第三章・1

 いつも通り、普人は誰もいない静かなリビングで、椅子に座ってゆったりと文庫本を読んでいた。手元に置いてあるのは最近買ったばかりのマグカップだ。香ばしい淹れたてのコーヒーの香りが立ち上っている。冷蔵庫には、後で食べようと、コンビニで見つけた新作のプリンを買っておいてある。椅子には座り心地の良いクッションを置いて、読書には最適な環境だが、もちろん、自分の部屋ではない。仕事場という名のアパートの一室である。

 妙な仕事を請け負うことになって、はや一週間が過ぎようとしていた。朝九時にはアパートにやってきて、午後六時には帰宅する。すっかりその反復が日常に染みついてしまっている。悲しいことに、電話はお姉さんの一件から全くかかってこない。それなのに、少しでも過ごしやすいようにと備品だけが増えていく。

 前回の件は、終わってすぐ、書斎に行って天麻に報告を行った。ノックすると、すぐに鍵が開いた。

 彼から返答は「解決したのならそれでいい」という、端的な物だった。

 また次の日、天麻は姿をまるで見せなかった。いない、というよりは所在がわからないと言ったほうが正しい。廊下から書斎に声をかけても返事はないし、影すら見ることがない。それからというもの、天麻の姿を認識したことは一度もない。今日も書斎に向かって声をかけているが、部屋にいるのかどうかはわからない。引き続き監視はされているだろうが、何をしていても文句を言われることもなかった。

 孤独に時間をやり過ごす、それが普人の平常運転になりつつあった。金は賭けなくとも競馬中継を流したり、配信のドラマを見たりもして、どうにか時間を潰していたが、あまりにも無為であった。

 一般人からすれば、普人の生活は贅沢そのものだろう。羨ましがる人間だって相当数いるはずだ。しかし、やることがないというのは結構な苦痛である。せめて自宅であったら気楽だったのに、仕事場というだけで重しが乗っている気分になるのだ。

 なによりも借金で拘束されているという事実が、精神的な疲労を増幅させている。監視されていることも気分が良い物ではない。電話がかかってこなければ、借金返済もいつになるかわからないのに、時間だけがただ過ぎていくのである。

 その日は昼頃になって、ようやく電話がなった。待ちくたびれていた普人は、ワンコールで受話器に飛びついた。けたたましい電話の音も、いまや乾いた砂漠に落ちてくる一滴の水だ。

「もしもーし、こちら電話相談室」

 電話がかかってくるのを、ずっと待望していた。強要されているのだから、それでは駄目だとわかっているのだが、自然と普人の口角は上がってしまった。

 ちょっと間を置いて、受話器の向こうから男の低い声が聞こえる。

「相談があって、電話したんだが……」

「はい」と、相槌をうつ。

 相手は深刻そうな声であるが、普人は明るく答えた。

「ここに電話すれば、なんでも解決してくれると聞いた」

「ええ、そうです」と、勢いで言ってから思い直す。「……内容にもよりますけど、納得いくまで相談に乗ります」

 答えてから、普人はとある事を突っ込んでみた。

「ちなみに、この電話のことはどなたに聞いたんです?」

 電話をかけてくる相手は、この電話相談のことをどこで知るのだろうか。そもそも、この仕事はなんのためにやらされているのか――ヒントが欠片でも掴めるかもしれないと思ったからだ。

 意表を突かれたのか、男はしばし黙ったが。

「友人」とだけ答えた。

「そうですか、ご友人の紹介で……」

 それから、普人はわざとらしく、とぼけた声で質問を重ねる。

「あ、それってひょっとして……天麻さんじゃないですか?」

 彼の名前を出して、相手がどういう反応をするのか気になった。

「知ってますか、天麻さんのこと。こう、妙に淡々とした性格の若い男で、少し天然が入った人なんだけど……」

「いや、天麻ではない」

 その返答で、少なくとも天麻と相手が知り合いであることは察した。

 それから、もうひとつ予想できることは、この電話が口コミで広がっていることだ。彼と天麻が知り合いにも関わらず、天麻以外の第三者から話を聞いたということは、特定のコミュニティで話が広がっていると考えられるのではないか。

 しかし、普人は自分の考えをすぐに否定する。

 いや、それにしては相手の幅が広すぎる。最初に電話をかけてきたのは、田舎に暮らす老人だったじゃないか。それから、会社員のお姉さん。いったいどんな共通点があるのか、普人には想像がつかなかった。

 男はそれ以上なにも答えなかった。お姉さんと違って、べらべらと自分から喋るタイプではなさそうだ。

 これ以上情報を引き出すのは無理だろうと考え、普人は話を切り替えた。

「ええと、お兄さん」

 相も変わらず名乗らないので、普人は相手をそう呼んだ。この前の相手がお姉さんだったのだから、今度はお兄さんで良いだろうという単純な名付けだった。ぶっきらぼうだが随分と大人しく、おじさんと呼んでも怒らなさそうな相手ではある。だが、今回は声から年齢を判断することが難しかった。声色は若くはないが、翁ほど老いてもいない。くぐもった声はやや聞き取りづらく、必要以上のことは話さなかった。

 少々、警戒心が強い相手かもしれない。そう普人は判断していた。

「それで、ご相談の内容は?」

「……なんといっていいかもよくわからない。おかしなことが目の前で起きたんだ。少なくとも、人も死んでいると思う」

 普人は一瞬、固まってしまった。あまりのことに、思考まで止まってしまう。いま、この人はなんと言ったのだろう。

 人も死んでいると思う。命に関わる相談であれば、あまりにも重い。前回の相談も大概の内容であったが、今回はさらにそれを上回る予感が走った。

 それでも、普人はなんとか意識を集中させた。

「事故ですか? 事件ですか?」

 思わず百十番のような返答をしてしまう。

 電話口の向こうは、少しだけ無言になった。切れ切れの声が重ならず言葉にならない。答えかねているようで、ようやく出てきた返事も曖昧なものだった。

「たぶん事故かと……いや、でも、はっきりとはわからない」

 歯切れが悪い返答ばかりだ。しかし、なにかを隠しているというよりも、本当になにもわかっていないという印象を受ける。

 詳しく話を聞く前に、念のために確認しておく。

「警察に……は、言えない理由があるんですよね、たぶん」

 付け足した「たぶん」という言葉は、実際には「どうせ」と言いたかったのだが、ぐっと抑えた結果の表現であった。

「誰になにを言えばいいかもわからない。もうなにも残っていないだろうし……」

「残っていない?」

「人も、船も、なにもかもが海の藻屑だ」

「船に海……じゃあ、その事故って言うのは、海難事故なんですか?」

「ああ。そうだ」男は言った。「今から話すことは、海に潜っているときに目撃した出来事なんだ」

 電話口から聞こえてくる声は、かなり気弱であった。くぐもっているように聞こえるのはそのせいだろう。

「ゆっくりでいいので、自分の見たことをありのままに話してください。どんなに変な話でも大丈夫です。事実をそのまま喋ってください。ちゃんと聞きますから」

 普人は相手を落ち着かせながら、話を促す。それと同時に、自分の緊張もほぐそうと軽く息を吐いた。どんな話が飛び出してくるのか、想像もつかなかった。

 それから、彼は実に奇怪な話を語り始める。

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