「次に勝つのは、七番。ついでに二着は十二で、三着は大外の十六だ」

「ほう」と男は感心したように言う。

 今更、馬を選んだ理由まで詳しく説明しようとは思わなかった。相手も聞いてこない。二人は、レースが始まるまでの時間を無言で過ごした。

 電光掲示板のパドック中継を見て、普人は自分の予想を改めて堅いと踏んでいた。七番は首を振ってチャカチャカと歩いている。流れる場内解説も難色を示している。しかし、この馬はいつもこんな様子だ。ここ最近の戦績も振るわないことから、人気はずるずると落ちていっているが、普人は内心ではほくそ笑んでいた。

 むらっ気のある馬であった。走るときと走らないときの差が激しい。しかし、総合的に加味して、今回は走ると、普人は判断していた。尻尾の振り方や、足の動かし方で調子が良いことを、普人は理解していた。今の入れ込みだって、おそらく返し馬の時に抜けるはずだ。

 絶対に、勝てるレースだ。普人は確信していた。

 やがて本馬場入場が始まり、ファンファーレが鳴り響いて、レース開始が刻一刻と近づいてくる。

 全馬がスムーズにゲートに収まって、いよいよスタートしたその瞬間。

「ああっと、落馬です!」場内実況が叫んだ。「――七番が落馬!」

 途端に周囲がざわめいたが、普人はひとり静かに青ざめていた。

「……嘘だろ」

 スタート直後の、騎手の落馬。馬は躓いた様子もなかったのに、騎手だけがするりと落ちたように見えた。地面に落ちた騎手はすぐに立ち上がって、何が何だかわからないと言った様子で首を傾げていた。

「馬も騎手も、どう見ても調子は良かったはず!」

 普人は悲鳴交じりに叫んだが、レースは止まらず進んでいく。

「過去のレースでもゲートの出に一回も問題はないし、騎手だってベテランだ。確かに、競馬に絶対はない。だからって、あの落ち方はないでしょ!」

 やがて、馬群は観覧席前の直線へと向かってくる。

 空馬になった栗毛が先頭でゴール板の前を駆け抜けたが、当然ながら騎手が乗ってなければ意味がない。二着馬、三着馬も、普人の予想していた相手が順調に入着していた。

 普人は、おそるおそる天麻を見やった。

「……これはさ、どう考えてもノーカウントでしょ」

「いや。君の負けだ」

 彼は断言した。その事実を告げる瞳は冷酷で、普人に有無を言わせないという態度が全身から滲み出ていた。

「最初に言ったとおり、これは〝賭け〟だ。勝ち負けがある。負けた方が金を払う」

 天麻は今更ながら説明した。しかし、言っていることは真っ当だ。賭けという表現を用いた以上、負けた方にもペナルティがあるのは当然だろう。

「五百万円、君が払う番だな」

「ムリムリ、絶対にムリ」

 普人は即答する。今の馬券が外れたせいで、今日の勝ち分は全額綺麗さっぱり無くなってしまっていた。

 正直に言えば、金はある。保有している株を現金に換えれば、五百万円ぐらいはすぐに用意ができるだろう。

 だが、本当にこんなことで金を払う?

 まさか、そんなあほらしい話があってたまるか。保有している株は、どれもこれから上がると踏んでいる。こんな風に手放すなんて考えられない。

 普人は鞄の中から百万円が入った封筒をとりだして、ついに男に突き返す。

「これじゃあ、足りない」と、天麻はそう言いながら受け取った。

「付き合いきれないよ。全部なかったことにして。そもそも、貴方がどこの誰かも知らないのに、本気でこんなこと付き合うわけないだろ?」

 普人は立ち上がって、そそくさと逃げだした。先ほどから、いざというときのために何度も逃げ方をシミュレーションしていたのだが、概ね想定通りに動くことが出来た。人混みの間をすり抜けて、早足で入り口へと向かう。後ろを振り返るが、追いかけてきている様子はない。

 入り口を出たところで、少し速度を緩めて、息をつく。しかし。

「待て」

 正面から声が聞こえて、普人はぎょっとした。

 天麻が目の前に立っている。

「嘘だろ?」

 どうやら先回りされていたらしかった。先回りなんて、どうやって……と一瞬考えたが、すぐそれどころではないと思い直す。

 座っていたからわからなかったが、天麻の方が背が高く、体格が良い。冷たく無表情な顔つきと相まって、正面に立たれると独特の威圧感があった。

 前が塞がれている。普人は今更ながら、ろくに運動していなかったことを嘆いた。仕事を辞めてからというもの、出かける先は大抵競馬場、片手にはビールの日々だった。真正面からぶつかって、勝てる見込みは薄そうだ。

「このまま逃がすわけには行かない。君には借金を返してもらう」

 だからといって、そう言われて、はいと従うわけがない。

 前に行けなければ、後ろに下がれば良いだけだ。人混みに混じってどこかに隠れ、ほとぼりが冷めるまで待つ。今の普人にはその選択肢しかない。

 思いっきり振り返ったそのとき、普人の足下がやけにふらついた。それだけではない、視界も大きくぐらついて、思わず倒れそうになる。

「え……なに…………あ、あれ?」

 なんとか踏ん張ったが、声もうまく出ない。

 ひょっとしてアルコールのせいだろうか。色々あった緊張とショックが、アルコールと混じって悪さをしているとか。

 もしくは――気付かないうちに、なにか仕込まれたか。

 周囲の誰かが、それこそ警備員などが異変に気付いてくれるのを祈ったが、不思議なことに誰も普人たちに注目していない。

 ――こんなことってある?

 なにか喋ろうとするが、ろれつが回らない。めまいがして、歩きながら自分の足がふらついているのがわかる。

 ぼんやりとにじむ視界は、絶えずに動いていて、自分がどこかへ向かっていることだけはわかった。感覚がなくなっていて、自分で歩いているのか、誰かに連れて行かれているのかの判断もできない。しかし、おそらく、後者であろう。

 行き着いた先は駐車場に駐めてあった、いかにもといった雰囲気の黒いセダンの前だった。ご丁寧に窓ガラスは暗くなっていて、中が覗けないようになっている。普人は車の後部座席に吸い込まれるように乗ることになった。顔になにか被せられた。どうやら目隠しらしい。

 なにか――とんでもないことになってしまった。なにがなんだかわからないまま意識を失った普人を乗せて、車は発進していった。


 ……そういったことがあって今に至る。まったくおかしな一日であるが、残念ながら、その日は異常なまま継続していた。

 目の前には急かすように鳴り響いている黒電話と、まったく微動だにしない天麻の姿がある。彼が自分で電話に出る、という気は一切合切ないらしい。

 普人は、どうしようもなくなって、思い切り受話器を掴んだ。

「もしもーし!」

 半ばやけくそな声で応答すると、電話の向こうからは意外な声が聞こえてくる。

「もしもし! もしもし!」

 何度も大きな声で呼びかける相手の声は、明らかに老人のものだった。しわがれた男性の声が耳元で響く。

「大丈夫、聞こえてますよ!」

「聞こえとるんか!」

 態度もそうだが、しゃべり口調も老人のそれだ。田舎訛りのある古くさい喋りである。あまりにあからさまなので演技かとも思ったが、老化している声というものは独特で、聞いているほうは案外わかるものだ。電話の向こうにいるのは、間違いなく老人であろう。それも、結構な高齢だと思われる。

「聞こえてます、聞こえてます」

「そうか、聞こえとるか」

 同じやりとりを繰り返すうちに、ようやく相手の声のボリュームが下がってきた。

 ひょっとして、これは福祉の仕事だろうか。

 確かに、弱者からの相談、と言われていて、高齢者から電話がかかってくるのは納得のいく話ではある。しかし事の流れから考えて、てっきり犯罪の補佐とか、詐欺の窓口をやらされるのではないかと踏んでいたので、やや拍子抜けしていた。

 普人はチラリと向かいの天麻を見た。天麻の方はというと、じっと普人を見据えている。見定めていると言ったほうが正しいか。口は真一文字に結ばれていて、アドバイスは期待できそうにない。新入りに教育もない仕事はろくな物じゃないと思うが、電話の最中である以上文句も言えなかった。

「おじいちゃん、相談があって電話したんだよね」

「おう、そう、そう。わしはな、ちょっち、困ってることがあっての」

 老人は名乗らない。天麻も名前を聞けと指示を出すこともなかった。こういうときは余計なことはしないに限る。

 普人は心の中で相手を『翁』と名付けた。しわだらけで白髪、痩せぎすの老人の姿が普人の脳内には浮かんでいた。

「はい。じゃあ承りますね」

 言葉遣いだけは丁寧に、普人は答えた。

 いったい、どんな話が飛び出してくるのだろうか。そんなことを考えていると、翁はゆっくりと間延びした声で、語り始めた。

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