結局、普人はアパートに戻ってきた。玄関を開けて、ついただいまと言おうとして口を閉じた。慣れてはいけないと心の中で自分に言い聞かす。

 玄関に入ってすぐ、電話が鳴っていることに気がつく。例の黒電話の音だった。

「あ、やば」

 普人は慌てて靴を脱いで、リビングに駆け出して行った。天麻は部屋にいるはずなのに、一向に姿を現さない。あくまでも、電話に出るのは普人の仕事だというスタンスを崩すつもりはないらしい。

 黒電話のベルの音というのは、いつ聞いても急かされるような音がする。スマホの着信音もあまり好きではなかったが、この音よりは幾分かマシだと思う。

「もしもーし、こちら電話相談室」

 腹立たしい気持ちをぐっと抑えつけながら受話器をとると、普人はその場で適当につけた名称を口にした。ただ、もしもしと言って電話に出るだけでは、少し味気ないだろう。

「ねえちょっとぉ、出るの、遅いわよ」

 相手の女は、電話に出るなりいきなり文句を言った。あまりにも馴れ馴れしい口調で、酒でも飲んでいるのかと訝しんでしまう。普人も先ほどまでビール片手だったわけだから、人のことは言えないのだが。それに、電話に出るのが遅かったのは間違いない。外出中なのはわかっているのだから、天麻が代わりに電話を取ればいいだけのはずなのに。やはり抑えつけた気持ちが少しだけ噴出する。

 それにしても、いったい今度はどんな内容の話なんだろうか。

「すみません、お待たせしました」

「ま、いいわ」

 普人が謝罪を述べると、女性はあっけらかんと言った。

「困ってること、解決してくれんでしょ?」

「はい。一応、そうなってます」

「なーんか、頼りないわねえ。そんなことで大丈夫なの?」

「それは、相談内容によりますね」

「大丈夫なのぉ?」と不満げな女の声。

 少しやりとりしただけでも、随分と自己主張が激しいタイプのように思えたが、相談という特性上、隠し事が多い相手よりはずっと良いと普人は考えていた。電話越しの状況では、相手の顔や様子はわからないから、声と言葉遣いだけで判断するしかない。

「もちろん、力は尽くしますよ。こちとら、仕事なので」

 普人は、力強く答えた。そうするしかなかった。しかもわけのわからない相手に拉致され、多額の借金返済がかかっているときている。

「そう、じゃ、期待しておくわ」

 安心したのか、彼女の声は一転、上機嫌になる。

 それから、女は少し溜めて言った。いよいよ、本題であった。

「実はね――会社の同僚が、殺人計画を立てているみたいなの」

 対して普人は即答した。

「警察に行ってもらえませんか、それ」

 こんな相談に返す言葉はこれしか思いつかない。

 殺人計画。普人が扱うにしては、あまりにも内容が重すぎる。前回の相談内容も深刻であったが、緊急度がより高い。一般人が扱う話ではないだろう。

 けれど、やはりと言うかなんと言うか、女からは予想通りの答えが返ってくる。

「行けるわけないでしょう。警察なんて行ったら、オオゴトになるじゃない。会社にも警察が来たりしたら、面倒くさいわよ」

「じゃあ、会社に相談できないんですか?」

「だからぁ、会社の人にも聞かれると面倒なの。こんな事に巻き込まれたら、あたしが居づらくなるじゃない?」

 そう、そもそも警察に相談するような相手なら、ここに電話などしてこない。この電話にかけてくる相手は弱者などと言っていたが、天麻はいったいどういった層に電話番号を教えているのか。

 そうは思うものの、普人は同時に相手の中に自分の姿を見ていた。警察に話をするのは面倒だと考え、結局このアパートに戻ってきた自分の姿である。その点で相手を責めることは、自分を攻撃することと同じだった。

 普人は、念を押すように喋った。

「大事にはしたくない。でも、計画は阻止したい……っていうことでいいですか?」

「そういうことね」

 しかし、殺人計画の阻止となると、まさしく一大事だ。

 普人は取り直して、聞き取りをはじめる。

「ちなみに、お仕事は何されてるんです?」

「べつに、普通の会社員。事務の仕事よ。パソコンに数字を打ち込んだり、電話対応したり、請求書作ったり。ちなみに、今日は休み」

 特段、嘘をついていたり誤魔化しているようには感じられない。名乗らない相手だから、経歴に嘘を混ぜる可能性も考えていたが杞憂だったようだ。特殊な仕事であれば話が変わってくるが、どうやらそうではないらしい。

「それじゃあ、……お姉さん、詳しく話を聞かせてください」

「ん?」

 普人の言葉に、相手は急に流れを止めた。

「ねえ、いま……おばさんって言おうとしなかった?」

「えっ?」

 普人は少々、戸惑った。実際、心の中ではそう思っていたからだ。声質や喋り方から、妙齢の雰囲気を感じ取っていた。少なくとも四十は超えているんじゃないだろうか。

 言葉を口に出していないにもかかわらずバレたので、流石の普人もぎょっとする。

「そういうの、セクハラよ、セクハラ。この前、ビジネス講習に行ってきたんだけど、マナー講師がそう言ってたわ」

「気のせいですよ」

 はっきりと言葉にしてはいない。この状況では、あくまでも相手の推測に過ぎないので、うやむやにした。内心でなにを考えるか、それは自由なはずで、誰にも文句など言われる謂れなどないはずだ。

 大事な話に入る前に、ひとつだけ確認しておく。

「ところで、お姉さんはオッケーなんですか?」

「お姉さん……」女はちょっと考えて答えた。「それなら良いけど」

 女の声は、明らかに上機嫌になっている。やっぱり妙齢なのだな、と普人は思った。

 合意を得たところで、普人は心の中で何度もお姉さん、お姉さん、と繰り返した。うっかり呼び間違えしないように、心の中に刻み込む。

「じゃあ、話し始めるわね」とお姉さんはあっさり言った。

 そうして彼女は、事のあらましを語り始める。

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