5
普人は翁の話に静かに聞き入っていたが、相手の声が止まったのを確認すると、話を簡単にまとめてみる。
「えっと……要はその女性……ミサコさんが村ぐるみでイジメられてる、と」
「ああ。そうだ。今の状況は、あんまりにも、あんまりだ」
そうだよね、と普人は相づちを打つ。
思いのほか、深刻な相談だ。普人は頭を切り替えて、目の前の相談に集中することにした。
「引っ越しとか、できないの?」
普人はまずひとつ、思いつきを提案してみた。
たとえば学校でイジメが起きたときも、転校というのが解決策の候補として上がってくるものだ。問題から物理的に距離を置けば、一気に解決だ。
だが、翁は即答する。
「できん。彼女は今年で齢八十……夫に先立たれて独り身で、娘も息子もろくに会いに来やしない。足腰も弱くなっておるのに、引っ越しなぞ無理だろう」
「八十!」と普人は鸚鵡返しをした。
若い人はみんな出ていった、という翁の口ぶりから若年層でないことは予想していたが、それでも普人はもう二回り以上は若い、五十代ぐらいの女性を想定していた。
「……ひょっとして、ミサコさんっておじいちゃんの家族とかじゃないんだ」
さらに住まいの掃除という言葉から、ミサコは翁の身内とであるという前提を思い浮かべながら話を聞いていたが、どうやらそうではないらしい。
「違う違う。まあ、ミサコのことは子供の頃からよう知っとるがな」
役場も駐在所も丸ごと村ぐるみのイジメだと言っていた。話を聞く限り、相当小さな規模の村で起きていることのように思える。それこそ全員が顔見知りとか、親戚や身内がそこらにいてもおかしくはないだろう。
と、考えていたら、老人はさらに付け加えた。
「何より、ミサコがいなくなったら、わしの住まいの掃除はどうする?」
どうするって言われてもなあ、と普人は呆れた顔をした。表情が伝わらないところが電話の良いところだと心底思う。
意外と自己中心的な老人だ、と普人はやや印象を修正する。
そもそも、身内でもない八十歳のおばあちゃんに住まいを掃除させているのはどうなのか。相談を話しているときも度々失礼な発言があったし、それもある意味イジメになっていないか。と言いたいが、ミサコを心配している翁はまだマシなほうであることは想像がつく。普人は喉まで出かかった言葉をぐっと堪えることにした。
「あー、その、ちなみに聞きたいんだけど」ふと、思いついて尋ねる。「ミサコさんを虐めてる人たちはおいくつ?」
「シゲが八十四、ジロウが七十九、トメが……」
「ああ、もういいです。だいたい、わかりましたから」
なんということだろう、登場人物が後期高齢者ばかりだ。確かに日本は高齢化社会と言われて久しいし、話の舞台が田舎ということで予想はできた。が、実際にそうだという現実を突きつけられると、少しばかりショックでもある。いい歳をした――を飛び越えて、棺桶に片足を突っ込んでいるような老人たちが、よりによって悪質なイジメとは。
うーん、と唸って、普人はもうひとつ提案する。
「おじいちゃんは、ミサコさんを守ってあげられない?」
それは、もっとも現実的な案のひとつである。
「さっき、夫に先立たれて……って言ってたよね」
話によれば、イジメは何が原因で起きたかわからないと言う。だが、きっかけのひとつは予想がついていた。
「旦那さんが亡くなったことで独り身になったミサコさんは、イジメのターゲットとしてぴったりだったんだと思う。お子さんたちがなかなか会いに来ないっていうのも好都合だ。弱そうな人が標的になるんだよ。弱く見えるから攻撃されて、攻撃されれば攻撃されるほど、また攻撃を呼び起こす」
それでも身近に誰かがいれば、それだけでイジメや嫌がらせに対する抵抗力は生まれるはずだ。ミサコにはそれがないから狙われることになったに違いない。それならば、また守ってくれる誰かが現れれば良いのではないだろうか。
「そうは言っても、ずっとミサコについていることはできん」
「せめて、イジメが起きそうなときだけでも」
「それも無理じゃ」
しかし、翁にあっさりと拒否されてしまう。
とはいえ、翁も明らかに老人だし、住まいの掃除を人任せにしていることから鑑みれば、足腰が悪いという可能性も充分あるだろう。
そもそも、イジメっ子――いや、子という末尾はおかしいので、イジメ加害者ということにしよう。そのイジメ加害者に、翁が真正面から反論できているのであれば、最初からここに電話をかけてくるわけがない。反抗して、イジメのターゲットが翁に移るというリスクだってあり得るのだ。身内でもないのに、そのリスクがとれるかというと、難しいところだろう。
イジメを見て見ぬ振りをしてはいけない、とはいうが、実際に行動に移すには相当に勇気がいるはずだ。
普人は相手に聞こえない程度に息をついて、話題を変える。
「まあ……難しいか。駐在も役場もグルだって言うなら、なおさらだ」
「そうじゃなあ」
電話越しとはいえ、翁の声はどこか暢気に聞こえた。やはり存外に他人事だ。
しかし、提案したことをアレも嫌、コレも嫌と拒否されていけば、いつになっても話が終わらないではないか。
「ほかに良い案はないのか?」
「うーん……」
おまけに急かされて、普人は頭を働かせる。
「そもそも、イジメっていうのはさ、団結のために行われるって説もある」
「団結?」
「そう、団結」
鸚鵡返しに相づちを打つが、どちらかと言えば、普人は自分の考えをまとめるために喋っていた。
「集団の中のひとりを捧げてさ、全員でそれを攻撃する。そこには確かに、攻撃する側に団結が生まれる。攻撃している側は攻撃されない安心感があるし、他人を攻撃する罪悪感を全員で共有し、互いに正当化できる。お互いが共犯関係になることで強烈なつながりを生むんだ」
イジメという仕組みは、よくできている。
集団でひとりを攻撃すれば、そこには圧倒的な力の格差が生まれる。数というのは恐ろしいほどに強い、力の原理のひとつである。誰だって強いグループに入りたい。そのほうが利益が享受できる。そうやって強い方の数が増えていけば、さらに力は高まり、弱い者は相対的にさらに弱くなる。そのうち、弱い力が反撃したって、強い者たちに傷ひとつ与えられなくなるのだ。
「イジメは世界中のどこにでも起きる。学校、職場、地域。子供から大人まで……今回みたいに、おじいちゃんおばあちゃんたちまでもそんなことをする。だから、イジメをなくすっていう方向性は、正直、現実的ではないかも……」
イジメをなくすアイデア。もしそんなものがあったら、もうとっくに世界中からイジメが無くなっているはずだ。
今の状況で行為そのものを止めることは、相当に難しいだろう。
「だから、イジメをなくすというよりも防御を固めたかったんだけど、話を聞く限りじゃこれも無理そうだ」
一番良かったのは、やはりミサコが村から出る方法だ。しかし、これは真っ先に塞がれてしまった。
もうひとつ、誰かが間に入ることでイジメを抑制する方法。こちらも間に入れる人間がいないことが問題で、実現可能性は低い。
守ることができないのなら、こちらから反撃するしかないだろうが。
「相手の団結を乱して、攻撃性を弱める方向性に切り替えるとか?」
問題は、その方法をどうするかという点だ。
なにか反撃を加えることができれば、相手が萎縮する可能性も確かにあるが、逆にイジメが過激化することも考えられる。イチかバチかの賭けに、苦しむ八十歳のミサコをベットするのは気が引ける。
「そうだな。それか……」と普人は何気なしに言った。「攻撃を逸らす。例えば別の……」
被害者にも虐められる理由がある、という人間がときおりいるが、普人はそれは違うと考えていた。イジメの本質は加害者側の利益の享受である。被害者が選ばれるのはあくまでイジメ〝やすさ〟であって、それ自体が原因ではないのだ。
極端なことを言えば――誰でも良いのである。
原因がわからないという話だって、そもそも原因などないのかもしれない。
ならばミサコではない誰かを、生け贄に捧げることだってできるはずだ。スケープゴートを用意する。できればミサコのような、付き合いの少ない人が良い。反抗や抵抗が苦手で、少し人が良さそうな……。
そこまで考えて、ハッと正気に戻った。のめり込んで考えていたせいで、つい常識外れなところまで突っ走ってしまった。
口に出さなくて良かった、と思っていた普人だが。
「いや――それがいい!」
電話の向こうから、あっけらかんとした声が聞こえてきた。
「ひひっ、そうだ……別の人間がイジメを受ければいいんだなあ」
翁は、普人の言葉の意図を正しく汲み取ってしまったようだった。普人は慌てて制止の声をかける。
「ちょ、待って待って、おじいちゃん。そういうわけにはいかないって……別の、っていうのは別のことに気を逸らす、って意味で……」
だが翁はもう、まるで普人の声を聞いていなかった。それどころか、電話の向こうの明るく暢気な声に、次第に笑いが混じっていく。
「弱そうなやつが標的になる……そう言っていたなあ。イジメられるやつが、またイジメられる。なら、誰かひとり選んで、そいつに嫌がらせしてやればいい。嫌がらせをずっと続ける。家に糞尿でも投げてやろうか、夜中に物音を立てて悪戯でもしてやろうか。そうやってビビらせておけば、周りの人間はこう思うはず――こいつはイジメていいやつなんだ、ってなあ」
ふひひひひ、と笑い声が絶えず聞こえてくる。
なにか声をかけようと、適切な言葉を探す普人だったが、相手は矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。誰に対してでもない、独り言が受話器から漏れ聞こえる。
「いやはや、助かった。そうと決まれば早速、生け贄を誰にするか決めなければ……いや、そうじゃな、サイコロかなにかで決めよう。それでいい!」
翁はすっかり興奮している様子だった。それにしても生け贄をサイコロで決めるなんて、そんな簡単な話ではないだろうに。
どうにか話を軌道修正しなければ。そう思って普人は声をかけるが。
「おじいちゃん、少し、こっちの話を聞いて――……」
途端、電話が切れる。
「えっ、えっ……」普人は困惑していた。「マジで?」
受話器を一旦耳から離して、もう一度耳に寄せる。もう声は聞こえてこない。相手の電話番号もわからないから、かけ直すこともできない。ひょっとして、そのための黒電話だろうか。表示画面もついていない古い電話では、相手の情報はまるでわからない。
まさか――これで、解決?
普人は助けを求めるような気持ちで天麻を見た。今のやりとりをずっと見ていて、この男はどんなことを考えていたのだろうか。人を見るのが得意な普人でも、それを察することは出来なかった。相も変わらず顔に動きがない。
ただ、彼は静かに頷く。
「そうだな。合格だ」
「……ええぇ」と声を漏らす。「本気で言ってるなら、ドン引きなんですけど」
けれど、天麻は声色ひとつ変えはしなかった。
「最初に言ったはずだ。相手が納得すれば、それが問題の解決だ。たとえ真実でなくとも、道徳や倫理に反していたとしても構わない、と」
普人は諦めて受話器を置くと、肩をすくめた。
「だとしても、これはさあ……」
「別に、相手はイジメ自体をなくすことが目的ではなかった。彼にとっては、ミサコという女性を助けることが目的だった。目的は達成された」
「それはそうなんだけど」
「なら、それでいい」
「後味悪いとか、思わない?」
「私には関係のないことだ。相談者の問題が解決することが全てだ」
そう言って、天麻は立ち上がった。彼はリビングから出て、廊下の方へと向かっていくようだった。リビングと廊下の境目にはドアも仕切りもなく、一番奥に玄関らしき扉が見えた。
「ちょ、ちょっと、僕を置いてどこに行くわけ?」
「私は部屋にいる」
てっきり玄関に向かっていると思ったが、廊下に出た天麻は立ち止まって、右手で壁を叩いて見せた。普人の位置からは見えないが、どうやらそこにドアが存在しているらしかった。
「ここに私の部屋がある。また問題を解決したら、報告に来い」
それは、有無を言わせない命令口調だった。どうも、完全に上下関係ができあがってしまっている。
「ちょっと待ってよ。これからどうすればいい?」
「また電話がかかってくるだろう。同じように問題を解決しろ」
「いや、そういうことじゃなくてさあ」
ずっとここにいなければいけないのか。家には帰れないのか。洗濯機は回してあるし、昨日の買った惣菜の賞味期限は今日までなのだが。
だが、天麻はついに返事もせずにドアを開け、部屋の中へと姿を消してしまう。
ひとりになってみれば、最初に天麻が言っていたとおり、驚くほど静かな部屋だった。おかげで軽く吐いたつもりのため息が、やけに大きく聞こえる。
なんでこんなことになってしまったんだ。普人は頭を抱えて、テーブルに突っ伏すしかなかった。
……それにしても、ひとつ、不思議なことがある。
確かに、普人は天麻の目の前で電話をしていた。けれど、だからといって翁の声が聞こえるだろうか。この古い黒電話には、スマートフォンの電話のようにスピーカー機能がついているわけではない。それなのに、彼は会話の内容を事細かに把握しているようだった。ひょっとして、受話器に盗聴器が仕掛けてあるのだろうか。確認するすべは、普人にはない。
黒電話は、今は静かに佇んでいるだけだった。
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