海は良い、とお兄さんは言っていたが、本当にその通りだと普人も思う。陽光を反射して煌めきながら、どこまでも続いている海を見ていると、自然と開放感が湧き上がってくるのだ。

「いやあ、実に壮大だなあ」

 普人はいま、まさに海まで足を運んでいた。

 ただ、ひとくちに海と言っても様々なバリエーションがある。お兄さんは島暮らしと言っていたが、普人が訪れたのは自宅から電車で四十分ほどの場所にある、港湾地区であった。自然公園や、商業施設、海が一望できる展望台などがある区域だ。

 貨物船が行き交う港湾の近くに設置されており、残念ながら泳げるような砂浜はない。完全に工業地帯の一角である。公園の周辺には名の知れた企業の工場や、大規模な発電所、巨大な石油タンクなどが見える。

 透き通った海ではないが、それでも海には違いない。

 とにかく普人がほしかったのは、インスピレーションだった。いったい海にはなにがあるのか、どんな可能性があるのか、実際に目で見て感じ取ること。これが意外と馬鹿にはできない。行き詰まったときには、発想を休憩させることが必要だった。

 その中でも、この自然公園を選んだのには理由がある。正直なところ、一泊の予定で離島に行くこともできたが、それではただの観光旅行に過ぎない。

 問題は、お兄さんの話で聞いた、謎の漁船についてである。明らかに漁船ではあるが、魚を捕る素振りは見せず、錨を何度も操作するという奇行をしていた。

 つまり、それは漁船に見せかけた別のなにか、というわけである。

 それならば漁村に行くよりも、別方向から海を眺めた方が発見があると考え、この区域へとやってきたのだ。

 普人は真っ先に、海が展望できるタワーへと足を運んだ。海を一望するために建てられた高層ビルディングは、この手の地域に大抵ひとつは存在している。最上階の展望台から、普人は広大な海の景色を捉えることになった。幸運なことに、今日は雲ひとつない晴れだった。

 それでも普人は気を引き締めて、貨物船を眺めて頭を働かせる。

 例えば、漁船は秘密の荷物を積んでいて、その引き渡しのために停泊していた。いわゆる裏取引というやつだ。目立たないように、普段は船が現れないようなところを選んだと考えれば、お兄さんの話とも辻褄が合う。しかし、ほかに船舶の姿はなかったという話もあった。いったい、どうやって相手に荷物を引き渡す?

 それこそ、錨の上げ下ろしではないだろうか。錨に積荷を括り付けて、海底に落ちた衝撃で外れるように仕掛けをしておく。今は地図アプリで簡単に緯度と経度がわかるの時代だ。相手に場所を伝えて、後から引き上げる。

 ……と、なるとなぜ船は爆発したのか。

 今度は石油タンカーを眺めて、想像を巡らせる。例えば、積み荷は厳しい規制のもとに取引される化学物質だった。前述の方法で裏取引が行われる予定だったが、取り扱いに失敗して爆発させてしまった。

 一見すると、話の筋は通っているように思う。だが、ところどころに気になる点があるのも事実だ。もし、化学物質などの危険物だとして、取り扱いの難しい物品を渡すのに、どうして海底である必要があるのか。

 それに、この話からどうやってお兄さんを安心させることができるだろうか。もしも、本当に錨に荷物を括り付けて下ろしていたとしたら、荷物はまだ海の中にあるということになるし、回収する別の船がやってくる可能性もある。しかも中身は危険な物質かもしれない。これはあまり、お兄さんには聞かせたくない推測である。

 港湾には様々な船が行き交っている。着岸している貨物船には、クレーンを用いてコンテナを積載している船もあれば、自動車が次々と乗り降りしているものもある。遠くにはクルーズ船と思わしき船も停留している。

 どれもこれもがしっくりこない。お兄さんから聞いた話を改めて想像するが、どの船の役割も、偽物の漁船に当てはめることができない。

 成果を得られないまま、仕方なく、普人は展望台を後にした。家に戻るにはまだ早い時間だったので、そのまま近くの自然公園へ足を運ぶ。

 コンビニで買ったコーヒーを片手に、ベンチに座って海を眺める。ぼうっとしているだけに見えるだろうが、頭の中は常に考えが巡っていた。しかし、どれだけ脳を働かせても、思考は堂々巡りである。

 ふと、普人を現実に引き戻す声が耳に届く。

「あれ、園山君じゃない?」

 視線を向けると、見覚えのある男が普人のすぐそばに立っていた。量産品のスーツに身を包み、社員証を首からぶら下げている。がっしりとした体格に、ツーブロックの短髪は、いかにも営業マンという風貌だ。

「河崎さんっすか?」

 男の名前は、思いのほかさっと出てきた。

 河崎は、普人が以前に勤めていた会社の先輩である。あのときの制服は作業服だったため、今とは印象ががらりと変わっていた。

「久しぶりだな、こんなところでどうしたんだよ」

「河崎さんこそ」

「俺は仕事で……って、今は転職して、別の会社に勤めてるんだけどな」

 そうして河崎の口にした会社の名前は、大手電機関連企業のものであった。事実だとしたら紛れもない栄転だろう。以前の会社は、事務機器を扱う中小企業だった。

「あー、知ってますよ。電線とか作ってる会社ですよね」

「そうそう!」と、河崎は自信満々に言った。「また営業やってるんだ。ここらへん工場とかあるだろ。業務用の機械に使うケーブルとか扱ってるんだよね」

 自慢したいという気持ちが全身から溢れていて、転職に成功したことが事実であるのは普人でなくともわかるだろう。

「ここだけの話、年収もかなりアップしてさ。ボーナスもかなり良いんだ」

 河崎は、自慢げにふふんと鼻を鳴らした。

 このような人だが、以前に勤めていた会社の人間関係においては、比較的付き合いやすい人であった。一見すると調子に乗っていて偉そうに思えるかもしれないが、そのぶん素直でわかりやすいところが、普人にとって好ましいタイプだった。

「園山君は?」

「今日は休みです。息抜きで海でも見ようかなあって」

 概ね事実なので、そのように伝えた。おそらく河崎が聞きたかったのは「園山君はどんなところで働いているの?」ということだろうが、あえて無視して別の話題を続ける。

「ここ、初めて来たんですけど、結構綺麗ですよね。河崎さんは営業の合間の休憩ですか?」

「そうだよ。さっき昼飯食べたところ。次のアポまではもうちょっと時間あるから、どうしようかと思ってたら、園山君見つけたからさ」

 そうなんですか、と答えるが、普人には大体予測がついていた。時間も昼時だし、河崎の身体からは少しばかり香ばしい匂いが漂ってくる。

「河崎さんは仕事の調子どうですか? 大企業ってどんな感じです?」

「お、知りたい?」

「是非、後学のために聞きたいですね」

 特に聞きたくもなかったのだが、こちらのことをあれこれと探られるよりは、聞き役に徹した方がずっと良いと判断した。

 河崎は、上機嫌な様子で普人の隣に腰掛けた。ニンニクとわかる匂いが微かに香ってくる。

「ここだけの話、福利厚生はかなりいいな。講習とかも充実してるしさ」

「へえ」と大袈裟に相槌を打つ。「仕事の内容はどんなことを?」

「営業だよ。それ自体は前職とかわりないけど、扱ってる商品が全然違う」

「さっきは、ケーブルって言ってましたよね」

「そう。知ってるとおり、元々は電線で有名なメーカーで……」

 それから少しの間、河崎の勤め先にどれだけ歴史があって、技術があって、売上高があるのかという話を聞かされた。もちろん、普人は聞いている振りをしながら上の空だ。意気揚々と話をしている河崎の隣で、普人は考え込んで、呟いた。

「それにしても、電線か……」

「どうかした?」

「あ、いえ」と普人は取り繕った。「なんでもないです」

 実際は、なんでもないわけではなかった。河崎の話を聞いて、まさに欲しかったインスピレーションを手に入れた実感があった。

 話が止まったところで、河崎は腕時計を見た。まだ新品らしい光沢が輝いている。

「お、そろそろ行かないと」

 そう言って、河崎は立ち上がった。

「それじゃあ、おつかれです」

 長い話がようやく終わり、河崎が一歩足を踏み出したと思った途端、すぐに立ち止まって普人を振り返った。

「あのさ、園山君」と、呼びかける。「あのときは真剣に君の話聞けなくてごめんな。あの件のあと、全部君の言うとおりになったよ……俺がやめたのも、それがきっかけでさ。結局、俺がやめて少ししたら、会社も潰れたみたい」

「そうなんですか」普人は目を見開いて答えた。

 あのとき――それは、普人が以前勤めていた会社で巻き込まれた、ちょっとした出来事のことであった。事件と言うほどのことではない。ただ、普人にとっては少しばかり苦い思い出だ。

 あの後に会社がどうなっていったのか、今の今まで調べようとも思っていなかったが、こんなところでその顛末を知ることになるとは思っていなかった。

 普人の内心などお構いなしに、河崎は続ける。

「俺さあ、思えば前の職場も結構気に入ってたよ。金は全然だったけど、人間関係とか社内の雰囲気は正直、今よりも良かったよなって」

「そうですね……」

「まあ、おかげで俺は転職成功だったんだけどな」

 と、河崎は明るく話を切り替えた。営業畑の人だけあって、こういった強引な話の切り替えに抵抗がない。

 そして、それは普人も同様だ。

「……河崎さん、ちょっと話変わるんですけど」

「なに?」

「ニンニク臭、すごいっす」

「えっ」と河崎は自分の姿を確認する。

 袖口を鼻に付けて匂いを確認しているが、首をかしげており、自覚がないようだ。匂いというものは強烈であっても、すぐに慣れてしまって、発している本人はなかなか気がつけないものだ。

「いや、でもニンニクなんて食べるわけないだろ……これからアポだぞ?」

 その事実が、なおさら河崎の認識を阻害している。

「近くの席の人が食べてたんじゃないですか。それで匂いが移ったのかも」

 そう言うと、彼は「あっ」という顔をした。おそらく思い当たるところがあるのだろう。おそるおそる、最終確認と言った様子で、河崎は尋ねる。

「……そんなにする?」

「かなり。このあとアポなら、絶対、今のうちに対策した方がいいですよ」

「うわー、そうか。ちょっと今からコンビニ寄って、ボディスプレーかなんか買ってくるわ」

 そう言って、河崎はベンチに座る普人の肩をバンバン叩いた。正直なところ、かなり痛かったが、苦笑いをしてやり過ごす。

「今日ここで会えて、園山くんが元気そうにしてるのがわかって良かったよ。園山くんも、頑張って働けよ。それじゃ!」

 わははと笑って、河崎は今度こそ立ち去った。

 普人はしばらく去って行く知人の背中を眺めていたが、その姿が見えなくなってから、小さくため息をついた。すっかり冷めてしまったコーヒーが、妙に苦い。やはりカフェオレにしておけば良かったと、普人は今更後悔していた。

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