三日後、普人はアパートのリビングでいつも通り電話を待っていた。お兄さんの電話を待つ間も、黒電話が鳴ることは一件たりともなかった。よほど一部の相手にしか知られていない番号なのだろう。なんだかんだ言って、普人だって電話番号を知らないままだ。

 考え事をしながら黒電話を眺めていると、突如うるさくベルが鳴り響いたので、普人はすぐに受話器を取った。約束の時間よりも少し早い。

「もしもーし」と呼びかける。

「もしもし……」

 前回よりも一段と低い、例のお兄さんの声だ。

「ああ、良かった。ちゃんと電話くれたんですね」

「君が電話をしろと言った」

「そうです」

 怒っている様子はないが、ちょっとした息づかいからは疲れが読み取れる。不安を抱えていると、普通に生活しているだけでも疲労困憊になるものだ。

 だが普人は、あえて明るい声で続けた。

「もう大丈夫ですよ。おかげで、お兄さんが見た謎の船について、正体がわかったかもしれません」

「本当か?」

 つられて、お兄さんの声も少しばかり明るくなった。

「はい。船はなんのために錨を上げ下げしていたのか。やっぱりそれが重要でした」

 実のところ普人が行き着いた回答は、あくまでも想像上の産物で、自分でもあまりに突飛だと思っていた。それでも、自分が想定した答えの中では最も信憑性が高く、そして相手を納得させられると踏んでいた。

「では、そもそも船はなにを目的に海に出たのか……」

「目的?」

「はい。錨の上げ下げはあくまでも行為であって、それ自体が目的ではないはずなんです。そして、その目的は海のなかに存在している」

 漁船ならば漁業ために海に出る。貨物船は荷物を運ぶため、客船であれば観光のために、それぞれの目的を持って港を発つはずだ。

 お兄さんが見た船も同様に、目的があって海上を進んでいた。

「単刀直入に言います。船が海に出た目的――それは海底ケーブルです」

「海底ケーブル……」

 お兄さんが、受話器の向こうで鸚鵡返しをしたので、普人は説明をする。

「インターネットのケーブルですよ。大陸と大陸、もしくは日本のような島国を繋ぐために、海底に張り巡らされてるんです。世界中がこの海底ケーブルで繋がっているから、今日日、気軽に海外とネットで通信できるわけです」

 スマートフォンなどで無線通信が当たり前の昨今であっても、インターネットの根本は有線なのである。地球上に張り巡らされたケーブルが、世界の高速インターネット通信を担保している。

「ああ……見たことがある。海底に線が設置されていて、それどこまでも延びているんだ」

「やっぱり。そのとき、お兄さんが泳いでいた場所にもあったんじゃないですか」

「そういえば……そうだったかもしれない」

 答えを聞いて、普人はひとりで頷いていた。まずはそこにケーブルがあったという事実がなければ、この話は終わりだ。そのときは作り話でやり過ごす予定だったのだが、その必要はなさそうだった。

「ケーブルは日本から周辺諸国まで伸びてるんです。近場だと台湾や中国……それこそ、海溝を通ってアメリカまで繋がっているものもある」

 データセンターから伸びるケーブルは、浅瀬だけではなく、それこそ深海と呼ばれる場所にまで張られている。一般人には想像の埒外の世界だろうが、当たり前に使っている技術はそういったものに支えられているのだ。

 それから、普人は悪戯っぽく言った。

「お兄さんが泳いでいたのは、漁場でも遊泳場所でもなかったんですね」

 彼はなにも言わなかったが、それは肯定だと思っていた。お兄さんは明らかに遊泳禁止の場所を潜っていたのだ。

 不意に、電話の向こうから疑問が投げかけられる。

「だが、ちょっと待ってほしい。その海底ケーブルと、錨の上げ下げになんの関係があるんだ」

 話を逸らしたな、と普人は思ったが、お兄さんの意図にそのまま乗りかかる。

 ここからが重要な話であった。

「おそらく謎の漁船は、海底ケーブルを切断しようとしていたんです」

「壊そうとしていたってことか」

「このケーブル、案外簡単に切れるみたいなんです。サメがかじって切れるとか、それこそ、漁船やタンカーの錨がぶつかってきれることもある。まあ、一カ所ぐらい切断しても問題ないように構築されてるみたいだけど」

 普人は、昨日読んだ本の内容をかみ砕いて話した。まったくもって専門外の話だったので、考えをまとめてからは説得力を強めるための情報をかき集めた。近場の図書館を巡って本を読みあさり、ネットのニュースを追いかけるのに残りの時間を使い果たした。お兄さんの食いつきようから、この話にはなかなか手応えがあるようで、普人は甲斐があったと内心安堵していた。

 ともかく、そのときに限り、漁船の碇の役割はギロチンの刃となった。もっとも、自然に設置されるケーブルだって傷つかないように防護されている。だから、何度も何度も執拗に行為が繰り返された。

「そして問題は、誰が、どうしてケーブルを切断しようとしたのか。そしてなぜ船は爆発したのか」

 それから、普人は海ほどに広がりを見せた推論を述べる。

「まず、誰がというのは、やっぱり工作員ということになる。いわゆるスパイだ」

 やや陰謀論じみていると自分でも思うが、海底ケーブルの切断を目的とする人間なんて、これぐらいに限られている。

「これには二つのパターンが考えられる。ひとつは国家のスパイ、もうひとつは産業スパイ。ただ、どちらにしても話はあまり変わらない。国、もしくは企業に雇われた工作員が、漁船の振りをした船を用意して、海底ケーブルめがけて錨を降ろした」

 普人がかき集めた情報によると、同様の手法で工作船が海底ケーブルを切断した事件は実際に起こっているらしい。

 普人が喋っている内容は、突飛で陰謀論めいているという自覚はあるが、現実に起こりうる以上、可能性はゼロではないのだ。さらにこの話は、今回のケースにはうまく当てはめができるときた。

「だが、そのケーブルは一カ所切れたところでたいした問題はないんだろう?」

「別に、ケーブルの完全な断絶が目的じゃなかったのかも。そんなことをして日本中のインターネットが接続できなくなったら、むしろ大事になっちゃうし……それよりも、誰かにケーブルを壊されて修理に行くことになれば、もちろん、それなりに費用や苦労もかかる。他にも、ケーブルの強度を確かめる意図があったとも考えられる」

 スパイと言えば、敵対者から情報を盗むような行為が想像されるが、妨害行為だってもちろん行うだろう。

 ケーブルの破壊が行われてから、修理までどれぐらいの時間がかかるのか。どのような手法、どのような設備で修理を行うのか。全ての情報がスパイにとっては商品になり得る。

「じゃあ、爆発は……どうして起こった?」

「これにも、二つのパターンが考えられます。ひとつは、爆発物を利用してケーブル破壊を計画していて、そのための爆発物を積んでいた。でも、なにか手違いがあって船の上で爆発してしまった」

「事故と言うことか?」

「そう」と、普人は頷いた。

 人が作業している以上、人為的なミスは必ず起こる。それが爆発物や危険物であってもだ。海上という、常に揺れが起きているような場所で、ちょっとした作業ミスが大事故に繋がったという可能性は考えられる。

 だが、普人はもうひとつの可能性についても口にする。

「もうひとつは――工作員が用済みになったから、雇い主が遠隔で爆破した」

 受話器の向こうの相手は無言だったが、普人は構わず話を続けた。

「わざわざ船を出しての工作です。もちろん、単独では無理な話だ。漁船を操縦する技術を持った人を含めて、五、六人ぐらいの乗組員が必要なんじゃないかな。それから、船自体も、どこからか調達しないといけない」

 専用の船を取引し、取得する。出港する港があり、船を動かす人員を用意し、その上で全てをやり遂げるのには、相当な時間と準備が必要だ。

「もし、この人たちが無事に仕事を終えて、戻ってきても……その話は、未来永劫彼らの腹の中に収まっているとは限らない」

 もちろん、プロの工作員ならば機密を守る意思はあるだろう。しかし、人数が増えれば増えるほどに、それが破られるリスクは高まる。犯罪行為というのは、関わる人数が多ければ多いほど発覚しやすく、捕まりやすいという。

「それに、僕は思うんだけど、船の爆発は本当に誰にも察知されていなかったんだろうか?」

 普人は、ずっと気になっていたことを口にした。

 たとえ陸上から離れた場所であっても、海上で爆発が起きて探知されないということが、本当にあり得るか否か。小さな船とはいえ、粉々になるほどなら、相当の規模だと考えられる。それも、普人の想定通りなら海底ケーブルの真上ということになるではないか。ケーブルに異変が起きた時点で、ある程度は調査が行われるはずだ。

 通常、船には船舶識別装置というものが搭載されている……ということを、普人は調べて知った。もちろん、違法な船であれば、そういった装置を事前に取り外していることもあるだろう。

 それだとしても、科学技術が花開く現代では、ありとあらゆる便利な機器が地球上を網羅しているのだ。はるか上空、宇宙から衛星写真が撮影されている可能性だってある。こういった高性能な機器が人間の目の代わりになって、監視の包囲網が地球上を覆っているのに、見逃しがあり得るだろうか。たとえそれが、海の上であっても。

「船が爆発したことはわかっていて――それでも、誰も動いていない」

 それが、普人の結論だった。

 インターネット通信は、安全保障においても重要視される存在だ。このご時世にインターネットが根本から切断されたとなれば、行政から民間まで、あらゆる場所に巨大な爪痕を残すことになる。

 さらにケーブルは、多国間を繋がって敷かれている。その設置や保全に関しても、多国間の協定のもとで行われているのだから、機密まみれであることは事は容易に予想がつく。桁違いの大金だって動いているはずだ。軍隊にだって関わりがあるかもしれない。

 いよいよ普人は、この相談において、もっとも大事な肝を彼に伝える。

「だから、なんにしろ、この話は絶対に表沙汰にはならないんです」

 こんな話が世間に知られたら、大騒ぎどころではない。少なくとも報道はそれ一色になるだろうし、国際問題にも発展するかもしれない。

 そんなことは誰もが望んでいない。だからこそ、今に至るまでなにも情報が漏れていないのである……電話の向こうのお兄さん以外には。

「この件は、人が死んだところで捜索もされないんです。爆発事故――もしくは爆発事件は、最初から〝存在しない〟ことになる」

 そもそも、彼が見た船も、乗っていたであろう人間そのものすら、最初から存在しなかったことになるかもしれない。粉々に砕け散った全てが海の底の暗闇の中……それが、誰にとっても都合の良い結末になるのだ。

 だから、普人は最後にアドバイスを送った。

「お兄さんがしなければいけないことは、ただひとつ。貝みたいに口をつぐむことです。目撃者が存在していることを、相手側が知らないのなら、黙っていれば問題ありません……もう一度確認します。そのとき、お兄さんの周囲には誰もいなかったんですよね?」

「それは、大丈夫だと思う。本当にひとりだったし、隠れていたから、姿は見られていない」

 今までと違って、お兄さんは楽観的な声だった。自信があるのだろうと思わせる。

「なら、これからはこの話を、絶対に、誰にも口外しないでください」

「ああ……もう喋るつもりはないよ、こんなこと」

「もちろん、僕もこのことは誰にも言わない。安心してください」

 もっとも、こんな事件を誰かに伝えたところで信じる人間はそう多くはないだろうが。喋っている普人ですら、まだ半信半疑だ。実際のところ、真実は闇の中である。

「もしかすると、事業者がケーブルの修理にやって来るだろうけど、逆にいえばそれぐらいです。しばらく泳ぐ場所だけ変えましょう。ケーブル修理には結構、期間がかかるみたいだから……」

「そうだな……そうするよ」

 はっきりと聞こえてくるお兄さんの返答に、もはや不安は浮かんでいない。

「もう、大丈夫そうですか?」

「いいよ。海がまた静かになるのであれば、それで……ずっと怖かったんだ。だが、もういい。もう俺には関係なくなった……スパイだとかなんとか、そんないざこざなんて、俺からはずっと遠い話だ」

 内容が内容だけに、問題が解決したことに、普人は心底ほっとしていた。

 それでも、あれだけ焦っていたお兄さんを思って、後押しの言葉を付け足した。

「そうですね。こういう話は、お兄さんみたいな静かにしている人には、もう近づいてきませんよ」

「そうだな。そうだといい」

 そう言ってから、お兄さんは思いついたように口にした。

「でも、そういう話を聞くとさ、人間って言うのは本当に怖いと思う」

 突然の言葉に、普人は返事が出来なかった。

「そうだろ?」と、彼は同意を求めるように尋ねる。「便利な物をどんどん作ろうとするのは、それ自体は理解できる。けど、そのために争ったり、嘘をついたり、命を奪ったり……それから、そのことをなんとも思わないんだから、俺は本当に恐ろしいよ。そう思わないか?」

 わずかな間だけ考えごとをしてから、普人は言葉を返す。

「ええ、そうですね。本当にその通りだ」

 またなにかあったら連絡すると言って、お兄さんは電話を切った。できれば、何事もないことを普人は願っていた。こんな事件の相談が何度も持ちかけられるのは、考えたくもなかった。

 普人は受話器を置いて、しばし黒電話を見つめた。電話線が壁に向かって伸びている。いったい、電話線のその先は、どこの誰に繋がっているのだろうか。そんなことを考えながら、普人は次の電話を待つのである。

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