第2話
守人は人に愛されて育った。両親は十二月二十三日の誕生日プレゼントをクリスマスプレゼントと一緒にすることは一度だってなかった。お母さんは毎朝早い時間に起きて弁当を作り、机の上に置いた。そんな両親に守人は毎朝「ありがとう」と言って、学校へ向かった。
愛されて育った人間というのは、愛され方を学んでいる。当然のように、守人は友達からも愛された。人の話をよく聞いて、相手が望む言葉の想像を超える適切な言葉をいえる奴だったのだ。友達はそんな守人のことを、みんな親友だと思っていた。遊びに誘うときは守人も来るいうとみんな喜ぶし、休み時間に守人が席を立つことはなかった。
そんな守人には、一人の彼女がいた。名前を凛花と言った。
肩甲骨辺りまで伸びた新月色の髪。雪のように白い肌。さくらんぼ色の唇。
長い睫毛が揺れる。シュッとした目がこちらを向く。目尻が緩んで、先ほどの大人びた雰囲気が薄くなり、可愛らしい女の子の笑顔になる。
凛花も、守人と同じように輪の中心にいる女の子だった。そんな二人が付き合った。それはもう当然のように、運命なんて高尚な単語を使用するまでもないくらい、必然的に。こういうのを、軽率に表現すると『お似合い』というものになるのだろう。
ただし、二人は交際を隠すことにした。
守人に思いを寄せるクラスメイトは一定数いたし、それは凛花にも言えることだった。
しかし、完全に隠すことはできない。
二人の交際が始まってしばらくたつと、そのことを知らないクラスメイトが守人に告白した。当然、守人は丁重に、なるべく相手を傷つけない言葉を選んで断った。
それがきっかけで、友人から避けられるようになってしまった。
その告白してきたクラスメイトが、守人に関する悪い噂を流したのだ。ありもしない噂だ。少し考えれば嘘だとわかるくらい、ばからしい噂だった。
それを信じたクラスメイトが、守人を無視することで教室の隅に追いやった。そのころに守人のそばにいるのは、凛花一人だけだった。
凛花だけは、守人のことを信じ続け、心の支えであり続けた。
それが、守人にとって、どれだけ救われたか。
ある日の放課後。落ち込んで、クラスでのけ者にされ、心が荒んだ日。
守人は雨に打たれながら帰路についていた。
激しい雨だった。世界の悪意を一緒くたにまとめて、黒い雨を降らせているみたいだった。雨に濡れたアスファルトの匂いが強く鼻腔に残っていた。
守人はバス停で雨宿りをしていた。こんな時に、健気に雨宿りする自分がひどくみじめに思えた。しかし、足取りは雨水を吸い込んで重力を増し、地面から離れようとはしなかった。
雨音だけが、ずっと鳴り続けていた。
「守人」
誰かが自分の名前を呼ぶ。
「守人は、頑張りすぎだよ。ちょっとは弱音を吐いてもいいんだよ」
凛花はビニール傘に付着した水滴を振り落とし、丁寧に畳んで隣に腰を下ろした。
それから、長い沈黙が流れた。
凛花は守人にどう声を掛けるべきなのか、測り兼ねているみたいだった。
それから、雨音が二人の間に降り続けて。
凛花は静かに守人の頭を抱き寄せた。
「大丈夫だから」
そういって、ゆっくりと頭を撫でる。
「私は、いなくなったりしないから」
守人は短く「あ」と、消え入るような声を出した。雨脚が弱まるまで、二人は密着していた。
耳から伝わる体温、濡れた手の感触、雨に混じった甘い香り。
荒んだ心が、徐々に治っていくのがわかる。
僕はこの記憶を通して、これが愛なのだと理解した。
それと同時に、人間と泥人間の違いを理解した。
泥人間である僕はこの先の泥人生でそれを感じることはきっとないのだと。
つまり、そういうことだ。
腹の潰れた蟻を想像した。
腹が捩じり潰され、激痛に顔を歪ませる。
それでもなお生きようと、食事をする。
しかし、その蟻には腹がない。
食事は捩じ切れた箇所からどろどろ零れる。
いつまでも満たされない。
きっと僕も、そんな風だ。
満たされる感覚を知っているのに、満たされるための臓器を持っていない。
そんな僕だからか。
守人を支え続けた彼女が、僕に、あの日、あの教室で、指をさして。
「泥人間のくせに。なんで生きてるの?」
って。
僕に言った。
*
僕たちの通う高校に転校生が来ることを知ったのは、つい昨日のことだった。エアコンの設営されていない放課後の部室は温度をよくため込む。夕陽が開け放った窓から差し込んでくる。ぬめりとした風は肌を撫でるばかりで、僕はハンディファンを起動し胸元から風を送りだしている。引く気を見せない汗が服を湿らせて薄い肌色に染まっていた。
「これから来る転校生に対して、蜜乃はどう思う?」
僕は蜜乃に、いつもよりも哲学的な質問を投げかけてみる。
「入学式が終わって、ある程度クラスがまとまりを帯びてきて、グループが固まって、もうすぐ夏休みに入るっていうこのタイミングでの転校生。蜜乃は、どう思う?」
「ど、泥泥、人間なんじゃないい?」
蜜乃は焼きそばパンに、はちみつをかける。蜜乃は大の偏食持ちなのだ。なんにでもはちみつをかけてしまう、味覚が独特な女の子。パンにはさまれた焼きそばはあっという間にはちみつの海に沈んだ。
「泥泥人間じゃなかったら、どどうでもいいい」
「僕はね、転校生に対してあまり期待をしない方がいいと思ってるんだ。まぁ、泥人間だったらいいなあなんていうありもしない願望を、期待と呼ぶかは考え物だけど」
僕は持論を蜜乃に語り掛ける。
「美人だったらいいなあとか、イケメンだったらいいなあとかそういう期待は相手に対して重いからな。僕も、こっちに転校してきたとき、期待のまなざしがまぶしすぎてきつかった」
人間のことを考えていた。相手にあんな感情を抱いてほしくないから、気遣う。そんな人間らしいことを思っているときが、一番うれしいから。
「とはいえまあ、うまくやっていけてるからいいんだけどな」
我に返る。夏の暑さにやられてしまったのかもしれない。
泥人間は不完全だ。不完全であるから、人間になり切れない。
蜜乃は手についたはちみつをぺろりとなめとって、いひひと笑った。
「か、かか、帰る?」
そうして、僕たちはいつも通り並んで帰路についた。
翌日。僕は教室に入り席に荷物を置く。
人間にはタイプがある。タイプがあれば、相性だってある。だから、僕は中学校での友達に似た人間と友達になった。そして、同じようなタイプの人間に嫌われた。その人間関係の構築にはさほど時間を要するものではなく、予定調和のようにいつの間にかそういう状態が完成してしまっている。
でも、僕の記憶が正しければ蜜乃のような自称泥人間は中学校にはいなかった。僕が泥人間であることを認識していなければ、田んぼで蜜乃に手を差し伸べたりはしなかったから。
僕の席にたむろする友達に、適当に相槌を打ちながら隣の席の蜜乃に視線をやる。
蜜乃の教室での立ち位置は弱者だった。部室で饒舌になる姿は見る影をなくし、背中を丸くして机に突っ伏し、寝たふりをしている。そんな蜜乃に話しかける人間は、当然いない。僕だって話しかけない。話しかけたら、『そういう人だったのか』と誤解を招いてしまう。そんな、排気ガスのような汚染された空気が、この教室に充満している。
「転校生、可愛かったらいいなぁ」
と、友人Aが言う。
「そうだな」
と、思ってもいないけど返す。
そうしているうちに、HRが始まる。
転校生が教室に足を踏み入れる。
転校生は美人だったが、そこは問題ではない。
その美人が僕の元恋人、つまり。
凛花だということが、問題なのだ。
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