第十章 アダム
アダムは荒れた心のまま、小屋でのあの光景が頭から離れなかった。エリカの冷たい肌にナイフを突き立てた感触、そしてその刃先が深く切り込んでいくときに彼が感じたもの。それは復讐でも怒りでもなく、ただ、虚無だった。だが、同時に、彼の中で何かが崩れ落ちていくのを感じていた。
部屋の中でふと我に返り、アダムは自分の手を見る。そこに血の跡はなかった。いや、そもそもそれが現実であったのかすら彼には分からなくなっていた。
「リサ…」彼は小さく呟いた。その名前が彼の頭の中で繰り返されるたび、現実感が薄れていく。そして気づいた。なぜ彼はリサのことを思い出すのか?なぜ、その名前が脳裏から消えないのか?
アダムは震える手で自分のポケットから小さなペンダントを取り出した。それはリサがいつも身につけていたものと同じものだった。なぜ、自分がこれを持っているのだろうか?リサとの思い出ははるか昔のことのように感じていたはずだった。だが、それが消えることはなかった。
「なぜ…俺は覚えているんだ…?」アダムは自問自答を繰り返す。すると、その時、彼の脳裏に突然、鮮烈な記憶がよみがえった。
-
数年前――
「お前は誰だ?」リサが彼に問いかけたとき、彼は何も答えられなかった。薄暗い部屋の中で、彼女の瞳がまっすぐにアダムを見つめていた。
「私は…アダムだ」そう答えた時、彼の心に違和感が走った。しかし、その違和感は一瞬で霧散し、彼はそのままリサに手を差し伸べた。
リサは怯えたように彼を見つめ、後ずさりした。「お願い…近づかないで…」
だが、アダムは止まらなかった。「リサ、俺は…」彼の頭の中で何かが壊れるような音がした。何かを思い出そうとするたび、その記憶は霧の中に消えてしまう。
-
現実に戻ったアダムは、その記憶の断片に息を呑んだ。「リサ…お前は…」彼の頭の中でパズルのように散らばっていた記憶が、徐々に一つにまとまっていく。
彼はふと机の上にある古い書類に目を向けた。それは自分自身に関する記録だった。病院の診断書、精神科のレポート、そして一枚の写真――そこには幼い頃のアダムと、隣に立つリサの姿が写っていた。
「どういうことだ…」アダムは写真を見つめ、理解しようとした。その時、目に留まったのは写真の裏に小さく書かれた文字だった。
「リサ、6歳――アダムの妹」
彼の手が震え、写真を握りしめる。その瞬間、すべての記憶が一気に蘇った。リサは彼の妹だった。だが、彼女は幼い頃に事故で亡くなっていたのだ。
「じゃあ…俺が見ていたリサは…」彼の頭は混乱し、心臓が激しく鼓動する。彼がリサだと思っていたその存在は、実際にはアダム自身の罪悪感と孤独から生まれた幻影だったのだ。
エリカの遺体にナイフを突き立てた瞬間、彼の頭に現れた「リサ」は、アダムがずっと抱えてきた罪を突きつけるための幻だった。彼がリサを守れなかったという罪悪感が、彼を苦しめ続けていた。そして、その罪を忘れようとするたびにリサは彼の前に現れ、真実を突きつけてきたのだ。
「リサ…ごめん…」アダムは崩れ落ち、床に顔を埋めて泣いた。彼はすべてを失い、現実の中でただひとり取り残されていた。
彼が追い求めていた真実は、決して消えない傷跡として彼の心に刻まれていた。そして、その痛みこそが、彼にとっての唯一の現実だった。
だが、アダムはその痛みを受け入れることを決めた。リサのことを、そして自分が犯した過ちを忘れないために。そして、彼は再び立ち上がる。
「俺は…逃げない」彼は静かに呟いた。「もう、絶対に」
そして、彼は静かに微笑んだ。
「俺は……………絶対に…逃げない」
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