第4話
女子高生の死体の話。始まりは、蜜乃が僕の死体が発見されたという記事を見つけてしまったことだった。
その記事には僕の名前と年齢、そして死体が発見された山の名称が大題に書かれていた。もうこの記事は間違いだったと報道されていたはずなのに、どうして蜜乃にまで知れ渡ってしまったのか理解できなかった。いやな汗が背中に伝った。もしかしたら蜜乃は僕のことを拒絶するんじゃないかという不安が、思考を埋没させた。今まで蜜乃にも、自分が泥人間であることを隠していたから。自分が泥人間だとばれてしまったら。ずっと、あの時の映像が目の前に流れ続けていた。
教室、クラスメイトの視線、四方八方から飛んでくる阿鼻叫喚。
『泥人間のくせに。なんで生きてるの?』
守人の、元恋人の言葉。
「か、守人くん」
蜜乃が僕の顔を覗き込む。
「こ、こここの山にわた、私の死体があああるかも」
目をキラキラさせながら蜜乃は言った。大して、僕が泥人間であることに踏み込んでは来なかった。
「いいい一緒にいこ」
いひひと笑う蜜乃。
僕がその土地に、どんな思いでもあるかも知らずに。
山を登っている最中、僕は蜜乃に尋ねる。
「なんで黒板にあんなこと書いたんだ?」
汗で額とくっついた前髪を鬱陶しそうによけながら蜜乃は答える。
「だだだだだって、守人くん、わ、笑った、から」
「笑った? いつ」
「たた田んぼで、私とでで出会ったとき。わわ私が泥泥人間っていったら、笑った」
蜜乃は持っていたはちみつをぐびっと煽る。
「だッから! か守人くんは泥泥人間だったのか!」
少し考えて、納得する。蜜乃はきっと、僕が泥人間だから、同じ泥人間である蜜乃と出会って笑ったのだと言いたいのだろう。蜜乃は言葉を扱うのが苦手だから、意味をくみ取るのが一般の人間よりも難解だ。
「それがどう黒板に泥人間宣言を書いた理由に繋がるんだ?」
「わ、わわ、わからないッ!」
はちみつで満たされてしまった蜜乃は、幸せそうに笑いながら飛び跳ねる。頬が高揚していて、天国にまでいってしまいそうな勢いだ。
「か、守人くんも」
はちみつを両手で差し出される。僕は仕方なくそれを受け取り、口まで持ってくると、
「むっ」
無理やり口に押し込まれた。甘くとろとろとした液体が口内に侵攻する。甘ったるすぎて、身体がぞわりと震えた。
げほげほとせき込む僕を見て、蜜乃はいひひと笑った。
「た、たのしい……!」
「それはよかった」
僕は微笑む。
案外、こういう強引なことをされるのが、僕の好みに合っているらしい。
「かか守人くん、こここれ」
その死体が眠っていたのは、泥沼の近くだった。周りと鬱蒼と木々が生い茂っており、湿度も高い。そんな中、まるで誰かがそこに隠したかのように、死体が転がっていた。
なのに、その死体は火照るどころか全身がどろどろに溶け切り、人間の原型をとどめていなかった。
湿気と腐敗によって身体は黒ずみ、黴と泥の混ざった悪臭が小さな昆虫を呼び寄せている。顔のあったであろう場所は植物が生い茂って、その隙間から頭蓋骨が覗いている。それも、指で押せば簡単に崩れてしまいそうなほどの。肉は液状化し、泥に溶け込んで制服に染み込んでいた。制服のスカートやブラウスは、時間の経過を表すみたいに繊維がぼろぼろに崩れている。かつての色は見る影をなくし、ただ茶色い泥の中で形ばかりを留める布の切れ端が散乱していた。
本当に、泥でできた人間みたいだった。
「こ、こここれ、これ!」
蜜乃はその死体を指さして飛び跳ねる。
「わ、わた、私の死体いいいい!」
目を輝かせながら歓喜していた。まるで、お宝を見つけた子供みたいに。
もしも、この死体が蜜乃のものだったら。
あの時の教室みたいに、なってしまうのではないか。
吐き気がした。
「蜜乃、いいか」
飛び跳ねる蜜乃の肩を抑える。
「ここで死体を見つけたことを、絶対に他言するなよ」
蜜乃は目を丸くする。
「ど、どど、どうして……?」
「もし、これがお前の死体だってことがばれたら、お前はさあ」
その瞬間、フラッシュバックした。
次々と目の前を過ぎ去る過去の映像に抗えず、僕の意識は一瞬で現実から引きはがされてしまった。
教室でクラスメイトに囲まれる。
各々が悲鳴をあげ続けるなか、元恋人だけが冷淡な顔つきを僕に向ける。
指をさす。
『泥人間のくせに。なんで生きてるの?』
親に殴られる。
『お前は俺の息子じゃない!』
注射器で血液を採取される。
道行く人が、僕を見つけると背中を向けて逃げていく。
居場所がすり潰されていく。
まるで不平等な陣取りゲームみたいに、明らかに理不尽な力で、僕の領土が違う色に染まっていく。
あっという間に、僕は人間ではなくなってしまう。
町から、追い出される。
「…………」
絶対に、死体があることを悟られてはいけない。
泥人間であることを、知られてはいけない。
「とにかく、これは僕たちの秘密だ。絶対に」
過呼吸になって、身体が熱くなっていた。僕の過去が蠢いて摩擦熱を生み出したのだ。その掠れる音は呼吸の音になって口から吐き出されていく。これ以上後ろ指のことを考えれば、どうにかなってしまいそうだった。
蜜乃にこんな目にあってほしくはなかった。どうしてそんなことを考えてしまうのか、泥人間の僕には想像できないけれど。
蜜乃はしばらくまじまじと僕の呼吸を見守っていた。風が吹いて、死体から流れる腐敗臭が薄くなって、しばらくするとまた濃くなった。蜜乃の荒れた髪が靡いた。さながら泥人間のようで、殺風景な感じだった。
「か、みと君がそういうなら。やや約束は、守る、よ?」
蜜乃は思いのほかあっさりと引き下がった。いつもは駄々をこねる子供みたいに自分のやりたいことに僕を巻き込むのに。それは僕が蜜乃に抱いていた信仰の崩壊でもあった。蜜乃は泥人間で、人のことを気遣うことをしない。そんな信仰を、無自覚に抱いていたから。
僕たちはどちらからともなく下山した。僕たちの間にはいつもみたく沈黙が埋まっていた。誰かを責め立てるみたいに鳴く虫の声が、ずっと聞こえていた。
それ以来、蜜乃は死体探しをしなくなった。
*
蜜乃と出会った田んぼの中に二人で落ちる。泥が跳ねて、白い制服が汚れる。帰宅すれば面倒なことが待っていそうだ。
黒い花火が打ちあがったあとみたいに、曇天が広がっていた。分厚い雲が太陽の光を吸い込んでしまって、言いようのない鬱屈さを地面に埋め込んでいる。けれど、今はこんな風でいいのだと。輪郭が柔くなった蜜乃のいひひと笑う顔をみて思った。
小さい体で両手を広げて、泥を飛ばしてくる。手で掬える泥なんてちょっとだけなのに。蜜乃はそれをやめようとしない。
いひひ、いひひ。
それはさながら人間のように愚かで。というか、蜜乃は泥人間なんかじゃないのだ。
どうして今まで気づかなかったのだろう。あの日見た死体は人の原型をとどめていないのに、どうして蜜乃のものだと決めつけてしまったのだろう。
泥が僕の制服を汚していく。楽しい気持ちにはならなかった。不思議だ。蜜乃はこんなに楽しそうに泥を飛ばしているのに。
閑話休題。
あの死体を蜜乃のものだと決めつけてしまったのは、僕がそう望んでしまったからだろう。蜜乃が泥人間であることを。
つまりは、『守人』ではなく、『僕自身』を認識してくれる存在を渇望してしまったのだ。泥人間であるにもかかわらず、渇望という表現は少し可笑しな感じがするけれど。
生ぬるい風が、泥の匂いを、草いきれを運んでくる。暗い匂いが僕たちを抱擁する。
スマホが振動する。クラスLINEに僕の死体が吹き込まれてしまったらしい。
驚きのリアクションが、スマホの振動を助長する。
手から零れたスマホが、泥の中に沈んだ。
僕が町からすり潰された日に耐性が付いたのだろうか、そもそも感情が現実に追いついていないのか。僕はさして傷ついたわけではなかった。
ただ黒い何かがその瞬間、僕の心に巣食ったのを認識した。
それだけだった。
僕は笑った。
僕の全部が泥色に染まっていくようだった。
「それで、なんで僕に嘘をついたんだよ」
僕ははちみつを掲げて笑う蜜乃に問いかける。
「蜜乃は、いつから泥人間を騙った?」
どうしてお前は泥人間じゃないんだ、どうして僕を弄んだんだ。
無責任でやり場のない怒りが蜜乃に向かった。
蜜乃は掲げていたはちみつを抱き寄せる。不安げな表情で、口を開いた。
「わた、しは……。泥泥泥人間だだよ」
「じゃあ、お前の死体はどこにあるんだよ」
「わわからないから、ささ探してるの」
「もういいだろ、死体なんて」
「よよよくない。そ、それじゃ、わ私が泥泥人間になれない」
「お前はさあ。泥人間なんかじゃないよ」
自称泥人間。泥を被った人間。
「自分の死体なんて泥人間でもない限りあるわけないんだから。そもそも田んぼの中に死体があるわけないだろ。こんなことやって、意味なんてない。馬鹿馬鹿しい。僕が蜜乃を見つけた日だって、自転車で田んぼに突っ込んだだけなんだろ」
「ででも、わた、私は」
「お前が僕の気持ちを分かった風に近くにいる癖に、見当違いで馬鹿みたいなことやってるっていうのがむかつくんだよ」
夏の色が染みついた風が、僕たちを撫でる。田舎を寂しいものに仕立て上げていた蝉たちの在所は見受けられず、それがかえって寂しさを助長させている。今まで身近に感じていたものは、ある日突然認識を改めることがあるのだ。
蝉然り、泥人間然り。
「か、守人君は」
蜜乃は、はちみつを泥の中に落とす。
「守人君は、た、のしくなかった……?」
自由落下したはちみつはぼとんと重たい音を鳴らす。蜜乃はじっと、僕を見つめるばかりだった。そんなことを聞かれたって、僕から出てくる言葉はつまらないものなのに。
「僕は、守人じゃないよ」
そういうと、蜜乃は眉間にぎゅっと皺を寄せた。ひどく苦しそうな表情だった。
「ど、どうでもいいい、そ、んなこと……」
そういって、蜜乃は僕に背中を向けた。田んぼから出ていて、自転車に乗って、走って行ってしまう。徐々に小さくなっていく背中を見て、ほんの少しの安堵と、ほんの少しの侘しさが、心の中で柔く混ざり合った。
また、僕は独りになってしまった。
今の僕は、虚無に投げ捨てるくらいしか使い道がなくなっていた。
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