7
次の日、普人は定めた出勤時間にアパートにやってきた。チャイムを鳴らしても反応はなく、ドアの鍵は開いていた。
「不用心だなあ」
玄関に靴は一足もない。靴箱はあるが、中身は空っぽだった。ひょっとして誰もいないのだろうか。だとしたら、なおさら不用心というほかない。玄関を上がってすぐは廊下になっていて、それぞれリビングダイニングキッチン、書斎、風呂場、トイレにつながっている。
普人がリビングに足を踏み入れると、そこには昨日と同じように黒電話が佇んでいるだけであった。電話機には表示画面もないため、昨夜に電話がかかってきたかどうかの履歴も残らないが、逆に気楽でいいように思えた。
普人はまず、改めてアパートの中を見て回ることにした。人の気配もないし、見るなとも言われていないのだから、怒られることはないだろう。形式上は、これから自分の職場になるのだから、確認する必要だってあるはずだ。
まずリビングと直通のキッチン。この場所は、昨日、食べ物を求めて軽く見て回っている。冷蔵庫は置いてあるが、中身は空っぽである。今日もやはり、空のままの冷蔵庫は微かな電動音を響かせながら意味のない稼働をしている。
食器棚のなかには皿が重ねてあり、引き出しの中にもスプーンやフォークが置いてあるが、どれも恐ろしいほど綺麗に整えられている。まるで飾りだ。
水道は通っているらしく、蛇口からはきちんと水が出た。人間、水さえなんとかなるもので、これには少しほっとする。給湯器も使えるようで、お湯も出るのはありがたい。コンロにも通常通り火が点る。
次はリビングを出て、トイレと風呂場を覗いたが、なんら特筆することのない光景だった。トイレにはトイレットペーパーや掃除道具が備え付けられているし、風呂場にはボディソープやシャンプーが置いてある。試しにボトルを持ち上げるとずっしりと重みを感じる。おそらく新品だった。
普人は、最後に天麻の書斎の前で立ち止まった。
「天麻さーん、出勤しましたよー」
念のため声をかけてから扉をノックし、ドアノブを握った。鍵がかかっているようで扉は開かない。経は返答もなかった。やはり不在なのだろうか。玄関は開いていたのに部屋にはしっかり鍵をかけているのは、普人の立ち入りを拒否していることに他ならない。
1LDKのアパートを見て回るのに、所用時間は十五分もかからなかった。
結局、普人はリビングに戻って椅子に座った。どこかに監視カメラが仕掛けられていると踏んでいるが、あからさまには見当たらなかった。とはいえ最近のカメラは小型化が進んでいる。どこか見えない場所に隠されていたとしても、なんら不思議ではないだろう。残念ながら、壁に穴を開けて調べるわけにも行かない。
やはり生活のための部屋ではない印象を受ける。。昨日、普人が天麻に指摘したとおり、寝るための場所もない。フローリングの床に直接ごろ寝しようと思えばできるが、それがまっとうな人間の生活とは言い難いだろう。
だからといって、仕事のために用意された部屋とも思えなかった。あまりにも物が不足している。仕事をするというのなら、メモ用紙や筆記具ぐらい揃えておいたっていいだろう。その割に食器やシャンプー類が揃っており、表現しがたい妙な感じが重たくのしかかってくる。
とはいえ、考えていても仕方がない。
「待ってるだけってのもね」
普人はスマートフォンを取り出して、競馬アプリを開いた。
地方競馬は元旦から大晦日まで毎日、全国各地で開催されている。今はネットを通じて中継も見れるし、馬券も購入できる時代だ。さらに普人は鞄から競馬新聞を取り出した。地方の競馬新聞だって、いまやコンビニのコピー機で全国販売されている。
借金を返せと言われているが、なにも真っ当に働いて返す必要はない。前のように競馬で荒稼ぎをすればいいのだ。
自分にならできる。今まではそうしてきたのだから。
早速新聞に目を通して、狙えそうなレースを見定める。それから、パドック中継も確認する。良さげなレースを見繕い、一頭選んで、単勝に五万円を賭けた。オッズは十倍だった。
だが、レースが始まると、途端に馬は不調に陥った。
「なんで!」と、普人は思わず叫ぶ。
馬券は呆気なく外れてしまい、リビングでひとり、頭を抱える。
それからも、普人は狙えるレースのいくつかで馬券購入を続けた。今まで味わったことのない不安から、掛け金は大幅に下げた。
だが、馬券を買ったレースは悉く外れた。
道中で急にかかってずるずると下がっていく馬、コーナーで別の馬に塞がれ進路が詰まる馬……そんな中、一度だけ馬券を当てることに成功させたが、一番人気で大本命馬の複勝馬券、オッズは一倍元返しであった。
結果は、人生初めてのマイナス収支であった。
普人はついにスマートフォンを片付けて、机に突っ伏した。自分の才能が急に衰えたかというとそうではない。普人の見る目はいつも通りのはずであった。突如として金儲けにだけ生かせなくなっている。競馬から競輪に鞍替えを試してみようかと思ったが、どうもやる気が起きてこない。
さて、この日からの二日間は結構な苦痛だった。
待てども待てども、電話が一本もかかってこなかったからである。リビングにはテレビもなければ雑誌の一冊も、新聞すらもない。ひとりで部屋に閉じこもっているだけなものだから、普人は自分がなにをしているのかわからなくなりそうだった。寝袋でも注文した方が良いかもしれないと思い始めていたぐらいであった。
それでも、どうにか二日間をやり過ごし、三日目を迎えた。この日は約束がある。以前と同様に、夕方頃に電話が鳴った。
「もしもーし、こちら電話相談室」
「はーい」と軽快な女性の声。
例のお姉さんだった。結構な性格をしている相手だが、今この瞬間は声が聞けたことが素直に嬉しかった。
「どうですか、その後の展開は」
「貴方の言ったとおりになったわよ」
「じゃあ、エス子さんは殺人計画どころじゃなくなったわけだ」
普人は満足げに頷いた。
「ええ。今はケー子とバチバチ。すごいわよ」
「そうでしょうねえ」
普人がお姉さんに出した指示は、とても簡単なものだった。
エス子に、ケー子の存在を教えること。「ケー子は部長に片思いしてるらしい。愛人になりたがっている」という噂を聞いたと伝えるように告げていた。
まだたったの三日しか経っていないが、楽しげなお姉さんの声色から、どうやら効果は覿面だったことが窺える。
「エス子さんの望みは、不倫相手の部長と結婚すること。そのためには奥さんの存在が邪魔だった。殺したいと思うほどに……でも、そこにケー子さんというライバルが現れる。すると、エス子さんはケー子さんに対処しなければならない。仮に奥さんを殺すことが出来ても、後釜に座るのが自分とは限らないわけだ」
こうなると、エス子の殺人計画は、決行するにあたって重大なリスクを抱えることになった。
「エス子さんにとって、優先するべきはケー子さんを排除することになる」
「エス子の殺人計画の対象がケー子に移行するってことはない?」
「そっちは、メリットのほうが薄い。ケー子さんの排除は、エス子さんの結婚にはつながらないですから」
もちろん憎しみは募るだろうし、稚拙であっても殺人を実行したいと考えるようなエス子の性質を考えると、可能性はゼロではないだろう。それでも、ケー子と妻、二件も殺人事件を遂行しようなんて、普通の女性にとってはハードルが高すぎる。
「もっとも、直接、別に愛人がいるんだと教えていたら、大爆発してた可能性はあると思いますけど」
「そりゃあねえ」
「そのときは、修羅場だったでしょうね」
「あら、その展開はその展開で、面白そうだったかも」
お姉さんはちょっと残念そうに言った。
「やめてください。部長が死んじゃいますよ」
もしそうなっていたら、エス子の怒りはそのまま部長とケー子に向かっていただろう。殺人計画を抱えていただけの熱量を持って、である。いくら不倫にまつわる話とはいえ、人殺しにまで発展するのは避けたいところだ。
だが、これで少なくとも、流れは止まることにはなるはずだ。そして、時間がかかればかかるほどに、エス子の感情のガスが抜けていくだろう。自然と燃え続ける炎はない。冷や水もかけられてはなおさらである。時間経過とともに燃料が尽きれば、エス子の殺意が消えるのもそう先ではないはずだ。そのとき本人が幸福かどうかはわからないが、普人にできることはやったはずだ。
ふと、お姉さんは言った。
「なんだか中国に、こんな話があったわね」
「三国志?」普人は尋ねる。「天下三分の計だ」
「そう、それ」
有名な中国の古典、三国志において、魯粛や孔明と言った人物がこの天下三分の計を説いたとされている。文字通り、天下を三つの勢力に分けて均衡を図ろうという策である。
「まあ、似たような物かも」
エス子、ケー子、奥さんの三人で均衡を保たせる。それが普人の提示した解決策であった。さしずめ部長は玉璽……と思ったが、さすがにそこまで立派な物ではないような気もする。
「ま、それはともかく、これでしばらくは安泰だと思いますよ。これから、長いこと睨み合いや小競り合いは続くでしょうけど」
「小競り合いかあ」お姉さんはふふっと笑って、呟いた。「今度は、もっと長く楽しめそうね」
電話口から聞こえてくる彼女の声は、興奮で随分と上擦っている。
「あたしね……本っ当に、恋愛のいざこざが大好きなのよ。恋や欲に浮かれてバカになってる奴らも好きだし、汚くて下品な、それでいて愛憎混じった言葉で罵り合ってる奴らもたまらない」
電話の向こうの吐露を、普人はありのまま受け止めていた。彼女の興奮に引き摺られないようにだけ、深呼吸して、意識を集中する。
「エス子が警察に捕まっちゃってたら、生き甲斐がなくなるところだった。これで、まだまだ楽しめる。ふふふふ……」
電話の向こうから、女の高笑いが聞こえてくる。ところどころ引き攣って、金切り声のようにも聞こえた。ひとしきり笑った後、彼女は大きくため息をついて、急に静かになった。呼吸だけがわずかに聞こえてくる。
ああ、やっぱりこれが、この人の相談の本質だったのか――と、普人は思う。どうりで警察には行かないし、二人を別れさせる方向性も嫌がった。ちょうどいい塩梅にトラブルを継続させたかったのだ。
相手が落ち着いたのを確認して、普人は尋ねる。
「……ひょっとして、これからもっと燃やすつもり?」
消えない炎はない、それは燃料がなくなれば――という話だ。誰かが燃料をくべ続ければ、炎もまた燃え続ける。
「そうねえ。それも良いかも」
しばし間をおいて、問いかけがあった。
「……ひょっとして、お兄さんも、あたしに説教するつもり?」
質問には答えず、普人は尋ね返した。
「〝も〟っていうことは、前にも別の誰かに説教されたことが?」
「上司にね。他人の噂を喋るのは良くないことだって……それで、わざわざマナー講座みたいなのを受けさせられてさ。ほんと、嫌になっちゃう」
お姉さんの声はあからさまに不機嫌になった。
「だいたいさ、どうしてあたしの方が怒られるわけ? 本当に怒られなきゃいけないのは、不倫してる人たちや、いざこざの当人でしょう。あたしは、ただそれを見てるだけの観客なのに」
普人は変わらず耳を澄ませて、彼女の声に集中していた。
彼女の声には、心底、納得がいっていないという感情が乗っている。つまり、自分の行動のどこが問題視されているのか、理解していないのである。
苦笑いして、普人は言った。
「そう思っていても、多少は仮面を被ったほうが、生きやすいんじゃないかな。それこそ、マナーって言う仮面を被ってさ。世の中、みんなそうしてる」
「それが不思議なのよ!」
普人のアドバイスに、お姉さんはひときわ大きな声で反論した。
「部長とエス子の話だって、あたしひとりしか知らない話ってわけじゃないのよ。ふたりの関係に気付いている人は他にもたくさんいるわ。でも、誰も当人にはそれを指摘したり、怒ったりしないの。みんな見て見ぬ振りをするだけ」
「そういうことは、言いにくいからね」
恋愛ごとなら尚更である。会社が従業員のプライベートに介入することは、一般的に人権問題と見なされる。
「だからね、彼らは実際、容認されているのよ。存在が許されてるの。それなのに、見てたり、噂してるだけのあたしのほうは許されないわけ?」
「まあ……お姉さんの言いたいことも、少しわかるけど」
「ほんとにぃ?」
「ほんとほんと」
普人は軽く言ったが、彼女の主張をまるごと否定するつもりは毛頭なかった。
他人のスキャンダルが好きな人間はどこにでも居る。いや、誰もがそういう部分を持っていると言ったほうが的確かもしれない。恋愛沙汰、不祥事、不幸話、そう言ったものに食らいついて、一家言述べたがる人間が、世の中にどれだけ多いことか。
皆、その衝動をひた隠しにして生きているに過ぎない。仮面を被って、不可侵のマナーを守って、観客に徹している。そうしていれば、礼儀を弁えた人間に見える。
彼女は、きっと、それを隠すことができないのだ。どうしても、口が、手が動いてしまい、周囲から煙たがられる。
ここへの電話は弱者がかけてくるのだと、天麻は言っていた。ここにきて普人は、ようやく相手の弱さを垣間見た気がしていた。
「……まあ、いいわ。どうせ私は変われないから」
それでも、彼女の声は気丈なままだ。
「相談乗ってくれて、ありがと」
じゃあね、という声を最後に、電話は切れる。
普人も受話器を置いた。
どこかの誰かからかかってきた電話は、切れてしまえば、普人とはなんの関わりもなくなってしまう。
どこかにある会社、そこで巻き起こる人間模様は、いったいどのような結末を迎えるのだろうか。
普人が自分で提示した解決策だ。電話のやり取りのみ、限られた情報のみで捻り出した答えとしては、やはりこれが最善策だと思っていた。お姉さんの話を聞く限り、彼らは近々爆発するはずの不貞の関係だ。それを先延ばしにできただけでも、良しとしなければならない。
しかし、せめて関係者が燃え尽きる日がより遠いことを、普人は祈るばかりである。
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