平日、午前十時の地方競馬場。人の姿はまばらだが閑散と言うほどでもなかった。むしろ時間帯を考えれば来場客は多いぐらいだ。昔からの常連らしい中年や老人の姿のほかに、昨今の競馬ブームのおかげか若者の姿も少なくない。

 普人も、競馬場に訪れる若者のひとりであった。大学を卒業し、今は親元を離れてひとり暮らしをしている。親には会社勤めと伝えてあるが、実際は無職だ。正確に言えば、大学卒業後に入社した会社を辞めてから、退職したことを伝えてないだけである。

 パドックで周回している七頭の馬を、缶ビール片手にのんびりと眺める。ほろ酔い気分だったが、頭の中ではいろいろと予想を巡らせていた。

 人気になっている二番は最初から消しだった。揉まれたり砂をかぶったりすると嫌がる血統で、内枠に入ったのは明らかに不安要素だ。有力だと思っていた三番は、前回のレースでは落ち着いていたはずだが、今日は随分と頭を振って入れ込んでいる。

 七頭立てで少頭数のレースだ。オッズはどれも低めである。買い目はどうする。手広く買えばトリガミするのは目に見えている。本来なら三着でも支払われる複勝が、二着払いまでになるところも少頭数の嫌なところだ。

 考えていると、それぞれの勝負服に身を包んだ騎手たちが現れる。騎手たちは馬に跨がって、助手に引かれながらそのままパドックを回る。

 ひとりの騎手が、軽く馬の首をなでていた。

「お」と、普人は小さく声を出した。

 じっと騎手を見つめる。首をなでる手の、指先ひとつの機微まで見逃さない。そうして、騎手はわずかに自分の首を動かした。おそらく、本人も自身の動作に気付いてはいないだろう。

 だが、三番を見た。ゴーグルが視線を隠しているが、あの動きは間違いない。

 あれは、やる気だな。馬番は四。普人はすぐさま、予想を立て直した。馬たちがパドックから出ていくのにあわせて、普人も観覧席に戻った。

 平日の昼間から、競馬場でビールを飲みながら発走を待つのは至福の時間だ。春先でまだ冷たい風が吹いているとはいえ、アルコールの助けがあれば青空の下でも身体が温かい。

 いよいよレースの時間であった。スタートした馬たちがコーナーを回って、最後の直線へ向かってくる。ゴール板の前では大声が響いていた。

「差せ、差せ!」

「いけーっ!」

 ゴール板前を陣取っている大半が、後続の馬が先頭を追い越すことを望んでいた。

「残せ、残せ、残せ……!」

 小さく、しかし強くそう呟いているのは普人だけだ。馬群の足音にかき消されるほどの声量だったが、声色には確信が乗っていた。

 足音を響かせながら、ゴール板の前を馬群が駆け抜けていく。

 かくして結果は、最終コーナーで先頭を切っていた馬を、後続の誰もが追い越せずに終わった。周囲がうなだれるなかで、普人だけは小さくガッツポーズを決めていた。

「一着の四番って誰だよー、くそ」

「げ、最低人気じゃん」

「荒れたなあ。まあ、少頭数だったしな……」

 しばらくして、掲示板に着順、そして配当が表示される。少頭数ということで穴馬でも単勝のオッズは三十倍強だった。しかしそれは、一万円を賭けていれば三十万円を超えて戻ってくるということだ。それを、普人は五万円買っていた。レースタイムはおよそ一分半。それで稼げたのだから十分な金額だ。もちろん、これだけ大きな額となると課税対象になるので、確定申告だけは忘れないようにしなければならない。そういったことを誤魔化そうとする普人ではなかった。

 観覧席に腰掛けたまま、電光掲示板を眺める。映像は、次のレースのパドック中継に切り替わった。場内実況による解説の声が流れてくるが、普人は次のレースは賭けず、見に徹する予定だった。

「あー、ビールがうまい……」

 満足げにそう言って、一口呷る。競馬で勝った金で飲むビールであればなおさらだ。

 会社を退職し、無職になってどうやって金を稼ぐか。普人が行き着いた先が競馬であった。ギャンブラーを職業にするなど正気の沙汰ではないが、普人にはちょっとした自信があった。

 昔から、他人より見る目がある。見る目、というがもちろん耳も使うし、肌感覚的な部分もあった。他の人が――いや、本人すら気がつかない人間のちょっとした動作に、普人は気がつくことができたのだった。

 ふと、隣からコーヒーの香りが流れてきて、普人はぎょっとする。誰かが隣の席にやってきたのだった。

 レースに熱中している人間たちは、こぞってパドックへ向かっていた。観覧席に残っている人は、さらにまばらになっている。空席はそこらにあるにも関わらず、その男はわざわざ普人の隣を選んだのだ。いったいなにを考えているのかわからないが、こういう人間は時折いる。絶対に自分とは合わないタイプだと普人は思った。隣の席に競馬新聞でも置いておけば良かったと、今更ながらに後悔する。

 ――絶対に、めんどくさい男だ。普人は心の中でそう呟いた。

 売店のコーヒーを片手に、男はチラリとこちらを見やったので、同じくチラ見していた普人と視線がかち合った。まるで見覚えのない青年であった。年齢は普人と同じぐらいに見える若者だったが、Tシャツにジーンズ姿というラフな格好の普人と違い、相手は高級感のある黒のスーツに薄手のコートという、上品な出で立ちだった。馬主の関係者だろうかと、初見では考えた。

 それにしても、青年は随分と端正な顔立ちをしている。どこか冷たい表情をしているのが、やけに印象的だった。これだけの男なら一度会っていれば嫌でも覚えているはずだが、やはり普人の記憶にはない。

 この男こそが、後に天麻と名乗る男である。

 妙に嫌な予感がして、普人はトイレに行く振りをして立ち上がろうと思った。このとき成功していれば、普人のその後の運命も変わっていたはずだろうが。

「さっきのレース」と、隣の彼がよく通る声で言った。

 有無を言わせない雰囲気で、普人は完全に席を替わるタイミングを失っていた。

「ジョッキーがうまく立ち回ったと思わないか?」

 彼――天麻は明らかに普人に話しかけている。はっきりと普人を見て、喋って、それから返事を待っている。鋭い視線に射貫かれるのは居心地が悪い。

「えっと……」威圧感に負けて、普人は適当に答えた。「ベテラン騎手だね。先行馬だし前目につけるとは思ってたけど、まさか逃げるとは思わなかった。おかげで、競馬新聞の展開予想とは全然違う感じだったなあ」

 普人は適当に喋った。もとより競馬新聞の展開予想など当てにしていない。普人にとって、競馬新聞でもっとも重要視するのは厩舎のコメントだ。他人の予想を当てにするより、自分で情報を精査して予想を立てる方が肌に合っていた。

 対して、天麻は競馬新聞も馬券購入のためのマークシートも持っていない。片手のコーヒーだけだ。本当に競馬をやりに来ている人間なのかと、普人は訝しんだ。

 しかし、彼はつらつらとレースについての見解を述べた。

「四番が異例の逃げを打ったことで、あおりを受けた三番が入れ込んで内に寄った。その時点で揉まれ弱い二番は終わりだ。そのまま先頭をとった四番が、ペースを握って自分の有利な形にレースを作った……結局、四番は逃げても最後まで足が残っていたし、後方の差し足でも追いつけなかった」

 驚くことに、男の述べた解説は、普人が事前にしていた予想と全く同じだった。まるで心を読まれたような気がしてぞっとする。馬券の払い戻し金額が大きかっただけに、なおさら警戒を強める。馬券購入は場内の販売機ではなく、スマートフォンのアプリで済ませているから、知られているということはないはずなのだが、妙な緊張感が漂っていた。

「ジョッキーが逃げを打つことがわかれば、勝てたレースだ。そう思わないか?」

「あはは」と乾いた笑い声を出す。「人の考えてることがわかれば……の話でしょ。そう簡単にはいかないよ」

 競馬場にいると、見ず知らずの人間に声をかけられることは時たまある。みんな熱くなっているから、話したがりの中年のおじさんに声をかけられた経験は、一度や二度ではない。けれど、これは明らかに雰囲気が違う。

 普人は冷静を装って、話題を変える。

「えーっと、どこかで会ったことありましたっけ?」

「いや」と、天麻は顔色も変えず平然と言った。「初めまして、だな」

「ああ、そう」

 普人は困惑しながらそう答えたが、すぐに明るい声を作った。

「その様子だと、お兄さんは馬券、当たった感じ?」矢継ぎ早に会話を続ける。「いいね、大穴だったよなあ。羨ましいよ。そのお金でなんか買ったりするの?」

 自分のことを聞かれるぐらいなら、相手に質問して時間を潰した方が良い。そう考えてのことだったが、天麻はこちらからの問いかけにはなにも答えず、話を続けた。

「次のレース……私とひとつ賭けてみないか?」

「いやー、僕は次のレースは見で、やる予定は……」

 曖昧に答えるが、青年は普人の声に覆い被せて告げた。

「次のレースで君が一着を的中させたら、百万円を渡す」

「――は?」

 普人は素っ頓狂にそう言った。

 天麻は懐から茶封筒を取り出すと、口を少し開けて普人に向けた。中には分厚い札束が顔をのぞかせている。

 いきなりのことに、普人は冷や汗をかいた。こうなってくると、体内のアルコールはどこかに消えてしまったようだった。今までのほろ酔い気分はどこへやら、警戒心から否応なしに頭が回転する。

「どうだ、悪い話じゃないだろう」

「いやいや、それ、お兄さんになんの得があるわけ? だいたい、そこまで予想できるなら、自分で馬券買ったらいいのに」

「ただの道楽だ」

 そう言って、男はコートの懐に分厚い封筒をしまい込んだ。

「羨ましいね」と、普人は嫌みったらしく言った。

 普人にとっては競馬は生業である。確かに競馬はエキサイティングで面白みもあるし、働く人よりは余程楽をしている自覚もある。けれど、誰がなんと言おうと普人が生活していくには、これしかなかったのだ。

 それがこの男は、道楽だと言って普人に金を見せつけている。むっとして、反抗してやりたい気持ちがあったのは事実であった。

 だが、冷静に思考する部分も残っている。いま、あまりにもおかしな話になってやしないか。

 いったいこの男はなんなのか――少し想像を働かせる。

 例えば、動画配信者。最近は一般人でも気軽に動画をアップロードできるし、素人を巻き込んで目立つことをしようと画策する輩も多い。どこかでカメラが回っているのではないかと周囲を伺うが、観覧席は静かなものだった。

 しかし、配信者ならまだマシなほうで、いわゆる反社会勢力の可能性だってある。大金をちらつかせてなにかを狙っているのかもしれない。

 一番恐ろしいのは犯罪に巻き込まれることだ。

 たとえば、資金洗浄。この茶封筒に入っているのは悪い金だ。汚い金、人に知られると困る金である。勝負に勝って普人がそれを手に入れる。普人はそれを使ってさらに競馬で金を増やす。金が増えたところで、男が出資した分の金を返せと脅しをかける。ヤクザの手口である。いったん、第三者を経由した金はすっかり綺麗になっているという寸法だ。

 どうだろう。可能性は低いが、普人が競馬で荒稼ぎをしていることを知っているとするなら、あり得なくはない話だ。しかし不思議なのは、おそらくこの男にも、普人と同じく他人の動きが見えている――もしくは同等のなにかがあるはずだ。人に頼まなくたって自分でいい馬券を狙えるはずだ。券売機に通せば、金は綺麗になって戻ってくる。

 可能性の低い話に当てはめなければならないほどに、天麻の行動は奇妙であった。

 なんにしても、ろくなことにならないのは目に見えている。

「いやー、僕はちょっと、その、用事が……」

 電光掲示板のパドック中継は終わりを迎え、本馬場入場の時間だ。馬たちが続々とコース内へと進入してくる。

 どうにか逃げだそうと画策していた普人だが、一般客が続々と観覧席に戻ってくる最中であった。この人の流れのなか、どう動けばうまく逃げ出せるだろうか。

「あの八番がいいんじゃないか。圧倒的な一番人気だ」

 天麻がそう言ったので、普人はちらりと入場してくる馬を見やった。

「あー、中央からの移籍馬だね」

 八番は中央競馬から地方へ移籍してきた馬だった。のびのびと走っており、パドック中継で見るよりも調子が良さそうに思える。

「元々は一勝クラスで、地方ではBクラスに入った。過去のレースをみても五着以内での決着が多くて、一見すると悪くないように見えるよね。新馬戦では、後の重賞馬の二着につけてて素質も抜群だ。本来、これぐらいの馬ならAクラスでもおかしくないし、この中なら実績は堅いんだけど……まあ、飛ぶよな、これは」

 飛ぶ、というのは一番人気がすっ飛ぶ、という意味である。どれだけ調子が良くても、普人にはこの馬が勝てるとは思えなかった。

「ほう」と、男は感心したように言った。「なぜ?」

「ああ、その……」

 しまった。馬の姿を見て、つい話し込んでしまった。ここまで話して切り上げるのもばつが悪い気がして、普人は一応続ける。

「……馬の性格。相手の馬に合わせて走る癖がある。強い相手にはそれなりに強い走りができるし、逆に弱い相手でもそれに合わせてしまう。どんなレースでも成績が悪くないって言うのは、そういうこと。馬の機嫌も良さそうだし、今回もその悪癖が出ると思う。実力が抜きん出てるのは確かだから、僕なら二着固定で買うかな。でも、一着にはならない」

「じゃあ一着はどれだ?」

「五番の芦毛。二番人気のやつ。叩くと調子が上がるタイプで、今回は叩き三戦目で上乗せがある。末脚が利くから、最後の直線で差すと思う」

 結局、最後まで予想を述べてしまった。

「なら、それで決まりだ」と、天麻は言った。

「待って、今ので参加ってこと?」

 普人は、慌てて天麻を見た。

「そうだとも。君は予想を述べた。それで充分だろう?」

「ちょっと待ってよ。そんな怪しいことには付き合えないって」

 逃げ出すべきか、どうするか。普人は周囲を伺って、そして動けないでいた。そうしているうちに、発送時間が刻々と迫ってくる。

 ファンファーレに続きゲートが開いて、向こう正面を馬たちが走っている。それからの展開は概ね普人の話した通りだった。逃げを図った二番と、例の八番が先頭で並んで直線を走っていたが、八番はなかなか末脚が発揮されない。二番の速度に合わせて走っているのだ。そこに芦毛の馬体が追い込みをかけ、ほかの馬をどんどん追い抜いていく。また、それに合わせて八番もスピードを上げるも、ゴール板までに五番に追いつくことは出来なかった。

 結果としては一番人気と二番人気の決着なので、どの買い目でも払戻金額は低めであった。おまけに、三着は逃げ残りを図った二番と内から追い込んできた一番が写真判定までもつれ込んだ。

 やっぱりこのレースは見物に徹して正解だったと、普人は思う。

「当たりだな」

 隣で天麻がそう言った。

 彼は封筒をもう一度懐から取り出すと、隣の普人に投げるようにして渡す。受け取るしかなかったが、普人は硬直した。

「いや、こんなの貰えないって……ほら、その、贈与税とかいろいろあるでしょ?」

 そもそも、この程度のやりとりでも違法賭博になるのではないか。ばれたら警察にお世話になってしまうだろう。

 封筒ごと突き返そうと思ったが、天麻の態度を見れば受け取らないだろうことはすぐにわかった。彼は足を組んで、まっすぐダートコースを見据え、コーヒーを口に運んでいる。そもそも、もうこちらを見ていないのだ。投げて返せば、誰も受け取らない封筒は地面に落ちて、一万円札が散らばる。そうなれば、嫌でも注目を集めてしまうだろう。

「約束だ、君は賭けに勝った」

「変なお金じゃないよね?」

「安心するといい。まったく問題ない」

 普人は封筒をじろじろと眺めた。いやらしい気がするが、封筒の口を開けて中身をのぞき込む。それは確かに一万円札の束で、束の間が新聞紙になっているとか、そういった仕掛けもなにもなかった。

「こんな大金持つと、逆に安心なんてできないんだけど……」

 眉をひそめながら、普人はきょろきょろと周囲を見た。レース直後と言うだけあって、人の行き来が激しい。

 封筒を手で持っているのは心許なく、普人は渋々と言った様子で自分の鞄の中にそれを放り込んだ。どうせ返しても受け取らないだろう。とりあえず、置いておくだけだ。

 横目で普人の一連の動きを確認して、天麻はさらに提案をする。

「次のレースは……そうだな、五百万でどうだ?」

「お兄さん……本気?」

「ああ、本気だとも」彼は平然と言って見せた。

 普人は渋い顔をして、電光掲示板を見つめていた。馬体重に続き、次のレースのパドックの様子が映し出される。

 もともと、普人は次のレースのために競馬場まで足を運んでいた。逃げ出すのを躊躇っていたのはそのせいでもある。いったんここで逃げ出しても、同じ競馬場にいる以上、また鉢合わせする可能性は高い。

 次のレースは、普人にとって今日の勝負レースだ。

 自信を超えて、確信ともいえる予想があった。しかも、かなりの高配当になると踏んでいる。そうなると、どうしても直でレースを見なければ気が済まない。

「……わかった」と、考えた末に頷く。「でも、僕は次で上がりだ。それ以上やりたいなら他の人を誘ってくれ」

「それでかまわない」

 怪しい話なのは確かだが、相手がどこの誰なのかわからない状況だ。むしろ、こんな大金で賭けを誘ってくるなんて、綺麗な背景の人間ではないだろう。

 ならば、ここで合意のもと勝ち逃げを図ることが、もっともこの状況から脱出する成功率が高い気がしていた。予想に自信はあったし、金だって貰えるのなら貰っておくのも悪くない。

 普人のこのときの判断に、欲がなかったといえば嘘になる。なによりも、この男の訳のわからない態度に腹が立っていた。男の鼻を明かして、金をふんだくって帰ってやろうと意気込んでいたのだ。

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