泥人間
人影
第1話
ある夏の日、僕は田んぼに落ちた泥人間を助けた。僕が独りになってしまって、空虚さに身を投げるみたいに道を歩いていた時のことだった。
真上から降り注がれる熱線を無防備に浴び続け、汗が止まらなかったのを覚えている。遠くの方で蝉が鳴き続けていて、田舎を寂しいものに仕立て上げていた。草いきれが立ち込めていて、ヤゴが住んでいそうな泥の匂いが鼻腔に染みていた。それは劇的と呼ぶには少々刺激が足りなくて、日常の一部というには異質すぎる出来事だった。なんせ、泥人間とかかわりを持つことになってしまったから。
田んぼに落ちた泥人間は、小柄な女子高生の見た目をしていた。僕と同じ高校の制服に袖を通していたのだ。その隣には泥からはみ出た自転車の後輪が、シャララと風に吹かれて回転している。推測するに、自転車に乗っている際、バランスを崩して田んぼに転落したのだろう。ただ、わからないのはその女子高生が泥を手で掬ってはぼとぼとと落とし、それを茫然と眺めていることだった。
「そんなところにいると、農家に怒られるぞ」
僕はその泥人間に手を差し伸べる。泥人間の顔に影がかかった。
「ええええ、ええ、えっと……」
舌足らずで、吃音交じりの声。
「べ、別に、田んぼからでで出たいわ、わけじゃ、ない」
「じゃあ、その田んぼに何の用があるっていうんだ?」
「わ、わた、私、泥人間なの。だから、田んぼなの」
伸びた前髪の隙間から、ふくろうのように大きな瞳が僕を覗く。その女子高生の背中は猫のように丸まっていて、背丈は僕より頭二つ分小さく見える。ぼさぼさと荒れている黒髪は、腰の辺りまで伸びきっている。服も髪も顔も手も、泥で汚れていて不潔だ。そのせいで、その泥人間が泥人間であると、納得してしまう。根拠はないけどそう思わせてくるような異質さが、その女子高生にはあった。
泥人間はまた、泥を掬って落とす。泥が跳ねて、僕の腕にかかった。
「それは何をしてるんだ?」
無視をすればよかったのに。泥人間、という言葉を僕はスルーすることができなかった。
その泥人間はその質問を待っていたという風ににやりと笑ってこう言った。
「わ、わたわた、私は、わわ私のし死体を探していいるの」
泥人間は僕の手を掴んで、引っ張った。
しまった、と思った時にはもう遅かった。僕の身体は傾き、田んぼに落下した。
べちょ、と。泥が跳ねて泥人間に飛び散る。
夏の日差しを吸い込んだ泥は、生暖かく、不快に僕の肌を撫でまわす。泥の中に入ったって、故郷に帰ったという感じはまったくしない。
泥人間は泥まみれになった制鞄からはちみつを取り出す。両手で傾けながら飲んだ。身体の右半分が泥に沈んだ状態の僕を見下ろして、無邪気な笑顔を作る。
「わた、私たちはでで出会った。だだから、き君も手伝って、ね」
そういって、いひひと笑った。
そう、僕たちは出会ってしまったのだ。
だから、僕たちの死体探しの物語は始まってしまった。
何と言ったって、泥人間と出会ってしまったのだ。
泥人間である、この僕が。
また、終わりを繰り返してしまう。
*
授業時間を持て余した国語教師が、スワンプマンの思考実験の話をした。
ある男が泥沼の近くを歩いていると、偶然にも雷が落ち、男は死んでしまう。が、しかし何かの間違いで泥沼から死ぬ直前の男と原子レベルまで同一の泥人間が生まれてしまう。その泥人間は自分が泥人間であることを知らないまま、死ぬ直前の男と同じ行動をとる。死んだ男と同じ家に帰り、死んだ男の読みかけの本を読み、死んだ男と同じ布団で眠りにつく。
「皆さんは、遺伝子情報も性格も記憶も全く同じ人間が生まれた場合、同一人物だと思いますか?」
国語教師のその質問に、蜜乃は「うううぅぅぅぅ」と低く唸って威嚇する。そんな姿を見て、もう蜜乃と出会って一年たつのか、と。少し感慨深く思った。
この一年間で、僕は平穏な日常とは言い難い苦労を背負わされた。表面上の変化が薄いから、感覚がマヒしてしまうけれど、僕は泥人間なのだ。
蜜乃が教室の黒板に「私は泥泥人間だ!」とチョークで書き殴ったり、僕が生まれた山で女子高生の死体、つまり蜜乃の死体を見つけたり。血と泥の匂いが一気に蘇ってきて、僕は思わず顔をしかめてしまう。
終わった話なのだ。泥人間もその死体も全部、終わったのだ。それなのに、国語教師のつまらない雑談によって、中途半端に掘り返されてしまった。
おそらく、今さらになって蜜乃が人間ではないという、黒板に書いた文字から生まれた噂を思いだしたのだろう。軽い気持ちで泥人間という単語を口にするのが、どうにも気に食わなかった。
教室が懐かしいうわさ話を思い出して、陰湿な話声で埋もれる。まるで、集団幻覚を見ているみたいに。
「やっぱ蜜乃ちゃん変だよね」
「人間じゃないんじゃないの? それこそ、泥人間かも」
「鼻息なんか荒いし」
クラスメイトがちらちら蜜乃に視線を向けながら火種に風を送る。当の本人はというと顔を真っ赤にして唸りながら、机と睨めっこしていた。雑に伸びてしまった黒髪が、汗で額にくっついていた。
「蜜乃、大丈夫か?」
汗が止まらない蜜乃にそう問いかけると、
「ううううぅぅぅぅだ、だぁぁぁぁあいじょうっぶ」
と元気に答えて、はちみつをグビグビ飲んだ。蜜乃ははちみつを直飲みする、変わった味覚を持っているのだ。はちみつを飲んだ蜜乃は幸せそうに頬を赤らめて、「いひひ」と笑った。
いつも通りの、僕らの平穏な日常風景だった。
放課後。蜜乃と並んで帰路を辿る。
田んぼが一面に広がっている。水面が景色と夕陽を反射して、ノスタルジックな雰囲気を醸し出している。遠くの方で鳴いているヒグラシも、その雰囲気を助長するみたいだ。ノスタルジックという表現をしたのに、思い出と呼べる綺麗な記憶は持っていない自分が、暗い景色に溶けてしまいそうだった。
「そういえば、今日か」
「な、なにが?」
「守人(かみと)の命日」
守人。スワンプマンの思考実験で言う、雷で撃たれて死んだ人間。まぁ、守人は雷に撃たれて死んだわけではないけれど。
「おお、お誕生日おおおおめでと」
蜜乃はそういって、鞄からはちみつを出して僕に渡す。
逡巡ののち、僕は蜜乃の行動の意味を理解して、微笑んだ。
「別に、誕生日プレゼントを催促したわけじゃないんだけどな」
ここはおとなしく受け取るのが礼儀か。小さな手に掴まれているそれを受け取って、蜜乃がいつもやっている風に口に流し込む。
「ぐ、びぐび」
蜜乃がセルフ効果音をつけてくる。甘さで全部どうでもよくなった。
「ありがとう」
そういってはちみつを蜜乃に返却する。美味しかったかどうか聞かれたとき、どう答えようかと困った。
「ん」
恥ずかしそうに蜜乃は言って、いつの間に止めていた足で歩き始めた。
妙に蜜乃がそわそわするせいで、僕たちの間に気まずい沈黙が流れる。
「明日、転校生が来るらしいね」
あたり触りのない話題を振った。
「そ、そうなんだ」
あたり触りのない言葉が返ってきた。
予定調和のように沈黙が戻ってきて、僕たちはヒグラシの声に耳を澄ませていた。
帰宅する。
家には、いつもは仕事でいないはずのお父さんと、お母さんがいた。
「ただいま」
「おかえり、守人」
キッチンからお母さんの声が聞こえた。
「お父さんは?」
「……そこにいるわよ」
少しだけ気まずそうに、お母さんは襖に閉じられた和室を指さした。
リビングに足を踏み入れると、晩御飯と線香の匂いがした。
それで、お父さんが何をしているのか察しがついた。今日は、守人の命日なのだ。
「もうすぐごはんできるから、お父さん呼んできて」
「わかった」
僕は言われるがままに、襖を開けた。
和室は真っ暗で、襖を開いたその隙間から僕の影が畳に伸びる。お父さんは、和室の隅に置かれた仏壇の前に正座していた。
「お父さん」
声をかける。反応がない。その代わり、お父さんは仏壇に向かって笑みを浮かべながら何かを話しているみたいだ。
またか。
鬱屈とした感情を押し殺しながら、僕はお父さんの肩に手を置いた。
「お父さん、もうご飯だよ」
仏壇に向けた笑みをそのままこちらに向ける。焦点が合っておらず、夢を見ているような、魂が抜け落ちたような表情をしていた。ようやく僕に焦点が定まり、ぎょっと驚いて、そしてすぐに現実を思い出した。
「すまん、またやっちまった」
「いいよ。ほら、ごはんできたって」
「あぁ、そうか。守人は……」
そうぼやきながら、お父さんは食卓へ足を運ぶ。僕の横を通るとき、淡い加齢臭が鼻腔を通る。その後ろ姿が記憶の中のものよりも、弱弱しく見えた。
お父さんは時々、僕がいることを忘れてしまう。つまり、もう守人はこの世にいないのだと思い込んでしまう。まぁ、僕は守人じゃないから、間違ってはいない。守人の両親は守人の死体を見ている。その横に立つ、僕の姿も。
どちらが本当の息子なのか。血液検査をしてもわからない。
当時、僕は二人から守人であることを否定され続けていた。
『お前は俺の息子なんかじゃない!』
そう怒鳴られて、顔を殴られた。間違っていないから、何も言い返せなかった。
けれど、泥人間である僕の居場所はここしかないから、守人であることを演じるほかなかった。そうして今は、二人から守人であることを認められているけれど、時々こういうことが起こってしまう。
「いただきます」
守人の家族と食卓を囲む。
献立は、ごはんと肉じゃがと、納豆と、コンソメスープだった。ごはんからは湯気が立ち上っていて、向こう側の景色がぼやけて見えた。
お父さんは未だに意識が仏壇に向いているのか、ぼーっとしている。
「なぁ、守人」
お父さんが力ない声で尋ねる。
「お前、本当に守人か?」
眼球がこちらを向く。
「守人じゃないんだろ、なぁ」
その通りだ。
「守人だよ。何言ってるの、お父さん」
「バケモノが」
お父さんが立ち上がる。表情を一切変えないまま、僕に迫ってくる。
「やめてよ」
「守人をどこにやったんだよ」
「やめて」
「お前が殺したのか? そうなんだろ」
「お父さん」
「お前が殺したんだろうが!」
その瞬間、勢いよく首を掴まれ、壁に抑えつけられる。
「守人を返せよ、なあ!」
首を絞める力が強くなっていく。喉ごとけが押しつぶされて、声が出ない。
視界の隅が暗くなっていく。その中で、お父さんの目尻に浮かんだ涙を見た。
「なんでこんな奴のために、働かないといけないんだ」
「…………」
「守人を返してくれよ、お願いだから……」
「…………」
「なぁ……守人……」
お父さんはそのまま泣き崩れてしまった。
首を絞められたせいで唾液が喉に絡まり、僕は咳をする。
「お父さん、僕が、守人だよ」
本当は、違うけど。そうやってまた、自分のために嘘を重ねた。
夜、ベッドの中でうずくまる。震える手足を体の中心に集めて、必死に抑えつける。
怖かった。僕を守人だと認識しないお父さんが。僕を泥人間だと見破っているお父さんが、怖かった。僕が守人じゃないことくらいわかってる。所詮は泥から生まれた人間で、この家に寄生していることくらい。
だけど、泥人間とはいえ、傷つかないわけではない。今まで親に優しく接せられてきた守人の記憶がある分、僕は同じ分だけ傷を負う。
受け入れてもらいたかった。
守人じゃなくても、優しくしてほしかった。そして、愛を感じたかった。
まぁ、僕はそれを感じることはできないけれど。どうしてお父さんが僕ではなく、死んでしまった守人に固執しているのか本当の意味で理解できない僕は、どうしようもなく人間でなくて、正真正銘の泥人間なのだ。
感じられないから、思い出す。守人の抱いていた愛を、享受してきた愛を、思い出す。
暗い空間で息をする海馬に、僕はそれらを一つずつ浮かべていった。
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