第二章・1
陽光を全身で浴びるのは本当に気分が良いと、普人は心の底から感じていた。
山手にある住宅街は、自然が多いのも好ましい。ただし、坂道が多いのは難点だ。ようやく一息ついて、空腹が際立っている状態で坂道を歩くのは、下り坂であっても結構大変で、腹の音を聞きながら足を動かすのは余計に疲れるというものだ。
それでも、近くのコンビニに辿り着いたときの感動は、言葉にできないほど重みがあった。わずかでも日常に戻ってこれたことが、これほど有難いとは。
エビマヨのおにぎりに、チキンとカフェオレを買って、店内席に座って齧り付く。コンビニ食品のしょっぱい味付けが心地良い。普人は椅子の背もたれにもたれかかって、少し身体を弛緩させた。
あれから数十分、一向に電話は鳴らず、座って待っているだけという無為な時間をしばし過ごすことになった。気がつけば時刻は午後三時。昼食はとっていない。競馬場でビールと一緒につまみも買っておけば良かったと、激しい後悔が今更になって普人に襲いかかる。
いよいよ普人は我慢できず、立ち上がると、なるべく音を立てないようそっとリビングを抜け出した。リビングからは廊下が延びており、まっすぐ玄関につながっている。通路の右手には先ほど天麻が入っていった部屋がある。
今なら、まっすぐ玄関に向かうことができる。しかし、普人は考えていた。競馬場で先回りされていたことがもう一度、起こらないとは限らない。天麻は間違いなく部屋にいるが、ほかの仲間が近くに待機している可能性も充分にある。窓から眺めた見知らぬ住宅街。土地勘のないまま行動するのは無謀だろう。
悩んだ末に、普人は部屋の扉をノックした。
「あのー天麻さん、ちょっと相談が……」
「なんだ?」
外から声を掛けると、中から確かに返事が聞こえてくるが、ドアノブを下ろしても扉は開かなかった。中から鍵がかかっているのだ。人がドアの前に近づいてくる気配もなく、天麻にはドアを開ける意思がまるでない様子だった。
仕方なく、ドア越しに会話を続ける。
「電話、かかってこないんだけど……」
「そうだな」と、天麻はあっさり言った。「こういうものは相手次第だ」
「そりゃそうだけど」
電話がかかってくるかは相手次第。匿名の相談なら尚更である。
「でも、ずっと待ってるわけ?」
「そうだ」と相手は即答する。
困った普人は、思いつきで言ってみる。
「お腹空いたんだけど」
他人の家で失礼かと思ったが、待っている間にリビング内を少し探索させてもらった。冷蔵庫にも戸棚にもなにも入っていなかった。生活感がないとは思っていたが、まさかここまでとは。いざという時の非常食ぐらいは置いておいて欲しかった。
「ちょっと外出して、コンビニに行ってもいいかな?」
逃げる選択のリスクが大きいのなら、真っ当に許可を取る方向性に切り替えることにした。悪知恵を働かせるよりも正面からぶつかったほうが、案外うまくいくこともあると踏んでのことだった。
「……それはどうしても必要か?」
「当たり前でしょ」普人は言葉強めに訴える。「お腹空いたら頭も回らないし、仕事どころじゃないってば」
それから、少し間があって、天麻は答える。
「なら、構わない。但し、なるべくはやく戻ってくるように」
「えっ、いいんだ」
自分で提案しておいてなんだが、あっさりと許可が下りて普人は驚いた。
「食事が必要なら仕方がない」
「逃げるとは思わない?」
「逃げるつもりなら声をかけないだろう」
「わからないよ。声をかけるだけかけて、そのまま戻ってこないかも」
「その場合は連れ戻すだけだ」
天麻の回答はいつも歯切れが良く、躊躇いを一切感じさせない。すべてを断固とした事実として発言している。
おそらく、今の発言も本気だ。
普人は相手の意図や目的を改めて考えようとする。しかし、思考の足しになるようなヒントがまるで無かった。それに加えて自分の空腹が主張をしていて考えるどころではない。
「……わかった。なるべく、すぐ戻ってくる」
結局、従順な答えを返してやり過ごす。
普人はドアの前から離れて、玄関に向かった。
外に出るとやはりアパートの一階だったようで、共用の駐車場が広がっている。
真っ先にしたことは、鞄からスマートフォンを取り出したことだ。地図アプリで確認すると、やはりそれほど遠くには来ていないようだった。場所はまだ、普人の暮らすN市内である。
ただし、現在地は都市部からやや離れた郊外の住宅地であった。自然豊かな高台にあり、学校やスーパー、診療所など必要な施設がそろっており、暮らしやすそうな地域である。市の中心部にある普人の自宅からは、地下鉄ならば十分程の場所である。
アパート名は白鷺アパートというらしい。部屋は一○一号室。部屋の中も綺麗だと思っていたが、外から眺めると築年数がそれほど経っていない築浅物件という事がよくわかる。
それから、そのまま地図アプリでコンビニを検索すると、すぐに近隣にある五、六件の店舗がポップアップしてきた。一番近く、徒歩三分程度の大手コンビニチェーンにやってきたのが、まさに今であった。
脂の滴るチキンをかじって、甘いカフェオレで流し込む。そうやって軽食を済ませながら、普人はやはり考えを巡らせていた。
これから、どうする。随分と妙なことに巻き込まれてしまった。このまま黙って自宅に戻るという手もあるし、近所の交番に駆け込むという手もある。
しかし、たとえ交番に駆け込んだとして、どういう展開が想像できるだろうか。このわけのわからない話を伝えて、警官が本気で傾聴してくれるか。否、そんなはずはない。今現在、普人はなにか具体的な被害に遭っているわけではないからだ。
自覚だけなら、強烈な被害を受けたと思っている。さらわれて見知らぬ場所に連れてこられただけで、ひどく疲れているし、状況だって理解もできていない。
しかし普人は、暴力を受けたわけでもないし、盗まれた物もない。今だって自由に行動できている。空腹に迫られて外出したが、逆に悪手だったかもしれないと思う。監禁されていた状態で通報したならばまだしも、今の自由が保障されている環境で、警察がどれだけ危機感を持って対応してくれるのか。
よくわからない仕事を借金を理由に強要されているが、これもまた、仕事自体は違法行為にはほど遠い内容だ。借金に関しても口約束であって、証明できるものもなにもない。賭博で出来たと言えば、違法行為で自分が捕まるリスクすらある。
警察の前で、いったいなにをどう証明すれば良いのか、普人には道筋を立てることができないでいた。
このまま自宅にも戻らず、どこかへ身を隠すのはどうか。幸いなことに金はある。旅行がてら、一ヶ月ぐらいホテルに泊まるのだ。
いや、これもやはり無謀な案に思えた。普人の個人情報はなにからなにまで筒抜けだった。ならば、実家の住所だってわかっているはずだ。実家を訪問されるのは、なんとしても避けたい。
なにをどうしようとも、あまりにも面倒なことになる。
そうして考えているうちに、買った物すべてを食べ終えてしまい、普人は渋々席から立ち上がった。
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