第一章 人たるものの王国】冒険行2)十字路

 さて、名誉と栄光へと続く旅に出発したのはよいが、我が輩はそこではたと困ってしまった。

 簡単に言えば、道に迷ってしまったのである。

 考えてみれば無理もない。以前にこの道を通ったのは、我が輩がまだ子供であった頃だ。記憶はうろ覚えで、しかもこの季節では旅人も少ない。道を聞こうにも、誰にも出会わないのでは、どうしようもない。

 狭い村の中で、ときたま訪れる商人から聞き覚えた外界の知識など、実際の旅ではかけらほども役に立つものではない。そうわかるのに、長くはかからなかった。

 我が輩の目の前にあるのは十字路だ。別れ道の行く先を見通そうと目を細めてはみたが、その道がどこに続いているのか、何の手がかりもつかめはしなかった。

 四方に延びた道のうち、一つは我が輩がたったいま来たばかりの道だ。となれば選択肢は三つ。わずかに三つだがそれでも多すぎた。

 正しい道は、左か右か、それともまっすぐなのか?

 十字路の斜め向かいには大岩が一つ転がっていて、その周囲は長く伸びた草に囲まれている。よくよく見ると大岩の下は窪んでおり、そこに小さな石作りのマリア様が安置されていた。

 かなり磨耗しているので細部はわからなかったが、柔らかな微笑みを浮かべて、手の中の赤ちゃんを覗きこんでいる形だ。

 我が輩はそれを見ると、ほっと安心した。

 きっとこれは善いことの起こる前兆なのだ。我が輩もまた、マリア様に見守られる赤子のようなものなのだと、理由もなく我が輩は納得した。

 我が輩は馬を降りると、その石作りのマリア様に祈りを捧げた。

 それから、そっと馬の背の上の荷物を解くと、中から剣を取り出した。

 すべてを天の意思にまかせて進んでみよう。そう考えたのだ。

 手近に棒が見当たらなかったせいもあるが、この聖なる騎士の剣ならば、きっと我が輩の進むべき先を、正しく示してくれるのではないかとも思ったのだ。

 剣が泥で汚れることを少しばかり残念に思いながら、我が輩は分かれ道の中央に立つと、剣を回転させて投げあげた。

 青空を切り裂きながら剣は弧を描き、地面に転がった。我が輩は目を凝らし、剣先がどちらを向いているのかを確認した。剣先は迷うことなく、道の一つを指し示していた。

 左だ。我が輩は剣を拾いあげると、決心が鈍らぬうちにと馬に乗った。


 左側の道はたどって行くうちに、段々と幅が細くなって行った。周囲はひねこびた潅木の林から、背の低いいばらの茂みへと変化した。それは最後には荒野の中にぽつりぽつりと小さな茂みが散在する、実に荒涼たる風景へと変化して行った。

 これはどうみても人が住んでいるとは思えない場所だ。

 自分が間違った道をたどっているという自覚はあったが、それでも道行きを中止して引き返す気にはなれなかった。一つの丘を越えて、また次の丘に進むたびに、今度こそ人家が見えてくるはずだと期待した。

 時間はどんどん過ぎてゆく。我が輩にはそれを止める術もない。

 そうこうしているうちに、とうとう、我が輩のたどる道そのものが消え去ってしまった。

 我が輩の馬がいま歩いているのは、荒れ地そのものであった。無数のごろた石が、草一つない荒れた大地の上に、奇妙な道ならぬ道を作りあげている。枯れ川だ、と我が輩は思った。これは雨の季節には川になる場所であり、今は干上がった川床が姿を表しているのだ。もちろんこれは道などではない。雨が降れば川に化ける場所を、道として使うような者はいない。

 そういえばここに来るまでに、馬の蹄の跡も車の轍の跡も見えはしなかったことに、いまさらながら気がついた。

 これは一体どういうことなのかと、我が輩は腕を組んで考えた。我が輩の剣が示した道は、実際は無益な道で、見渡す限りの荒野へと通じていた。我が輩の行った占いは失敗だ。こうしてみると世間一般の習いも現実では役に立たないということなのだろうか。

 風が吹く。何か嫌な音が聞こえたような気がして、我が輩はぞっとした。一人でこうして荒野の中にいることが、これほど心細いことだとは初めて知った。おまけに日は暮れかけている。もうすぐすべてを覆う暗闇がやって来るだろう。

 認めたくはないが、道を間違えたのだ。引き返そう。

 我が輩はそう思った。そして、今来た道を戻ろうと振り向いた。

 背後に広がるのは道なき荒野であった。どこまでもどこまでも荒野が続いている。

 我が輩がたどって来ていた道はどこにいったのだ?

 我が輩は目を凝らして荒野を見つめた。茶色と黄色の大地の上には見渡すかぎりに、なだらかな、そしてかわりばえしない起伏が、延々と繰り返しているばかりである。道など、どこにもなかった。

 最初からそうであったのか、それとも何か不思議な幻を見ていたのか? いや、恐らくは我が輩のはやる心が、道なき荒野に強引に道を見出していたのだ。そして行き先を失った瞬間、それは消え去った。

 荒野の中にて道を失う。まさにその状況である。

 何ということだ。これは迷子などというたやすい話ではない。この荒野の中では下手に道を見失えば命が危ないのだ。

 太陽はすでに西の地平線の上へと傾きかけている。冷たい風が我が輩に吹きつけると、やがて来る非情な夜の存在を報せた。道を見失ったと知ったときから、夜は恐怖から脅威へと姿を変えている。

 途方に暮れて荒野を見渡していた我が輩は、そこに何か動くものを見出した。

 小さな黒い点だ。しかも無数にいる。しばらく見つめていて、それが我が輩の方に近づいているとの結論を出した。

 何だろう?

 動くからには動物の類だ。それに人間の集団なら、もっと固まって動くはずだ。

 もしや狼ではと思い、ぞっとした。冗談じゃない。荒野の中で狼の群れに襲われたら、死は確実なものだ。

 深呼吸をして心を落ち着ける。それから目を大きく見開いて、それらの黒い点をよく見つめた。

 やっぱり狼だ。それもすごい数だ。

 もっと悪いことに、彼らはいまや目的を持った動きへと移っていたことだ。獲物の臭いを嗅ぎつけたにちがいない。

 獲物?

 もちろん、我が輩だ。自分が彼らの風上にいることに、我が輩はようやく気がついた。愚かさにも程と言うものがある。

 我が輩の馬が不安気にいななき、我が輩は魅入られたような呪縛から我に戻った。

 駄目だ。逃げられない。狼というものがこれほど速く走るとは。我が輩は舌を巻いた。

 戦うしかない。我が輩は決意した。群れの先頭を走る、立派な体格の黒い狼を見つめながら、我が輩は荷物の外側に縛りつけておいた剣を抜いた。

 こうとわかっていれば鎧を着用していただろうに、いまとなってはその暇はない。

 夕焼け空の残光を反射してぎらりと輝く剣の刃を見つめ、我が輩は考えた。

 このような場合、馬を降りて迎え討つべきなのか、それともこのまま馬に乗ったままで迎え討つべきなのか。

 いや、馬に乗ったまま迎え撃とう。馬から降りてしまえば、我が輩との間に馬を挟んだ位置が、全くの死角になってしまう。それに我が輩がその背の上に乗っていなければ、狼に脅えた馬が、我が輩を置き去りにして逃げ去ってしまう恐れがある。

 自分でもうまい言い訳だとは思った。

 本音を言えば、馬から降りて狼どもを迎え討つのが、耐えられないほど怖かったのである。実際には馬から降りて戦った方が、馬と人の両方で攻撃できるので、有利であったにちがいない。しかし、そのときの我が輩はまだ鍛えられてはおらず、自分の恐怖を押し殺して戦うすべを知ってはいなかった。

 鎧を着こむ暇がないことを呪いながら、我が輩は狼どもが近づいて来るのを見守り、そしてそのちらちらと良く光る瞳を正面から覗きこんだ。

 これほど近づいても逃げない獲物を、彼らはどう思っていたのだろう。

 怯えて逃げることもできない、たやすい獲物?

 それとも無気味な自信を見せて、この恐るべき集団を迎え打とうとしている強敵?

 狼どもは、馬の背の上の我が輩とその手の中の剣を認めると、畜生らしからぬ頭の良さを見せた。

 我が輩と馬の周囲を取り巻くと、ぐるぐると回り始めたのだ。

 話し合いが通じる相手とも思わず、我が輩は剣の切っ先を軽く振って、狼どもの動きを牽制した。

 こうしてあらためて見てみると凄い数だ。これほどの数の狼が荒野に生きているなんて驚くばかりである。絶望が心を覆うのが感じ取れた。これでは我が輩がどう努力しようが、勝負は明らかだ。周囲を包みつつある薄闇を、無数の光る目が埋め尽くしている。

 我が輩と、この痩せ馬の肉だけでは、狼どもの夕食には到底足りまい。

 そうも思った。

 群れのリーダーらしい黒い大きな狼が円陣から飛び出て来ると、我が輩と向き合った。

 黒狼の最初の攻撃は、馬の前足を目掛けたもので、我が輩の剣はそいつの顎を捉えると、わずかばかりの血を流させることに成功した。

 剣を引き、たったいま自分が傷つけたばかりの狼とにらみ合う。

 我が輩が相手につけたのは小さな傷だ。剣に毒でも塗ってあれば、それで十分なのだろうが、結果として我が輩の攻撃は相手をさらに怒り狂わせるだけのものであった。

 黒狼の背後にいる狼の群れのことを考えると、楽天的になれというのが無理だ。

 黒狼はすばやく馬の背後に周りこむと、今度は馬の後足を目掛けて飛びついた。

 しまった。これでは我が輩の剣は届かない。

 馬が怒りの叫び声をあげると、後足を振る。それは黒狼の腹へ強烈な一撃となって食いこんだ。これには黒狼もたまらなかったらしく、泣き声をあげながら地面に転がった。

 なんてことだ。我が輩よりも馬の方が強いとは。我が輩は内心では自分を情けなく思ったが、暴れる馬の背中の上にしがみつくことに忙殺されていて、それを態度に表わすまでには至らなかった。

 周囲を囲む狼どもに対して、我が輩が一撃与え、馬が一撃を与えた。ささやかな勝利。だがそれだけでは全然足りない。いま我が輩の身に起きている危機を脱出するには、何か素晴らしくも大きな奇跡が必要であった。

 神よ、我を救いたまえ。我が輩は口の中で祈りを捧げた。

 それを合図にでもしたかのように、一斉に狼どもが、我が輩の馬に飛びかかってきた。

 恐怖と混乱の一瞬、我が輩は後足で立ち上がった馬の背から落ち、地面の上に長々と伸びてしまった。頭をどこかにぶつけたらしく、体が動かない。

 狼どもが我が輩の上にのしかかる。獣の臭いがする熱い息が我が輩の顔に吹きかけられ、そして鋭い牙が我が輩の喉に突き刺さった。

 意識を失う直前、我が輩が思ったことは、飢えた狼の夕食に自分の体を与えるのは、気高い騎士の慈悲の行いなのだということであった。



・・・我が輩は目を覚ました。驚いたことに、そこはあのマリア像の大岩の前だった。

 我が輩は頭を振り振り、地面から起き上がった。

 我が輩の馬はすぐ横でのんびりと草を食べているところで、どういうわけか太陽は我が輩が十字路を出発したときのまさにその位置にいた。

 いまのは何だ?

 我が輩はここで夢を見ていたのだろうか?

 我が輩は立ち上がると、体についた土を払った。地面には抜き身の剣が転がっている。身をかがめてそれを拾い上げる。

 剣の先に血がついているのがわかった。あわてて自分の体を調べてみる。どこにも怪我はない。そうだとすればこの血はあの黒狼のものにちがいない。夢ではないのだと我が輩は結論した。

 我が輩は大岩のくぼみに安置されたマリア像に、長い感謝の祈りを捧げた。

 聖なる十字路では奇跡が起こると噂される。いまのはきっと、天に居られる誰かが与えてくれた恩寵である。我が輩の旅の決意に免じて、間違った選択をもう一度やり直す機会を与えてくれたのであろう。

 左の道は狼の群れに通じる道なのだ。戦いの経験のない我が輩では、ろくに抵抗もできないままに、いい餌食とされてしまう。

 我が輩はもう一度、分かれ道の中央で剣を回した。

 地面に転がった剣の先は、今度は中央の道を示した。


 中央の道は先に進むに連れて、なだらかな下りへと変わった。今度は道が細くなることもない。注意して地面を見ると、馬車の轍の跡がかすかだが残っている。

 やや安心して、我が輩は馬の歩みを速めた。また狼の群れに襲われたのではたまらない。早く人家のある所に出ようという思いがあった。

 道の左右に木々が多くなってきた。平野が森に変わり始めている。

 だが、これはいったい何というみじめな森なのか。

 木々の葉先は奇妙にねじれ、茶色に変色した枯れ葉が目立つ。もちろん、花も実も見当たらない。

 これは実におかしなことだ。今の季節に木が丸ごと茶色に変わることなどあるはずがない。一本や二本ならともかく、周囲に生えている木が全てそうなのであるから、この森には何か木々を変色させる原因があるにちがいなかった。

 やがて変色どころか、真っ黒に腐って立ち枯れしている木までが出てきた。どの森の中にも満ちているはずの動物の気配がしないことに、我が輩は気がついた。

 さきほどの経験から、我が輩は周囲の兆候に心を向けることを学んでいた。何かおかしい点があれば、それには必ず理由というものが存在する。前兆が前兆であるうちに手を打たなければ、破滅はそう遠くないということである。

 ここで道行きを中断して、もと来た道へ戻ろうかとも思ったが、これが我が輩の騎士としての最初の冒険であることを思い出し、よしそれならば徹底的に調べてやろうではないかとも思い直した。今度は時間のあるうちにと、我が輩は馬の足を止め、荷物の中から鎧を引き出した。

 初めてこの鎧を着るのだ。周囲の森の無気味さをも忘れて、我が輩の心には喜びがわいた。

 鎧の着方がわからずに、しばらくそれをいじりまわす。やがてどうすればよいのかが、大体わかってきた。

 まるで我が輩のためにあつらえたような鎧だとは思っていたが、足だけは少々ちがったみたいである。我が輩は苦労しながら、足の部分をつけた。やや窮屈ながら、滑らかな金属の曲線が我が輩の足を包んでいるのを見ると、感動が我が輩の心を満たした。

 続いて、自分の胸を挟むようにして、胸鎧を前後から止める。こちらはぴったりだ。体を振ってみると、腰の周りを保護する金属板が、足鎧に触れて派手に音を立てた。触ってみてそれが外れていることを知る。正しい突起を見つけてそこにはめ込んだ。うむ。これでよし。

 最後につけるのが小手だ。こうして指先までしっかりと装甲で守られてみると、我が輩は自分が恐ろしく強い騎士になったように感じた。

 これならば、さきほどの狼の群れに遭ったとしても、恐れる必要はない。

 兜があれば完璧なのにと、少し我が輩は残念に思った。

 立ち上がり、歩き回ってみる。変な感じだ。重さもさることながら、鎧というものは存外にかさばって動きにくい代物である。

 剣を右手に持ち、左手には盾を構えてみる。

 うん。なかなかさまになっている。これならば誰が見ても、我が輩を騎士であると認めるであろう。

 こうして我が輩は完全に装備をし終えると、草を食べながら我が輩を待っていた馬の背に苦労してよじ上った。

 どこかで馬のための鞍を手に入れなくてはと思った。

 道はやがて、我が輩をさらに無気味な沼地へと導いた。最初に臭い水が湧き出るじめじめと湿った地面が広がり始め、それはやがて、どろりとした深緑色の沼へと変わった。その沼の中央を曲がりくねった道がうねうねと続いているのである。その周囲では木々が腐り果てたみじめな残骸をさらしている。この有り様では人家など望むべくもないなと我が輩は考えた。

 いや、もしこのような場所に家が建っていたとしたら、その方がよっぽど無気味だ。きっとそこに住んでいるのは悪魔か魔女の類にちがいない。

 この沼が放つ、生きとし生けるものの体を侵さずにはいない悪臭を嗅いだだけでも、この道の先にきっといるにちがいない何者かの悪意を感じ取ることができた。

 それでも我が輩は前に進んだ。

 栄光に包まれた騎士の出立が、平穏無事なものに済むはずがないという予感があった。自分では認めていなかったが、我が輩は自分が神に認められた特別な存在であるという子供時代の勝手な思いこみを、まだ捨ててはいなかったのだ。

 我が輩の周囲は沼から立ち上る奇妙に色のついた霧に包まれ始め、やがて自分が道を歩いているのか、それとも沼の中を進んでいるのかもわからなくなった。

 もしかしたら我が輩は、すでに数千年の歳月をこの霧の中で過ごしているのではないかという幻想も浮かんだ。そうして我が輩は、やがて霧が晴れたそのときに、全ての人々が消え去っている世界のただなかに立っている、恐ろしくも孤独な自分を見出すのではないかと恐れもした。

 以前にアリョーシャ神父が我が輩に教えてくれたことがある。この世の終わりには神様が最後の審判を行うということを。

 その最後の審判の日、今までに死んだ者すべてが墓から蘇り、生前の行いを裁かれるのだと。だがそのときも、我が輩は生きてこの沼地をさまよっており、天国に入れるかもしれないたった一つの機会を失うのだ。そうして哀れな我が輩の魂が、この大変な遅刻に苦悩する様子を想像して、少しばかり我が輩は気分が悪くなった。

 そんなことばかり考えていたので、霧の奥から奇妙な音が聞こえてくるのに、気がつくのが遅れてしまった。それは何というのか、ぴったりと閉めた鍋の隙間から蒸気が吹き出すのに似た音で、ついに我が輩はこのねじれた沼地の根源に到達したのだと、直感的に悟った。

 我が輩の接近に驚いたかのように、赤く光る二つの点が前方の空中を上った。

 なんと奇妙な光景だ。星が空に飛び上がるとは!

 それが何を意味するのか理解しないまま、我が輩は突き進んだ。鎧の足についた金の拍車を駆り、またがっている痩せ馬を走らせる。

 生臭い風が吹き、奇跡とでも言うかのように、霧が晴れた。目の前に広がった光景に、我が輩は息を飲んだ。

 赤く光るのは巨大な二つの目だ。その目が納まっているのは、緑の鱗に覆われた、信じられないほどの巨大な蛇の頭である。それはいま、ひねこびた無気味な森の木々の上に伸び上がっていて、我が輩を強烈な殺意と共ににらみつけていた。

 正直に白状しよう。その場で馬の向きを変えて逃げようと、そう考えたことを。

 だが、我が輩の中の何かがまたもやそれを押し止めた。武器もあれば防具もある。もしかしたら目の前の怪物に勝てるかもしれないと、愚かにもそう感じたのだ。

 我が輩は剣を高く掲げると、脅える馬の腹をもう一度蹴って、我が輩の胴回りの倍以上はあるかというその怪物蛇に向かって、無謀な突進を開始したのである。

 蛮勇。まさにその通り。己の力量を知らぬ者のやることだ。栄光の冒険はここから始まるのだと、そのときの我が輩は本気で信じていた。

 巨大な蛇の頭がすばやく降りて来ると、我が輩が剣を振るう間もなく、強烈な息を我が輩の顔へと吹きかけた。毒液したたるその顎から吐き出された悪気である。それは耐えがたい悪臭である以上に、強烈な毒を持った障気でもあり、それを吸った我が輩の体からは呆気なく力が抜けてしまった。

 立派な鎧も盾も、大蛇の放つ悪気を防ぐ役には立たなかった。そのとき、真に我が輩に必要だったのは、新鮮な空気をたっぷりと含んだ袋であった。

 巨大な顎が開き、力を失った我が輩を呑みこむ。湿った桃色の壁が我が輩の周囲を取り囲み、より深い暗黒へと誘う。焼けつくような蛇の胃液が我が輩を襲い、生きながらに溶かす。

 絶叫。



・・・我が輩はふたたび、大岩の中のマリア様に感謝の祈りを捧げた。

 気がつけば我が輩はまたもや、大岩の前に倒れていたのだ。

 今のは夢か?

 あわてて体をはたいてみる。鎧を着たままだ。この鎧は沼地へ入る前に着た覚えがある。とすればいまのは夢ではない。間違いない。確かに我が輩はあの怪物に飲まれて死んだのだ。己の力量への過信ゆえに。

 何ということ。我が輩は二度も神様の手を借りて、失敗した選択をやり直しているのだ。

 我が輩の選んだ道はどちらも間違いだったのであり、今や残った道はただ一本。右へ伸びる道である。こうなれば剣を放り投げて占うまでもない。

 我が輩は右の道に入ると、それをひたすらまっすぐに進んだ。

 少しばかり自棄になっていたのは、否定できない。


 最後の道はやや上り勾配へと変わり、周囲には勢いよく葉を茂らせた木々が目立つようになった。荒野や沼地には辟易としていたので、この風景の変化は我が輩を喜ばせた。

 今度こそ、明るく健康そうな場所を進んでいる。我が輩は自分が正しい道を歩いていることを全身で感じていた。

 名誉と栄光へと続く道だ。輝ける騎士の世界へ続く道なのだ。

 しかしそれでも用心するには越したことはない。立て続けに二度も死ねば、少しは人間も賢くなる。

 先刻、目が覚めたときに我が輩は鎧を着たままだったので、念のため、武装一式はそのまま身につけておいた。

 鎧というものを着こんだまま、長い時間、馬に乗るのがこれほど大変なことだとは、我が輩は想像もしていなかった。さて実際にそれを体験してみると、騎士の生活というものは存外に不自由で、しかも苦痛に満ちたものだとよくわかった。それを補って余りある特権がなければ、誰も騎士を続けたりはしないだろうと、我が輩は心の隅で思い、そしてそれらの特権を夢想した。

 深い森はやがて切り立つ絶壁へと変わった。いま我が輩がたどっているのは、山合いに削り出された細い道だ。いやこれを道というのはそれこそおこがましい。山肌に張りついた紐とでも形容すればいいような代物である。

 我が輩の左手の側は遥かに上に伸び上がる絶壁だ。よじ登ろうにも手がかりさえない、木の一本も生えていない岩壁が垂直に立っている。

 右手の側はすぐ崖になっていて、それも信じられないような深い深い渓谷が遥か眼下に見えるという光景が広がっていた。もしここで、馬が何かの拍子に暴れでもすれば、それはすなわち我が輩の冒険の終わりを意味していた。

 これは馬を降りて歩いた方がよいのではないかと、我が輩が賢明にも考え始めた頃には、すでに馬を降りることができるほどの道幅はなくなっていた。これでは馬の向きを変えることさえできない。

 いや、きっとその機会があっても、我が輩はそうしなかっただろう。狼や蛇の怪物に遭ってさえ、我が輩は向きを変えはしなかったのだから。それに比べれば、崖の道がいったい何だというのだ。

 愚かにも、我が輩はそのまま馬に任せて、道を前へと進んだ。

 その騎士に出会ったのは、そんな細い道の角を曲がってすぐにであった。

 全身を鎧に固め、馬に乗った騎士である。白地に赤の十字模様の入ったサーコウトを着ており、顔は兜の面頬の下に隠れて見えなかった。板鎧の上にサーコウトを着ているのは異例のことであったが、それを無視させるほどの威圧感にその騎士は満ちていた。足下近くの馬の脇腹には長めの剣を吊るしていて、どことなく獰猛な印象を与える。

 この状況が致命的なものであることは、我が輩にもすぐにわかった。

 崖の上の道はあまりにも狭く、どちらの騎士も馬の向きを変えるどころか、馬から降りることさえできはしない。さらに付け加えるならば、お互いにすれちがうだけの余裕もありはしなかった。それどころか馬を後ずさりさせることも、下手をすれば崖下への転落へとつながる。

 我が輩は谷底を覗きこみ、戦慄が体を貫くのを感じた。落ちれば死ぬことに疑問はなかった。馬の足が小石を弾き、それは空ろな音を立てながら崖を転がり落ちて行った。

 引くもならず、進むもならず。

 我が輩は馬上でためらった。このままここでお互いにらみあったまま空腹で餓死するのを待つ。何という完璧なる罠に我が輩ははまりこんでしまったことか。

 いや、ちがう。我が輩はさらに恐るべき真実を理解した。

 進むことはできるのだ。相手を谷底に落としさえすれば。そうすれば自分の命だけは助けることができる。

 向こうの騎士も、一瞬この状況に戸惑ったようだが、我が輩のような新米騎士とは異なり、すぐに心を決めたようであった。すなわち剣を引き抜くと体の前に構え、盾を取り出すと体の横に引きつけた。見間違えようのない突撃の体勢である。先に相手を落としてしまえば自分は助かるという理屈を受け入れるのに、この騎士はためらいというものを見せなかった。

 我が輩が心を決めかねているうちに、その騎士は突進を開始した。あわてて我が輩も盾を構えたが、時すでに遅かった。

 速度と体重のすべてを乗せて打ちこんで来た強烈な剣の一撃に、我が輩は体勢を崩して、宙へと放り出された。

 青空と大地が反転し、目の前を崖の表面がすべり上がって行く。

 落下の瞬間、我が輩は見た。我が輩の馬と、突進の衝撃をうまく殺せなかった敵の馬がぶつかるのを。敵の騎士の体勢がぐらつき、これも馬からはじき出される。

 すべては無駄な戦いだった。生き残るために戦ったのに、両者とも崖に落ちたのだ。最初からどちらも勝者にはなりえない戦いだったのだと、いまさらながら我が輩は理解した。

 我が輩とその騎士は空中でにらみあった。吹き上がる風が相手の騎士のサーコウトを剥がすと、騎士の着ている鎧の姿があらわになった。

 人の両目を思わせる緑の図形。銀で綴られた蔦の模様。

 死を感じた一瞬に人間が見せる恐るべき集中力に助けられて、我が輩は敵の騎士の装備が寸分の狂いもなく、自分のものと同じであることを見て取った。

 相手の騎士が手を振ると、兜の面頬が跳ね上がり、我が輩はそこに自分の顔を見た。

 それが何を意味するのか考える間もなく、我が輩と相手の騎士の残り時間が尽きる。大地が両手を広げて二人を迎え入れた。その抱擁は限りなく堅い。

 衝撃、そして、暗黒が訪れた。



 ・・・気がついて見ると、我が輩はまたもやあの大岩の横に倒れていた。

 我が輩は横たわったまま、大岩の下に安置された粗末なマリア像を見つめた。彼女は悲しげな表情をしていて、手の中の赤子のキリストではなく、我が輩を見つめているようであった。

 我が輩は自分の失敗にひどく落ちこんでいた。三度の試しに失敗し、我が輩の冒険は徹底的に挫折をみたのだ。これほどまでに、もろく、弱く、愚かな我が輩が、どうして騎士になどなろうと思いついたのであろうか。我が輩は、マリア様の手の中の赤子同様に、無力なのである。一人で旅に出すなどとんでもない。

 ずいぶんと時間が経ったなと感じた頃に、ようやく我が輩は起き上がる気力を取り戻した。

 深く跪くと、マリア像に祈りを捧げた。

 我が輩の前に横たわる道は、そのすべてが失敗と挫折につながる道であった。それは我が輩の不注意と優柔不断が引き起こしたものにせよ、決して我が輩が望んだものではなかった。

 我が輩は全身全霊をこめてさらなる祈りを捧げた。我が輩の冒険はここで終わるべきものではないと、頑固にも我が輩は信じていたのだ。度重なる失敗にも関らず、我が輩は元来た道へと引き返すつもりは毛頭なかった。

 だが、どうする? 我が輩は自問した。十字路のうち、三つはすでに試した。残るのは後ろへ引き返す道だけである。

 我が輩はしばらくの間、道の分かれ目に立って考えた。先へ進むための手がかりになるようなものはないかと、目を凝らし、耳を澄ませてもみた。

 遠く、遠く、遥かに遠く、狼の遠吠えの声がするように思えた。

 もう一度、耳を澄ませる。

 今度は何か重いものが地面をこするような音がしたように思えた。

 馬鹿な。この場所から、あの沼地の音が聞こえるわけがない。我が輩はもう一度、耳を澄ませた。

 堅い地面を歩く馬の蹄の音。蹄鉄が地面に触れるときの音である。

 間違いない。彼らはまだ、十字路の道の先で待っている。今度、彼らに捕まれば、死は現実のものとなるであろう。神の恩寵とて、無限ではありえないのだ。

 左に進めば狼の群れ、前には怪物蛇が待ち構え、右の道には我が輩自身が頑固にも居座っている。かと言って後ろに戻れば、またあの退屈な日常が、鍬と畑の毎日が、我が輩を捕らえてしまうだろう。今度こそ、逃がさぬように、がっちりと。

 それぐらいなら、死んだほうがましだ。

 死とはどういうものか理解さえしていない我が輩は、愚かにもそう考えた。

 剣を抜き、再び空に投げあげる。騎士は剣に従って生き、剣に従って死ぬのだ。そう口ずさんだ。ならば剣の示す道を、疑うことなく突き進んでやる。

 地面に剣が刺さり、ゆっくりと倒れた。その先はマリア像のある大岩の方を向いていた。

 なんてこったい。我が輩は毒づいた。これはいったい何を意味しているのだろう?

 まさか、大岩の中へ入れとでも言うのか。神様の勧めを断った罰として、岩の中に閉じこめられたまま、偉い神父さまが通りかかるまでそこで待つことになるのか。

 いやいや、それはあまりにも変だ。いったいどこから我が輩はこんな想像を思いついたのか。きっとこれには何か別の答えがあるにちがいない。

 我が輩はまたしばらく考えた末に、今度はマリア像のおかれた大岩の周囲を一巡りして見た。丈の高い草をかき分け、左手で岩肌に触りながら、前へと進む。

 そうして大岩の背後に、かろうじて道と見て取れるものを見つけだした。それは草の背後に隠れて、ひそかに、そしてまっすぐに、どことも知れぬ平原の彼方へと延びていた。

 これこそが我が輩の求めていたものだ。

 我が輩は馬の手綱を引くと、ためらうことなく、その道へと進んだ。




   いまこうして記憶をたどりながら書いていても、奇妙な話であるとは思う。

   だが確かに我が輩はそれを見たのである。

   十字路では色々と不思議なことが起こるものだと、人は言う。十字路で自分

  の未来を見る者もいれば、深夜に魔術を使うためにそこを訪れる者もいると言

  う話だ。

   公にはできないことであるが、これは真実である。十字路には何かがあるの

  だ。少なくとも人の運命が、十字路で選ばれるというのは本当かもしれない。

   我が輩の場合は、自分の未来そのものではないが、予兆とも言える幻を見た

  ことになる。

   いまの我が輩にはその兆しが理解できるのだ。

   飢えた狼の群れは権力を求めて群がる人間たちの象徴であり、沼地の大蛇は

  人外なる者の存在を示していた。そして最後の騎士との衝突は、自分の生きざ

  まに対する挑戦を示していた。

   あらゆる予兆は、手遅れになるまでそれが理解されることはない。それこそ

  が、すべての人間の持つ自由意思に関る問題なのだと、ここで告げておこう。


   後日、すべてが終わった後に、我が輩はまたこの道をたどってみた。

   確かに大岩は我が輩が覚えている場所にあった。そこに安置されているマリ

  ア様の像も、相変わらずの優しき姿を見せていた。

   しかし、十字路はどこにもなかった。そこにあったのは、まっすぐに走る一

  本道であり、我が輩が見たはずの分かれ道などどこにもなかった。


   その通り。十字路では不思議なことが起こる。

   もしかしたら、十字路そのものが、亡霊ということもあるのだ。

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