黄金林檎の落つる頃

尾八原ジュージ

りんごちゃんのこと

 その頃あたしのパパは食品輸入会社の社長さんだった。連れてってくれるお店はお酒も食べ物も美味しかったので、あたしはパパのそういうところを、たぶん彼の持ってるお金の次に愛していた。ほかに愛すべきところは見当たらなかったので、彼と別れた後は毎回ウイスキーを一瓶買って帰った。

 その頃あたしの隣人はりんごちゃんだった。あたしが住んでいたのは古くて、あんまり治安のよくないマンションだった。春のあったかい夜なんか、外廊下に酔っ払いが寝てるようなところで、りんごちゃんもよく隣の玄関の前に転がっていた。

 りんごちゃんは太ったおばさんだった。「りんごちゃん」ていうのは、たぶん昔の源氏名だと思う。本名は知らない。玄関先で飲んだくれてることが多くて、あたしがウイスキーを提げて帰ってくると、そこそこの割合で酔いつぶれている姿が目に入る。汚いコンクリートの床に大根みたいな脚を投げ出して、塗装の剥げた壁や扉にもたれている。本人は五十五歳って言ってたけど、見た感じ七十歳は超えていそうだった。

 言った通りりんごちゃんはそこそこの割合で酔いつぶれているけど、ほどほどの割合では起きている。それで、起きているときはあたしに話しかけてくる。おかえりとか、あったかくなったねとか、髪色変えたのとか。

 本人いわく、りんごちゃんはマンションの一番の古株らしい。酒焼けした声だけ聞くと、男か女かわからない。しわくちゃの顔にファンデを塗りすぎて、肌が細かくひび割れているみたいに見える。でも若い頃は美人だったんじゃないかな、と思うような横顔をしていた。

「りんごちゃん、いつもここでお酒飲んでんの?」

 玄関先に落ちているりんごちゃんに尋ねると、「そうだよ」という。

「何してんの?」

 りんごちゃんは少し頭を振って何か考え、それから「金のりんごを見張ってるんだよ」と答えた。たぶん自分の名前に引っかけた冗談なんだろうけど、ネタバレがなかったので、あたしは「へー」としか言いようがなかった。すいぶん後に「それはたぶんグリム童話の『金の鳥』のことを話してたんだろうね」ってたまたま知ったのだけど、この時はつまらない相槌を打っただけだった。

「アタシがちゃんと見張ってないとね、りんごを鳥に盗まれちゃうからね」

「へー」

 酔っ払ってんなーと思いながら、あたしはりんごちゃんの隣にぺたっと座った。そして、あたしも年を取ったらりんごちゃんみたいになるだろうかと考えた。そして、そうなったら飲んだくれてしまうかもなと思った。

 りんごちゃんは年をとっていて、たぶんあんまり健康じゃなくて、お金もそんなになくて、そして孤独らしかった。近くのスーパーでりんごが安かったからと買ってきては、食べきれなくてあたしにくれたりした。

「アタシたぶん孤独死するから、あんたが死体見つけてよね」

 りんごと引き換えに、いやな役目を頼まれた。後々になって、あれは予言みたいなものだったかもしれない、と思った。


 ある日、あたしのパパは食品輸入会社の社長さんじゃなくなった。元々婿養子で社長を継がせてもらってたけど、あたしと真剣交際してる(つもりはあたしには全然なかったのだが)のが奥さんにばれて離婚させられ、いきなり無職になったのだ。

 お金がなくなってお店に来られなくなったパパは、仕事終わりのあたしを出待ちしていた。ところがあたしが別のパパと腕組んで出てくるのを見て、どうも心のどこかが壊れたらしい。真っ青な顔をして走り出し、ネオンの灯りの向こうに消えていくヨタヨタした背中を眺めながら、あたしは今日もウイスキーを買って帰らなきゃと思った。

 元パパからは死ぬほどLINEが来た。離婚したからもう妻に隠れて会わずに済むとか、田舎に引っ込んでふたりで静かに暮らそうとか、愛があれば金がなくても大丈夫だとか、お前は俺の金しか見てないクズの売女だとか、お前のせいで人生滅茶苦茶だとか、一緒に死のうとか。

 ブロックするのが逆に怖くて、返信せずに放っておくだけ放っておいたら、元パパは一番最後の「一緒に死のう」の気持ちのまんま、あたしの部屋の前までやってきた。鉄のドアひとつ隔てたところで「ぶち殺すぞ」とか怒鳴ってる男は、怖い。部屋の中から警察に通報したけれど、びっくりするほどやる気のない対応で、ただの痴話げんかじゃすまないかもしれないってことをわかってもらえたのかもらえてないのか、電話ではよくわからなかった。

 部屋の中でひたすら嵐が通り過ぎるのを待っていると、ドンドンドンと隣からわざとらしくうるさい足音が聞こえてきた。そしてガチャッと玄関の開く音が続いた。

「うるさい!」

 りんごちゃんの怒鳴る声。それにかぶせるみたいに、廊下が元パパの悲鳴でいっぱいになった。バタンバタンと暴れるような音がして、バタバタバタッと走っていく音が聞こえて、そこでようやく玄関のドアを開けたら、お隣の玄関から体を半分はみ出させて、りんごちゃんが倒れていた。コンクリートの汚い床に、冗談みたいな量の血が、赤い水たまりみたいに広がっていった。

「りんごちゃん、りんごちゃん」

 あたしが膝をついて声をかけると、りんごちゃんは突然ぱちっと目を開いて、あたしの右手首をつかんだ。

「よかった。ちょっと手を握っててよ」

 頼まれて握ったりんごちゃんの右手は、そのときまだとても温かかった。震えながら左手でスマホを出して救急車を呼んだけど、救急車が来るよりりんごちゃんの手が冷たくなる方が早かった。


 元パパはその日のうちに逮捕された。部屋から出てきたりんごちゃんが別れた奥さんにそっくりに見えて、すごく怖くなって、あたしを刺そうと思って持ってきた包丁でりんごちゃんを刺したそうだ。あたしがさっさと外に出ていれば、りんごちゃんはたぶん、死なずに済んだ。

 裁判は、心神喪失がどうとかでもめていると聞いた。でもそれが決着する前に、あたしは死んでしまった。新しいパパの奥さんが、ホームでふらふらしながら始発電車を待ってたあたしの背中を、線路に向かって押したのだ。あたしはそこに滑り込んできた電車に轢かれて、死んで、地獄に落ちた。

 地獄はそれなりの場所だった。しんどい時はしんどいけど想像していたほどきつくはなく、なんだかんだ生きてた頃とそんなには変わらないなと思った。

 あたしは地獄でりんごちゃんを探した。りんごちゃんに謝りたくて、あと『金の鳥』の童話を聞いた後だったから、「りんごちゃんは金の鳥を探しに行くんだね」って言いたくて、あちこち探し回った。でも、りんごちゃんは見つからない。

 地獄で見つけられないんだから、りんごちゃんは天国に行ったのかもしれない。だったらそれでいいと思う。

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