第5話
翌日。
うまく眠れなかったはずなのに、目覚めは驚くほどよかった。何の抵抗もなくすっと上半身を持ち上げることができた。そのまま洗面所に向かい、泥人間の顔を洗った。鏡に映った僕は、死んだような目をしていた。どうして僕が泥沼の近くで死んでしまった守人の死体の方ではなく、偶然によって生まれた泥人間側に生まれてしまったのだろうと思った。嘆いたわけではなく、本当に疑問に思ったのだ。僕の方が死体に適任のような気がした。まぁ、僕が生まれなければ全部解決するんだろうけど。
そういえば、どうして守人は僕が生まれてしまった日、山に登っていたんだろう。
記憶が、うまくつながらなかった。
家の扉を開いて、閉じる。
それだけの動作で、僕の身体は鉛のように重たくなった。
分厚い雲が空を覆っていて、太陽の光が僕の肌に届くことはなかった。湿気の強い空気が僕の肺に流れ込んで、栄養を吸い取っているみたいだった。息を吸ってもすっても、吸った気にならなかった。そのまま田んぼの中に吸い込まれてしまいそうだった。蜜乃があの日、自転車で田んぼの中に落ちた気持ちがわかった気がした。
電車に揺られて、駅を降りて、同じ制服を着た生徒の群れに入って。
学校につく。上靴に履き替え、階段を上る。
扉の前に立つ。
あの日、後ろ指を刺されたことを思い出す。
乱れた呼吸を整えて、僕は扉を開けた。
「おはよー」
「おはよー」
挨拶が返ってきたことに、安堵する。毛穴から抜けていった体温が戻っていくような気がした。
「昨日守人なにしてたんだよ。クラスLINEめっちゃ盛り上がってたろ」
「スマホ田んぼに落っことして見れてない」
「まじ? じゃあこの記事ってマジなん?」
そういって、友人Aがスマホの画面を向ける。
「ほら、これ。お前の死体が見つかったっていう」
「知らない」
その画面を、直視できなかった。頭がおかしくなりそうだ。見ているだけで、吐き気がする。
「死体が見つかってるのに生きてるっていうことはさ、お前」
友人Aが、からかうような笑みを浮かべる。
それで、この先を聞いてはいけないという拒否反応が僕の身体に走った。
「泥人間なんじゃねぇの?」
その一言で僕は、守人を演じていた僕は。
崩れてしまった。
外は雨が降っていた。
激しい雨だった。刺激に対して脆弱な僕の肌を、数多の雨粒が打ち続ける。それは汚損した僕の心を削り取って、不完全なものをさらに完全から遠ざける。原型もわからないまま、最後には少量の乾いた土が残って、ボロボロと崩れていく。
雨音が僕を苛んだ。
僕に向いた指先が心臓に刺さって、抜けなかった。
蠢いて、心拍が揺れる。
泥が、溢れかえりそうだ。
「ああ」
あの後教室で僕は、泥人間ではないと白を切り続けた。泥人間という単語が出てくるたび脳みそが頭蓋骨にガンガンぶつかって、どうにかなってしまいそうだった。脳みそを頭蓋骨の上から抑えつけて、必死に首を振り続けた。自分が泥人間だって、認めてしまったようなものだ。
どうしようもなく、僕が泥人間だから。
後ろ指が背中に突き刺さったまま抜けない。
田んぼに映った僕の姿が、波紋に揺れる。
泥の匂いと湿った土の匂いが、濃く、鼻腔にこびりつく。
これじゃ泥人間じゃ無くて、ゾンビみたいだな。まぁ、凛花のスワンプマン理論で言えばどちらも人間じゃないので同じと言ってしまってもいいのかもしれないけど。人を食べられるくらい、僕が凶悪だったらよかった。
あるいは、泥人間でも生きていくっていう覚悟と強さがあればよかった。
「ああああああ」
なぁ、蜜乃。なんでお前は泥人間であろうとするんだ?
なんで僕と出会った次の日、黒板に自分は泥人間って書いたんだ?
わからない。それは、僕が泥人間だから?
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
雨脚が強くなる。上からの圧力に耐え切れずに、膝をついた。濡れた地面が膝を掠る。赤い痛みが、地面に零れていく。輪郭を失った僕の身体は、その節々から尊厳を噴き出して、泥の上に全部まき散らした。雨が全部ぐちゃぐちゃに混ぜてくれる。
もう、僕は空っぽだ。不完全な心も全部吐き出してしまった。だからもう、僕は人間じゃない。こんな僕は、消えてしまえばいいんだろ。
僕は目を細める。
何か光っているものが、僕に近づいてくる。
その光はゆらゆらと照らす方向を変え、落下する水滴をキラキラ明滅させる。
しゃららららら。
車輪が回る音が雨音から出てきて。
それは僕に激突した。強い衝撃が走った。
轍を刻む車輪が身体を一直線に走り抜けた。ゴムの匂いが、泥と一緒に顔面に付着する。自転車に乗っていた人間は宙を舞い、自転車とともに田んぼの泥を被った。
外に突き出ている後輪が、カラカラと侘し気に回っていた。
田んぼの中から人影が浮上する。そして、勢いよく頭を振り上げて、顔を空気にさらす。泥まみれの小柄な女の子は、自転車をなおざりにして、僕の方へと歩み寄った。衝撃が強かったのだろう。ふらふらとおぼつかない足取りだ。倒れるようにして地面に手をつき、僕の上に倒れこむ。顔が接近する。ぼさぼさとしていて長い髪から、泥が滴る。
強く、泥の匂いがする。
「うう、ううううううぅぅぅぅぅぅ……‼」
低く唸って、僕の顔面を殴った。
「うあああああぁぁぁぁぁぁぁッ……‼」
小さな手を握って、無抵抗なことをいいことに僕を殴りまくる。抵抗する気にもなれなかった。今は、こうされるくらいが、ちょうどよかった。
「蜜乃」
泣き叫びながら僕を殴り続ける女の子の名前を呼ぶ。
「僕は守人じゃないんだ」
濡れた前髪から、大きな瞳が覗く。
「人間でもないんだ。泥人間なんだよ。正真正銘の」
じっと、僕を見つめる。
「あの記事みたよな。守人の死体が山で見つかったって。あの死体は僕の双子とか、そんなんじゃない。本物の守人の死体だ。蜜乃の目の前にいるのは、守人と瓜二つの泥人間なんだよ」
「いいいぃぃ」
蜜乃が低く唸る。喉が振動する生々しい感触が、肌に降りかかる。
「それなのに、愛されたくてたまらないんだよ。誰も、愛せるはずなんてないのに」
腹の潰れた蟻は、過ちを繰り返す。
愛を享受したいと願い、食事をとり続ける。どれだけ身体を透過したって、それでも嚥下を繰り返す。友達と笑いあって、形だけの青春を送って。いつまでも満たされないのに、満たされるはずなんてないと、わかっているのに。
いつかみた愛を求めて、笑顔を取り繕う。
「僕はあの時、僕の死体が見つかった時。凛花だけは、味方でいてほしかったんだ。僕のことを泥人間なんて呼ばず、守人って呼んでほしかったんだ。そうしたら僕は、嘘でも救われていたはずなんだ」
必死に潰れた腹を隠して、欠損した身体のまま生きているのを隠し続けて。
僕は、人間のふりをしている。
「誰からも認められなくても、守人のふりをして、僕は生きていくしかないんだよ。僕はそうすることでしか、生きられないから。泥人間だから」
一度呑み込んだ食事は欠損した部位からどろどろと零れていく。消化されずに、ただ汚い形になった感情が、とめどなく流れていく。今まで受けてきた不条理が、フラッシュバックする。教室で僕の死体が流されて、誰も僕を認めてくれなくて、誰もが僕を軽蔑して。身体についた泥を必死に拭い落とすみたいに、僕の居場所をすり潰した。
偽物でもいいから、僕と笑っていてほしくて、また居場所を求めて。糾弾の雨の中渇望して、僕は今まで生きてきて。
蜜乃はそんな僕を、じっと見つめる。まるで心の中を覗き込んでいるみたいに。
地面に雨粒が叩きつけられる音に負けないように、僕は言葉を吐いた。
「誰か、僕を愛してくれよ」
愛されても、その愛を享受する臓器が僕の中に残っているかわからないけど。だけど、偽物でもいいから、僕と一緒にいてほしい。たったそれだけのことを、ずっと望んでいた。
「わた、しがいるよ」
僕に馬乗りになる蜜乃の寂しそうな顔を、初めて見た。今まで前髪で隠されていた蜜乃の顔が、はっきりと見えた。
「なん、で。そ、そそんなこというの?」
だって、僕は泥人間だから。
「な、ん、で!」
また、拙い手で拳を振るう。
「なななななんでお前はいいつもそんな顔するんだよおおぉぉ」
肉に骨がぶつかって、頬がこわばる。雨が肌を叩きつけるせいで、感覚が鈍くなる。
「いいいいつも、ずっと、勝手に、ふ、不幸そうな顔してぇ、ず、ずっとう後ろばっか見てぇぇいいいいまッも! わ、たしをみ、ろッ!」
感覚が鈍くなっても、蜜乃の体温だけは、存在の輪郭だけはぼやけるどこから鮮明になっていく。
蜜乃との距離が、縮まっていく。
「かかか勝手にひひ独りになるなあああ! わた、わたしが! 私がいるだろおお!」
その大きな瞳を、顔だちを、体温を、喉の振動を、痛みを通じて、はっきりと理解する。
蜜乃がいる、って。
「いいいままで、おお前は……! わ、私といて! 楽しいいいく、なかったの、かああああ」
楽しかった。死体を探す日々が、楽しかった。放課後並んで帰るのも、楽しかった。無邪気に笑っている蜜乃と一緒にいると、本心から後ろ指のことを忘れることができた。自分の腹がないことに無自覚でいられた。
「おお前はどうか、しし知らないけ、ど、私は、たのしいいいかった」
ぐっと、肩を掴まれる。
「わ、わ私は、うううまくしゃべれないぃ……。しゃべれないぃ!」
声が震えていた。
「だだだからみんなわ、たしを避ける……。とと友達にななってくれない」
蜜乃は、泣いていた。頬に綺麗な水滴が伝っていた。それは、雨粒なのか涙なのか判然としないけれど、僕は涙だと思った。
だって蜜乃は、こんなにも必死に僕を殴っている。
「づぁッ、だけどッ! おおおお前は違った」
胸倉を握られる。引き寄せられて、顔が触れ合いそうなところまで接近する。
「うううまくししゃべれない私をッ、おお前は見捨てなかった」
雨音が蜜乃の声にかき消されていく。
「だ、から私はおお前と一緒にいると、おお落ち着く。心が、安らぐ。だだだからおお前のことも、大切だと思ってる」
僕の心臓に突き刺さった後ろ指が蠢く。
「僕は泥人間だ。一緒にいて落ち着くはずない。僕は人間が感じている感情を完全に理解しているわけじゃないから。だから、お前のその感情は間違っているよ」
「ま、間違ってない!」
蜜乃は顔をしかめて、大きな瞳の形がほんの少しだけ歪む。
「おお前が気付いてなくてもいい。わた、しが、どれくらいおお前のこと、思ってるかとか、気づいてなくてもいいい。おお前がか勝手にひ、とりになろうとすするみたい、に。わた、私だって勝手に、おお前のこと、た、大切におも、うから」
蜜乃の眼光が、水面のように揺らぐ。
「大切とか、よくわからないよ」
だって、僕は泥人間なんだから。
蜜乃は首を振る。僕の言葉を無邪気に否定する。
「わわわかってる、はず」
「わからない」
「すす少なくとも、わた、私にはそう、みえる。勝手に、思う」
「僕は泥人間だ。そんなことはあり得ない」
「ちち、違う。おお前は、泥泥人間なんかじゃない」
蜜乃は否定する。僕の今までを。今まで証明され続けてきた存在を否定する。
「だ、だって、おお前は今、苦しんでる。い今までう受けてきた不条理に対して、き傷ついてる。そ、それは、おお前に心があある証拠」
「だから違うって……!」
「おお前は守人じゃないのかもししれないけどッ、泥泥からう生まれたって根拠は、どこにもなないだろ!」
僕の心臓に突き刺さった後ろ指が蠢いて、痛みが溢れて、滲んで。
「お、お前はッ」
滲んで。
「お前はッ!」
蜜乃に、滲んだ。
「お前は、人間だろッ!」
何かが、溢れた。
「あ……」
消え入るような声が、口から漏れた。
なんでだ。
「す少なくとも、わた、私が、そう、思ってる、から……!」
なんでこんな言葉に。
「だ、大丈夫だから……!」
心を、揺さぶられてしまうんだ。
「ッ、私がそばにいるから……ッ!」
雨と混ざりあった僕の尊厳を吸い取って、徒花が咲き乱れる。
「だから……、ぃいなく、ならないで……」
蜜乃は僕をぎゅっと抱きしめた。
僕はたったそれだけで、満たされてしまった。汚損した心を蜜乃が補ってくれた。
人間だって認めてもらえて。
僕がいなくなることを悲しむ人がいて。
僕は。
僕は。
僕は。
「……帰ろうか」
体を起こす。土の中に沈んだ血液が、しっとりと僕を濡らす。
「うん」
僕たちは帰路を辿る。
はちみつが大好きな、一人の女の子と一緒に。
僕の自宅に蜜乃を招いたのは、初めて会った日以来だった。あの日も、蜜乃は自転車を田んぼから引っ張り出して泥だらけになっていたから、シャワーを貸したのだ。蜜乃は当然実家暮らしなので、泥まみれになって家に帰ると叱られてしまうらしい。しかし、今回の蜜乃は違う理由だった。
「ち、ちょっと、き、今日は……。いいい一緒に、いたい」
蜜乃は耳の先まで羞恥に染めてお願いしてきたのだ。
蜜乃がシャワーを浴びている間、僕は汗拭きシートで自分の身体を拭いていた。蜜乃が馬乗りになってきたから、僕にも泥が付着していたのだ。冷房の効き始めた部屋で単純作業をしながら、過去のことを思い浮かべる。
どうして、守人は山の中で死んでしまったのか。
スワンプマンの思考実験で何の違和感もなく登場する謎の男だが、あいつはどうして雷の降っている最中山を登ろうという気になったのだろうか。あるいは、雷というのは何かの比喩に過ぎなくて、本当は熊に襲われてしまったとか。けれど、熊の場合泥人間が生まれるきっかけにしては薄い。
これは、守人にも言えることだ。守人はどうして山に登って、死んだのか。
僕が見た守人の死体は、蜜乃と見つけた死体とは違って原型をとどめていた。そもそも死体はどれほどの歳月がたてば、どろどろに溶けてしまうのだろう。詳しくはわからないけれど、半年以上はかかるはずだ。
「ししシャワー、ああありがと」
蜜乃が風呂場から出てくる。サイズの合わない僕の服に袖を通し、首にタオルをかけている。長い髪はまだ湿っていて、シャンプーの香りが流れてきた。
「蜜乃と見つけた死体って、結局誰だったのかな」
「な、なななんで?」
「いや、守人が山に登った理由と、何か関係があるんじゃないか……」
待てよ。守人がもしその死体を見つけるために山に登っていたのだとすれば、その死体の正体は一人しかいない。
「蜜乃、警察を呼んでくれ」
どうして町から追い出された僕を追って、凛花が転校してきたのか。やっと、つながった。
ぴんぽーん。
インターホンが鳴る。
雨の音がする。
生唾を呑み込む。
僕は台所に向かって、包丁をとる。
ぴんぽーん、ぴんぽーん。
もう一度インターホンが鳴る。
僕は覚悟を決めて。
ドアノブに手をかけた。
了
泥人間 人影 @hitokage2023
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます