第3話
「この中に、泥人間がいます」
自己紹介をしなさいとやる気のない担任が雑に投げると、凛花はそう切り出した。自己紹介なのに、どうしてそんなことを宣言するんだ、と僕は思った。僕以外のクラスメイトも同じ考えを共有していただろう。僕とクラスメイトの思考の違いといえば、泥人間と聞いて思い浮かべる人物くらいだ。
クラスメイトは凛花の言葉を聞いて、僕の隣でお行儀よく座っている蜜乃に視線を向けた。蜜乃は凛花の言葉に目を見開き、「ううううううううう」と低く唸る。
一方そのころ、僕は凛花と視線が交錯してしまっていた。凛花は表情を変えずに続ける。
「この教室に泥人間が寄生している。それは、あってはならないことです。私たちは、騙され続けている」
だから、と接続詞で繋げて、凛花は言った。
「私が泥人間を殺します」
そこでようやく傍観を貫いていた担任が間に入って、「ありがとうございました~」と空席を指さしながら凛花の背中を押した。
凛花の温度を感じない視線を浴びて、ぞわりと悪寒が背筋に走る。
僕の死体が見つかった日のことを思い出す。僕が泥人間だって、教室で畏怖されたあの日を。視線を、悲鳴を、動揺を。
あの空間でまっすぐ僕を見つめる凛花の姿を。
「か、かか守人君」
その声で、僕は呼吸を思い出す。
「あああの人、泥泥人間だよ」
蜜乃はじっと、凛花を観察していた。大きな瞳を見開いて、前髪越しに凛花を睨んでいた。それに気づいたのか、凛花は蜜乃をみてふっと笑顔を消失させた。
「泥人間は、一人だけ」
空席に座った凛花は、そういって静かになった。誰もが凛花のことを気味悪がった。
僕だけが感じているこの悪寒を、体内にとどめておくことで精いっぱいだった。
凛花は僕を許せないのだろうなと、クラスメイトに囲まれる彼女を眺めながら思考する。
守人と凛花は確かに愛してあっていた。特別なカップルというわけでもなく、平凡で、どこにでもいるようなカップルだった。
「守人君と一緒にいると、落ち着くな」
と、記憶の中の凛花は恥ずかし気に笑っていた。守人はそうしたかわいげのある笑顔が好きだったようだ。僕には「かわいい」と思う感情がよくわからないけれど。
だからこそ、泥人間になり守人を偽る僕が許せないのだろう。
最愛であった恋人を、偽る僕が。
とはいえ、僕が守人を殺したわけではないけれど。
でも、それは推測であって断言できるわけではない。
なぜなら、僕が泥人間になった日のことを、思い出すことができないのだから。
閑話休題。
第一印象は衝撃的だったけれど、休み時間が始まると同時に凛花は別人となった。クラスメイトに自分から話しかけに行き、フレンドリーに会話し始めたのだ。あっという間にクラスの中心になってしまった。
目の前の凛花は降ってくる疑問を的確に、冗談を交えて上手に捌いている。時々ぶわっと笑いが起きる。凛花はコミュニケーション能力が高い。守人も同じだったが、泥人間である僕はそうはいかない。ヒエラルキーも同じくらいだった彼らはさぞお似合いだっただろう。
一限目のチャイムが鳴る。
数式が左から右へと流れていく。今日に限って、うまく話を聞くことができなかった。ずっと、中学で忌避された後のことを思い返していた。
凛花はこの一日で、瞬く間にクラスカーストの上位に食い込んだ。つなぎ合わせた縫い目がどこかわからないほどクラスに溶け込み、そして心を掴んだ。
それは、守人が記憶する凛花さながらのコミュニケーション能力だった。
女子高校生らしい清楚な立ち振る舞いの中に、誰もがくすっと笑ってしまう冗談を混ぜ込む。適度に自分の弱みを見せて、巻き取って。そして。
相手を、誰よりも信頼する。
その親しみやすさで、クラスの陽も陰もみんな凛花のことを好きになってしまっていた。
まぁ、僕は例外なのだけれど。
「自分のこと、人間だとか思ってんの?」
放課後の教室。僕は凛花にペットボトルの水をかけられている。夏だから涼しくていいね、とはならない。教室には冷房が効きすぎているし、この空間を半袖で生き抜くのは難しくて、クラスメイトは上着を持ってきて羽織っていたくらいだ。
目を合わせられなかった。合わせる気力がなかった。居心地の悪いしんとした空間が、どうにも耐え難かった。
期待していなかったかと言えば嘘になる。あの時教室で僕に言った言葉は全部嘘で、何かの間違いで、僕の記憶違いで。本当は僕のことを、まだ気にかけてくれているんじゃないかって。だから戻ってきてくれたんじゃないかって。その考えが間違いだってもっと昔に気づいているべきだったのに、少なくとも、今日の自己紹介の時点で気づくべきだったのに。
考えが甘すぎた。
「笑顔で人と話してんの、気持ち悪いんだよ。本当は何にも思っちゃいないくせに」
「僕は人と話すの、楽しいって思ってるよ」
本当に。
「きもいしゃべんな」
空になったペットボトルが飛来して、僕の頭に当たる。景気のいい音がなった。
「人っていうのはね、感情がすべてなの。喜怒哀楽っていう感情があるから、絆っていう尊いものが育まれるの。人間じゃないくせにそこに割り込んでくんなよ」
俯いていた顔をあげて、凛花の表情を確かめる。
凛花は、泣いていた。涙を流していた。水晶玉のような瞳から、透明な涙があふれて、雪のように白い肌を伝って落下していった。
「心理学のスワンプマンって、知ってるよね。泥から生まれた人間は、元の人間と同じかどうかっていう思考実験」
「知ってる」
「あれさあ。どう考えても同一人物じゃないよね。別に同一人物でもそうじゃなくてもさ、別にいいけど。問題はそこじゃないんだよ」
凛花は頬を伝う涙をごしごしと押し潰す。
「問題はさあ、そいつが人間かどうかだよ。その人が正真正銘人間である限り、どうにかなる。なんとかなる。けどさ、人間じゃなかったらさあ、一緒にいちゃいけないじゃん」
その声は震えていた。涙で湿っていた。けれど、凛花はその振動を抑えようともせずに続ける。
「私は、その泥人間が人間だって認めない。認めるわけない。だって、お前には感情がない。何にもない。空っぽ。人間社会に寄生する化け物」
「……ごめん」
「だったら死ねよ」
凛花は深く息を吐きだす。そして、赤くなった目で、軽蔑の視線を向けた。
「ほら、これだけ言ってもお前は泣かない。黙り込んで傷ついたふりをするだけ。泣けないんでしょ?それが、お前が人間じゃない証拠だよ」
凛花の頬に伝う涙が人間の証なら、乾いた瞳が泥人間の証だろう。肌は嫌な汗で湿り切ってるのに、瞳は嫌なくらいに乾ききっている。
「守人の死体の記事。今日中にばら撒くから」
その言葉で、頭が真っ白になった。
「それだけは、やめてよ」
「だったらさっさといなくなれよ、泥人間。いなくなっても戻れなくなるように晒すけど」
凛花は僕に背を向ける。
「今まで通り教室で過ごせると思うなよ」
そう、吐き捨てるように言って。
凛花は教室から出ていった。
心が窒息しているみたいだった。
いつまでも、思考がまとまりきらずに解けていった。
冷房の冷たさだけが、僕を現実に繋ぎとめていた。
「か、かかか、守人、君……」
僕を待っていた蜜乃が廊下から顔を覗かせる。
「だ、だだ、大丈夫?」
「全部聞いてたの?」
蜜乃はこくりと頷く。
「りり凛花ちゃんがいい言ってた泥人間、って、わ、わた、私のことかと思ってた」
「凛花は僕の元恋人なんだ。だから、蜜乃もみた記事のことも知ってる」
「そ、そそそうなんだ……」
蜜乃はそういって、俯いている僕の頭を撫でた。
ゆっくりと、小さく拙い手で。優しく。髪の毛の感触を確かめるように。
蜜乃の手が、僕の頭に沈んでいく。
「っ、大丈夫っ」
舌足らずな口調だった。それでいて、優しい口調でもあった。
なぜだか、かじかんだ心が溶かされていくようだった。
「……ね、ねぇ、か守人くん」
僕、守人じゃないんだけどな。
「しし死体探し、ししよ」
その言葉を、僕は静かに呑み込んだ。
「どうして?」
「し死体を探ししたいから?」
「誰の死体を探すんだよ。蜜乃の死体はとっくに見つかってるのに」
「ちち違うの。か、みとくん」
「違うって。なにが」
「あああれは、わ私の死体じゃなないい、の」
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