出た後に、縛り首にされることは確実である。高貴なる騎士を気取るのとは、わけがちがうのだ。
我が輩はすべてを否定する叫び声を上げようとした。
そのときだ。いつのまにか、我が輩の背後に立っていたバルダーン公爵の両手が、我が輩の両肩に置かれたのは。その大きな手は有無をも言わせぬ力で、我が輩を椅子に抑えこんだ。さりげなく、偶然のような仕草で、その手が我が輩の首のまわりにかかる。
「ウィリアム王の跡継ぎよ。何も心配することはありません。すべてはこの儂、バルダーン公爵めにお任せください。あなたは何も言う必要はないのです。さあさあ、新王よ。立ち上がりて、我が忠実なる騎士たちに祝福をお与えください」
領主は我が輩を無理に立たせると、我が輩の意向はまったく無視して、大声で先を続けた。
「明日にも、儂は王の城に向かって出発するつもりだ。道々、今の偽王に不満を抱く諸侯に手紙を送りながらな。王座には王の血筋を引く者が座るべし。ついにその時が来たのだ」
ここまで領主が言った時、今まで我慢しておとなしくしていた騎士たちが突然立ち上がると、杯を一斉に掲げた。怒号が上がり、やがてそれが騎士たちの上げる歓声だと気づいた後、我が輩は押し寄せた騎士たちに次々と酒を挑まれ、何が何だかわからぬうちに気を失って、ベッドの上にご帰還と相成ったのである。
眠りはとても苦しいものだった。無理もない。我が輩は王国最大の反乱事件の首謀者として、祭り上げられてしまっていたのだから。
希代の大悪党たち、バルダーン公爵とその息子ニコラス。これが我が輩と彼
らの初めての出会いであった。
鎧に関しての我が輩の見立てで、唯一正しかったのは、それが王侯のつける
類のものだということであった。王国の歴史に残るもっとも偉大なる王。守護
王と呼び習わされたウィリアム王、まさにその人の鎧であった。
だが、我が輩も、そしてバルダーン公爵も、この鎧の価値の半分さえ、まだ
この時点では知ってはいなかったのだ。
そしてこれらの騒ぎにまぎれて、もっとも重大な一点を誰もが見逃してしまっ
ていた。
後に王国の未来を握ることになるニコラスという青年。我が輩がウィリアム
王の鎧に運命を見たように、彼もまた運命と出会ってしまったという事実であ
る。
その意味はやがて明らかになる。
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