5
車の中は、しばらく無言だった。普人は運転に集中していたし、助手席の天麻は顔をわずかに窓に向けて、外を眺めていた。ラジオの陽気な音楽だけが、空気を読まずに二人の間を漂っている。
とはいえ、帰り道は長い。会話のないままというわけにもいかない。どう切り出そうかと考えていると、先に動いたのは天麻のほうであった。
手を伸ばしてラジオのボリュームを下げると、普人に語りかける。
「君は隧道の先にあった社が、なにを奉っているか知っているか?」
「いや。看板とかもなにもなかったし」
ぐるっと一回りしたが、どこの神社にもよくある、歴史やご祭神などが書かれた看板などは見当たらなかった。
「過去、あそこには古い集落があった」
「隧道があるからね。道があるってことは、人の行き来もあったってことだ」
だが、今はもう往来がないことは、手入れされていないことや、立ち入り禁止の措置からも明らかだ。たとえ管理者がいたとしても、名目上だけで、見に来てすらいないだろう。
そうして来客と言えば、恐怖を楽しむだけ楽しんで、ゴミを置いて帰るような人々ばかりになっている。
「あれは元々、山で命を落とした人々を慰霊するために建てられたものだ。それが転じて、集落の守護する存在として奉られるようになった。だが、山奥の不便さに耐えられなくなった人々は、徐々に去って行き、集落自体がなくなった。あの神社も、いまや朽ちていくばかりだ」
山には危険が多い。道に迷って遭難することもあれば、野生動物に襲われることもあるだろう。一挙一動、選択肢ひとつひとつが命に関わる場所だ。
今だって本質的には変わりないだろう。だが、時代は進歩している。山を越えたいと思えば車で道路を通り、山に登りたいと思えばハイキングコースを選べる。そうして便利になっていくごとに、慰霊の必要性が薄くなっていったのだろう。
「移転したりはしないんだ」
少なくとも近辺まで道路は敷かれ、舗装されていないとはいえ、神社までも道は延びている。移転や廃棄するにしても金がかかるとはいえ、その選択肢がなかったとは思えない。
「何度か計画が立てられたが」天麻は淡々と告げる。「そのたびに計画は頓挫した」
答えを予想して聞くのをためらったが、話の流れに乗らないわけにいかず、普人は尋ねた。
「……なんで?」
「作業員が不可解な死を遂げる」
「うわ。典型的な怖い話」
予想していた通りの答えが返ってきて、普人は眉をひそめた。そんな場所に自分が足を運び、無事に帰ってこれたことを改めて感慨深く思う。
「僕、怖い話苦手なんだよ」
普人は正直に吐露した。実のところ、普人は昔から怖い話が大の苦手であった。
「天麻さんも、これがオカルト的な話だと思う?」
「……君はどう思う?」
「わかんない」普人は素直に答えた。「ただ、そうかも、って思ってる」
普人は、神社から逃げ出すときにチラリと見えた、黒い影を思い出していた。記憶というのはすぐに薄れる。普人もそうであった。あるいは記憶したくなかったのかもしれない。姿形はぼんやりとしているのに、あのときのゾッとする感じだけは身体に染みついていた。
追いかけられても追いつかなかったことを考えると、やはり動物ではなかったようにも思う。日本の山には多様な生き物が暮らしている。熊、イノシシ、猿……だが、それら大抵の動物は人間より足が速い。
信号交差点で、車が止まった。もう山の麓まで近づいてきていた。木々のみだった風景も少しずつ変化していて、人の営みが見えてくる。ときおり見る空き地にはコンテナハウスが建っていて、敷地内には大型トラックが駐まっていた。このあたりの土地は、なにかしらに利用されているようだった。この調子であと十分も走れば、幹線道路に合流するだろう。
「まあ、でも……今回の話がオカルトかどうかっていうのは、極端な話、関係ないんだよね」
ふと、普人は口を開いた。
「この仕事は、相談相手を〝納得〟させることだろ?」
「そうだ」と、天麻は頷く。
「その点、イガラシさんはなかなか厳しいな。まず、化け物にさらわれたって信じ込んでいるし、その上で妹さんを取り戻したいと思っている」
行方不明のカナを見つけること――まず、これはかなり難しい。すでに警察が操作を終えた後であり、新しい発見がいまさらあるとは思えない。現実的な路線で物事を考えたって、イガラシを納得させる情報を提示することはできないだろう。
オカルト路線で話をするとして、相手が化け物である以上は真相は闇の中ということになる。いかに説得力のある話を組み立てられるのか、それが重要だ。
それから、続けて普人は言った。
「それからイガラシさん――こっちを疑ってかかってる」
「ほう?」
「知ってるだろ。こっちの素性を聞きたがってた。僕はなにも答えなかったけど」
少し嫌味っぽく、普人は言う。答えられなかったのは、普人がなにも知らされていないからだ。
それを聞いても、天麻はやはり顔色一つ変えていない。返事もしなかった。
「今までの人たちとは、ちょっとタイプが違うね」
「そうか」
「こっちのことを聞かれたらなんて答えればいいわけ?」
例えばなぜこんなことをしているのか、とか。そう普人は聞いてみた。
「ただの道楽」
「もうそう答えました」
「ならそれでいい」
前々から感じていたが、天麻の喋り方というのは本当に端的である。
普人は他人の考えをある程度見抜ける自信を持っていた。しかし、天麻は驚くほどに嘘をつかない。そのかわり、言いたくないことには返事をしない。これには普人の能力も形無しである。相手が嘘をつけば、なぜ嘘をつくのか、という想像を働かせることができるが、天麻に対してはそれが通用しなかった。
そして、天麻の言うことがすべて事実であれば、本当にこの仕事も道楽でやっていることになる。
本当に何なんだ、この男は。
気がつけば、幹線道路へ入る交差点まで来ていた。薄暗くなり始める中で明かりが漏れるコンビニを見て、普人はほっと安堵する。見慣れたチェーン店の姿に、やっと帰ってこれたという気持ちが強かった。
「どうだ。今日の出来事は、問題解決の役に立ちそうか?」
ふと、天麻が尋ねた。
「そうだね」普人は考えてから言った。「少なくともカナさんの気持ちはわかった気がする」
「そうか」
それだけかと思ったが、天麻はまだ話を続けた。
「君にひとつ教えよう。山で死ぬということは、大抵孤独だ」
言葉少なながら、天麻はアドバイスをしようとしている、と普人は受け取った。もう少し、わかりやすく話せないのだろうか。
それでも、普人は言われたことを想像してみた。
「孤独か……そうかもね」と相づちを打った。
山で起きる死とは、別の言い方をすれば、助けが現れない結果としての死が多いのではないだろうか。遭難して、怪我をして、助けが来ないまま絶望して死んでいく。だからこそ、慰霊が必要だったのだ。
だが、天麻の言葉がきっかけで、普人にはひとつの物語ができあがりつつあった。これが正しい事実かどうかわからないが、イガラシの説得には充分に足るのではないだろうか。
もう話は十分だと意味を込めて、普人はラジオのボリュームを上げた。
それから、アパートに着く頃には夜になっていた。
天麻は車から降りながら、普人に告げた。
「ひとつ忠告しておく。君が撮影した写真は消しておいたほうがいい」
普人はきょとんとしたが、すぐにその言葉が指す写真について思い至った。
そういえば、社の写真を撮ったじゃないか。まさかと思い、慌ててスマホを取り出すと、信じられないことにそのまさかだった。
画像がおかしくなっている。謎の黒い渦巻きが、真正面から移したはずの社に覆い被さっている。鳥が空に描いていた軌道と同じく、蟻地獄のように思えた。
写真を撮影してから今に至るまで、普人はスマートフォンを触っていない。
血の気が一瞬で引いた。残しておくべきか、消すべきか。二択が頭の中で逡巡するが、普人は震える指で画像を捨て、そのまま一時保存からも削除する。
普人は即座に車を降りて、部屋に戻ろうとする天麻を駆け足で追いかけた。
「ちょ、ちょっと天麻さん、まってまってまって」
「……なにか?」
立ち止まった彼に、普人はへりくだって語りかける。
「ち、ちなみになんですけど、今日のこれからのご予定は?」
「後は部屋にいる」
「僕と晩ご飯でも食べに行かない? おごります、なんでも好きなもの」
「私には必要ない」
「そんなこと言わずに! 僕には必要ある!」
普人は必死の形相で食い止める。
「これからひとりで家に帰れって?」大げさに普人は言った。「ムリ、ムリ、ムリ。絶対に無理。僕はさ、マジで友達とかもいないんだよ。こんなことがあったのに、ひとりで家に帰るのは絶対に無理!」
駄々をこねる普人に、天麻は心底嫌そうな視線を向けていた。思いっきり眉間にしわが寄っているし、瞳もいつも以上に冷ややかだ。ここまで表情が変わった天麻を見たのは初めてのような気がするが、もはやそんなことはどうでも良かった。
天麻は渋々、といった様子でため息をついた。
「君はもう問題ない。画像は消しただろう」
「消したけどさあ!」
「……あれは、目印のようなものだ」
「目印?」
玄関ドアの前まで来て、天麻は部屋の鍵を開けた。
「目印を消したのなら〝彼ら〟は来ない」
それだけ言って、部屋の中に入っていき、そしてドアを閉めた。普人が滑り込む前に、である。おまけに、ガチャリと鍵をかける音がドア越しに聞こえてくる。
「仕事は終わった、帰ると良い」
普人が試しにドアノブを掴むと、やっぱりドアは開かなかった。
「この冷酷男! 少しは優しい気持ちが無いのか?」それから、ドアに向かって文句を叩きつける。「上司ヅラするなら、きちんと説明しろっ」
彼らとは誰のことなのか、目印とは一体なんなのか。何度もチャイムを鳴らすが、返事はない。本当に部屋に入れる気は微塵も無いらしい。
夜風が吹いて、急にうすら寒くなってくる。夜の住宅街で、いつまでもドアの前に居座っているわけにもいかず、普人は諦めて車に戻ることにした。
結局、レンタカーを返した後、駅に近いインターネットカフェで一晩を過ごすことにした。薄い板で区切られたブース席も、やたらいびきがうるさい隣の客も、今の普人にとっては救いである。
「ああ、なんでこんなことになってるんだ、僕は……」
普人は小さくそう呟いて、薄っぺらい毛布にくるまったが、その晩はどうにも眠れることはなかった。
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