5
話が終わって、普人はまず重要な事実を確認する。
「あの……他人のメールを盗み見るのがご趣味で?」
「そう。楽しいわよね」
お姉さんは悪びれずに言い切った。
通りで、警察にも会社にも相談できないと拒否する訳である。他人の悪事を追及すれば、自分の悪事も明らかになるという寸法だ。
さすがの普人も文句を言うしかない。
「そういうの、セクハラ以前の問題ですよ!」
「この前のマナー講師は、そんなこと言ってなかった」
そんなことまでいちいち言わなかった、というのが現実であろう。誰でも知っている、講習以前の常識的な話ではないだろうか。が、それを指摘すれば話が脱線するため、ぐっと堪えて本線に戻ることにする。
「それにしても、相手の携帯にはロックとか、かかってないんですか?」
「かかってるわよ。でも、パスワードも盗み見て、覚えちゃった」
普人は苦笑いをする。とんでもない女から相談されてしまった。本当に、天麻は誰に電話番号を教えているのだと、改めて文句を言いたくなってしまった。
そんな普人の気持ちもお構いなしに、お姉さんは続けた。
「ロックをかけてる人って、安心して好き勝手なやり取りをしてるのよね。自分と相手の二人きりの空間だと思っているみたい。あたしがいるとも知らずにね」
本人は気付いていないだろうが、言葉の最後に笑い声が漏れ出ているのを普人は感じとっていた。お姉さんは、心の底からこの件を楽しんでいる様子だった。他人のいざこざが好きなのだろう。どこにでもいるが、自分の近くには絶対にいてほしくないタイプである。
しかし、どんな相手のどんな相談であろうと、いまの普人は仕事をこなさなければならない立場であった。
久しぶりに労働の味を噛み締めながら、普人は話を続ける。
「でも、話を聞いているとタケちゃん……ああ、いや、部長さんには離婚の意思はないように思えますけど」
そう言うと、お姉さんは案外冷静に返答をした。
「あたしもそう思うわ。愛人の前では奥さんの悪口で盛り上がって、家では愛妻家なんて、不倫男にはよくあるパターンだし」
「たとえ配偶者との関係が冷え切っていたとしても、離婚してから次の相手と付き合うのが筋ですからね。そのほうが余計なトラブルもないし、世間体という言い訳もかなり曖昧だ。子供がいないのなら尚更です」
「でも、エス子は気づいてないのよ」
お姉さんは呆れたように口にする。
エス子が信じているのは、そういった常識的な判断や利害の計算から導き出される理屈ではなく、相手から与えられた言葉であり、態度なのである。
部長がエス子に「愛している」と伝えれば、それだけが彼女の真実なのだ。
あまりにも盲目になっている。周囲が見えていない、というのは見えすぎる普人にとっては羨ましいぐらいであったが、それはそれで別の苦しみを生み出しているようだった。
周囲が見えていない人間が、アクセルを踏み込んで加速することほど、危険なものはない。このまま誰かが止めなければ、悲劇に一直線なのは間違いないだろう。
とはいえ、抱えているという殺意を阻止するにはどうしたらいいのか。
「エス子さんが立てている具体的な計画について知りませんか?」
「んー、流石のあたしでも、相手の頭の中を細かく覗き見れないのよねえ。手帳とかは持たないタイプみたいだし」
まるで手帳を持っていたら覗いていたかのような口ぶりで、普人は呆れてしまう。
「じゃあ、わかる範囲で結構なんで、エス子さんが部長さんのことをどこまで知っているのか教えてもらいたいですね。たとえば、奥さんと面識があるのかとか、部長の住所を知っているのかとか」
「会社の懇親会で、奥さんが来たことはあったわよ。でも、遠目で見たことあるぐらい。住所は知らないと思うけど……少なくとも会社の業務の範囲内では、そういう個人情報に触ったりできないわね。ただ、ホテルで部長が寝てる時とかに、こっそり免許証でも盗み見てたら、話は別だと思うけど」
ひひっ、と彼女は冗談めかして笑った。
そんなお姉さんの態度はいったん無視して、普人は思考を巡らせる。
情報を加味すると、住所などの個人情報を知っている可能性は低いと考えられる。そういったことに慣れているお姉さんならともかく、免許証を盗み見るハードルは意外と高い。免許証の保管場所が大抵は財布の中だからだ。大抵の人間は、簡単に他人に財布を触らせるほど無防備ではないし、なにより部長は間違いなく妻と別れる気はない。個人情報を愛人においそれと渡すような危険を犯すとは思えなかった。
「話を聞く限り……計画があったとしても、すぐに実行できそうな環境ではなさそうですね」
殺したい相手は自宅が活動の中心である専業主婦で、その住所がわからないとなれば、今日明日に殺人計画を実行するのは難しいだろう。
多少の猶予が見つかったとはいえ、これで完全に不安が消えたわけではない。
「でも、本気で調べようと思えば、相手の住所を特定できる可能性はゼロじゃないだろうし……」
「へえ。お兄さんならどう調べる?」
お姉さんが興味深げに尋ねてくる。この人の質問に、素直に答えて大丈夫だろうか。そんな考えがよぎるが、普人は続けた。
「普通に、相手の後をつけるとか」
「尾行ってこと?」
「そう。人間の行動はパターン化してる。仕事をしている人は特にね。数日間に渡って時間をかけて尾行をすれば、相手にも気付かれにくいだろうし」
さらに普人は、思いついた別のアイデアも述べる。
「ほかにも、相手の車に一緒に乗るような機会があるなら、ナビをチェックする。自宅の住所が設定してあるなら、ひとりになった隙に確認すればいい。あとは、理由をうまく誤魔化す自信と資金があるなら、興信所を使う手もある」
少し考えただけでも、いくつかの案が浮かんできた。エス子がその気になれば、そういった案のひとつに思い至って、やがて実行に移すことができるかもしれない。
「ひとつ聞きたいんですけど」と普人は切り出す。「お姉さんは、やっぱりエス子さんが殺人を犯すと思いますか?」
「なに、信じてないわけ?」
「そういうわけじゃないですけど……ただ、人をひとり殺そうとするだけでもハードルの高い話なのに、今は相手の居場所もわかっていない。奥さんが専業主婦で、家から出る機会が限られているなら余計にです。差し迫って、という訳じゃないなら様子見するのもひとつの手かと思って」
エス子の殺意がどの程度なのか、普人には推し量ることしかできない。話だけを聞くと、切羽詰まった状況とは言い難い。
「いいえ。あの子はなにかやる、絶対にね」
それでも彼女は言い切った。あまりにもきっぱりと断言されたので、普人もそれ以上の反論は出来なかった。
少なくともお姉さんには確信があり、彼女を納得させなければ相談は解決と見なされないのだ。
「時限爆弾みたいなものよ。もう導火線に火がついちゃってるの。時間が経てば大爆発する」
普人は思い切って、ひとつ提案する。
「それなら、どうにか二人を別れさせることはできませんか。部長、もしくはエス子さんの説得とか」
考え得る限り、それがもっとも正攻法だ。
部長への愛情と妻への殺意は裏表なのだから、愛情が消えれば殺意も消える。なによりも円満解決であるのだが。
「無理」と即座に却下された。
「即答かあ……こう、あからさまじゃなくても、エス子さんにさりげなく別の男の人をお勧めするとか、そんな感じでもいいんですけど」
「お兄さん、きっと若いわね。こういう、隠れた罪深い恋愛に他人が踏み入ると、ろくなことにならないの」
まるで知った風に言う。ある意味、踏み入っている当事者だからだろうか。
しかし、お姉さんの言い分にも一理ある。恋愛について急かされたエス子が、一刻も早く強硬手段にでる可能性は否定できない。
それになにより、お姉さんはエス子の携帯を盗み見ている。それがバレるリスクがあるのだから、間に入っていく気はないと見ていいだろう。
まったく、それを電話相談で解決しようなんて、とんでもなく虫のいい話だ。
「殺意を止める方法か……」
呟きながら、普人は頭を働かせる。
実行したいと思っている計画を、人間はどういう時に中止するだろうか。目的を見失ったとき、成功した時の利益がないと分かったとき、そもそも手段がないとき……前述の二つに関しては動かしようがない。目的は略奪婚で、それは計画が達成された時に叶うのだと、エス子は盲目的に信じ込んでいる。普人自身が直接介入できない以上、強烈な思い込みを引き剥がすのは難しい。
そして思い込みというのは、日に日に深くなっていくものだ。取り返しがつかなくなるまでに時間はあるようだが、エス子は確実にそちらの方向へ進んでいる……というのがお姉さんの見立てである。
普人はさらに思考の奥に沈んでいく。エス子本人に対してアプローチができないのならば、別の場所へ狙いを定めるのも一興ではないだろうか。
「ちょっと聞きたいんですけど……部長のメールを盗み見たことはありますか?」
当たり前のように盗み見る、という単語が出てくるのが、なんだか嫌だった。
「ないわよ。あの人、ガードが堅いのよね」
お姉さんもあっさり答える。明らかに一度は見ようと試みた人間の返事だった。
「じゃあ、もうひとつ」と、普人は聞いた。「部長に、ほかに懇意にしている女性の噂はありませんか?」
「そうね」と、お姉さんは答える。
「やっぱりいるんですね。ひょっとして……お姉さんだったり?」
「違うわよ! あんなのとデキてるなんて、考えただけでおぞましい」
「ごめんなさい、冗談です、冗談」
「それもセクハラよ、セクハラ。マナー講師も絶対そう言う」
普人は重ねて謝った。本気で嫌がっているのは声色でわかる。お姉さんは他人の恋愛話には口を挟む割に、自分に疑いの目を向けられるのは嫌いらしかった。なかなか都合のいい性格である。
「まあ、その」と、普人は話を切り替える。「奥さんがいながら浮気している人間に相手が一人だけ……なんて、あんまり考えられないから」
まずは身近な存在から、と念のためお姉さんに話を振ってみたが、彼女にその気がないのは明らかだ。
それでいて、先ほど押し黙ったのを考えれば、予想できることがひとつある。
「お姉さんの反応からすると、口説かれたことがあるんじゃないですか?」
「まあね。あのオッさん、堅物のフリして色んな相手に粉かけるから」
「女の人なら手当たり次第ってわけだ」
普人の予想通り、いやそれ以上であった。おかげで、考えていることを円滑に実行に移すことができそうだった。
「ひとつ、お姉さんに頼み事があるんですが」
「まさか部長になにか吹き込めとか、そういうこと? 仕事のこともあるし、面倒なことはやらないわよ」
お姉さんはあからさまに嫌そうな口調で言ったが、普人は安心させるような声色を作って話を続けた。
「大丈夫。お姉さんに相手をしてもらうのは、部長じゃなくエス子さんですから。それからもう一人、部長が粉かけている相手の人。誰でも良いですよ、もちろん知り合いなんですよね?」
他人のいざこざが好きなお姉さんが、接触していないはずがない。確信を持って、普人は聞いていた。
「まあね。名前は……ケー子にしておこうかしら」
「ケー子さん、ね。部長とはどんな感じ?」
「普通に愛人だと思うわよ。デキてるのは間違いないわね」
「なるほど」それから、ふと尋ねる。「……ちなみに、ケー子さんのメールは?」
「それがね、部署が違うのよ!」
まるで部署が同じだったら覗いていたかのような返答だ。
呆れつつも、普人はお姉さんにいくつかの指示を出した。彼女は相づちを打ちながら話を聞いていたが、一転して楽しげな様子が浮かんでいた。
「……できそうですか?」
「そうねえ。それぐらいなら、いいわよ」
普人の頭には、とある計画が立てられていた。エス子の殺意を薄めるための計画である。上手くいけば、結構な効果があるはずだ。
「それじゃあ、三日後の今ぐらいの時間に、また電話するわね。次の休みがその日だから……心配しないで、言われたことはちゃんとやるわよ。面白そうだし」
それじゃあね、と、やけに浮ついたお姉さんの声を最後に、電話は切れた。
普人は頭を掻きながら、受話器を置いてため息をついた。実際のところは不安だらけであったが、あとは彼女に任せるしかなかった。
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