一仕事を終えた普人は、椅子から立ち上がって、天麻の部屋の前にやってきた。普人がコンビニに行っていたわずかな時間に出かけてなければ、彼はまだ中にいるはずである。

「あのー、天麻さん」

 そう呼びかけただけで、意外なことに、鍵の開くガチャッという音が聞こえてきた。ドアノブを下げて扉を押すと、なんと動いた。

 普人はおそるおそる部屋の中に足を踏み入れる。左右を本棚に囲まれており、真ん中に高級感溢れる木製のデスクが鎮座している。椅子は本革だろう。ゆったりとしていて座り心地がよさそうだ。天麻はその椅子に腰掛けたまま、普人に視線を向けた。

 普人は部屋の中をぐるっと見渡していた。こういった内装の部屋を一言で表すのなら、書斎という言葉以外に適切なものはないだろう。

 だが、妙な違和感もある。まず、机の上に物がまるで置いていないことだ。モデルルームでだって、ここまでまっさらな机上を見ることはそうそうない。

 本棚にしてもそうで、びっしりと規則正しく本が詰め込まれているが、ほとんどが辞典と図鑑のようだった。それも、図鑑のジャンルに規則性がない。なんだか、ただ分厚い本を詰め込んだだけのようにも見える。

 床にはコードの一本もなかった。それが一番の不思議である。リビングにすら電話線があるのに、この書斎には電気製品が見当たらない。書斎にはおなじみだろうデスクランプのひとつもないし、スマートフォンの充電コードすらも発見できなかった。

 本当に、ただ部屋があるだけだ。それが普人の所感だった。

「報告があるのでは?」

 天麻が尋ねてきたので、普人は部屋の観察をやめた。

「えーっと、今回の相談、日をまたぐみたいなんだけど」

「知っている」と天麻は答える。

「そう」とだけ普人は言った。

 前回の話も、聞こえていないはずなのに筒抜けだった。今回も部屋の中にいながら話を聞いていたと言うことは、受話器に盗聴器が仕掛けられているとしか考えられなかった。

 ブラックな仕事だな、と普人は心の中で呆れた。監視しているくせに、それでも口頭報告が必要なんて不思議な話だが、言われている以上はやるしかない。

 普人は、お姉さんの相談をかいつまんで話した。

 天麻はなにも言わずに黙って聞いていたが、話が終わると一言。

「わかった。下がって良い」とだけ言った。

 このタイミングを逃してはまずいと思った普人は、慌てて話を切り出した。

「あのさ……一回、自宅に帰ってもいい?」

 交渉するならいまのタイミングしかないと感じていた。普人がスマートフォンで時間を確認すると、午後五時半を回った頃だった。ひとり暮らしなので門限があるわけではないが、これを逃すと夜になってしまうどころか、自宅に帰れない可能性だってあるのだ。

 また別の電話がかかってくるかもしれないが、少なくともお姉さんの一件は三日間待つしかない。

「まさか、このまま軟禁状態ってわけじゃないよね。洗濯機も回しっぱなしだし、冷蔵庫にある惣菜の賞味期限も今日までだ。僕としては、一度家に帰りたい」

 世の中の多くの人は平日の昼間に働いている。とすれば、電話相談の需要があるのはこれからの時間帯かもしれない。だがそうすると、普人は真夜中までずっと電話を待っていることになってしまう。

 続けて、普人は重要な指摘をする。

「だいたい、この部屋って寝る場所がないよね」

 珍しく、天麻の切れ長の瞳が、少し大きく開かれた。

 この男に表情があったことも驚きだったが、まるでいま気がついたかのように言ったので、さすがの普人は驚いた。

「まさか、気付いてなかったの?」

 リビングにはダイニングテーブルだけで、寝そべられるようなソファもないし、唯一の部屋であるこの書斎には、ベッドが置いていなかった。おそらく天麻自身も、ここには暮らしていないのだろう。

 本当に気がついていなかったとしたら――ひょっとして、この男、天然なのか。

 口をぽかんと開けている普人に、天麻は変わらない様子で言った。

「では、明日また来るように」

 彼はやはり、あっさりと許可を出した。

 コンビニ外出が許されている以上、押せばこちらにも許可が出るだろうと踏んでいたが、当たりだった。そのやりとりは、予想より随分と間抜けなものだったが。

 気が抜けている普人を牽制するように、天麻は付け足した。

「来なければ迎えに行く」

「怖いなあ、監視してるってこと?」

「そう考えてもらって構わない」

 普人は大袈裟に肩をすくめて見せた。

 とても信じられない話だが、個人情報から相談電話の内容まで、まるごと天麻に筒抜けであることを考えると、事細かに監視されていることは事実だろう。

 いったい、いつ、どうやって?

 本当に不思議だった。いくらデジタルが発達した時代だからと言って、今までに監視らしきものがあれば、きっかけぐらいは掴んでいたとしてもおかしくはないはずなのに。

 考えても考えても、小さなヒントすら思いつくことはなかった。

「あの」と、諦めて普人は呼びかける。

「なんだ?」

「できれば、出勤時間と退勤時間を決めてほしいんだけど」

 ついでにもうひとつ、提案を投げかけてみた。このアパートに拘束されている時間を、できる限り抑えたいと思っての提案だった。

「午前八時から午後五時まで」

「えっ」

 天麻の答えがあまりにも早かったから、普人は逆に戸惑った。

「その時間帯が、社会における一般的な就業時間だろう?」

「そうだけどさ……」

 普人は少し考えて、交渉を持ちかける。

「午前九時から午後六時にならない?」

 朝の出勤時間はできるだけ遅い方がいい。仕事を辞めてからというもの、すっかり早起きが苦手になってしまった。

「構わない。君がきちんと来るのなら」

「ちなみに残業はなしってことで?」

「電話が長引かなければ、規定の時間で帰っていい」

「まじか」

 提案が悉く通っていくので、普人は逆に猜疑心がわきそうになる。だが、どれもこちらからの提案であるし、呑んでくれるのならばそれに越したことはない。

 結構ホワイトじゃん、とついさっきの考えを速攻に翻す。

「あのさあ」

 普人はさらに疑問を投げかけた。人の会話には流れも勢いもあるものだ。案外答えが返ってくるのではないかと思った。

「それなら、わざわざ僕を目隠しして拉致することはなかったんじゃないですかね。もっと普通にスカウトできなかったの?」

 人を目隠しして攫う理由は、なにかを隠すためだ。なにを隠しているのかというと、人の顔や場所であることが大半だろう。車に乗せられて移動してきたわけだが、目的地までの道のりがばれると逃げることは容易になる。

 それなのに、普人はあっという間に拘束を解かれ、外出許可まで得た。いまや住所までしっかり把握している。よほど監視とやらに自信があるのか。

 普人の質問に、天麻は質問で返してよこした。

「まっとうなやり方でスカウトしたとして、君はこの仕事を引き受けたか?」

「引き受けないね」普人は迷うことなく答えた。

「なら、それが答えだ」

「目隠しの必要性はないでしょ。どうせ、こうして自由に動けるんならさ」

 そこで一度、会話の流れは止まってしまった。

「ほかになにか要望は?」

「僕の質問に答えてもらうこと」

「必要ない」

 ばっさりと切り捨てられた。天麻は相変わらず、答えたくないことには答えない。残念ながら、これ以上、なにか得られる会話ができるとは思えなかった。

 それでも無性に腹が立っているので、ひとつだけ言い返す。

「あのさあ。もうちょっと人間らしく、コミュニケーションしようと思わない?」

「……なぜ君に合わせる必要があるのか?」

 ああ、だめだ。まったく話が通じない。こうも相手にされないと、腹立たしさは虚しさに変化する。

 普人は息をついて、部屋を一瞥する。書斎。その名の通り、本棚は書籍で埋まっている。だがどうだろう、会話を終えた天麻は静かに瞳を伏せて、黙って椅子に座っていた。机の上にも、手元にも、本の一冊すら置いていない。

「わかったよ……じゃあ、お疲れさんでした」

 これ以上、相手からの言葉がないのを確認してから、普人はやけくそ気味に言いながら部屋を出た。

 出て行くときに天麻の顔を振り返り、普人は思う。相変わらず動きのない顔で、なにを考えているのか普人をもってしてもわからない。どんな人間にも心の機微があるが、この男の場合、本当になにもないのではないかとすら思えてくる。

 天麻という男、全然わからん。と、結論付けて、普人は考えるのをやめた。

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